2006年07月29日

七夕の正直で現実的な短冊

最近、極楽・山本の淫行事件や
長野の月の輪熊の放火事件ばかり書いてきましたので、
今日は少しだけ真面目な話題に戻します。

それでも、
「七夕なんか、もうとっくに終わってんだろexclamation
と、思っている人も多いでしょうが、
沖縄は何かと旧暦で行事を行うことが多くて、
旧暦の7月7日は、
今年は明後日7月31日(月曜)にあたるのです。

 短冊1.jpg

新暦の七夕では、
笹の葉に願い事を書いた短冊をぶらさげて、
好き勝手なお願い事をする“星祭り”という
イベントになっていますよね。

この日や花火大会のためだけに着る“甚平”や
“ユカタ”を買ってしまった人も多いと思います。

短冊に本心を書きたいけど、人に見られるので、
当たりさわりのないことでゴマカした経験がある人も
いることでしょう。
(私がそうでしたもうやだ〜(悲しい顔)

 短冊2.jpg

沖縄の旧暦の七夕では、イカサないのですが、
「お墓の掃除」がメインなのです。

沖縄では旧暦の7月13日から15日までが、お盆ですが、
「1週間後はお盆ですよ」
と、
お盆の時に、ご先祖様が気持ちよく過ごせるように
お墓を掃除して、お墓の掃除を終えた後にお線香を供えて、
お盆が近づいている事を
ご先祖様にお知らせする風習になっています。

旧暦の七夕が月曜日なので、今日土曜日か明日の日曜日に、
親族が集まってお墓の掃除をする家が多いはずです。

火葬が普及していない時代には、
旧暦の七夕は吉日とされていて、
お墓から先祖の遺骨を掘り出して
洗骨が行なわれていたようです。

また旧暦の七夕は
「1年のうちで最も日が強く当たる日」
とも言われていて、
着物や布団、書物などの虫干しをする習慣もあります。

新暦の七夕は、沖縄以外は梅雨の時期ですから、
星が見れるのはマレですが、
旧暦の七夕は7月末〜8月始めなので、
夏の晴天続きで、星もよく見えます。

そう考えると、新暦の七夕は、
時期的にも不自然ではないでしょうか。


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2006年07月04日

沖縄の犬食い事件

尖閣諸島を横取りしようと画策する中国は、
「四つ足のものは机、椅子以外は何でも食べる」
「食べないのは、空を飛ぶ飛行機だけだ」
という国ですし、
 犬レストラン.bmp

韓国は、日本にだけ異常な敵意をむき出しにして、
 ノー天気な韓国人.bmp
テポ丼兄さん亡き後の朝鮮半島統一を画策している国ですから、
例え、世界の笑いものになっても、
 世界から笑われる韓国人.jpg
おかしな料理が出されてもヘイチャラなわけですね。
 気味悪い料理と家族.jpg

 パラシュート落下地点.jpg
皇太子ご一家や
秋篠宮ご一家ら皇族方の住まいがある赤坂御用地に、
先日パラシュートで降りたバカもいましたね。
流されたパラシュート.jpg
左の中田敦彦(オリエンタルラジオ)は日本人でしたっけexclamation&question
 バカは左のヤツ.jpg 

女子大生誘拐事件のバカ母娘や亀田バカ親子など、
世の中は極端なバカが目立ってきました。

犬や猫を食べるのは、中国人や韓国人ですが、
沖縄でも犬を食べる人がいます。

もちろん、
「犬を食べる家」
と表札に書いてないし、
壁にもスプレーで書かれていませんから、
その辺を徘徊しているフツーの親父が、
犬猫を解体し、
調理方法なども熟知していて、
「赤は美味しいけど、白はマズい」
とか
「老犬はスジっぽいけど、仔犬は軟らかい」
とかも経験で知っているに違いありません。


以下、7月1日の
沖縄のローカル新聞「琉球新報」の記事コピーです。

飼い犬あわや食われる寸前
  宮古島署、「食肉用に売った」男逮捕


今年4月5日夜、
宮古島市上野に住む農業の男性(66)が
大事に育ててきたゴールデンレトリバー1匹が突然、
自宅から姿を消した。

男性は必死に捜し回ったものの見つからず、
名前を呼んでも反応はなかった。

そのうち、男性は以前に聞いた話を思い出した。
「犬を食べている人がいる」

6日早朝、うわさされた人物の自宅を飼い主が訪れると、
何と愛犬を発見。

事件発生から約12時間ぶりに愛犬と再会を果たし、
無事救出した。

飼い主がそこの家主に問いただすと、
別の男が犬を持ち込み、売りつけたという。

宮古島署は6月29日午後、
捜査線上に浮かんだ無職の男(49)=同市平良字下里=を
窃盗の容疑で逮捕。

同署によると、
男は食肉用として犬を売りつけたことを認めているが、
盗んだことは否認しているという。


この話はどこか変だexclamation
犬を食べるために買い取った“家主”は、
問題外にされています。

この“家主”は、犬を食べるので有名なのですから、
また同じ事をするのに違いないでしょうexclamation

琉球新報の記者も、警察発表だけで終わらずに、
「沖縄で食べられる犬猫たち」
について、
この際、徹底的に調べてほしい。

・ 沖縄人の何%が犬猫を食べているのかexclamation&question
・ どこで犬猫のミンチが売っているのかexclamation&question
・ どこで犬猫料理が食べられるのかexclamation&question
あやふやのままだと、
「沖縄人=熱帯魚や犬を食べる=野蛮でモラルがない」
というように
ヤマトの人から思われてしまうことを心配してしまいます。


「テポ丼兄さんが今日にでも発射する」
と、
あれだけ騒いでいたのに、
まったく撃つ気配がありませんが、
よく考えると、騒いでいたのは
・ 米国政府
・ 麻生外相と安倍晋三
だけなんですよね。

その結果、
沖縄にパトリオットミサイルが数百発も
配備されることだけが決定したのですが、
米軍基地の拡張・強化を目的にした情報操作のようにも思えます。

テポ丼兄さんが本気で沖縄や横須賀などに、
テポ丼を打ち込んだら、
米軍は即座に応戦しますから、
W杯どころではなくなりますよね。

そんな時に、
隣の韓国や中国が異常におとなしく、騒がないのも変です。

 パトリオットミサイル2.jpgパトリオットミサイル1.jpg
パトリオットミサイルは1発2千万円もするのに、
的中精度が低いので有名な粗悪ミサイル、
というだけで、
「置いてあると安心だけど、実際に役に立たない」
という、
首都圏で売られている
“災害避難セット”
のようなモノなんです。

パトリオットミサイルの調達・配備するカネは、
まさか日本持ちじゃないんだろうねexclamation&question


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2006年05月23日

期限切れジュースを平気で売るバカ親父!

地元市場内の一角に、
なぜか古本屋とガレージセール的雑貨店があります。

古本屋は、沖縄に関する本が並んでいるのですが、
とにかく古くて汚ないわりに高いのです。

今まで、1人として本を買っているのを見たことがないし、
どんな本をいくらで売っているのか冷やかしてやろうと思って、
たまに近寄ると、
どこに隠れて居たのかいつの間にか店主らしき親父が現われて、
大事な?本を持ち逃げするんじゃないかと疑いの目で、
亀田バカ兄弟がメンチを切るように、
頭のテッペンから足もとまでを見渡すのです。

そんなことされたら、誰が買うかexclamation
(最初から買う気ないけどさ)

ガレージセール的雑貨店もひどい店で、
売り物がとにかく古くて汚い。

期限切れジュース.jpg
中古の時計やライターは錆びているし、
インスタントコーヒー缶やジュース類は
9割が賞味期限切れなのです。

最初は、ずいぶん新しいモノを仕入れてあると
感心していたのですが、製造年月日じゃなかったのでした。
期限切れジュースの日付.jpg
日付が未来のもありましたから。もうやだ〜(悲しい顔)

この店?も感じ悪いよ。

「賞味期限切れ」と言っても、ひとつの目安だし、
期限切れ後だからと言って、
飲み食いして死ぬわけじゃありません。

「これでも良ければ買いな」
という意味なのでしょうかexclamation&question
それとも、
「酸化防止剤がたっぷりこん入ってるから大丈夫さ〜」
という意味なのでしょうかexclamation&question

いつの間にか、
この店?の「賞味期限切れ」商品探しが好きになってしまいました。

一種の「怖いもの見たさ」でしょうか。

「これも期限切れ」
と思って商品を手に取って確認すると、
「やっぱり期限切れ」
と予想が当たると、嬉しくなってしまうのです。

とにかく、9割以上が期限切れなのですから、
予想はほとんど当たるのですが、
たまに期限前のが発見されたりすると、
大変な歴史的発見をしたかのように驚いてしまうわけです。

ドラマ「トリック」の仲間由紀恵だったら、
きっとこう言うでしょう。

「お前のやった事は全部お見通しだexclamation

くだらないね。もうやだ〜(悲しい顔)
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2006年05月09日

沖縄の怪しげな仕事

沖縄には、
無料の就職情報誌がスーパーやコンビニ、
中には役場のホールにまで置いてあります。
無料の就職情報誌.jpg

この“怪しげな仕事”は、
30歳までの人には有名な求人のようです。
怪しげな仕事.jpg
いつも、無料の就職情報誌の最初の1面か、
最後のページに、カラーでデカデカと載っているのです。

求人内容は、読めば読むほど、
具体的に何をやる仕事なのかさっぱり理解できないのですが、
要するに100円SHOPで売っているようなセコい品物を
1,000円くらいで売りつける仕事なのです。

たいてい、
男女とも葬儀に参列するような真っ黒いスーツを着ています。

そういえば、
化粧品ネットワークビジネス(=マルチ商法)のニュースキンも、
真っ黒いスーツを着込んでいましたね。

「黒」=「悪」をイメージさせるつもりなのでしょうかexclamation&question

我が家にもひんぱんにやってくるのですが、
この前やって来たときは、
アルミ製のような安っぽい名刺入れを出してきました。

「これどうぞ、手にとって下さい」
というのがお決まりのセールストークなのです。

最初は、渡す瞬間にワザと落として
「弁償しろexclamation
と凄む押し売りビジネスなのかと思っていたのですが、
そうでもないようで、
「要らない」
というと、
「ありがとうございましたexclamation
とバカでかく挨拶して、
簡単に引き下がって、隣の家へ入って行くのです。

次々に断られているようで、
声がだんだん遠ざかって、いつしか聞こえなくなるのですが、
ものすごいバイタリティを持ち合わせていることだけは
認めてあげなければいけないでしょう。

ショッピングセンターの駐車場でも、女性がやっていました。

やはり安っぽい、超小型のプラスチック扇風機です。

片手で持てるタイプの、役に立ちそうにない扇風機ですね。

これを、やはり
「これどうぞ、手にとって下さい」
というのです。

「いくらexclamation&question
と聞くと
「1,000円です」
というので、
「今、急いでるから要らないよ、ごめんね」
と断ると、
あっという間に他の車に移動しているんですね。

日給1万円前後と求人誌に出ていますが、
日給1万円を取るためには、
目が飛び出すような数を売らなくてはならないはずですよね。

「営業は断られることから始まる」
とか、
自己鍛錬の場として、
修行するつもりでやっているのでしょうかexclamation&question

山梨県の「地獄の訓練」のような感じで。



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2006年03月13日

「ちゅらさん4」は、“出がらしコーヒー”と同じ!

