埼玉県における朝鮮人虐殺(大里群熊谷町を中心)−1大里群熊谷町震災による、埼玉県における建物被害は
全壊4562戸、半壊4348戸である。
埼玉県でも県南部の被害はかなりの被害を受けていたが、
震災地の相模湾から遠い分震動も弱く、
県北部はさらに被害も少なかった。
県北部では、神奈川や東京に住む身内の安否、
朝鮮人流言の問題を別にすれば、
生活を脅かすような心配事は何もなかった。
東京は震災後、深刻な食糧問題、飢餓に襲われ、
東京府民は食糧確保に奔走しなければならなくなったが、
大里村はむしろ食糧を供給する側だった。
・ 熊谷町を含む大里村の震災被害
住居全壊 11戸
住居半壊 8戸
死者 なし
負傷者 5人
北埼玉では普通の生活が保たれていた。
熊谷町の旧制・熊谷中学(現・埼玉県立熊谷高校)では
平常授業が行なわれていたが、
当時の中学生は放置された朝鮮人の虐殺死体を見ながら登校していた、
と伝えられている。
埼玉県での朝鮮人虐殺の記録9月2日
・ 東京方面から流入する避難民より朝鮮人来襲の噂が広まる
・ 県・内務部長名の通牒。朝鮮人来襲に備えての自警団結成を促す
9月3日
・ 深谷・踏切で列車が止められ1人死亡
・ 大宮機関庫で1人死亡
9月4日
・ 片柳村(大宮市[現・さいたま市]に編入)で1人死亡
・ 桶川で4人襲撃され、1人死亡
・ 久下村(1941年[昭和16年]熊谷市に編入)にて1人死亡
・ 佐谷田村(1941年[昭和16年]熊谷市に編入)にて1人死亡
・ 熊谷町にて虐殺(翌朝までに死者70〜80人)
・ 神保原にて虐殺(死者42名)
・ 本庄町にて虐殺(本庄警察署内で86人、町内15〜20人)
9月5日
・ 妻沼町にて秋田県出身日本人労働者が朝鮮人に間違われて殺害される
・ 児玉にて1人死亡
・ 寄居にて1人死亡
・ 桶川にて1人死亡(3人襲われ2人は重傷で救助)
震災直後から、横浜や東京の流言が激流となって流れ込み、
さらに鉄道に乗って逃げてくる異様な姿の避難民が運ぶ流言には
不思議な真実味が感じられ、県民が不安にかられる中、
震災翌日、埼玉県では流言が真実であるかのように断じる、
県・内務部長名の通牒が下記のように県下各群町村に通達された。
庶発第八号
大正12年九月二日 埼玉県内務部長
郡町村宛
不逞鮮人に関する件
東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人多数が川口方面より、
或いは本県に入り来るやも知れず、又その間過激思想を有する徒之に和し、
以って彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び
漸次其の毒手を揮(ふる)はんとする虞(おそれ)有之候。
就いては之際(このさい)警察力微力であるから町村当局者は、
在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、
一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう
至急相当手配成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也。埼玉県は流言の真実性を確かめるための独自の調査も十分することもなく、
近隣の群馬県や栃木県、諸機関などと十分な調整もせずに
事実無根のウワサを“真実”とする情報を流し、
情報を持たない住民を扇動してしまったのだ。
実際に荒川を渡ってくる者は言われるような「不逞鮮人」ではなく、
震災の気の毒な被災者である。
日本人の被災者もいれば朝鮮人、中国人の被災者もいるだろう。
住民の証言では、武器を持たず着の身着のまま、
飲まず食わずの朝鮮人を直接見た住民の印象は「不逞鮮人」というより
「被災者」「避難民」というものであった。
後の聞き取り調査では、避難してきた朝鮮人を目前に見て、
