2006年01月10日

“風林火山”の山本勘助は名軍師ではない〜その2

1月9日 “風林火山”の山本勘助は名軍師ではない

“風林火山”とは、「孫子」の句
「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、
 侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」
の略で、日本人なら誰しも知っていることだと思います。

川中島の合戦は、
天文22年(1553年)に武田信玄に征服され、
信濃を追われた小笠原長時、村上義清が
上杉謙信に助けを求めたのを発端に起きた戦いで、
小競り合い程度の戦いも含めると全部で5回もありました。

・ 1回目 天文22年(1553年)
・ 2回目 弘治 元年(1555年)
・ 3回目 弘治 3年(1557年)
・ 4回目 永禄 4年(1561年)
・ 5回目 永禄 7年(1564年)

映画やドラマの題材になっているのは、
最も激烈な合戦が行われた第4回戦目です。

有名な話ですし、ドラマや映画で詳細に知られていると思いますが、
あえて合戦の流れから説明することにします。

いろいろないきさつは省略して、
永禄4年(1561年)4月、
越後の春日山城から上杉謙信が1万3千の兵を率いて、
川中島に出陣するところから、第4回戦が始まります。

「謙信が春日山を出陣した」という報を受けた武田信玄は、
1万7千の兵を率いて
古府(現在の甲府)の居城・躑躅崎館(つつじがさきやかた)を
出陣します。

途中、北信濃における武田方の前線基地・海津(かいづ)城の
高坂弾生昌信の兵3千と合流し、
総計2万の兵で、川中島へと向かったのです。

善光寺に到着した謙信は、3千の兵を残し、
残りの1万の兵で犀(さい)川を渡り妻女(さいじょ)山に登り、
山上に本陣を構えます。

これに対して信玄は、
海津城の西にある茶臼山に本陣を構えました。

11日間に渡るにらみ合いの末、
味方の士気が低下することを心配した信玄方の
宿将・飯富(おぶ)虎昌の進言を受け、
武田方が先に動き始めます。

この時、軍師・山本勘助が信玄に提案したのが、
「キツツキの戦法」
でした。


「キツツキの戦法」は『甲州流兵法』にある兵法の1つで、
 「キツツキが木の穴の中にいる虫を捕るときに、
  木の反対側をつついて、虫を驚かせて穴の中から這い出させ、
  出てきたところを捕らえる」
という習性を戦術に応用したものです。

2万の軍勢を2つに分け、
一隊が妻女山に陣を張る謙信の本陣を夜襲し、
もう一隊は八幡原に陣を構えて、
上杉軍が妻女山を追われて八幡原に出てくるのを待ち、
これをはさみ撃ちにして上杉軍を壊滅させるという作戦でした。

信玄は、この戦法を採用し、
1万2千の軍勢を妻女山の背後に向かわせ、
自らは8千の兵を率いて、八幡原へと向かったのでした。

しかし、この作戦は失敗してしまいます。

なぜ失敗したかexclamation&question
それは上杉謙信の方が山本勘助より上手で頭が良かったからです。

謙信は、武田軍が陣を置いた海津城から、
夕暮れ時に一斉に煙が上がったのを見て、
「行動を起こす前の飯炊き」
と判断して、
「キツツキの作戦」を見抜いてしまったのです。がく〜(落胆した顔)

そこで、謙信は武田軍の裏をかくために、
・ 紙の幟(のぼり)を多く押し立てる
・ かがり火をあちこちで焚かせて煙を上げる
という“オトリ”を仕掛け、
「上杉軍も明日の合戦に備えている」
という風情を見せて、全軍が山を下り、八幡原へ向います。

「武田軍がキツツキ作戦で来るなら、
 本軍は八幡原で待ち構えるはずで、その中に信玄がいる」
という“読み”で、そのものズバリでした。

『鞭(べん)声粛粛(しゅくしゅく)、夜河を過(わ)たる』
というのは、
江戸後期の儒者、頼山陽(らいさんよう)が詠んだ有名な詩ですが、
これは上杉軍が秘かに妻才山を下りて
千曲川を渡り八幡原へ進軍した時のことを詠んだのでしたね。