2001年4月2日〜9月29日までの
「ちゅらさん1回目」は
国仲涼子のフレッシュな天真爛漫な明るさが受けて、
平均視聴率は22.2%もあって、
“沖縄ブーム”の火付け役になりました。

沖縄が本土に復帰した1972年5月15日に
“えりぃ”が小浜島で産まれた、
という設定になっていましたね。

続く2回目は、
2年後の2003年3月31日〜4月28日に登場しました。

この時の平均視聴率は11.8%と半減してしまいました。

さらに、この翌年の2004年9月13日〜10月11日に
3回目が登場し、
この時の平均視聴率は10.8%と、
かろうじて一桁台を免れました。

4回目は、今秋に撮影を行い、
前・後編各60分で冬ごろ放送予定だそうで、
先日3月10日に
那覇市おもろまちの新・NHK放送局で
制作発表が行われたのでした。

もう、はっきり言って、「痛々しい」です。もうやだ〜(悲しい顔)

緑茶のお茶っ葉を換えずに4回もお湯を入れたお茶や
ファミレスで「出がらしコーヒー」を飲むのと
同じような感じです。

国仲涼子の素の性格は「内気」で「出不精」、
「人付き合いが苦手」ですから、
「ちゅらさん」の“えりぃ”の明るすぎる役柄と
ギャップが有りすぎる不自然さを感じてしまいますし、
1回目の当時は格下だった仲間由紀恵にその後逆転されて、
その差は開く一方で、
国仲はすっかり「過去の人」状態になっています。

引退時期を見誤ってバッターボックスに入る
清原和博のようです。

国仲涼子が演じる主人公の古波蔵恵里のキャラは、
・ 明朗活発
・ 天真爛漫
・ 自由奔放
に加え、
・ アホ、バカ、ドジ、マヌケ、鈍感、単細胞
が少し入っていますから、
同じキャラで中年期に入ってゆく“えりぃ”は
なおさら見たくないです。

「じゃあ、観んなよっexclamation
と言われるまでもなく、
「ちゅらさん1」の最後に違和感を感じたので、
実は2回目以降は観ていないのです。

1回目では、
“えりぃ”が小学校5年生のとき、
“えりぃ”の父・古波蔵恵文(こはぐら・けいぶん)と
母・勝子が経営する小浜島の民宿に、
東京から和也と文也、そして母親の静子がやって来ます。

不治の病にかかっていた和也の前で、
“えりぃ”と文也は将来の結婚の約束を交わします。

その後“えりぃ”は、「看護師」という天職に出会い、
医師を目指す文也と偶然再会し、
やがて目出度く結婚し、
1年後に子供が生まれ、「和也」と名付けるんですね。

このあたりまでは文句はありません。
問題はここからなのです。

子供の和也が4歳の時、
心の病気になってしまうのですが、
この頃“えりぃ”も悪性の腫瘍を抱えてしまいます。

自分の病気のことは、
文也や“えりぃ”の家族には秘密にしてしまうんですね。

いくら「子供を助けたい」と“えりぃ”が思っても、
自分の仕事が「看護師」で、夫が「医師」なのに、
徹底して病気を隠す不自然さと
自らの命をかけて、
生まれ故郷であり、
昔不治の病で亡くなった和也と植えた
小浜島のガジュマルの木の下に行くんですが、
そこで倒れてしまうのです。

倒れた母親を助けたいと子供の和也が突如正気になり、
子供は助けを呼びに走り、
夫の執刀で手術も成功し、
万事メデタシメデタシで終わったのでした。

細木大先生.gif
どう考えても不自然で、
細木大先生の「ズバリ言うわよexclamation」を観た後と同じ、
後味の悪さを感じたわけです。

NHKもネタに困って「ちゅらさん4」を企画するなら、
脚本を私にさせれば良かったのに。

そうすれば、視聴率を限りなくゼロにして
未練を残さず「ちゅらさん」はオシマイって出来たのに。

あの時君は若かった.jpg
あの時君は若かった(スパイダース、1968年)
るんるんあの時君は〜若かった〜、
 わかぁってほ〜しい〜、ボクの心を〜るんるん

豚レーサー.gif
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2005年09月15日

「○○しましょうね〜」という沖縄方言とは?

沖縄のまぎらわしい?方言で、
「○○しましょうね〜」
というのがあります。

本土では、
『Let's ○○○ with me.』
という意味の
「私と一緒に○○しましょう!」
とか「誘い言葉」ということになると思いますが、
沖縄では「○○します」あるいは「○○致します、○○させて頂きます」
という意味
で、老若男女を問わず、日常生活でよく使います。

例えば、
・ 「そろそろ行きましょうね〜」
・ 「行ってきましょうね〜」
・ 「調べてみましょうね〜」
・ 「袋に入れましょうね〜」
・ 「聞いてみましょうね〜」

また、語尾に「○○さ〜」と『さー』を付けるのは、
「○○でしょ」という意味ですし、
返事をする時に「はい、はーい」と『はい』を続けて2回言うのも、
「分かった」とか「了解したよ」、「じゃあね」という意味で使います。

「はい、はーい」は、電話の最後で使う人が多いです。

イントネーションが伝えられなくて残念ですが、
相手を思いやり、優しくて暖かみのある感じで、
沖縄の良さを表している方言だと思います。
posted by RIUさん at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月06日

海に囲まれた沖縄のプール事情

海に囲まれた沖縄ですから、
沖縄人はさぞかし水泳が得意と思われるかもしれませんが、
人口10万人当たりの公共プール数は
2.13と全国44位なのです。

沖縄のプールというと、学校のプールかリゾートホテルのプールは
思いつきますが、民間の大規模なプール施設はどこかにあるのか、
思いつきません。

本土では、小・中学校・高校では、
ほとんどの学校にプールがあると思いますが、
沖縄では1972年の復帰後から徐々に設置され始めました。

そのため、まだ全ての学校にはプールはありません。


平成16年度の沖縄県内小・中学校でのプール設置校は下記の通りです。

本島北部地区
小学校全61校中、プール設置校は23校、設置比率37.7%
中学校全31校中、プール設置校は10校、設置比率32.2%

本島中部地区
小学校全77校中、プール設置校は62校、設置比率80.5%
中学校全42校中、プール設置校は26校、設置比率62.0%

本島南部地区
小学校全86校中、プール設置校は71校、設置比率82.6%
中学校全51校中、プール設置校は34校、設置比率66.7%

宮古地区
小学校全22校中、プール設置校は17校、設置比率77.3%
中学校全18校中、プール設置校は 6校、設置比率33.3%

八重山地区
小学校全35校中、プール設置校は11校、設置比率31.4%
中学校全21校中、プール設置校は 5校、設置比率23.8%

沖縄全体
小学校全284校中、プール設置校は184校、設置比率64.8%
中学校全163校中、プール設置校は 81校、設置比率49.7%

都市部ほど充実され、過疎地域ほど後回しになっていることが
分かります。

沖縄では石垣島、宮古島、伊是名島などで
トライアスロン大会がありますが、
最初の「水泳」がネックになって、
沖縄人は参加するより、もっぱら応援が中心とならざるを得ないのです。

そのため、コース沿線での応援はとびきり熱いのです。
1つのお祭りなんですよ。

沖縄は紫外線が強いために、
夏場は特に用事があるとき以外は外に出ない習慣になっています。

ビーチに行っても、
Tシャツを着たまま、海に浸かる沖縄人は時々見かけますが、
原則として沖縄のビーチで水着を着ているのは、
本土からの観光客と断言できるでしょう。

そもそも、漁師や釣り人、海岸線で海草やタコ、貝類を採る人、
引き潮で遊ぶ家族連れ以外で、海に入る人は少ないのではexclamation&question


那覇空港の隣で、飛行機を着陸寸前で見れる瀬長島では、
・ 弁当を食べるために休憩している人
・ 営業者で仕事をサボっている人
・ ビーチパーティをするグループ
・ 花火で遊ぶ人
・ 犬を捨てる人
・ 犬を散歩させる人
・ アベック
などは車で来ていますが、
ビーチでパーティをしたり、遊んだりする以外は、
せいぜいゴミや飼い犬の投げ捨てに降りるくらいで、
なかなかビーチには出て来ません。

1972年の復帰時に小学校を卒業した、現在45歳以上の人では、
「カナヅチ」は相当多いのではないでしょうかexclamation&question

本土では恥ずかしく悲しい「カナヅチ」ですが、
沖縄では「隠れカナヅチ」はいませんし、
「カナヅチ」自体、恥ずかしくないので、堂々としています。

「オレ、泳げないんですよ」
と、平気な顔して堂々と言われると、
電車男が「オタク」を趣味として、
堂々と発表する勇気ある行動と重なって見えていまい、
「泳げないのはおかしい」
と思っていた私の方がよほどおかしい、ということが分かりました。


「カナヅチ」が多い沖縄人でも、船舶免許を持っている人は多いです。

石を投げれば、必ず船舶免許を持っている人に当たるほどです。

趣味で「“釣り”に行こう」と言われると、
普通は岸壁や岬、乗合いの釣船をイメージしますが、
沖縄では個人の小船を所有している人がいて、よく海に連れ出されます。

若者では、ジェットスキーをグループで所有しているのも、よく耳にします。

となると、沖縄では泳げる人と泳げない人が、
はっきり「2極分化」しているのでしょう。

沖縄で必要なのは「プール」より「クーラー」なのかもしれませんね。
posted by RIUさん at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月05日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その5

埼玉県における朝鮮人虐殺(大里群熊谷町を中心)−2

熊谷町へー柳原地区への引継ぎ
佐谷田村から熊谷町に入って
最初の柳原(現・曙町)地区の自警団に引き継がれる。

ここの役員は朝鮮人が疲れているのを見かねて住居の庭で休ませ、
ささやかな飲み物や食事を与えている。

蕨からの町送りの途中で確認できる
ごく稀なきちんとした休息であった。

休憩したのは現在の熊谷市曙町3丁目あたり。
近くには廃社になってしまった白山神社があった。

村部自警団の人間の中には
朝鮮人に同情や優しさを見せる者があったが、
熊谷町柳原地区の住民の優しさはその中でも特別のものであった。

皮肉なことに朝鮮人たちはその柳原の休憩から出た後すぐに、
熊谷町中心地区の自警団に引継ぎされる直前、
その自警団らに熊谷駅近くで襲われ、集団虐殺されることになる。

柳原の休憩が朝鮮人たちにとって最後の人間らしい扱いであった。

スタートの蕨から熊谷までは約50km、約30時間を
ほとんど休憩もなく歩いてきており、
途中に逃亡、虐殺、列車に乗せようとした駅での混乱、
小型トラックへの積込みなどを繰り返しのながらの悲惨な行進である。

護衛する側は自分の担当区間だけ送ればよく、
いきおい担当区の中で問題が起きなければそれでよく、
できるだけ早く次の区へ送り責任から解放されることを考え
休憩時間や食事時間の配分や気配りはしないし、
また担当が小刻みに代わる町送りだとそれができない。

そうした無計画な移送の結果、朝鮮人は疲労、ストレスと共に、
移送自体への不安、不信感が極限に達して逃亡を図ることになり、
逃亡者の虐殺の原因の1つは「町送り」という方法にあったと言えよう。

熊谷町柳原地区の自警団に護送された朝鮮人が
熊谷町の中心部へさしかかろうとした時、
熊谷町の中心部の方から群集となった民衆が手に手に武器を持って
「熊谷町中心部へ入れるのを阻止」
しようと押し寄せてきた。

引き継ぐはずの熊谷町中心部の自警団がすでに暴徒化していた。

自警団だけでなく、やはり暴徒化した熊谷町の一般町民が
多く加わっていた。

群集は一旦暴走し始めたら、留まるところを知らない。

そして熊谷町中心部入口で熊谷町最初の殺りくが行なわれた。

おとなしく送られてきた無抵抗の朝鮮人に民衆が集団で襲いかかり、
残虐な牙を向けたところに熊谷の虐殺の特徴がある。

朝鮮人たちが縛られて移送されていたかどうかについては、
目撃談がまちまちではっきりした資料は残されていない。

・ 朝鮮人たちが縛られていなかった、との証言
  「久下村では朝鮮人は縛られてはいませんでした」
  「布団を背負った人、子供を負ぶった人、学生、女の人
   …縛られてはいなかった」

・ 朝鮮人たちが縛られていた、との証言
  「久下村で軽く荒縄で縛られていたようです」
  「朝鮮人は太いロープで縛ってあるのでもう逃げられません」
  「角帽学生、女の人、子供。軽く荒縄で縛られていた」
  「ロープで縛られていました」
  「縄でひとかたまり」
  「護送された朝鮮人たちは縛られていて、
   食い物も食うような食わないような状態で、
   ここまで歩いてきました」
   
   角帽は留学していた大学生の帽子か。
   小突き回されながら、暑い中、そして強行軍の中でも
   角帽を被り続けてきたのは、
   「自分は不逞の輩ではない」
   ということを懸命にアピールしていたのではないか。

   日本の大学の制帽が自分を守ってくれると
   信じていたのかもしれない。
   もちろんこの学生も熊谷か、
   他の場所で惨殺されている(角帽も確認されていない)。

   久下村から佐谷田村へ引き継がれる時に
   何人かがトラックに乗せられ、熊谷方面に走り去っている。

   そのトラックは本庄警察署で襲われたものであると考えられるが、
   本庄の死体の中に帝国大学生がいた。

   角帽を被った学生というのは、
   この帝国大学生であったかもしれない。

   この帝大生は、若い妻と一緒に惨殺されていた。

・ 熊谷町入口での集団殺りくの後、
  そこで運良く殺されなかった朝鮮人たちは、
  熊谷町中心部である筑波、本町に引き渡されている。

  周りを固められただけでなく、集団が数珠つなぎに、
  中には針金で縛られたり、後ろ手で縛られたりしている。


熊谷町の虐殺
現在のJR高崎線熊谷駅近くの
ショッピングセンター・ニットーモールあたりで、
当時周りを自警団に囲まれておとなしく歩いてきた朝鮮人に対し、
町の中心部から自警団、民衆が嬌声を上げて
大挙して襲いかかり殺りくした。

そこで20〜30人の朝鮮人が殺されたのが熊谷町虐殺の第一幕である。

その20〜30人の死体は、
荒川土手下の共同墓地に運ばれ埋められたが、
今ではその共同墓地はなくなっているという。

「翌朝(9月5日)自転車で熊谷中学(現・熊谷高校)へ行く途中に、
 沢山の死体を見ました。
 一番多かったのは、秩父線の踏み切りの手前
 (線路の南側、現・マンションが建っているあたり、当時は砂利置き場)
 でした。
 のど笛が切られて血の塊が出ている人、
 肩から袈裟懸けに切られている人、
 頭に穴を開けられている人などがいて、
 そこに犬が数頭たむろしていました」