また町送りになって送られてきた人たちを見て、
流言で言われているような「朝鮮人の暴動、犯行への具体的恐れ」を
持ったという証言は皆無であったという。
埼玉県北部の民衆の流言のとらえ方は、
東京・神奈川の殺気立った危機感とは明らかに違い
冷静に判断ができており、
そのため埼玉の人たちは暴動の具体的恐怖感をそれほど強くは
持っていなかったと言えよう。
だからこそ、無差別の集団殺りくは熊谷町に入るまではなかったのである。
県の通牒は、情報の収集・管理と情報の操作、発信において、
熊谷や県北の虐殺の原因となってしまう決定的誤りを犯してしまった。
東京における朝鮮人虐殺についての記述「 多くの警察官は朝鮮人の不審者を逮捕・拘留し、
『不逞鮮人来襲』への警戒を拡声器で呼びかけ、
当初は自警団の『朝鮮人狩り』も野放しにしていた。
軍部の一部は直接、朝鮮人殺傷に手を下しさえした。
こうした軍・警察の“お墨付き”がなければ、
デマと暴虐行為はあれほどにはエスカレートしなかったはずなのである。」
(野村 進「コリアン世界の旅」講談社、1996年)
民衆による警察署内の朝鮮人虐殺を生んだ本庄町の警察署長の述懐「 最大原因は東京方面からの避難民が放った流言で
町民一般が殺気立っていたのと、
一つは町村一斉に団体行動を取ったという事によって見ても
郡からの移牒文があづかって力あったものと思われる。」
(東京日日新聞、1923年10月24日)
香阪内務部長の無責任な抗弁「 あの通牒は僕と友部君(警察部長)と相談の上出したものだが、
あれがさほど自警団に刺激を与えたものとは思っていない…
あの当時の状態としてあれだけの事に気付いたのは
むしろ良い事をしたとさえ思っている…。 」
(東京日日新聞、1923年10月24日)
この発言が正確であれば、
通牒が現場に下りた時、庶民との接点にあった現場警察官は、
庶民に対し不安をあおった上で自警団をつくらせ、
場合によっては自由に何をしても良い、と言っていたことになる。
東京市と荏原、豊多摩、北豊島、南足立、南葛飾の五群への行政戒厳「 万一、この災害に乗じ、非行をあえてし、
治安秩序を乱すが如き者ある時は、これを制し、
もしこれに応ぜざるときは、警告を与えたる後、
兵器を用うることを得 」
(9月2日発令)
戒厳司令官官下の軍の兵器使用を認めた訓令だが、
埼玉県の通牒は暗黙のうちに戒厳軍の行動を
民間の自警団に認めた効果を持った、と言えよう。
北足立郡が町村へ出した移牒「 今回の震災に際し、東京においては不逞鮮人各所に彷徨し
盛んに放火をなし、またこの間過激思想を有する徒これに和し、
以って彼らの目的を達せんとする趣聞き及び、
漸次(ぜんじ)その毒手を地方に振るわんとするやの
恐れ有之候に付いては、この際町村当局者は
在郷軍人分会、消防手、青年団等と一致共同してその警戒に任じ、
一朝有事の場合には速やかに適当の方策を
講ずるよう至急相当御手配相成度。 」
(浦和市編「浦和市史通史編 V」1990年)
不幸な偶然の「秩父宮帰京」当時の時代の優先順位は天皇・皇室にあった。
「 9月3日 午前10時45分秩父宮殿下御還り浦和駅へ向かい給う。
県より堀内知事、友部警察部長、
郡より渋谷群書記、浦和町在郷軍人分会長・平野少佐、
浦和警察署松岡署長が奉迎せり 」
(埼玉県北足立郡編「埼玉県北足立郡大正震災誌」1925年)
9月3日は、1分1秒の猶予もなく自警団や朝鮮人への対応を
しなければならなかった時に、
治安に責任のある警察部長が、その指揮の現場を離れ、
皇室の奉迎に出てしまったので、
特に朝鮮人保護に空白、手抜かりなど判断が遅れたと言えよう。
流言を運んだ高崎線荒川鉄橋が地震で2mも沈下して使えなかったが、
軍の鉄道部隊が不眠不休の工事を行い、
上り線は4日午前、下り線は5日早朝に開通した。
東京からの被災者・避難民は、荒川の鉄橋が開通する前にも、
何とか使えた戸田橋などを使って荒川を渡り、