頼山陽の句碑が残る雨宮の渡は、
長野電鉄の無人駅・雨宮駅(長野県千曲市)近くの公園にあるそうです。

未明から朝にかけて、
この地域一帯には深い霧がたち込めていました。

少しずつ霧が晴れてくると、武田軍は仰天します。

目前に上杉軍が大挙して攻め込んできたからです。

武田軍は窮地に陥り、
そして一万の上杉軍による猛烈な攻撃が始まりました。

上杉軍は
「車懸(くるまがかり)の戦法」
で攻め立てます。

「車懸の戦法」とは、
軍勢を車輪が回転するようにグルグル移動させながら、
常に新手を繰り出して
絶え間なく猛攻を繰り返すという攻撃型の陣立です。

これに呼応して武田軍は
「鶴翼(かくよく)の陣」
で迎え撃ちます。

「鶴翼の陣」とは、
鶴が翼を広げたときのように横に長い陣形で、
敵軍の攻撃をかわして包み込もうとする、守備型の陣形です。

この時の武田軍は12段で構えたといわれています。

ランチェスターの法則にもあるように、
兵力の差は明らかに不利なんですよね。

上杉軍の圧倒的な兵力の前に武田の軍勢は総崩れになり、
上杉軍は信玄の本陣近くまで迫ったといわれています。

・ 謙信が単騎で信玄に切りかかり、信玄が軍配で防いだ
・ 信玄は、この時傷を負って、それが基でやがて死んだ
等という話は、本当かどうかはわかりません。
面白おかしく色付けされた後世の作劇かもしれません。

しかし、この戦闘で、
武田軍は信玄の実弟で武田軍の副将でもある武田典厩信繁や、
諸角豊後守昌清
(もろづみぶんごのかみまさきよ、信玄の曽祖父・武田信昌の六男)等の
名だたる武将が討ち取られてしまったのです。

信玄の実弟・信繁は、
・ 信玄の父・信虎は、長男・晴信より
  活発で才気にあふれ明朗な次男・信繁を可愛がり、
  家臣も晴信派と信繁派に二分したのですが、
  信繁は兄・晴信に子供の頃から忠誠を尽くしていました。

・ 成人後も
  「信玄公は兄ではない。主人だ。
   皆もそのつもりでお仕えするように。
   間違っても私の家が信玄公の弟の家であるなどと
   誇ってはならない。
   あくまでも忠義な家臣としてお仕えするように」
   と家族や家臣に諭していました。

・ 「甲斐国を治める資格と能力は兄にある。
   自分にはそれだけの力はない」

というように、腹心の立派な弟でしたから、
討ち死には信玄にとって相当なショックであったに違いありません。

総崩れとなった味方や
信繁など名だたる武将が相次いで討ち死にする様を見ていた山本勘助は、
軍師としての至らなさを痛感し、恥じて自己嫌悪に陥り、
責任を取るために上杉軍に突入し、死に場所を求めたわけですね。

山本勘助は全身に86ケ所の手傷をうける奮戦の末、
討ち死にしましたが、享年62歳といわれています。

また、山本勘助は、「甲陽軍鑑」などの軍記物語によって
創造された人物だという説もありましたが、
北信濃の豪族で上杉氏に仕えた市川氏の子孫に伝わる
『市川文書』によって、
勘介が実在した人物であったことが証明されています。

ちなみにこの合戦は、
妻女山を急襲する筈だった武田軍の別動隊の1万2千が
八幡原に戻ってきたことで事態は一変し、
圧倒的優位に立っていた上杉軍は大混乱に陥り、
善光寺方面に敗走して幕引きになりました。

双方で8千人が戦死するという激戦でしたが、
世に言う“引き分け”ではなく、
武田軍の敗北は明らかでした。

その全責任は「キツツキの作戦」を企て、
これを謙信に見抜かれた参謀・山本勘助にあります。

となると、勘助ははたして名参謀・名軍師と言えるのでしょうかexclamation&question

優れた軍師の条件として、
・ 優れた智謀を誇り、
・ 自分の献策を用いてくれる主君を選び、
・ その献策が主君に採用され、かつ功を奏し、
・ その結果主君が繁栄する、
だとすると、
山本勘助を始め、歴史上の多くの名参謀・名軍師と伝えられる人たちは
失格してしまいます。