町中心部への入口あたりの虐殺場所近くには、
荒川河川敷で採取した建築資材用の川砂利を仮置き場とした
砂利置き場があり、そこが一時的な死体置き場となっていた。

砂利は、採掘現場の荒川河川敷から熊谷駅近くの砂利置き場まで
トロッコで運ばれていた。

そのトロッコが土手下の共同墓地の脇を通っていたので、
死体はトロッコで墓地まで運ばれた。

共同墓地に運ばれた死体は、面倒くさく急いで浅く埋めたので、
すぐに腐敗臭がひどくなって周りが耐えられなくなり、
数日後には掘り返されて、改めて火葬されたと言われている。

 「死んだ人達は、荒川の土手の脇にあった共同墓地に埋められました。
  暑い時だから死体が腐って、穴の中がぶつぶつ煮い立ちました。
  その臭いは誠に臭いので、誰もそばを通れなくなりました。
  …焼いたのは、埋めてから一週間経ってからでした」

熊谷町入口では、もちろん朝鮮人たちは、
なすがままにおとなしく殺されたのではない。

反抗こそしなかったが、必死で逃げようとした。

しかし、蕨からほとんど休憩もなく歩かされてきており
疲れ切った身体で、しかも西も東もわからない土地で
逃げ切れるはずもなく、
その場を散り散りになって逃げた者は
例外なく全員が町のあちこちで惨殺された。

殺害された正確な人数は現在でもわかっていない。

それを明らかにしようとの動きは、民間の
「関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼実行委員会」
が行った調査以外には全くない。

行政などは、むしろ
「臭いものには蓋」
の態度を取り続けてきている。

熊谷に至るまでの道中では、逃走しようとしたから殺されたが、
熊谷では逃げようとしたわけでもなく、
大人しく反抗もせずに引き渡された者も虐殺にあっていた。

朝鮮人たちを縛ったことは、
襲撃した自警団を統率していたはずの熊谷町消防組の
組頭・黒田蔵之助も後に法廷で証言している。

 「数珠つなぎにしたのは、そうしなければまたもや逃走し、
  さらに混乱して、朝鮮人が危険にさらされるとの配慮があったから」

だと後に弁明するのだが、
おとなしく引致されてきた者を集団で襲い、
有無を言わさず殺している者たちに
そのような人道的配慮があったとは到底思えない。

何より証言によれば、
針金によって数珠つなぎにされていただけでなく、
背中に何本もの竹槍を刺されていた朝鮮人もいたという。

中心部入口における殺りくに加わった民衆は、その興奮を押さえきれず、
そのまま市街地へ持ち込んだ。

彼らは血が付いた刀、竹槍、棍棒を持って、逃げた朝鮮人を探し、
見つけ出しては殺す、そこには自警のかけらもない。

狂気に支配されたとはいえ、血に飢えた狼が獲物を捜し求め、
狩りを楽しみ、見つけては殺りくを楽しむ、という様相である。

殺りくは逃げた朝鮮人だけでは済まなくなり、
おとなしく数珠繋ぎで連行されている、
拘束されている朝鮮人へも攻撃の刃をむけるようになった。

手を縛られたまま逃げる者、それを追いかける男。

おとなしく縛られたままでいる朝鮮人、
それを引っ立てて刀の試し切りにする男。

薄暮れ、そして暗闇の中で殺りくのし放題であった。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものである。

高崎線の踏切を渡り、真直ぐ進むと筑波である。

この筑波において、また警察署附近
 (現在の熊谷警察署は市街地のはずれに移転、新築されている。
 当時の警察署は本町4丁目、町の中心部にあった)
において、熊谷寺内で、そして逃げまどった先で多くが殺された。

どの場所もこっそり殺害する、というような場所ではなく、
今で言うメインストリートに面した繁華の場所である。

 「中家堂」(熊谷の老舗の製菓販売店、現・本町2丁目)のあたりで
  見ていました。
  朝鮮人を列から引きずり出して殺すのです。
  警察は別にとがめませんでした。
  …その時、私の眼の前で、日本刀を持ってきた人が
  『よせ、よせ』と言うのを振り切って、
  日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。
  …『こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからない』
  と言って斬ったのだそうです」

 「小比木園の所
  (熊谷老舗の茶店、現・本町1丁目、本町は宿場の頃から中心部)
  で、縄で縛られて護送されている朝鮮人に出会いました。
  …忘れられないことは
  …朝鮮人の背中にみんな竹槍が刺さっていたことです」

 「…朝鮮人たちが中仙道から前の道に入ってきました。
  みんな汗を流して、真っ黒な顔で、日本人に結わえられていました。
  日本人は胴を結わえて、1人の朝鮮人をもっている人、
  手と足をそれぞれ結わえて引っ張る人といました」

 「熊谷寺では、生から死まで見ました。
  寺の庭では1人の朝鮮人を日本人がぐるっと取り巻いたグループが
  5つほど出来ました。
  そして殺すたびに
  『わあ、わあー!』
  『万歳、万歳!』
  と歓声が上がるのです」

 「翌朝(9月5日)自転車で熊谷中学(現・熊谷高校)へ行く途中に、
  沢山の死体を見ました。
  一番多かったのは、秩父鉄道の踏切の手前
  (線路の南側、現・マンションが建っており
   当時は砂利置き場になっていた)
  あたりです。
  …人数は20〜30人いたでしょうか、はっきりしません。
  その他多かったのは、皮肉なもので、熊谷警察のあたりです。
  本町3丁目から4丁目にかけてです。
  それから熊谷寺の前にもありました」

 「この大原墓地へは、熊谷署周辺と熊谷寺で殺された死体を
  運んできたのだと思います。
  翌日(9月5日)火葬場で働いていた竹さんが荷車に積んできました。
  当時は、佐渡で巡査だった鈴木さんという人が、
  熊谷寺の留守番をしていました。
  その人が焼くのがうまいので教えてもらい焼きました。
  薪を積み、石油をかけ、コモをかけて焼いたのです。
  穴を掘ったり、焼く仕事は竹さんがやりました。
  …立ち会ったのは竹さんと鈴木さんと私だけです。
  …焼いてしまうまで憲兵が4,5人この周りを
  昼も夜も巡視していました
  …暑い時だから死体は臭くなるし、ひどい殺し方でした。
  袈裟懸けに切ってあったり、傷だらけでした。
  死体はみんな針金で手を縛られたままでした。
  だから人にはみせられないですよ。
  当時、火葬場はあったのですが、
  あまり死体の数が多いので、穴を掘って焼いたのです」

熊谷町で虐殺された朝鮮人の数は、もちろん正確にはわからないが、
60人以上と伝えられている。

町の中心部に入って殺された死体は、
町の新井助役たちによって大原地区に運ばれ野焼き焼却されるが、
焼却に当たった火葬雇いは
「あの時、焼いたのは全部で48個の死体です」
と新聞記者の取材で述べている。

事件後間もなくの取材であり、
また当時の火災雇いは、組合の定雇いであり、
火葬した数で手当てが決まっており、
その数には信憑性があり正確と言ってよい。

その大原で野焼きにされた後に、
最初に共同墓地で埋められた数と、
その他の場所で殺された数を加えたものが
熊谷町で殺された総数ということになる。

すなわち「48+20〜32、33」=68〜81人が
熊谷で虐殺された朝鮮人の推定値である。

殺された人数すらはっきりわかっていないのだから、
名前、年齢、性別、職業、住んでいた住所
(日本、それ以前の朝鮮での出身地)などは何も残されていない。

朝鮮人は移送されてきたとき、
多少なりとも財産や荷物を持っていたと思われるが、
身元の手がかりとなる遺品の行方は全くわからない。

死体と一緒に焼かれたのか、民衆に強奪されたのか…


熊谷以外の県北の推定殺害数は以下の通りである。
・ 神保原−加美村3人
・ 神保原−神保原村39人
・ 本庄100人以上
・ 寄居1人(地元朝鮮人の飴屋)
・ 児玉1人(報道・検挙なし、群衆によって虐殺)
・ 深谷1人
  (群衆が踏切を止め殺害したが、列車事故での死亡にすり替えられている)



死体を片づける人
熊谷は1日にして狂気・虐殺の町からエゴの町に変わっていた。

死体はそのまま町に放置され、暑さですぐに腐敗しはじめ、
ウジもわき激しい腐臭を発散し始めた。

ますます人は近寄らなくなる。

「町を守れ」と絶叫していた連中も、
日ごろ「町のため」と口にしている旦那衆も、
誰も町内に捨てられた死体を片づけようとしない。

近づくのは死肉をあさるカラスと野犬だけ。

死体はさらに無残にちぎられ、カラスや野犬を追う者さえいなかった。

死体を集める者は、わずかに組合常雇いの火葬人夫だけであった。

死体は町の北に位置する大原地区(現・大原霊園)あたりに運ばれた。
現・大原霊園の中に、境内で朝鮮人が虐殺された熊谷寺の墓地もある
(虐殺されたのは大原墓地ではなく、町の中心部にある寺の境内)。

この熊谷寺の墓地の一角に、
震災時に熊谷町で虐殺された朝鮮人犠牲者の供養塔がある。

町の人間が誰も手を貸してくれない中、
火葬人夫を指揮し、死体を片づけた男がいた。

それは当時の熊谷町助役・新井良作であった
(彼は後に熊谷市長になる、1933年、昭和8年4月1日、
 町から市に昇格した時の最初の市長であった)。

この新井が市長として、
後に大原霊園の中に朝鮮人犠牲者の供養塔を建てたのである。



殺されなかった人たち
1999年(平成11年)11月19日、朝日新聞で
91歳になる在日朝鮮人の女性が
朝鮮人虐殺についての証言を報道している。

 「[証言者;文さん]は13歳のときに両親と共に来日。
  東京・大井町の長屋に住み、紡績女工として働いていたという。
  文さんによると、1923年9月1日の震災直後は、
  近くの親類と大家の庭にムシロを敷いて寝ていた。
  翌日には『朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ』などの流言が飛び交い、
  大勢の日本人が日本刀や竹槍、鳶口を持って
  『朝鮮人は皆殺しだ』と文さんたちの所にもやってきた。
  このとき大家が
  『この朝鮮人たちは何も悪い事をしていない。
   昨日もずっと私たちと一緒に居た』
  とかばってくれた 」



熊谷町の例
 「熊谷町の熊谷絹紡会社には、
  朝鮮人・金南斗ほか5名の女工が雇われていた。
  流言粉粉として起こり中仙道一帯物騒がしくなって、
  朝鮮人の身辺危険とみた会社では
  可憐な朝鮮人女工の身に変事があってはならぬと、
  工場主任…に手配させることにした。
  朝鮮人一同に日本服を着せなどして、
  なるべく人目にふれさせないようにしていた。
  ところが9月4日に熊谷町で騒擾(そうじょう)事件が起こり、
  常軌を逸した民衆は日に幾回となく会社にやってきて
  朝鮮人の在所を探索しようとした。
  …万一にも群衆が物置に朝鮮人の居ることを
  嗅ぎ付けるようなことになったら、すぐに他へ移す手筈を決め、
  ただ気を配っていた。」
             (中島 司「震災美談」私家版、1924年)

上記2件の例から、
当時では「勇気ある行動」と言えるが、
例え差別的な関係があったとしても、
「日本人と朝鮮人との間に一定の日常的な人間関係が成立していた」
ということが推察される。



殺された貧しい飴売りー寄居事件チンチン飴売りと先の助けられた製糸女工たちとは
日本人と一定の人間関係があったことは共通しているが、
飴売りの場合は(昔からあった日本人の飴売りもそうだが)
下層貧困層による流れ者的商売であり、
定住者と流れ者商売での違いがあったものと思われる。

熊谷から秩父山塊へ向かう秩父鉄道・秩父線の起点、熊谷駅から
乗車すると約30分程で寄居駅に着く。

寄居の桜沢(秩父線では寄居駅の1つ手前が桜沢駅、事件当時はなかった)
の木賃宿に滞在していたチンチン飴売りの朝鮮人が、
危険を避けるために寄居警察分署に保護されていたが、
9月5日、扇動者に扇動された群衆が警察を襲撃し、
日本刀や竹槍、棍棒で惨殺された。

保護していた警察は止めることができなかった。

被害者は1人。

名前は当時の新聞報道では「金昶」。

墓碑名、予審決定書では「具学永」となっている。

飴売りの朝鮮人青年であった。

穏やかな人の良い朝鮮人であったらしい。

 「警察署にただ保護されているのは申し訳ない」
と中庭の草むしりをかってでたそうである。

滞在期間も長く、飴売りとして日本人とも付き合っており、
名前もわかっている貧しい、人の良い、無抵抗で罪のない外国人を、
ただ「朝鮮人」というだけでなぶり殺しにした事件であった。