川口から、そして浦和、大宮から国鉄に乗り、
上越方面、東北方面へと下った。
この国鉄がなかったなら、首都圏の混乱はもっと続いていたと思われる。
同時に、この国鉄が流言という混乱の元を一気に地方に拡散してしまった。
列車は大混雑を極め,スシ詰めの客車内だけでなく、
屋根、機関車を含め乗れるところにはどこにでも乗った。
車両の下に帯で身体をくくりつけて駅員に制止される者さえいた。
客車内は身動きが取れず、排泄物も垂れ流し状態だった。
そんな状態なので走行途中に何人もが振り落とされたり、
信号の鉄柱にぶつかったり、
トンネル通過の度にはみだした身体をトンネル内の壁にぶつけて
命を落としている。
線路やトンネル内には列車通過の度に死体が転がっていたという。
そんな混雑した列車に乗った被災者・避難民は極限状態にあるから、
流言は勢い大げさになり、
その極限状態の心理が流言を聞いた人々にも伝染し、
それを話す避難民の言葉に不思議な説得力を持たせていた。
「 関東大震災起こる。
幸いにして熊谷地方の被害はさほどでもなかったので
学校は授業はそのまま続けた。
しかし避難者を乗せた列車が熊谷を通過するので、
駅には湯茶、おにぎりの接待所が設けられ、
通過する避難者にそれを供していた。
生徒の中には学校で授業を受けるより、
その仕事の方が意義がありとして毎日駅へ通っては、
汽車の窓口へ湯茶、おにぎりを配って回る者もあった。
この奉仕した諸団体で一番熱心であったのは
竹町の芸妓連であったという。」
(埼玉県立熊谷高校、80周年記念誌)
高崎線・熊谷駅前の秋山食堂(後に閉店)は、
日本で最初に駅弁を売り出した店として知られているが
(竹皮に包まれたおにぎりと沢庵)、
駅に設けられた救護所で避難民に数万個のおにぎりを提供した。
救護所でおにぎりを受け取りながら、
暴行の犠牲者のような格好をした避難民が
「朝鮮人にやられた」と話すので、誰でも信じてしまう。
列車に乗ってくる被災避難民が狂気に取り憑かれたようにおおげさに、
そしてさも自分の眼の前で朝鮮人の殺りくが行なわれたように話す。
これを何度も話しているうちに、
避難民にとっても朝鮮人の暴虐は実際に経験した“記憶”と
なってしまっていた。
「 今、上野の山で日本の陸軍と朝鮮人で内乱が起きちゃってね、
それで日本の国は潰れちゃうので戒厳令がしかれた」
と…着の身着のままの姿でまことしやかに言うのです。
(被災避難民から聞いた、という証言)
被災避難民から朝鮮人暴虐の話を聞いた者は、
地域や学校、家庭に帰り、興奮しながらさらにおおげさに話す。
そのようにして流言が速やかに拡大再生産されていった。
「町送り」という名の“厄介払い”の始まり埼玉県警察部は、
東京から非難してきた朝鮮人、県内で拘束した朝鮮人を
県外に移送しようとする。
移送する目的は、
「朝鮮人を自警団の暴虐から守るため」
と言われているが、本当のところは
「朝鮮人を隣りの町、隣りの県へ厄介払いしたかっただけ」
ではなかったのか。
自警団から守るための移送なら、
自警団に警護させて移送すること自体が理解できないし、
さらに徒歩による移送は朝鮮人を危険な自警団、民衆の前へ
無防備に長時間に渡ってさらすことになる。
移送するとしても県外のどこへ移送しようとしていたのか、
最終目的地もはっきりしていないのである。
長野県とも新潟県とも言われているが、決定的な資料も発見されていない。
震災後の聞き取り調査では
「前橋の刑務所へ送ると聞いていた」
との証言もあるが情報の出所はわからない。
埼玉県警は
「最終目的地はともかく、当面は群馬県の高崎の連隊への保護移送を考えた」
と推理するのが普通である。
そこで自警団による町送りは群馬への道である中山道を
北へ辿ることになったのではないか。
埼玉県や埼玉県警が、政府、軍、群馬県や高崎連隊と
緊密な連絡を取り合った上で、当面の群馬への移送をしていた、