羽柴秀吉に仕えた竹中半兵衛だって、
秀吉が播磨の三木城攻めの最中に死んでしまいますし、
三国志の諸葛孔明だって、劉備玄徳を死なせてしまうのですから、
名参謀・名軍師とは言えないでしょう。

こうして考えると、
織田信長に仕えた黒田官兵衛が合格点、
日露戦争でバルチック艦隊を
「丁字戦法・七段構えの戦法」
で撃破した参謀・秋山真之が金メダルだと思うのです。

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2006年01月09日

“風林火山”の山本勘助は名軍師ではない

昨日、テレビ朝日の大型時代劇スペシャル「風林火山」を
観てしまいました。

武田晴信(信玄)役がジャニーズの松岡昌宏で、
絶世の美女といわれた由布姫(湖衣姫)役が加藤あい、
通称「馬づらあいちゃん」でした。

1969年の映画「風林火山」は
印象深くて私の好きな映画なのですが、
今回のドラマと同様に井上靖の小説が原作となっています。

当時の映画では山本勘助を三船敏郎、
武田信玄を萬屋錦之介が演じて貫禄がありました。

川中島の戦いで、信玄と謙信が一騎打ちするシーンでは、
一太刀交えた直後、
「ニヤッ」と不敵な笑みを浮かべる石原裕次郎がカッコ良く見えました。

いつかは裕次郎のようにああやってカッコよくキメたい、
とずっと思っていますが、1度もチャンスすらありません。

昨日のドラマは配役には不満でしたが、
歴史モノをよく読むので、
「井上靖の小説が原作」ということでつい観てしまったのです。

今回のドラマは、映画と比べると内容的に“イマイチ”でした。
それも、少し「時間を返せ」的な腹立たしい“ガッカリ”でした。

最近のテレビドラマは、
ジャニーズタレントばかり主役になっているのが、
どうも気に入りません。

一昨年のNHK大河ドラマ「新撰組!」も、
主役の近藤勇役が香取慎吾だったので、
私の“近藤勇”像とかけ離れているので、観ませんでした。

昨年の「義経」では、主役の義経役に滝沢秀明で、
義経の家来にはお笑いの南原清隆、うじきつよし、電車男の伊藤淳史…
ハァ、もう配役を見ただけでガッカリでした。

義経といったら歴史上の大スターだし、
戦略面では相当問題があるのですが、
戦術面では“無敵”の猛者なのに、
ホストの引きこもりみたいな滝沢が義経とは…

まぁ、NHKの受信料を納めていないので、
NHKに文句を言う権利はないのですが。

滝沢は「里見八犬伝」でも主役になっていましたね。

南総里見八犬伝と西遊記をモチーフにして創られたのが
「ドラゴンボール」ですから、
もっと里見八犬伝も大事に扱ってくれないと…

滝沢は石坂浩二と糸井重里からアドバイスをもらい
「里見家の財宝」探しに行かせたほうが面白いと思いますよ。


今日から「西遊記」をやるようですが、これも主役が香取慎吾。

しかも香取が孫悟空で、伊藤淳史が猪八戒役、内村光良が沙悟浄役、
深津絵里が三蔵法師、という
もうトランプを裏返して配ったような配役です。

伊藤淳史を出すなら、電車男の“セット”で、
伊東美咲を三蔵法師にして、伊藤淳史を孫悟空にしてほしい。

ラーメンといえば「餃子」、チャーハンといえば「麻婆豆腐」、
カツ丼といえば「かけうどん」が“セット”(私の好み)だし、
昔の若大将シリーズでも
加山雄三と星由里子、田中邦衛は“セット”でした。

「男はつらいよ」でも渥美清と倍賞千恵子は“セット”でした。

せっかく電車男でブレイクした伊藤淳史を
伊東美咲と“セット”にしないで「義経」の家来にしたり、
猪八戒役にするなんて、痛々しくて見れません。

ブタの妖怪・猪八戒役にはホンジャマカの石塚英彦か大仁田厚、
河童の妖怪・沙悟浄役に香取慎吾をキャスティングすれば良かったのではexclamation&question