朝鮮における詐欺的土地調査以降、
多くの朝鮮人が来日するに至ったが、
それ以前には日本で暮らす朝鮮人は少なかった。

そのまれな朝鮮人の職業は
石炭炭鉱夫、鉄道建設工夫、それに飴売りなどであった。

飴売りは例外なく貧しかった。

下層貧民のよそ者の行商であった。

貧しいから木賃宿に泊まっていたのである。

頭の上に旗や飴を載せ、団扇太鼓みたいなものを打ちながら
売って歩く飴売りは、天秤に飴の入った容器を下げて
「ニンジンアメー」
と発声しながら売っていた、との回想もある。

朝鮮人飴売りは、日本人と同様に、
地方によって商売の仕方が異なり、
扮装、いでたち、売り方に工夫をして、
掛け声をかけたり、簡単な芸をしながらの飴売りであったらしい。

いずれにせよ子供には人気があり、地域や子供との関係は成立していた。

寄居町の正樹院に彼の墓がある。

正面に「感天愁雨信士」、
右側には
 「大正12年9月6日亡 朝鮮慶南居蔚山郡廂面屋山田里居 
  俗名 具学永 行年 28才」
左側には
 「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」
と書いてあるという。

これも戒名が残された例外の事例である。

さらに出身地までわかっている。

それだけ地元住民との日常関係が成立していたという事が推察される。

 「身体中血だらけになった具学永さんが苦しそうにあえぎながら、
  そう、こんなふうに左手で紙を押さえ、
  したたり落ちる自分の血を右手の指先に付けて書いた
  『罰、日本、罪無』という5つの文字は、
  その不揃いな形から黒ずんだ血の色まで
  今なおはっきりと思い浮かべることができます。
  …私はその5つの文字を
  『日本人、罪なき者を罰す』
  という意味と読み取りました。」
       (北沢文雄「大正の朝鮮人虐殺事件」鳩の森書房、1980年)


朝鮮人の飴売りは他の地区でも殺されていた。

(川口の証言)
 「朝鮮人の飴売りは、いつも朝9時頃やってきた。
  『朝鮮のチンチン飴買いましょう』
  と叫ぶと子供達はワッと集まって我先に買った。
  志村の方から毎日のように売りにきた。
  その門の所で売っていた。
  子供たちは嬉しがって付いて歩いたものだった。
  殺された飴売りはまだ21、22歳の若者だった」

(本庄の証言)
 「飴を売っていた朝鮮人も殺されました。
  よく飴を買っていたので覚えていたのでしょうね。
  その朝は、気持ちが悪くご飯がたべられませんでしたので
  よく覚えています」



太平洋戦争が終わってから、まだ60年しか経っていません。
関東大震災からも、まだ92年しか経っていません。

歴史的に見ると、「つい、昨日の出来事」なのです。
事実から目を背けたり、湾曲させたり、風化させてはいけません。
posted by RIUさん at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月04日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その4

埼玉県における朝鮮人虐殺(大里群熊谷町を中心)−1

大里群熊谷町
震災による、埼玉県における建物被害は
全壊4562戸、半壊4348戸である。

埼玉県でも県南部の被害はかなりの被害を受けていたが、
震災地の相模湾から遠い分震動も弱く、
県北部はさらに被害も少なかった。

県北部では、神奈川や東京に住む身内の安否、
朝鮮人流言の問題を別にすれば、
生活を脅かすような心配事は何もなかった。

東京は震災後、深刻な食糧問題、飢餓に襲われ、
東京府民は食糧確保に奔走しなければならなくなったが、
大里村はむしろ食糧を供給する側だった。

・ 熊谷町を含む大里村の震災被害
 住居全壊 11戸
 住居半壊  8戸
 死者    なし
 負傷者   5人
北埼玉では普通の生活が保たれていた。

熊谷町の旧制・熊谷中学(現・埼玉県立熊谷高校)では
平常授業が行なわれていたが、
当時の中学生は放置された朝鮮人の虐殺死体を見ながら登校していた、
と伝えられている。


埼玉県での朝鮮人虐殺の記録
9月2日
・ 東京方面から流入する避難民より朝鮮人来襲の噂が広まる
・ 県・内務部長名の通牒。朝鮮人来襲に備えての自警団結成を促す

9月3日
・ 深谷・踏切で列車が止められ1人死亡
・ 大宮機関庫で1人死亡

9月4日
・ 片柳村(大宮市[現・さいたま市]に編入)で1人死亡
・ 桶川で4人襲撃され、1人死亡
・ 久下村(1941年[昭和16年]熊谷市に編入)にて1人死亡
・ 佐谷田村(1941年[昭和16年]熊谷市に編入)にて1人死亡
・ 熊谷町にて虐殺(翌朝までに死者70〜80人)
・ 神保原にて虐殺(死者42名)
・ 本庄町にて虐殺(本庄警察署内で86人、町内15〜20人)

9月5日
・ 妻沼町にて秋田県出身日本人労働者が朝鮮人に間違われて殺害される
・ 児玉にて1人死亡
・ 寄居にて1人死亡
・ 桶川にて1人死亡(3人襲われ2人は重傷で救助)

震災直後から、横浜や東京の流言が激流となって流れ込み、
さらに鉄道に乗って逃げてくる異様な姿の避難民が運ぶ流言には
不思議な真実味が感じられ、県民が不安にかられる中、
震災翌日、埼玉県では流言が真実であるかのように断じる、
県・内務部長名の通牒が下記のように県下各群町村に通達された。


庶発第八号
大正12年九月二日           埼玉県内務部長
郡町村宛
不逞鮮人に関する件
東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人多数が川口方面より、
或いは本県に入り来るやも知れず、又その間過激思想を有する徒之に和し、
以って彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び
漸次其の毒手を揮(ふる)はんとする虞(おそれ)有之候。
就いては之際(このさい)警察力微力であるから町村当局者は、
在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、
一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう
至急相当手配成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也。



埼玉県は流言の真実性を確かめるための独自の調査も十分することもなく、
近隣の群馬県や栃木県、諸機関などと十分な調整もせずに
事実無根のウワサを“真実”とする情報を流し、
情報を持たない住民を扇動してしまったのだ。

実際に荒川を渡ってくる者は言われるような「不逞鮮人」ではなく、
震災の気の毒な被災者である。

日本人の被災者もいれば朝鮮人、中国人の被災者もいるだろう。

住民の証言では、武器を持たず着の身着のまま、
飲まず食わずの朝鮮人を直接見た住民の印象は「不逞鮮人」というより
「被災者」「避難民」というものであった。

後の聞き取り調査では、避難してきた朝鮮人を目前に見て、
また町送りになって送られてきた人たちを見て、
流言で言われているような「朝鮮人の暴動、犯行への具体的恐れ」を
持ったという証言は皆無であったという。

埼玉県北部の民衆の流言のとらえ方は、
東京・神奈川の殺気立った危機感とは明らかに違い
冷静に判断ができており、
そのため埼玉の人たちは暴動の具体的恐怖感をそれほど強くは
持っていなかったと言えよう。

だからこそ、無差別の集団殺りくは熊谷町に入るまではなかったのである。

県の通牒は、情報の収集・管理と情報の操作、発信において、
熊谷や県北の虐殺の原因となってしまう決定的誤りを犯してしまった。


東京における朝鮮人虐殺についての記述
「 多くの警察官は朝鮮人の不審者を逮捕・拘留し、
 『不逞鮮人来襲』への警戒を拡声器で呼びかけ、
 当初は自警団の『朝鮮人狩り』も野放しにしていた。
 軍部の一部は直接、朝鮮人殺傷に手を下しさえした。
 こうした軍・警察の“お墨付き”がなければ、
 デマと暴虐行為はあれほどにはエスカレートしなかったはずなのである。」
          (野村 進「コリアン世界の旅」講談社、1996年)


民衆による警察署内の朝鮮人虐殺を生んだ本庄町の警察署長の述懐
「 最大原因は東京方面からの避難民が放った流言で
  町民一般が殺気立っていたのと、
  一つは町村一斉に団体行動を取ったという事によって見ても
  郡からの移牒文があづかって力あったものと思われる。」
               (東京日日新聞、1923年10月24日)


香阪内務部長の無責任な抗弁
「 あの通牒は僕と友部君(警察部長)と相談の上出したものだが、
  あれがさほど自警団に刺激を与えたものとは思っていない…
  あの当時の状態としてあれだけの事に気付いたのは
  むしろ良い事をしたとさえ思っている…。 」
               (東京日日新聞、1923年10月24日)

この発言が正確であれば、
通牒が現場に下りた時、庶民との接点にあった現場警察官は、
庶民に対し不安をあおった上で自警団をつくらせ、
場合によっては自由に何をしても良い、と言っていたことになる。


東京市と荏原、豊多摩、北豊島、南足立、南葛飾の五群への行政戒厳
「 万一、この災害に乗じ、非行をあえてし、
  治安秩序を乱すが如き者ある時は、これを制し、
  もしこれに応ぜざるときは、警告を与えたる後、
  兵器を用うることを得 」
              (9月2日発令)

戒厳司令官官下の軍の兵器使用を認めた訓令だが、
埼玉県の通牒は暗黙のうちに戒厳軍の行動を
民間の自警団に認めた効果を持った、と言えよう。


北足立郡が町村へ出した移牒
「 今回の震災に際し、東京においては不逞鮮人各所に彷徨し
盛んに放火をなし、またこの間過激思想を有する徒これに和し、
以って彼らの目的を達せんとする趣聞き及び、
漸次(ぜんじ)その毒手を地方に振るわんとするやの
恐れ有之候に付いては、この際町村当局者は
在郷軍人分会、消防手、青年団等と一致共同してその警戒に任じ、
一朝有事の場合には速やかに適当の方策を
講ずるよう至急相当御手配相成度。 」
              (浦和市編「浦和市史通史編 V」1990年)


不幸な偶然の「秩父宮帰京」
当時の時代の優先順位は天皇・皇室にあった。

「 9月3日 午前10時45分秩父宮殿下御還り浦和駅へ向かい給う。
  県より堀内知事、友部警察部長、
  郡より渋谷群書記、浦和町在郷軍人分会長・平野少佐、
  浦和警察署松岡署長が奉迎せり 」
     (埼玉県北足立郡編「埼玉県北足立郡大正震災誌」1925年)

9月3日は、1分1秒の猶予もなく自警団や朝鮮人への対応を
しなければならなかった時に、
治安に責任のある警察部長が、その指揮の現場を離れ、
皇室の奉迎に出てしまったので、
特に朝鮮人保護に空白、手抜かりなど判断が遅れたと言えよう。


流言を運んだ高崎線
荒川鉄橋が地震で2mも沈下して使えなかったが、
軍の鉄道部隊が不眠不休の工事を行い、
上り線は4日午前、下り線は5日早朝に開通した。

東京からの被災者・避難民は、荒川の鉄橋が開通する前にも、
何とか使えた戸田橋などを使って荒川を渡り、
川口から、そして浦和、大宮から国鉄に乗り、
上越方面、東北方面へと下った。

この国鉄がなかったなら、首都圏の混乱はもっと続いていたと思われる。

同時に、この国鉄が流言という混乱の元を一気に地方に拡散してしまった。

列車は大混雑を極め,スシ詰めの客車内だけでなく、
屋根、機関車を含め乗れるところにはどこにでも乗った。

車両の下に帯で身体をくくりつけて駅員に制止される者さえいた。

客車内は身動きが取れず、排泄物も垂れ流し状態だった。

そんな状態なので走行途中に何人もが振り落とされたり、
信号の鉄柱にぶつかったり、
トンネル通過の度にはみだした身体をトンネル内の壁にぶつけて
命を落としている。

線路やトンネル内には列車通過の度に死体が転がっていたという。

そんな混雑した列車に乗った被災者・避難民は極限状態にあるから、
流言は勢い大げさになり、
その極限状態の心理が流言を聞いた人々にも伝染し、
それを話す避難民の言葉に不思議な説得力を持たせていた。

「 関東大震災起こる。
  幸いにして熊谷地方の被害はさほどでもなかったので
  学校は授業はそのまま続けた。
  しかし避難者を乗せた列車が熊谷を通過するので、
  駅には湯茶、おにぎりの接待所が設けられ、
  通過する避難者にそれを供していた。
  生徒の中には学校で授業を受けるより、
  その仕事の方が意義がありとして毎日駅へ通っては、
  汽車の窓口へ湯茶、おにぎりを配って回る者もあった。
  この奉仕した諸団体で一番熱心であったのは
  竹町の芸妓連であったという。」
                (埼玉県立熊谷高校、80周年記念誌)

高崎線・熊谷駅前の秋山食堂(後に閉店)は、
日本で最初に駅弁を売り出した店として知られているが
(竹皮に包まれたおにぎりと沢庵)、
駅に設けられた救護所で避難民に数万個のおにぎりを提供した。