との資料も残っていない。
震災後の証言や聞き取り調査からの判断でも、
当時護送する警官や自警団にもよく理解できていなかったようである。
移送される朝鮮人には警察の護衛がついていたが、
その護衛警官たちが朝鮮人の移送先、受け入れ、移送後の処遇などについて
正確に説明した形跡は全くない。
自警団に狩り出された人、暴行した民衆たちの証言にも
それを伺わせるものもないのである。
そのように県・県警のはっきりしない方針自体が、
警察官、自警団員、群や町村当局、県民を
より混乱させる一因となったことは否めない。
川口・蕨からの出発川口は東京との県境であり、揺れも大きく、
県南の被害は川口町、粕壁町(現・春日部市)、幸手町などでは
死者を含むかなりの被害があった。
川口は吉永小百合の映画「キューポラのある街」で知られるように
鋳物の町で、キューポラは鋳物工場の炉のことをいう。
鋳物工場には普段は鉄を溶かすための高温の炉が燃えているが、
たまたま震災当日(9月1日)は、
慣例的に川口の鋳物工場の一斉休業日で炉の火は落とされていた。
中小規模の鋳物工場の多くが倒壊(全壊293棟、半壊23棟)したが
火災は発生しなかった。
もし高温の炉の火が普段のように燃え盛っていたら、
火災が首都の悲劇を再現し被害を拡大していたことは間違いない。
川口は明治末期にはすでに150軒の鋳物工場が稼動し、
その劣悪な灼熱の中で働く労働者を必要としており、
そのほとんどが
沖縄出身者や北海道アイヌ部落出身者、
朝鮮人労働者で占められていた。
故国の詐取的な土地調査によって、住み慣れた国を離れた朝鮮人は、
埼玉県においても多くの中小の工場労働者として職を得ていた。
後の第二次大戦期、軍需産業である鋳物工場を支えたのは
朝鮮人労働者であった。
映画「キューポラのある街」は、
そのような朝鮮人が戦後、北朝鮮へ帰る『北朝鮮帰国事業』が
ストーリーが柱になっている。
「 9月1日の話ですが…
夜10時頃になって在郷軍人が騒いでいるというので
警察から迎えがきた。
…警察の門を入ったら巡査部長が『君は朝鮮人か』というので
『そうだ』と答えると、『すぐに2階へ上がれ』とのことだった。」
という証言から、川口警察署は、管内の朝鮮人に対して
震災当日にいち早く保護収容に動いていたことがわかる。
9月3日、午後2時に川口警察署は消防組、在郷軍人の力を借り、
保護収容していた朝鮮人約160名を蕨町へ移送、終結させた。
川口でいろいろなかたちで保護拘束された朝鮮人は、
江戸時代の5街道の1つである「中仙道」の
埼玉県最初の宿であった蕨で合流させられた。
蕨に集められた朝鮮人たちは、北に向かって駅伝、町送りにさせられる。
(「駅」とは街道の宿場を意味するが、
この場合の「駅伝」は町、村送りのこと)
武器を持った自警団が周囲を固めて、
次々に伝達、送致し県外に送り出そうとしたのである。
送る人間(自警団員)は、
担当(自分の居住する地域)する町、村、字を出るまで
送るだけだから、送るほうは早く嫌な、面倒な、危険な役割から
開放されたく、
「早く家へ帰っていっぺいやるべェ」
と、勢い朝鮮人を休ませずに急がせた。
護衛の警官も付いてはいたが、
装備と人数において自警団に圧倒的に劣っていた。
中仙道の宿は、埼玉県内最初の蕨を出ると
浦和、大宮、上尾、鴻巣、熊谷、深谷、本庄と続いた。
9月の初めであり残暑厳しい中の行進でもあり、
また行く先への不安もあり朝鮮人たちは精神的、肉体的に
極限状態まで追い詰められ、途中で何人かが逃亡を図った。
「情報がない」という点では自警団も朝鮮人と同じであり、
自警団からすると
「何か悪い事をしたから逃げるのだろう」
「逃げた先でどんな悪事を働くかわからない」
「逃がした責任を問われると困る」
ということになり、「絶対に逃がすまい」ということになる。
もはや冷静な論理の通じない場になっていた。
逃げる朝鮮人と追う地理に詳しい地元の自警団、