香取慎吾はフィギュアの安藤美姫もそうですが爬虫類顔で、
しかも巨大ですから河童の妖怪が適役なんですよ。

本当の西遊記は三蔵法師が、
三神仙(神通力を持った仙人である「孫悟空」、「猪八戒」、「沙悟浄」)を
供に従えて、さまざまな冒険をしながら天竺へ経を取りに行く、
というストーリーなのですが、
香取が主役の西遊記だと
 「スタジオを徘徊し、様々な失敗を犯しながら、
  低視聴率という“凶”を取りに行く」
ことしかイメージできません。
こんなのは観ないexclamation

前置きが長すぎて本題に入れませんでした。もうやだ〜(悲しい顔)
なぜ「山本勘助が名軍師ではない」のかは、明日書くことにします。もうやだ〜(悲しい顔)

posted by RIUさん at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月22日

ヤツの前世は侍か?〜その6

6月12日 ヤツは前世で関係の深い人だった?
9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1「大岡越前」
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2「長谷川平蔵」
9月19日 ヤツの前世は侍か?〜その3「遠山の金さん」
9月20日 ヤツの前世は侍か?〜その4「半七捕物帳」の半七
9月21日 ヤツの前世は侍か?〜その5「右門捕物帳」の近藤右門

銭形平次

「親分、てぇへんだぁ!」
と、子分の八五郎が持ち込んだ難事件を
神田明神下の名親分・岡っ引きの銭形平次が
得意の推理力と観察力で解いてゆくのですが、
残念ながら銭形親分はフィクションなのです。

野村胡堂による原作「銭形平次捕物控」は、
1931年(昭和6年)4月から
「文芸春秋オール読物」に掲載され、
以降1957年まで27年間、
合計333編もの大長期連載を果たしました。

長編、短編、特別編も併せると383篇にもなり、
1人の人物を主人公にした小説としては
世界最長ではないかという説もあるようです。

野村胡堂(本名長一)は1882年(明治15年)
岩手県大巻村(現紫波町)に生まれました。

盛岡中学に進み同級生の金田一京介と知り合い、
以後死ぬまで交友を続けます。

金田一京介は野村が亡くなった時の葬儀委員長を務めています。

金田一耕介ではありませんよ、
耕介は横溝正史原作の探偵で、京介は国語学者です。

東京帝大に進学しますが、明治43年に父が亡くなり
学費が払えなくなって除籍処分にされてしまいます。

明治45年に報知新聞に入社、政治部で活動しました。

大正3年の同新聞のコラムで初めて
「胡堂」のペンネームを使用しました。

当時、岡本綺堂の書いた「半七捕物帳」は、
捕物小説の先駈けとして、当時から大変な人気があり、
出版社から
『「半七捕物帳」のようなものを書いて欲しい』
という依頼を受けて、
昭和6年に銭形平次の連載を始めることになった、と伝えられています。

平次は神田明神下の御台所町(現在の外神田2丁目付近)の長屋に住み、
平次とは対称的に、
そそっかしく女性に弱い子分の八五郎(ガラッ八)が
「親分てぇへんだぁ」
の声で持ち込む事件を解決していくという筋立てになっています。

投げ銭で賊の動きを止める得意技が「銭形」の異名を生みました。
(建設業の「銭高組」から付けられたという説もありますが…?)

野村胡堂がこのシリーズの執筆を停止したのは
1957年(昭和32年)「オール読物」8月号で、
目の病気のためでした。

昭和33年菊池寛賞を受賞、
昭和35年紫綬褒章を受賞し、
東京オリンピックの前年1963年(昭和38年)に
76歳で亡くなりました。


「銭形平次」は何度か映像化され、
堀正夫、嵐寛寿郎、長谷川一夫、安井昌二、若山富三、
大川橋蔵、北大路欣也、最近では村上弘明が平次を演じました。

ガラッ八役は佐々十郎、林家珍平、花菱アチャコ、三木のり平、
ハナ肇、船越英二、最近では石井正則らが演じています。

平次の奥さんのお静は八千草薫、鈴木紀子、香山美子、
最近では東ちづるが演じました。

神田明神の境内には、長谷川一夫ら、
往時の関係者が建てた銭形平次の記念碑があります。

銭形平次は実在の人物ではないのに、
鳥居本社のある神田明神下の代表的な有名人となっています。


銭形平次のTV番組は、
1966年に白黒版で放送開始以来18年間、
主演の大川橋蔵は、全888話を一人の主役で乗り切った功績で
ギネスブックにも掲載されているようです。