救護所でおにぎりを受け取りながら、
暴行の犠牲者のような格好をした避難民が
「朝鮮人にやられた」と話すので、誰でも信じてしまう。

列車に乗ってくる被災避難民が狂気に取り憑かれたようにおおげさに、
そしてさも自分の眼の前で朝鮮人の殺りくが行なわれたように話す。

これを何度も話しているうちに、
避難民にとっても朝鮮人の暴虐は実際に経験した“記憶”と
なってしまっていた。

「 今、上野の山で日本の陸軍と朝鮮人で内乱が起きちゃってね、
  それで日本の国は潰れちゃうので戒厳令がしかれた」
と…着の身着のままの姿でまことしやかに言うのです。
                (被災避難民から聞いた、という証言)

被災避難民から朝鮮人暴虐の話を聞いた者は、
地域や学校、家庭に帰り、興奮しながらさらにおおげさに話す。

そのようにして流言が速やかに拡大再生産されていった。


「町送り」という名の“厄介払い”の始まり
埼玉県警察部は、
東京から非難してきた朝鮮人、県内で拘束した朝鮮人を
県外に移送しようとする。

移送する目的は、
「朝鮮人を自警団の暴虐から守るため」
と言われているが、本当のところは
「朝鮮人を隣りの町、隣りの県へ厄介払いしたかっただけ」
ではなかったのか。

自警団から守るための移送なら、
自警団に警護させて移送すること自体が理解できないし、
さらに徒歩による移送は朝鮮人を危険な自警団、民衆の前へ
無防備に長時間に渡ってさらすことになる。

移送するとしても県外のどこへ移送しようとしていたのか、
最終目的地もはっきりしていないのである。

長野県とも新潟県とも言われているが、決定的な資料も発見されていない。

震災後の聞き取り調査では
「前橋の刑務所へ送ると聞いていた」
との証言もあるが情報の出所はわからない。

埼玉県警は
「最終目的地はともかく、当面は群馬県の高崎の連隊への保護移送を考えた」
と推理するのが普通である。

そこで自警団による町送りは群馬への道である中山道を
北へ辿ることになったのではないか。

埼玉県や埼玉県警が、政府、軍、群馬県や高崎連隊と
緊密な連絡を取り合った上で、当面の群馬への移送をしていた、
との資料も残っていない。

震災後の証言や聞き取り調査からの判断でも、
当時護送する警官や自警団にもよく理解できていなかったようである。

移送される朝鮮人には警察の護衛がついていたが、
その護衛警官たちが朝鮮人の移送先、受け入れ、移送後の処遇などについて
正確に説明した形跡は全くない。

自警団に狩り出された人、暴行した民衆たちの証言にも
それを伺わせるものもないのである。

そのように県・県警のはっきりしない方針自体が、
警察官、自警団員、群や町村当局、県民を
より混乱させる一因となったことは否めない。


川口・蕨からの出発
川口は東京との県境であり、揺れも大きく、
県南の被害は川口町、粕壁町(現・春日部市)、幸手町などでは
死者を含むかなりの被害があった。

川口は吉永小百合の映画「キューポラのある街」で知られるように
鋳物の町で、キューポラは鋳物工場の炉のことをいう。

鋳物工場には普段は鉄を溶かすための高温の炉が燃えているが、
たまたま震災当日(9月1日)は、
慣例的に川口の鋳物工場の一斉休業日で炉の火は落とされていた。

中小規模の鋳物工場の多くが倒壊(全壊293棟、半壊23棟)したが
火災は発生しなかった。

もし高温の炉の火が普段のように燃え盛っていたら、
火災が首都の悲劇を再現し被害を拡大していたことは間違いない。

川口は明治末期にはすでに150軒の鋳物工場が稼動し、
その劣悪な灼熱の中で働く労働者を必要としており、
そのほとんどが沖縄出身者や北海道アイヌ部落出身者、
朝鮮人労働者で占められていた。

故国の詐取的な土地調査によって、住み慣れた国を離れた朝鮮人は、
埼玉県においても多くの中小の工場労働者として職を得ていた。

後の第二次大戦期、軍需産業である鋳物工場を支えたのは
朝鮮人労働者であった。

映画「キューポラのある街」は、
そのような朝鮮人が戦後、北朝鮮へ帰る『北朝鮮帰国事業』が
ストーリーが柱になっている。


「 9月1日の話ですが…
  夜10時頃になって在郷軍人が騒いでいるというので
  警察から迎えがきた。
  …警察の門を入ったら巡査部長が『君は朝鮮人か』というので
  『そうだ』と答えると、『すぐに2階へ上がれ』とのことだった。」
という証言から、川口警察署は、管内の朝鮮人に対して
震災当日にいち早く保護収容に動いていたことがわかる。

9月3日、午後2時に川口警察署は消防組、在郷軍人の力を借り、
保護収容していた朝鮮人約160名を蕨町へ移送、終結させた。

川口でいろいろなかたちで保護拘束された朝鮮人は、
江戸時代の5街道の1つである「中仙道」の
埼玉県最初の宿であった蕨で合流させられた。

蕨に集められた朝鮮人たちは、北に向かって駅伝、町送りにさせられる。
(「駅」とは街道の宿場を意味するが、
   この場合の「駅伝」は町、村送りのこと)

武器を持った自警団が周囲を固めて、
次々に伝達、送致し県外に送り出そうとしたのである。

送る人間(自警団員)は、
担当(自分の居住する地域)する町、村、字を出るまで
送るだけだから、送るほうは早く嫌な、面倒な、危険な役割から
開放されたく、
「早く家へ帰っていっぺいやるべェ」
と、勢い朝鮮人を休ませずに急がせた。

護衛の警官も付いてはいたが、
装備と人数において自警団に圧倒的に劣っていた。

中仙道の宿は、埼玉県内最初の蕨を出ると
浦和、大宮、上尾、鴻巣、熊谷、深谷、本庄と続いた。

9月の初めであり残暑厳しい中の行進でもあり、
また行く先への不安もあり朝鮮人たちは精神的、肉体的に
極限状態まで追い詰められ、途中で何人かが逃亡を図った。

「情報がない」という点では自警団も朝鮮人と同じであり、
自警団からすると
「何か悪い事をしたから逃げるのだろう」
「逃げた先でどんな悪事を働くかわからない」
「逃がした責任を問われると困る」
ということになり、「絶対に逃がすまい」ということになる。

もはや冷静な論理の通じない場になっていた。

逃げる朝鮮人と追う地理に詳しい地元の自警団、
疲れきって地理にうとい朝鮮人が武装自警団にかなうはずもなく、
逃亡した者はことごとく捕えられ虐殺されることになる。

拘束された朝鮮人の全てが駅伝で中山道を北上して虐殺された訳ではなく、
一般避難民と一緒に蕨あたりから自動車で大宮まで送られ、
或いは徒歩で大宮まで避難してきて、
それから東北線に乗車し宇都宮に収容されたグループも
あったと言われているが、資料がなく詳細は不明である。


大宮
町送りされた朝鮮人は、9月3日の夜には大宮町
(後の大宮市、現・浦和市と合併して「さいたま市」)を
約180人と約190人の集団が別々に通過している。

浦和寄りの片柳村(後に大宮市に編入)で
朝鮮人が1人逃亡したが逃げ切れず、全身を竹槍、日本刀で傷つけられ、
医師の手当てを受けたが死亡している。

染谷という地区の常泉寺には「空朝露如幻禅定門位」という
戒名の墓が建てられた。
(朝露の如きはかない人生、朝は「朝鮮」の朝、とも解釈できる)

当時、自警団や民衆は戒厳令下なので朝鮮人を捕えれば
「金鵄勲章」が貰えると思い込んでいた。

「金鵄勲章」は、階級に関係なく軍功抜群の「陸海軍兵士」に
贈られるものであって、また終身年金も付いていた。

一般兵士憧れの勲章であった。

自警団員は、軍人ではない一般人組織なのに、
その勲章を貰えると確信していた。

つまり「今は戦時体制なのだ」と錯覚していた。

戦時と思っているので殺している側に罪の意識がないのである。

後の法廷での陳述では、むしろ
「恩給を貰えるもの」
と勘違いしていた者もかなりいた。


桶川
現在のJR高崎線では大宮を出ると宮原、上尾、北上尾、桶川と続く。

その桶川では9月3日午後3時ごろ、
町送りの一団から逃亡した朝鮮人が3,4人現れて住民に襲撃され、
検死もされず火葬されている。

1人は桶川駅に近い現在の朝日1丁目あたりで殺害されたらしい。

「 朝鮮服の人3人が中仙道で捕まり、「鳶口」で頭を割られ、
  旧避病院へ収容され、「アイゴー、アイゴー」と叫んでいた。
  その中で一番重傷の人が逃げ出し消防の鐘がジャンジャン鳴り、
  近くの畑まで逃れて発見され、
  高崎線西側の中川製袋の畠の中で惨殺されたが、
  検死前に火葬場で火葬にしてしまった。」
                       (震災後の聞き取り調査)

高崎線ではさらに桶川、北本、鴻巣と駅が続く。

9月4日朝には鴻巣を約130人が通過との証言があるが、
移送に当たった自警団の人も、人数についてはまちまちに答えており、
町送り、村送りと言いながら、
「当初から人数は把握していなかった」
というのが本当のところで、かなりいい加減なものだった。


吹上
9月4日午前中に鴻巣の隣の小谷村(現・吹上町)を、
最初人数を特定できない多数の集団が、次に約130人が通過している。

同日午前11時に、移送された集団は吹上町の国鉄・吹上町へ到着する。

鴻巣以降の現在のJRの駅は、
北鴻巣、吹上、行田、熊谷、篭原、深谷、岡部、本庄、神保原と続く。

蕨を出発して吹上駅到着までは約20時間かかっている。

蕨から吹上駅までの行程は約40kmなので、
単純に1時間で2q歩いたことになる。

成人の歩速は1時間4kmが普通なので、
途中の引継ぎ、距離、逃亡騒ぎ、子供や赤子を背負った女性を含む
人数の多さ等の条件を考慮すると、道中睡眠時間はもちろん、
休憩らしい休憩もなしに40kmの距離を
20時間歩き通しという相当の強行軍であった。

吹上駅で警察は列車に乗せようとするが、
屋根までスシ詰めの大混雑の列車であり、
また、朝鮮人が暴動を起こし、強盗、強姦を働いているという
流言を運んでいる被災者が乗客であり、
そんな列車に朝鮮人を乗せることは不可能だった。

「 行き違う下りの列車には、汚れ果て、あるいは興奮しきった
  避難者たちが満載されていた。
  停車場でこちらの列車とそちらの列車とでの性急な問答ときたら、
  実に悲愴を極めたものだった。
   『おや!その列車には朝鮮人がいるじゃねえか?
    引き摺り下ろしてぶっ殺してしまえ!
    叩っ殺せ!
    奴等のために東京は焼かれたんだ』
   『叩っ殺せ!叩っ殺せ!』
  これらの言葉を聞きながら、
  私の心はだんだん憂うつのどん底に落ちて行くのだった。」
      (現代史の会編「ドキュメント関東大震災」草風館、1993年)

完全に秘密裏に鉄道輸送ができれば、
効率的でより安全な移送ができたはずだが、
吹上で警察がやろうとしたことは単なる思い付きで計画性がなく、
混乱を大きくしただけであった。

結局、吹上駅では列車に乗れず、
朝鮮人は自警団に周りを囲まれて、
再び歩いて熊谷方面に駅伝、町送りされることになった。


久下村・佐谷田村
吹上駅からしばらく歩くと久下村(現在は熊谷市に編入)に入る。

久下村に引き継がれてすぐに、逃亡した朝鮮人の1人が鳶口で襲われている。

朝鮮人の治療や病院への移送、逃亡を企てた朝鮮人の人数などの
証言はなく、闇から闇へ葬られている。

逃亡騒ぎの後、村内の大曲で一時休憩、
そこで約半数の朝鮮人は小型トラックに乗せられ
熊谷方面に向かったとの証言がある。

乗れずに残った者は再び歩かされることになった。

民衆の自警団は「袖がらみ」
(捕り物映画で見かける長い棒の先に短い鉄の枝が
 無数に出ている捕り物道具。
 この頃の農村には十手などの捕り物道具が残されていた)
さえ持っていた。

その他には、
・つるはし、
・日本刀、
・槍
などで武装しており、
それらの武器で朝鮮人たちは小突き回されていたらしく、
頭や背中などから血を流している者もいたという。

残暑厳しい時期で、疲労と恐怖からくる絶望的極限状態の中で、
ここでも1人の朝鮮人が逃げ、よどんだ元荒川に(発作的に)飛び込んだ。

名前こそ元荒川だが、荒川のような大きな川ではなく、
すぐに引き寄せられた。

このような時のための「袖がらみ」であった。

捕まった朝鮮人の頭には、残酷にも「つるはし」が打ち込まれた。

「 朝鮮人は元荒川に飛び込みました。
  …水の中でずいぶん苦しんで我慢していたようですが、
  土手に引き寄せられたと思うと、
  また水の中にしゃがんでしまいました。
  そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、
  それを脳天にブッ刺し、引き寄せたのです。
  血と脳しょうが噴き出した。
  脳天から四筋も六筋も血が流れ、
  口の中へ入って行くのがまのあたりに見えました。」
                     (震災後の聞き取り調査)