疲れきって地理にうとい朝鮮人が武装自警団にかなうはずもなく、
逃亡した者はことごとく捕えられ虐殺されることになる。
拘束された朝鮮人の全てが駅伝で中山道を北上して虐殺された訳ではなく、
一般避難民と一緒に蕨あたりから自動車で大宮まで送られ、
或いは徒歩で大宮まで避難してきて、
それから東北線に乗車し宇都宮に収容されたグループも
あったと言われているが、資料がなく詳細は不明である。
大宮町送りされた朝鮮人は、9月3日の夜には大宮町
(後の大宮市、現・浦和市と合併して「さいたま市」)を
約180人と約190人の集団が別々に通過している。
浦和寄りの片柳村(後に大宮市に編入)で
朝鮮人が1人逃亡したが逃げ切れず、全身を竹槍、日本刀で傷つけられ、
医師の手当てを受けたが死亡している。
染谷という地区の常泉寺には「空朝露如幻禅定門位」という
戒名の墓が建てられた。
(朝露の如きはかない人生、朝は「朝鮮」の朝、とも解釈できる)
当時、自警団や民衆は戒厳令下なので朝鮮人を捕えれば
「金鵄勲章」が貰えると思い込んでいた。
「金鵄勲章」は、階級に関係なく軍功抜群の「陸海軍兵士」に
贈られるものであって、また終身年金も付いていた。
一般兵士憧れの勲章であった。
自警団員は、軍人ではない一般人組織なのに、
その勲章を貰えると確信していた。
つまり「今は戦時体制なのだ」と錯覚していた。
戦時と思っているので殺している側に罪の意識がないのである。
後の法廷での陳述では、むしろ
「恩給を貰えるもの」
と勘違いしていた者もかなりいた。
桶川現在のJR高崎線では大宮を出ると宮原、上尾、北上尾、桶川と続く。
その桶川では9月3日午後3時ごろ、
町送りの一団から逃亡した朝鮮人が3,4人現れて住民に襲撃され、
検死もされず火葬されている。
1人は桶川駅に近い現在の朝日1丁目あたりで殺害されたらしい。
「 朝鮮服の人3人が中仙道で捕まり、「鳶口」で頭を割られ、
旧避病院へ収容され、「アイゴー、アイゴー」と叫んでいた。
その中で一番重傷の人が逃げ出し消防の鐘がジャンジャン鳴り、
近くの畑まで逃れて発見され、
高崎線西側の中川製袋の畠の中で惨殺されたが、
検死前に火葬場で火葬にしてしまった。」
(震災後の聞き取り調査)
高崎線ではさらに桶川、北本、鴻巣と駅が続く。
9月4日朝には鴻巣を約130人が通過との証言があるが、
移送に当たった自警団の人も、人数についてはまちまちに答えており、
町送り、村送りと言いながら、
「当初から人数は把握していなかった」
というのが本当のところで、かなりいい加減なものだった。
吹上9月4日午前中に鴻巣の隣の小谷村(現・吹上町)を、
最初人数を特定できない多数の集団が、次に約130人が通過している。
同日午前11時に、移送された集団は吹上町の国鉄・吹上町へ到着する。
鴻巣以降の現在のJRの駅は、
北鴻巣、吹上、行田、熊谷、篭原、深谷、岡部、本庄、神保原と続く。
蕨を出発して吹上駅到着までは約20時間かかっている。
蕨から吹上駅までの行程は約40kmなので、
単純に1時間で2q歩いたことになる。
成人の歩速は1時間4kmが普通なので、
途中の引継ぎ、距離、逃亡騒ぎ、子供や赤子を背負った女性を含む
人数の多さ等の条件を考慮すると、道中睡眠時間はもちろん、
休憩らしい休憩もなしに40kmの距離を
20時間歩き通しという相当の強行軍であった。
吹上駅で警察は列車に乗せようとするが、
屋根までスシ詰めの大混雑の列車であり、
また、朝鮮人が暴動を起こし、強盗、強姦を働いているという
流言を運んでいる被災者が乗客であり、
そんな列車に朝鮮人を乗せることは不可能だった。
「 行き違う下りの列車には、汚れ果て、あるいは興奮しきった
避難者たちが満載されていた。
停車場でこちらの列車とそちらの列車とでの性急な問答ときたら、
実に悲愴を極めたものだった。
『おや!その列車には朝鮮人がいるじゃねえか?