大川橋蔵の銭形平次と東野英二郎の水戸黄門とは、
時代劇のTV番組としての功績からすると、
甲乙つけ難い秀作と言えるでしょう。


江戸時代では、実際には岡っ引き・下っ引きは
同心から個人的に雇用されているものなので、
十手などは常時携行していませんでした。

捕り物に参加するために必要な場合は、
臨時に奉行所が貸し与えたので、
銭形平次のように自宅に十手を置いていて、
いつも持ち歩く岡っ引きというのはいなかったようです。

同心は安月給なので、
一般に八丁堀に与えられている屋敷の一部を、
医者や学者などに貸して、その家賃で収入を得ていた、
という話もあります。


大川橋蔵主役のTV番組のエンディングに
「寛永通宝」という巨大な銭形が出てくるところがありましたね。

四国の八十八カ所・観音寺市の観音寺に江戸時代からあるもので、
一説では1633年(寛永10年)に
丸亀藩主生駒高俊公が藩内の巡視に訪れた時に
地元の人々が歓迎のため一夜?で築きあげたものと言われています。
(寛永13年という説も)

全周340m、南北90m、東西122m、高さ2mという
巨大なものらしいです。

直接見てみたいものですね。

posted by RIUさん at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月21日

ヤツの前世は侍か?〜その5

6月12日 ヤツは前世で関係の深い人だった?
9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1「大岡越前」
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2「長谷川平蔵」
9月19日 ヤツの前世は侍か?〜その3「遠山の金さん」
9月20日 ヤツの前世は侍か?〜その4「半七捕物帳」の半七

「右門捕物帳」の近藤右門

「右門捕物帳」は、佐々木味津三(ささきみつぞう)によって書かれた、
南町八丁堀同心近藤右門を主人公とする全38編の短編シリーズです。

捕物帖の歴史から見れば、岡本綺堂の『半七捕物帖』と
野村胡堂の『銭形平次捕物控』の間に位置し、
・ 半七捕物帳
・ 右門捕物帳
・ 銭形平次捕物控
この3つが「3大捕物帳」と言われ、
以下の2つ
・ 若さま侍捕物手帖
・ 人形佐七捕物帳
を加えたものが「5大捕物帳」と言われています。

佐々木味津三は、1896年(明治29年)愛知県北設楽郡津具村で生まれ、
1934年(昭和9年)急性肺炎で37歳で亡くなりました。

「右門捕物帳」の他に『旗本退屈男(全11話)』も執筆しています。

佐々木味津三〜大衆小説家
青空文庫−佐々木味津三作品

南町奉行に属する同心で、八丁堀に住み、
江戸は八百八町に睨みを利かせる主人公の近藤右門は、
いつも、むっつりしていて、余計なことは話さず、
アゴをなでては独特のさえた推理を組み立てる気骨の男に設定されています。

なかなか格好良いですよね。

 「派手な別仕立の羽織の両袖に丸に“右”の字を大きく染め抜き、
  朱房の十手を草香流にピタリと構えれば、
  泣く子は黙り、江戸中の女はしびれる」
とあり、
それが、“むっつり右門”こと無口で知られる同心、近藤右門で、
さらに居合と柔術の達人なんです。

この右門と正反対のおしゃべりな岡っ引き伝六が、
そのやり口と現場に残されたわずかな証拠から
奇怪な事件の探索に乗り出すストーリー展開になっています。

『右門捕物帳』は、華やかな娯楽作品として書かれていることで、
現在では、映画やテレビで、
徹底した娯楽作品として取り上げられることが多くなっています。
posted by RIUさん at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月20日