その後に3、4人が逃げ、またその後にも数人が逃げた。

逃げた者は全て「鳶口」や「つるはし」で殺されたと言われている。

他にも殺されている。

「鳶口」、「つるはし」を打ち込まれた正確な人数はわかっていないが、
殺された証言からの推測では約6〜8人にもなる。

殺された者は日射病で死んだことにされ、
地域の医王寺に埋葬されたという。

さらに久下で逃げた朝鮮人の1人は、
荒川の荊原(ばらはら)の堰(せき)あたりで
捕まって暴行を受けたらしい。

久下村ではそのように途中の逃亡で何人かが殺され、
次の佐谷田村(現・熊谷市に編入)に引き継がれる。

佐谷田村の自警団に引き継がれる時に
また何人かがフォードT型の小型トラック2台に乗せられたらしい。

これも熊谷方面へ走り去ったが、
本庄、神保原あたりで民衆にこれらのトラックが襲撃されることになる。

この佐谷田村でも1人が逃げようとして殺され、
近くの大雷神社の墓地に埋葬された。
posted by RIUさん at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その3

関東大震災における朝鮮人虐殺では、埼玉での殺りく
(主に中仙道を川口・大宮・上尾・桶川・熊谷と捕縛して歩かせ、
主に熊谷で民衆に惨殺される)
が有名なのですが、これは明日に回します。


自警団・民衆による虐殺

自警団の結成
・ 自分たちの住んでいる町や村を自分たちで守るのは、
封建時代からのわが国の伝統であり、
各地で自警団は自然発生的に結成されていた。

・ 関東大震災の時の自警団は、必ずしも朝鮮人を意識して
朝鮮人から地域や日本人の生命・財産を守ろうとして
結成されたのではない。

「火事場泥棒」は昔から世の常であり、
その火事場泥棒からの自衛、新たな火災や余震の警戒などから
素朴な必要性から、昔からの例にならって
自然発生的に自警団は結成されたのである。

・ テレビの捕り物帖ドラマに「自身番」が出てくるが、
これはお上の治安維持機関である町奉行所のものではなく、
町役人(役人といってもお上の役人ではなく、
町人の中から選ばれたもの)の管理する町住民の自衛組織であった。

・ 自身番は制度化され常設となったが、何か異変が起こった時、
臨時に自警団や自衛隊が結成されることもあった。

例:幕末近くの1866年(慶応2年)の「世直し一揆」、
1884年(明治17年)の「秩父事件」等で各地で、
刀、槍、猟銃、竹槍などで武装した自警団・自衛隊が結成されている。

・ 東京牛込で方面委員をしていて救護事業に従事していた人の話
「 …牛込、西谷、小石川あたりの人々には
『今夜あたりドサクサに紛れて盗賊が横行するかもしれない』
『放火がありはしないだろうか』
との疑ひが浮かんだ。
地震の恐ろしさに、どこの家でも家族はことごとく
戸外に避難していたので盗賊や放火は想像するに難くなかった。
そこで期せずして心ある人々は町の出入り口に出張して
警護の任にあたった。
町会や青年団の成立している町では、
それらの幹部が夜警を奨めたのであったが、
そういう機関のない所では、全く誰の布令もなかったので、
自発的に起こったのであった。」
                  (「太陽」博文館、1923年10月号)


自警団の変質
・ 東京牛込で方面委員をしていて救護事業に従事していた人の話(続き)
  「9月1日(震災当日)の夜は、単に夜警に留まっていたが、
   2日の夜になると、不逞朝鮮人の行動に関するいろいろの
   流言が勢力を得てきた。」

・ 別の人の話
  「警察力のない当夜の市内も非難の大混雑にも関わらず、
   各自が自制して秩序は少しも乱れてはいなかった。
   他人を助ける余力はなくも他人の迷惑になるようなことは
   少しもしなかった。
   しかるに私の離京後すなわち翌2日から3日にかけて
   戒厳令を布かねばならぬほどの形勢に悪化したのは、
   一には飢餓が迫ってきたのと、二には流言蛮語の結果であった。」
     (『女性』加藤直士「関東震災から得た経験と感想」プラトン社、
                         1923年10月号)
・ 以上2つの証言から、社会を不安が覆っているなか、
  流言と飢餓がセットになって人々を、自警団を変質させたが、
  単純な自然発生ではなく警察などの官憲が深く関わっていた。

・ 新聞記事の例
 「心ある者は胸に手を当てて考えよ。
  災害の当時彼ら我らに告げて“某方面より襲来あり。
  男子は武装せよ。
  女子は避難せよ。
  朝鮮人と見れば倒しても差し支えない。
  社会主義者と判らば殴ってもよい。
  彼らは凶器をたずさえて至る所に殺人強盗陵辱放火投毒など
  あらゆる悪事を働いている”とふれ回ったのは何者であったか。
  …直接我らに伝えた者は正しく詰襟の○○官人であった。」
                  (報知新聞、1923年10月23日)


「15円50銭」の識別法
・ 朝鮮人は平音文頭の濁音が発音しにくく
  「チュウゴエンコチュッセン」
  と発音するので、15円50銭が発音できず、
  朝鮮人と見なされたらその場で直ちに検束され、
  暴虐の限りの暴行を受け、その場で殺害された者も少なくなかった。
・ 「15円50銭」だけでなく
  「教育勅語の暗誦」
  「歴代天皇の名前」
  「ザジズゼゾ」
  「ガギグゲゴ」
  「君が代」
  「いろはカルタ」
  を言わされたこともあった。

・ 「座布団」を「サフトン」、
  「学校」を「カッコウ」
   と発音したら朝鮮人とされた。


街角の検問
・ 銀行マンの震災日記から
  「 私が恰度公園の出口の広場へ出たときであった。
   群集は棒切れなどを振りかざして喧嘩でもあるかのような塩梅である。
   獲物を持たぬ人は道端の棒切れを拾ってきて振り回している。
   近づいてみると、1人の肥えた浴衣を着た男を大勢の人が
   『殺せ』と言って殴っているのであった。
   群集の口から『朝鮮人だ』という声が聞こえた。
   『巡査に渡さずに殴り殺してしまえ』
  という激昂した声も聞こえた」

  「 上野に近づいて来ると、だんだんと人通りも多くなった。
   その中を水溜りを飛び々に歩いていると、
   黒門町辺と思うところで突然検問された。
   40がらみの肥った男たちが3人、
   道路の真ん中に突っ立って『貴様はどこへ行く』と言った」

  「 美術学校の前を通って、谷中の通りに出る所には、
   青年団とか在郷軍人とか言った人たちが私たちのために警戒して居た。
   それは両人で縄を張って、1人1人検問して通すのであった」

  「 墓地通りの中ほどに警備員たちが5,6人皆提灯を手に々持って
   物々しく堅めている。近づいてみると抜刀しているのであった」
             (染川藍泉「震災日記」日本評論社、1981年)


民間の武器
・ 「豊臣秀吉の刀狩以後、農民から刀は取上げられた」
   というのは正確ではない教科書的説明である。

・ 実際には関東では刀狩はさほど徹底されず、
  江戸期でも民間や農村に刀などの武器はかなりあったし、
  剣術も盛んに行なわれていた。

・ 幕末・新撰組の近藤勇や土方歳三を生んだ多摩の天然理心流、
  『大菩薩峠』の机龍之介が使った秩父山塊の甲源一刀流、
  馬庭念流など、いずれも農村の百姓剣術であった。
  庶民の中から刀が消えるのは、太平洋戦争の武器・金物の供出である。

・ 震災当時は警察官の拳銃携行が認められていない時代であった。

  当時の警察は人数だけでなく、武器においても
  しばしば自警団に劣っていた。

  拳銃の携行が定められたのは震災翌月であり、
  この震災時において警官が武器に於いて自警団に劣っていたのを
  痛感したしたことが拳銃の標準配備を急がせたことは明白である。

・ 自警団は武装集団であった。

  鳶口のような武器は、本来は凶器ではなく破壊消防の道具である。

  しかし日本刀や猟銃に至っては殺傷を目的とした凶器であり、
  殺人・傷害以外に使い道のない道具である。

  自警団が所持していた武器の種類からして、
  武装自警団は明らかに朝鮮人を襲うことを念頭に置いたものだった。

・ 震災の年の9月1日から30日までに警視庁が押収した武器は、
  金棒692、日本刀390、焼刀身197、仕込み杖91、
  七首71、猟銃19、拳銃18など。
  もちろん押収した武器はほんの一部にすぎない。

・ 神奈川県小田原では真鶴から先の熱海線(現・東海道線)の
  工事をしていたが、その工事用ダイナマイトを
  持ち出した自警団もあった。

  武器から言ってもこれはもはや「自警」ではなく、
  「自らが暴動集団」と言わざるを得ない。

・ 9月2日世田谷方面で警察署員が朝鮮人2名を保護護送中、
  40人くらいの自警団に襲われた。
  自警団は警察の言うことに聞く耳持たず、
  朝鮮人1人が猟銃で射殺されている。


自警を超えた殺し方
・ 朝鮮人の回想
  「 私は1923年8月20日、日本観光の目的で
   15名の同僚と共に下関に上陸しました。
   …私たち15人のほとんどが日本語を知りません。
   …武装した自警団は朝鮮人を見つけると、
   その場で日本刀を振り下ろし、
   又は鳶口で突き刺して虐殺しました。」
     (朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』
                   槙昌範「無数の傷跡」1963年)

・ 検束して、「危険な奴だから」と警察に引き渡すのではなく、
  自警団だけで判断・処理し、有無をも言わせない殺りくが多かった。

  また、殺人凶器で殺すのと違い、鳶口などによる殺人では
  簡単には殺せず見た目の残虐性があり、
  それが民衆の狂気にさらに拍車をかけ、狂気が狂気を増幅させていた。

・ 朝鮮人の回想
  「 自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して
   狼の群れの如くに東西南北より集まり来たり、
   1人の我が同胞に対し数十人の倭奴(日本人)が取り巻きつつ
   剣にて刺し、銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、
   死せしものの首を縛り引きずりつつ、なおも刺し、蹴りつつし、
   死体までも陵辱を加えたり、
   婦人等を見れば両股より左右の足を引っ張り生殖器を剣にて刺し、
   一身を四分五裂にしつつ、女子はいかにして殺すこと妙味ありと
   笑いつつ談話せり…身体を電信柱に縛りつけ、
   まず眼球をえぐり、鼻をそぎ落とし、
   その哀痛の光景を充分眺めた上,
   腹を刺してじわじわ殺したるものあり…。」
       (姜徳相・他編「現代史資料・6」みすず書房、1963年)

  「 まだ若いらしい女が腹を裂かれ、
   六、七ヶ月になろうかと思われる胎児が
   はらわたの中に転がっていた。
   その女の陰部にはぐさりと竹槍が刺してあった。」
       (姜徳相・他編「現代史資料・6」
           田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、1963年)


屈折した心
・ 自警団員の中には、もはや自警を超えて、
  虐殺、無抵抗な朝鮮人いじめを楽しむ者さえ出てきた。

  残虐な殺し方は、社会的に抑圧されていた者が、
  その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである。

・ 朝鮮人労働者はその低賃金での使いやすさから、
  日本人の底辺労働者の労働を奪う現実もあった。

  日本人の底辺労働者も朝鮮人も追い詰めているのは
  共通の“資本家”であるが、
  日本人の底辺労働者は本当の敵を見極めることが出来ず、
  ひたすら朝鮮人を怨んでいた。

・ 大震災の混乱の時は、
  その屈折した心のうっぷんを晴らす絶好のチャンスだった。

  自警の名目、日本人を守る、地域を守る、という大義で、
  大っぴらに白昼堂々朝鮮人を痛めつける機会ができたのだった。

・ 作者不明の川柳
   「 今夜もと 夜警は無事を 口惜しがり 
            (「現代」大日本雄弁会講談社、1923年11月号)

・ 攻撃対象者を探し回る
  「 避難者の右往左往する大通りを、
   ねずみ色の小倉服を着た17,8歳の少年朝鮮人が、
   在郷軍人の微章をつけた男に引っ張られて行く。
     『私、怪しい者ではありません、
      おやじと一緒に神田の家を焼け出された商人です』
   と少年は真槍な、恐怖に満ちた顔をして、上手な日本語で弁明した。
   在郷軍人はただ少年の袖を握っているばかりだが、
   後からぞろぞろついて行く群衆が気勢を上げてなじり飛ばし、
   一旦すれ違って行過ぎた男も、それが朝鮮人だと聞くと、
   わざわざ引き返して血だらけの少年を殴りつける…」
       (「文章倶楽部」細田民樹「運命の醜さ」
                     新潮社、1923年10月号)