引き摺り下ろしてぶっ殺してしまえ!
叩っ殺せ!
奴等のために東京は焼かれたんだ』
『叩っ殺せ!叩っ殺せ!』
これらの言葉を聞きながら、
私の心はだんだん憂うつのどん底に落ちて行くのだった。」
(現代史の会編「ドキュメント関東大震災」草風館、1993年)
完全に秘密裏に鉄道輸送ができれば、
効率的でより安全な移送ができたはずだが、
吹上で警察がやろうとしたことは単なる思い付きで計画性がなく、
混乱を大きくしただけであった。
結局、吹上駅では列車に乗れず、
朝鮮人は自警団に周りを囲まれて、
再び歩いて熊谷方面に駅伝、町送りされることになった。
久下村・佐谷田村吹上駅からしばらく歩くと久下村(現在は熊谷市に編入)に入る。
久下村に引き継がれてすぐに、逃亡した朝鮮人の1人が鳶口で襲われている。
朝鮮人の治療や病院への移送、逃亡を企てた朝鮮人の人数などの
証言はなく、闇から闇へ葬られている。
逃亡騒ぎの後、村内の大曲で一時休憩、
そこで約半数の朝鮮人は小型トラックに乗せられ
熊谷方面に向かったとの証言がある。
乗れずに残った者は再び歩かされることになった。
民衆の自警団は「袖がらみ」
(捕り物映画で見かける長い棒の先に短い鉄の枝が
無数に出ている捕り物道具。
この頃の農村には十手などの捕り物道具が残されていた)
さえ持っていた。
その他には、
・つるはし、
・日本刀、
・槍
などで武装しており、
それらの武器で朝鮮人たちは小突き回されていたらしく、
頭や背中などから血を流している者もいたという。
残暑厳しい時期で、疲労と恐怖からくる絶望的極限状態の中で、
ここでも1人の朝鮮人が逃げ、よどんだ元荒川に(発作的に)飛び込んだ。
名前こそ元荒川だが、荒川のような大きな川ではなく、
すぐに引き寄せられた。
このような時のための「袖がらみ」であった。
捕まった朝鮮人の頭には、残酷にも「つるはし」が打ち込まれた。
「 朝鮮人は元荒川に飛び込みました。
…水の中でずいぶん苦しんで我慢していたようですが、
土手に引き寄せられたと思うと、
また水の中にしゃがんでしまいました。
そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、
それを脳天にブッ刺し、引き寄せたのです。
血と脳しょうが噴き出した。
脳天から四筋も六筋も血が流れ、
口の中へ入って行くのがまのあたりに見えました。」
(震災後の聞き取り調査)
その後に3、4人が逃げ、またその後にも数人が逃げた。
逃げた者は全て「鳶口」や「つるはし」で殺されたと言われている。
他にも殺されている。
「鳶口」、「つるはし」を打ち込まれた正確な人数はわかっていないが、
殺された証言からの推測では約6〜8人にもなる。
殺された者は日射病で死んだことにされ、
地域の医王寺に埋葬されたという。
さらに久下で逃げた朝鮮人の1人は、
荒川の荊原(ばらはら)の堰(せき)あたりで
捕まって暴行を受けたらしい。
久下村ではそのように途中の逃亡で何人かが殺され、
次の佐谷田村(現・熊谷市に編入)に引き継がれる。
佐谷田村の自警団に引き継がれる時に
また何人かがフォードT型の小型トラック2台に乗せられたらしい。
これも熊谷方面へ走り去ったが、
本庄、神保原あたりで民衆にこれらのトラックが襲撃されることになる。
この佐谷田村でも1人が逃げようとして殺され、
近くの大雷神社の墓地に埋葬された。