ヤツの前世は侍か?〜その4

9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2
9月19日 ヤツの前世は侍か?〜その3

「半七捕物帳」の半七

「半七捕物帳」は、岡本綺堂によって書かれた、
半七を主人公とする江戸探偵物シリーズ、全69篇の作品群を言います。

イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、岡本敬之助の長男として、
1872年(明治5年)東京の芝高輪に生まれ、
大東亜戦争の直前1939年(昭和14年)に67歳で亡くなりました。

綺堂は芸名で、本名は敬二です。

幼くして歌舞伎に親しみ、父の影響を受けて英語も堪能でした。

東京府立一中卒業後、1890年(明治23年)18歳のときに
東京日日新聞に入社。

以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、
42歳まで24年間を新聞記者として過ごします。

新聞記者時代の1896年(明治29年)24歳のときには
処女戯曲『紫宸殿』を発表しています。

1902年(明治35年)綺堂30歳のときに岡鬼太郎と合作した
『金鯱噂高浪(こがねのしゃち・うわさのたかなみ)』は、
歌舞伎座で上演されています。

江戸から明治にかけて、歌舞伎の台本は
劇場付きの台本作家によって書かれてきましたが、
明治半ばからは、坪内逍遥ら、演劇界革新の担い手に
新作をあおいだ「新歌舞伎」が台頭してきました。

二世市川左団次に書いた『維新前後』(1908年)、
『修禅寺物語』(1911年)の成功によって、
綺堂は新歌舞伎を代表する劇作家となりました。

1913年(大正2年)41歳以降は作家活動に専念し、
生涯に196篇の戯曲を残しています。

父がイギリス公使館に勤めていたことから、
早くから欧米の文学作品も精読していたのですが、
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を
原著でまとめて読んだのをきっかけに、
江戸を舞台とした探偵小説の構想を得て、
1916年(大正5年)44歳のときから『半七捕物帳』を書き始めました。

書かれた時期は、44歳から晩年の65歳まで21年に及んでいます。

1917年(大正6年)綺堂が45歳のときに、
第1話『お文の魂』を「文芸倶楽部」に書いています。

設定は明治20年代末に新聞記者をしていた作者が、
幕末に岡っ引をつとめていた神田の半七という老人と知りあって、
順々にその手柄話を聞くという構成になっています。

神田の半七親分(1823年生まれ)は実在して、
その知人たちから直接聞いた話を基にして
書かれたものだという説もあります。

この説では、
「半七は神田三河町に住み、10人ほどの子分がいた」
ということになっています。

岡本綺堂は「三浦老人昔話」という小説も書いているのですが、
この中に出てくる三浦老人は半七親分の一廻り年上で、
隠居している身ですが、
ここを訪ねていろいろ昔話を聞くという話になっています。

『半七捕物帳』の第1話の終わりに、綺堂は半七老人のことを
「彼は江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであった」
と書いていて、
シャーロック・ホームズを強く意識して書いていることがわかります。

江戸社会の犯罪を通して、奉行や与力や同心や目明かしのしくみ、
さまざまな人間の心理のドラマ、幕末の社会情勢、
季節の行事や祭礼や風物詩、これら全てを
捕物帳というスタイルに仕立ててあります。

綺堂が半七を書くまで、日本には探偵小説はありませんでした。

『半七捕物帳』は日本の探偵小説のルーツであり、
かつ時代推理小説のルーツでもあるのです。

「捕物帳」という日本独自のスタイルが出現したことで、
読者は江戸幕末の全ての情景を身近に感じ取ることが
できるようになりました。

この半七を基にして、以降
・ 銭形平次
・ 人形佐七
・ 黒門町の伝七
などが次々に登場して来ますが、主役はいずれも岡っ引でした。

岡っ引ネタ尽きると探偵のキャラクターが変わり、
主役の役職もバラエティーに富むようになり、
・ 八丁堀同心の近藤右門
・ 火付盗賊改の長谷川平蔵
・ 遠山の金さん
などが登場してくるのですが、
全ては和製シャーロック・ホームズの半七が元祖になっているわけです。