  危険な朝鮮人ではない、ということを充分承知の上での暴虐であり、
  自分たちのストレスの発散を求めた、
  完全な弱いものいじめになっており、
  無抵抗者への殺りくが目的となっていた。
  そして暴行し、虐殺していたのである。

・ やがて自警はどうでもよくなり、
  「対象は無抵抗で弱く、安全に攻撃できる、
   確実に自分より弱いものであれば良い」
  ということになり、
  そうなると攻撃対象は見つけにくい限定された少数の朝鮮人でなくても、
  心の屈折をぶつけられる者であれば、もはや日本人の弱者まで広がった。

  そして
  「私の隣りの部落の夜警は、附近の原っぱに寝ていた白痴を
   日本刀で滅多切りに切り刻み、朝鮮人だと言って警官に渡した」
         (「文章倶楽部」細田民樹「運命の醜さ」
                      新潮社、1923年10月号)        という事件まで起きるようになった。


官憲による虐殺
・ 官憲による朝鮮人虐殺は、事件を闇の中に葬り去ろうとして
  資料も少なく今だに明確な責任の所在、追及もなされていないが、
  亀戸近くの軍による虐殺の事例を記載する。

  「 25,6歳の青年が憲兵と自警団に追い詰められて捕えられた。
   その青年は無残にも頭を打ち抜かれて殺された」
     (『労働運動史研究・37号』湊七良「その日の江東地区」
                     労働運動研究所、1992年)
  「 旧四ツ木橋の下流土手下で、軍が機関銃で殺した。
    一梃か二梃の機関銃であっという間に殺した。みんな見ていたんだ」

  「一個小隊くらい、つまり20〜30人くらい居たね。
   2列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ」
     (関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編
       『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会、1992年)


亀戸事件
・ 川合義虎、吉村浩治、平沢計七など
  南葛労働会、純労働者組合員9名、砂町本島の自警団員など数名を、
  戒厳令出動中の騎兵第13連隊が秘密裏に虐殺したもので、
  労働組合の活動家を軍が殺したのは最初にして最後の事件。

  事件後、「殺害は軍の行動として正当なもの」とされ、
  責任は不問にされている。

・ 川合義虎は日本共産青年同盟(現・民主青年同盟)の初代委員長。

・ 吉村浩治の長兄は
  後に国策パルプ専務からヤクルト会長になる南 喜一。

・ 平沢計七は友愛会生え抜きの労働者で、
  元出版部長(彼が出版部員をしていた頃の出版部長は野坂参三)。

  平沢計七の34歳を除けば皆十代、二十代の若者達であった。

・ 渋沢栄一(民族浄化運動の闘士)『天譴(てんけん)論』
  「大戦景気以来国民は贅沢に流れ、危険思想が横行しているので、
   関東大震災は日本国民に対する天の戒めである」
  というもの。

  天譴(てんけん)による危険思想(戦闘的な労働運動家)の
  抹殺意図が渋沢たち資本家の中にあり、
  それが亀戸で闇の中で実行され、闇から闇に葬られた。

  渋沢はまた、ハンセン病患者を徹底的に隔離・排除した
  民族浄化思想の牽引車だった。

  『天譴(てんけん)論』は、オウム真理教の論理と似ている。

  「 サリン製造の証拠をどんなに突き詰められても、
   私はオウム真理教を責める気になりません。
   今まで日本は平和でした。
   余りに平和すぎて、日本人は平和というものを当り前に
   感じ始めていました。
   いつの間にか、平和なんていうものを感じなくなったのです。
   今回の事件(サリン散布大量殺人事件)は
   そんな日本人への警告だと思っています。 」
            (オウム在家信者発行「真実を訴える会」10号)

  という身勝手な思想と全く同じであり、
  虐殺積極肯定論として強く批判しなければならない。


大杉事件
・ 震災の混乱に乗じて、
  官憲がアナーキスト・大杉 栄、妻・伊藤野枝、
  大杉の甥でまだ幼かった橘 栄一の3名を憲兵が虐殺した事件。

・ 軍法会議で甘粕正彦憲兵大尉は懲役10年、森曹長は懲役3年、
  平井伍長と鴨志田・誉田上等兵は無罪となった。

・ 甘粕正彦は千葉刑務所に3年間服役した後、
  仮釈放されフランスへ渡る。

  渡仏後1930年(昭和5年)に満州へ。

  満州国建国後は要職に就くが、
  退官して満州映画会社の理事長になり、満州財政界で権勢を振るった。

  1945年(昭和20年)8月20日、
  日本の敗戦を見届けて服毒自殺。

・ 1931年(昭和6年)11月10日、
  満州国執政になるラストエンペラー・愛新覚羅溥儀が
  天津から逃れて栄口に上陸する。溥儀は大漢民族皇帝末裔として
  大観衆に大歓声で迎えられるものと思っていたが
  、出迎えたのは少数の日本人だけだった。

  この日本人を率いていたのが
  満州国を裏から操った甘粕正彦であった。

  甘粕正彦は、その経歴からして
  軍や政治家の後ろ盾があったことは明白である。


殺害された朝鮮人の数
・ 殺害された朝鮮人の正確な数は現在に至るまでわかっていない。

・ 内務省警保局の調査報告では、
  朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人となっている。

  この数字の少なさは虐殺された者の実数の調査が主目的ではなく、
  刑事手続きに乗せる事を前提にした調査であるから、と思われる。

・ より実態に近いと考えられる独立新聞による調査(金承学が中心)は
  下記の通りである。
  東京都  1347人
  神奈川県 4106人
  埼玉県   588人
  千葉県   324人
  栃木県     8人
  茨城県     5人
  群馬県    37人
 合計    6415人
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2005年09月02日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その2

日本の朝鮮政策

・ 神功皇后の三韓侵略(=当時の教育は「朝鮮征伐」)
3世紀の頃、神功皇后は神の啓示を受けて新羅征伐に向かったものの、
新羅の王は“日本”は神国だから対抗できないとして
日本に服従したとされている。
そして当時韓半島にあった、新羅、高句麗、百済を従えた、と
『日本書紀』に書かれているが、3世紀というのは弥生時代にあたり、
豪族たちが諸国に別れ争っていた時代で、大和政権のできる前なので、
ウソっぽい話である。

・ 豊臣秀吉の朝鮮侵略(=「朝鮮征伐」)
平和色濃い朝鮮に対し、
「中国(明)を攻めたいから朝鮮はその道案内をせよ」
という要求を突きつけて、
断られると一方的に乱入し、破壊の限りを尽くした。

「恨500年(ハン・オーペクニョン)」
秀吉の朝鮮侵略から現在に至るまでの
日本人が朝鮮人に恨まれている歴史のことをいう。

 京都市東山区の秀吉を祀った豊国神社の向かいの「耳塚」
 秀吉の朝鮮侵略で無差別に切り取ってきた10万人を超える朝鮮人の
 耳や鼻を切り落とし、塩漬けされ樽に詰めて埋めたとされる“塚”


伊藤博文は日本の初代首相であり、明治憲法の制定に尽力し、
日本を近代国家に導いた功労者として、
日本近代史には最重要人物の1人だが、
明治42年、中国黒龍江省のハルビン駅頭で
朝鮮人テロリスト安重根(アン・ジュングン)によって暗殺されてしまう。

日本側から見れば伊藤博文は悲劇の宰相、
安重根は殺害犯人、テロリストということになるが、
韓国ではこの安重根は国民的英雄である。

安重根の裁判は全て日本側で行なわれ、
わずか5ヶ月の審理で死刑に処せられている。

その安重根は裁判において伊藤を暗殺の対象に選んだ理由として
15項目を挙げている。

その第1番目の理由は、1895年10月の
「高宗の正后閔妃(みんひ)暗殺」
の首謀者というものだった。

閔妃暗殺事件当時、伊藤は日本の首相だった。

そのほか韓国に不利な条約を強要したり、韓国の人民の権利を奪った。

韓国の学校で使っていた教科書を焼却させた、などの理由が挙げられていた。

一部に誤解もあるが、韓国側から見れば
伊藤博文は暗殺されて当然の人物であった。

安重根に暗殺された「伊藤博文」は、
千円札の紙幣の肖像に用いられていた(現在は野口英世)が、
朝鮮侵略のシンボルが近代国家の象徴である紙幣の肖像と
なっているところに、日本と朝鮮の二国関係がよく示されている。

 ※ 日本による朝鮮の植民地化を苦々しく見ていた歌人・石川啄木の歌
   「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」

 ※ 韓国併合(1910年)によって、
   朝鮮は、初めて異民族支配を受けることとなり、
   以来、太平洋戦争終戦までの36年間、
   日本の植民地支配下に置かれる暗黒時代を迎えた。


朝鮮植民地化による土地の詐取

1910年(明治43年)より1918年(大正7年)にかけて、日本政府は
「朝鮮に於いては近代的な土地所有権制度が確立されていない」
という大義名分で大規模な土地調査を行なった。

調査は土地の利用者に所有権を届けさせるものであった。

届出がなかったり、所有権があいまいな土地は、
指導や仲裁をして実際の耕作者の権利関係をはっきりさせたのであれば、
それなりに土地制度の近代化に役立ったかもしれないが、
「真の目的は土地没収」にあった。

日本政府は届出のなかった広大な土地を所有権者がいないものとして
朝鮮人耕作者から強制的に土地を取上げてしまった。

識字率の低かった朝鮮にあっては、
ほとんどの朝鮮人耕作者には所有権の意味、届出や、
まして届出しなかったことによる罰則の意味が全く理解されておらず、
そのために届出されなかった土地が多かった。

届出がなかった土地は所有権者がいない土地とされ、
詐欺的に耕作者などから取上げられ、日本関係の土地とされた。

それまでの朝鮮における土地利用の慣行を全く無視するものであった。

土地を奪われた朝鮮人は働く手段を奪われたため、
やむなく住み慣れた土地を離れ、生活のための職を求め、
北部の者は主に満州へ流れ、南部の者は多くは日本に入って来た。

土地調査で多くの朝鮮人たちが土地を奪われ、日本にやってくる数が激増する。

1919年(大正8年)、   2324人
1920年(大正9年)、    212人
1921年(大正10年)、  9394人
1922年(大正11年)、2万4136人
1923年(大正12年)、4万6489人
 …
1930年(昭和5年)、41万755人

震災時(1923年、大正12年)の正確な数字は不明も
少なくとも8万人以上が住んでいたと推察される。

そのうち東京には学生3千人、労働者6千人が居住していたと思われる。

土地を奪われた者は、土地調査の意味がよくわからない、
文字の書けない下層農民がほとんどであった。

したがって日本に流入してきた朝鮮人の大半は、
流入の経緯からして下層の識字できない者が多く、
そのような流入階層も差別を一層激しいものとする一因となっている。

そのような経緯で来日した朝鮮人たちは、
知らないうちに土地を奪われ、住み慣れた土地から離され、
異国である日本に来て、そこで激しい民族差別、
同時に貧困による差別を受けたのであり、
「日本を恨まないはずがない。程度の差はあれ、
    日本に対して何らかの恨みを持っている」
と、多くの日本人、特に支配層の日本人が考えていた。


朝鮮人への徹底した差別
日本へ流入せざるを得なかった理由が日本の侵略的朝鮮統治にあり、
さらに流入してきた朝鮮人は、日本に来てからも不条理なさまざまな差別、
不利益取扱いを受け、それは被差別部落に対する扱いよりも
ひどいものだった。

朝鮮人労働者の賃金は、
最下層の日本人労働者
(被差別部落や沖縄出身者、北海道アイヌ部族出身者など)
の賃金の5〜7割であった。

それが朝鮮人1人1人の反日感情となっているか否かは別として、
差別し不利益な取扱いをしていた日本人は恨まれるようなことを
し続けてきたことをよく知っており、
そのために朝鮮人の反撃を恐れる心理を持つようになっていた。

朝鮮人は日本人の強い差別のため日本社会に受け入れられず、
また経済的生活習慣的、文化的理由から
日本人社会に同居・同化できなかったため、
朝鮮人は同胞が集団を作り、
居住環境の悪いところに集住せざるを得なかった。

当時、差別されていた人の居住地として、
スラム、沖縄出身者居住地域(川崎付近)、
被差別部落、朝鮮人居住地域があったが、
朝鮮人居住地域は居住地域の中では最も劣悪なものだった。


震災少し前の、朝鮮人居住区に関する行政調査報告
 「(朝鮮人の)密住地域の家屋は概ね長年月を経たる木造平屋の長屋で
  腐朽頽廃(たいはい)を極めているが、
  あたかもこの種の長屋住まいは、なお上等の部類に属し
  港区および東成区などに散在するバラック、掘立て小屋、
  アンペラ小屋(アンペラ=かやつり草科の多年生草木)、
  鶏舎(鶏小屋を人間用に改装したもの)などにおける
  朝鮮人労働者の群居生活は、
  その環境の醜悪と相まって
  人間生活の最低標準を思わしむるに十分である」
        (大阪市編「本市における朝鮮人住宅問題」1930年)