岡本綺堂に興味のある人は、下記サイトが最強です。
綺堂事物

また「半七捕物帳」は、本格的な推理小説でありながら、
著者の岡本綺堂の生い立ちや性格が災いして、
少し読みにくい、とも言われています。

それは、
・ 岡本綺堂は幕臣の流れを引く人物で、自身を江戸時代に郷愁があり、
  捕物帳を書くにあたって、江戸の町を正確に復元し、
  町で行われている様々な活動などを活写して、
  自ら仕上げた江戸の町を作品の中に再現しようという試みが、
  具体的であればあるほど、読者側にも江戸の町の地理や、
  文化、風習などそこそこの“知識”が要求される。
  江戸から明治になって消えかけている江戸の町は、
  大正の関東大震災によって一挙に姿を消してしまいます。
  その、消えてしまった町へのこだわりが強いために、
  現在ではちょっとした壁が作品にあるように
  思われてしまうのかもしれません。

・ 岡本綺堂自身は、イギリス公使館に勤務していた父親の影響で
  英語が堪能で、当時では相当の知識レベルにありながら、
  家系が幕臣の系統に属するために、
  明治の官界では十分に力を発揮できないと思い、
  外の方面に活動の場を求めることに至りました。
  こういう不満が根底にあるので、
  理屈っぽくなってしまったのかもしれません。

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2005年09月19日

ヤツの前世は侍か?〜その3

9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2

遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)

1793年(寛政5年)に生まれ、
1855年(安政2年)62歳で亡くなっています。

天皇(生きているうちに関わった天皇)
119代光格天皇 1779年11月25日〜1817年3月22日、
在位38年
120代仁孝天皇 1817年3月22日〜1846年2月6日、
在位29年
121代孝明天皇 1846年2月13日〜1866年12月25日、
在位20年

昨日の「長谷川平蔵」と119代の天皇が重なっていますね。

「大岡越前」が70歳のときに、「長谷川平蔵」が生まれ、
「長谷川平蔵」が47歳のときに「遠山の金さん」が生まれています。

「大岡越前」と「長谷川平蔵(鬼平)」、「遠山の金さん」は
続けざまに歴史に登場していたことになりますね。


将軍(生きているうちに関わった将軍)
11代将軍家斉(いえなり))1787年4月15日〜1837年4月2日、
14〜64歳、在位50年
12代将軍家慶(いえよし))1837年4月2日〜1853年6月22日、
44〜60歳、在位16年
13代将軍家定(いえさだ))1853年11月23日〜1858年7月6日、
29〜34歳、在位5年
12代将軍家慶の息子家定は、小心・多病で子供を設ける能力がなく、
後継の選定が問題になったと言われています。