朝鮮人が生活の必要上集団生活を余儀なくされている中で、
日本人から見ると理解の出来ない不気味な集団に見えていた。

朝鮮人は外見からは日本人と見分けがつかない類似性があるにも関わらず、
生活習慣、文化は大きく異なっており、
その違いが“不気味さ”を一層増幅させていた。
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2005年09月01日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その1

今から92年前の1913年(大正12年)9月1日AM11:58、
関東大震災が発生した。

マグニチュードは7.9と、
1995年(平成7年)の阪神淡路大地震のM7.2より、
はるかに大きいものだった。

震災後のパニック状態の中で、幾多の悲劇が起きたが、
その中に流言・噂に惑わされた一般民衆による朝鮮人虐殺がある。

ここでは、「朝鮮」、「朝鮮人」という用語を、
差別・軽蔑の意味ではなく、
当時の言い方として使用させて頂くことを、ご了解下さい。


震災の状況
皇室被害(倒壊する建物の下敷きによる圧死)
・神奈川県小田原市・閑院宮別邸では、閑院宮寛子女王が圧死
・神奈川県藤沢市・吉村別邸では
東久邇宮(ひがしくにのみや)師正王が圧死
・神奈川県鎌倉市・由比ガ浜別邸では山階宮妃が圧死

神奈川県・平塚市・海軍火薬庫が大爆発し、200人の死傷者が出た。

横浜地方裁判所
レンガ造りの庁舎が完全に崩壊し
裁判長以下、職員、原告、被告、弁護士、検察官など
100余人が全て圧死。
 
横浜中華街
当時「南京町」と呼ばれていたが、5千人の中国人のうち2千人が死亡。

横浜山下公園
当時山下公園はまだなかった。
関東大震災で倒壊したビルや家屋の瓦礫を海に捨てるために
計画され造られた公園で、開園は1930年(昭和5年)になる。

ジーパン、コーラ
関東大震災の支援物資としてアメリカから入り、その後大ブレークした。

東京警視庁
全焼し、管下の警察署も18署が焼失、倒壊した。

焼失倒壊した中央官庁
逓信省、農商務省、内務省、文部省、大蔵省など

首都機能、財政、金融機能は一時完全にSTOP
中央郵便局、株式取引所、多くの銀行も焼失倒壊
三越、白木屋、松屋、松坂屋、高島屋等のデパートが焼失倒壊
国技館、歌舞伎座、帝劇、映画館等も焼失倒壊
ラジオ放送のない時代情報の伝達に最も威力を発揮する電信・電話は
地震と火災で壊滅しており正確な情報が流れなかった。

火災の火元調査(81箇所)
研究所、学校等の薬品33件、ガス6件、油鍋5件…
「木造家屋での昼食準備中の出火」は予想外に少なく、
火災の原因はほとんどが薬品によるものだった。

東京・浅草(当時東京一の盛り場)
当時、東京初の高層建築「凌雲(りょううん)閣」という
12階建ての建物があり、10階までは総レンガ造り、
11・12階は木造8角形建築、頂上には展望室があったが、
震災で8階で折れ(後に工兵隊が爆破)、
「福助足袋」の看板に引っかかった1名を除き全員が即死している。

夜は「12階下の女」「白首」と呼ばれる私娼4千人が、
この建物付近に集まっていた。

震災後、玉の井へ移動した。
文人・永井荷風たちに愛された玉の井の迷路は、
震災で移って来た女たちが無秩序、無計画に
娼家を建てたことによって造られたものである。

遊界・吉原「吉原弁天池の惨」
籠の鳥とされていた遊女の逃げ場は吉原公園、弁天池しかなかった。

男女1000名が200坪(最深部4m)の池に
集中的に飛び込んだため、人の上に人が重なって大勢の溺死者が出た。

吉原公園の死者
   男52名、女435名、性別不詳3名
吉原廓(かく)の死者
   遊女176人が倒壊による圧死、焼死

墨田区 横綱2丁目「横綱町公園」
陸軍被服廠(しょう)跡地2万430坪の空地
(東京市逓信省に払い下げになっており、
運動公園と小学校建設予定地となっていた空地)を最適の避難場所として
約4万人の一般市民が警察の誘導もあり押し寄せた。

早く到着した者から順番で思い思いの場所に家財道具(=可燃物)を
積上げて居住空間を造って行った。

当日は低気圧の影響で発生した風速10〜15mの強風が吹き、
毎時800m以上の速さで町を舐め尽して(東京市内58の大火系)、
燃える物全てを焼き尽くした9月3日未明まで消えなかった。

突風、竜巻、火柱が突如襲い、瞬時にして一斉に燃え上がり、
ここでの死者は3万8015人(=約4万人)

避難者の約5%、2千人は焼け死んだ人の下敷きになって助かっている。

上にあって焼かれた死体から出た油でギトギトになっていた
とも伝えられている。

東京市役所の被害調査(1926年)
東京府  人口405万人、死者・行方不明者7万497人
東京市  人口226万人、死者・行方不明者6万8660人
神奈川県 人口138万人、死者・行方不明者3万1859人
横浜市  人口44万人、 死者・行方不明者2万3335人
千葉県  人口135万人、死者・行方不明者1420人
埼玉県  人口135万人、死者・行方不明者316人
 ※ 被害は、神奈川・東京に集中していることがわかる。
 ※ 死者のうち、85%が焼死

火災発生状況
東京市 全戸数48万3千戸、全焼3万924戸、
    死者・行方不明者6万8660人、重軽傷者2万6268人
横浜市 全戸数9万8900戸、全焼6万2608戸、
    死者・行方不明者2万3335人、重軽傷者1万208人
 ※ 阪神淡路大震災での死者は6432人

新聞の流言・風説報道
・ 河北新報(9月3日付)
  「知事よりは大阪、兵庫に向かひ、食糧の供給方を懇請せり。」
・ 福島民友新聞(9月4日付)
  「歩兵と不逞朝鮮人戦闘を交ゆ。京浜間に於いて衝突す。
     火災に乗じ不逞朝鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣…」
・ 河北新報(9月4日付)
  「爆弾と毒薬を所持する不逞朝鮮人の大集団
   2日夜闇に紛れて市内に侵入、
   警備隊(=自警団)を組織して掃討中…」
・ 北海タイムズ(9月5日付)
  「不逞朝鮮人強暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ。
   彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」
 ※ 流言や誤報ということだけではなく、
   治安に当たる官憲にとって都合の悪い報道は規制を受け、
   これに従わない下記新聞社は発禁にされた。
  「 都新聞、報知新聞、東京日日新聞、常総新聞、労働組合新聞、
                    中央新聞、時事新報など 」



朝鮮人狩り

千田是也(せんだこれや;芸名、本名:伊藤圀光・早稲田大学)という 
新劇の演出と演技をした人が
震災当時千駄ヶ谷で自警団から朝鮮人に間違われ、検問にあった。

朝鮮人かどうかを見極めるため、
「本籍、アイウエオ、教育勅語、歴代天皇の名前…」
を言うよう強要されている。

彼の友人が後に「千駄ヶ谷のコリヤ事件」を文字って芸名を付けた。

ラジオ放送
ラジオ放送は1925年(大正14年)から
NHKが開始するが、震災当時はまだラジオ放送はなかった。

経験したことのない大震災、大火災で不安・恐怖、情報の混乱があり
「知りたいことを知る手段、方法がない」
ことで、不安・恐怖に支配された噂、流言が自然発生した。


噂、流言
噂、流言の種類
・ 大地震再来説
・ 大津波襲来説
・ 富士山大噴火説
・ 受刑者釈放・暴動説
   (町、村ごとに「武装自警団」が結成された)
・ 社会主義者暴動説
   (社会主義者も自警団に加わっていた)
・ 朝鮮人暴動説
 ※ 日本の朝鮮対策から
   「何かあった時は朝鮮人に襲われるのではないか」
   という朝鮮人に後ろめたい恐怖心が日本人の心の中に
   心理的土壌としてあった。

@ 9月1日、大地震のあった日の夕刻に、すでに横浜市本牧町あたりで
  「朝鮮人放火す」との流言が生まれ、
  夜のうちに「朝鮮人強盗す、強姦す」という内容になり、
  さらに「殺人をおかし、井戸その他の飲料水に劇薬を投じている」
  という流言にまで発展した。

A 流言が流言へと連鎖し、内容が具体的になり、誇張され、
  ものすごいスピードで広がって行ったが、
  発生源は横浜だけでなく、いくつもの場所で、あるいは関連し、
  あるいは何の脈絡もなく朝鮮人暴動・犯行の流言が発生し、
   「現実に起きたもの、起きつつあるもの、
     そしてさらに起きる具体的危険のあるものと民衆に信じられた。


・ 現代史の会編「関東大震災」吉野作造著、「朝鮮人虐殺事件」草風館より

「朝鮮人は二百十日から二百二十日までの間に、
 帝都を中心として暴動を行なう計画をしていたが、
 たまたま大地震が起こったので、その秩序の混乱に乗じて、
 かねての計画を実行したのである。
 すなわち彼らは、東京、横浜、横須賀、鎌倉等震災地に於いて、
 略奪、虐殺、放火、強姦、毒物投入等あらゆる凶行を行なって、
 六連発銃、白刃をもって隊伍堂々各地を荒らしたのである。
 震災当時の火災がかくの如く大きくなったのも彼らの仕業で、
 隊を組みて震災地を襲ひ、首領が真っ先になって家屋に印を付けると、
 その手下の者が後から、あるいは爆弾を投じ、あるいは石油にて放火し、
 又は井戸に毒物を投入して回ったのである。
 …かくの如き暴動・凶行は朝鮮人のみのくわだてにあらずして、
 社会主義者や露国過激派とも関係がある。」


・流言の具体的例
@ 朝鮮人約二百名、神奈川寺尾方面の部落に於いて、
  殺傷、略奪、放火等を続け、次に東京方面に襲来しつつあり。

A 朝鮮人三千人すでに多摩川を渡りて洗足および中延附近に来襲し、
  今や住民と闘争中なり。

B 横浜方面に於ける襲来せる朝鮮人は、
  六郷河畔に於いて軍隊に阻止せられたため、
  一転して矢口方面に向かえリ。

C 原町田を襲える朝鮮人二百名は、さらに相原、片倉の両村を侵し、
  農家を掠め、婦女を殺害せり。

D 朝鮮人目黒火薬庫を襲えリ。

E 戸塚方面より多数の民衆に追われたる朝鮮人某は、
  大塚電車終点附近の井戸に毒物を投入せり。

F 上野精養軒前の井戸水の変色せるは、毒物のためなり。
  上野公園下の井戸水にも異常あり…。

G 朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込み、地震を起し…。

これらの流言は、場所、人数、行為を具体的に特定している。


井戸水は実際にに濁ったらしいが、
地震の際に地下水、井戸水が濁ったり異常が出るのは自然な現象でしょう。

「井戸に毒薬」
は関東大震災の時の流言だけでなく、
中世の
「ユダヤ人が井戸にペストを撒き散らしてキリスト教徒を殺害する」
という流言もある。

これはアーリア人の意識下へ組み込まれ、後のヒットラーへつながる。

最近では「オウムが水源地へ細菌を撒く」という噂があった。


・社会主義者暴動の流言
H 震災前、社会主義者の中浜哲、古田大次郎たちは
  大正末期の社会不安に乗じてテロによる革命を目指し
  「ギロチン社」を結成していた。
  彼らは英国皇太子襲撃なども計画したが何もできず、
  最終目的を摂政宮(後の昭和天皇、このころ大正天皇が病気のため
  皇太子が摂政に就任していた)襲撃においていた。
  その目的のため震災前後に大阪で盛んに
  「リャク(=略奪)」を行なっていた。
  強盗による資金調達である。

I 官憲および民族派民間イデオロギーたちが
  彼らのそういった動きから社会主義者の暴動を警戒していた。
  そんな不穏な空気があった時の震災であった。

J 震災前年の1912年(大正11年)7月、
  信濃川下流に朝鮮人の死体が多数流れ着いた。
  上流の電力会社の工事現場では、1200人の労働者のうち
  600人が朝鮮人であり、どこでも朝鮮人たちは
  現場の中で最も過酷な、危険な労働を強いられており、
  監獄部屋と言われるタコ部屋に押し込められ、
  監督者、同輩日本人労働者からのリンチも受けていた。
  流れ着いたのは、そのリンチによる死体であると思われた。
  その事件を契機に、同年9月7日
  東京神田で日本人500人、朝鮮人500人を集めた
  「信濃川虐殺問題大演説会」
  が開かれ、それまで関係が密とは言えなかった
  日本の階級問題(労働問題)と、民族問題(朝鮮人問題)が
  結びつつあった。

K 「日本の朝鮮政策による朝鮮人たちの抱いている『恨』が
  日本人の労働運動、社会主義運動と結びついたら
  大変なエネルギーとなる」
  ことを官憲は極度に警戒していた。

そういう背景があり、一般民衆が朝鮮人を虐殺することに至るのです。
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