おおまかな出来事
1793年 ルーブル美術館開館(仏)
1794年 蔦屋重三郎が、写楽の役者絵の刊行を開始
1795年 女髪結がぜいたくを理由に禁止
      同年、メートル法制定(仏)
1796年 清、アヘンの輸入を禁止、白蓮教徒の乱(〜1805年)
      同年、ジェンナー(英)、種痘を実施
1798年 金さん5歳
      同年、フランス、ナポレオンのエジプト遠征
      同年、近藤重蔵、択捉島に大日本恵土呂府の標柱たてる
      同年、江戸・神田豊島町(現=東京都千代田区東神田)に
      岡田万作が寄席を開いた。江戸における最初の寄席とされる
1799年 ナポレオン戦争(〜1815年)
      同年、伊・アレッサンドロ・ボルタが
      塩水に銅板と亜鉛板を浸けて導線で繋ぐと
      電流が流れることを発見
1800年 伊能忠敬、蝦夷地の測量に向かう
      同年、「ボルタの電池」英・アレッサンドロ・ボルタが
      伊・が前年に発見した原理に基づいて液体電池を制作し、
      英国王立学会で発表。世界最初の一次電池
1801年 グレートブリテンおよびアイルランド連合王国成立
      同年、江戸・浅草駒形町に越後屋(現=駒形どぜう)ができた
1802年 十返舎一九が弥次・喜多の2人が繰り広げる珍道中
      『東海道中膝栗毛』を出版
1803年 金さん10歳
1804年 秋田・山形県境で象潟地震発生。
      2.5m隆起して潟は陸地となった
      同年、初代清水喜助が
      江戸・神田鍛冶町で大工として開業。清水建設の創業
      同年、ナポレオンが皇帝に
1805年 ナポレオン1世が、スペイン南西岸トラファルガル
      (英語名トラファルガー)岬沖で
      ネルソン提督の率いるイギリス艦隊に敗れた
      同年、華岡清洲が日本初の麻酔手術
1806年 神聖ローマ帝国消滅
1807年 江戸の大川(隅田川)にかかる永代橋が
      深川富岡八幡宮の祭礼見物に押しかけた群集の重みに
      耐えかねて崩落。1000人以上が死亡した
1808年 「間宮林蔵、樺太探検・間宮海峡発見」、
      ロシア南下を恐れた幕府に調査を命じられた間宮林蔵が、
      松田伝十郎と宗谷岬から出発、
      サハリン(樺太)が島であることを推定していったん帰還。
      夏にはひとりで現地へひきかえして越冬し調査を続けた
      同年、ゲーテ(独)「ファウスト」(〜1832年)
1809年 ロシア・トルコ戦争
      同年、間宮林蔵、カラフトに単身渡って海峡を探検。
      サハリン(樺太)が島であることを再確認した
1810年 フランス、オランダ併合
      同年、カメハメハ王朝がハワイ諸島統一
1813年 金さん20歳
1814年 ナポレオンが退位させられ、エルバ島に流された
      同年、葛飾北斎『北斎漫画』
1815年 ナポレオンがエルバ島から脱出、パリに向かった
      同年、「ワーテルローの戦い」、
      現在のベルギーの首都ブリュッセルの
      南東にあるワーテルローで戦われた。
      ナポレオン率いるフランス軍が敗北し「百日天下」が終わった
1816年 琉球にイギリス船に来航、通商を求めた
1817年 イギリス船浦賀に来航
      同年、江戸・亀戸天神(現=東京都江東区)に太鼓橋が完成。
      このとき祝いに駆けつけた深川の芸者たちが
      橋の形に似せて帯を結んだのが「御太鼓結び」の始まり
1819年 アメリカがスペインからフロリダを購入
      同年、イギリスがシンガポールを領有
1821年 伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成
1822年 ギリシア独立宣言
      同年、十返舎一九『東海道中膝栗毛』完結
1823年 金さん30歳
      同年、「モンロー主義」、
      アメリカがヨーロッパと相互不干渉のモンロー主義を宣言
1825年 「異国船打払令」、清・オランダ以外の外国船を
      すべて武力で撃退することを命じた
      同年、江戸・中村座で「東海道四谷怪談」が初演
      同年、イギリスのストックトン−ダーリントン間で
      世界最初の鉄道が開業
      同年、ベートーベン、「交響曲第9番・合唱つき」を作曲
1827年 オーム(独)が「電気回路の数学的研究」を著し、
      「オームの法則」を発表
1828年 「シーボルト事件」、長崎で、ドイツ人医師シーボルトが、
      禁制品の地図を海外に持ち出そうとして発覚した。
      のちに追放処分になった
      同年、越後で大地震。死者3万人余
1830年 フランス、七月革命
      同年、伊勢神宮への集団参詣「お陰参り」が大流行
      同年、江戸・浅草茅町2丁目に、人形店「久月」が開業
1831年 ベルギー王国独立
      同年、ファラデーが電磁誘導を発見
      同年、エジプト・オスマン帝国戦争(〜1840年)
      同年、葛飾北斎『富嶽三十六景』
1832年 鼠小僧次郎吉が、引き回しのうえ獄門になった
1833年 金さん40歳
      同年、歌川(安藤)広重『東海道五十三次』(〜1834年)
      同年、天保の飢饉(〜1836年)
      同年、ニューヨークで1セント新聞「サン」が創刊。
      アメリカ最初の日刊大衆新聞
1834年 葛飾北斎『富嶽百景』
1835年 江戸・日本橋の「山本山」6代山本嘉兵衛が、
      宇治の茶園で開発された新製法の茶に注目し、
      「玉露」と名づけて売り出した
1836年 メキシコ政府軍がテキサス州に不法移民していたアメリカ人の
      起こした反乱を鎮圧。
      アラモ教会を砦として戦ったデイビー・クロケットら
      187人が全滅した
      同年、パリの凱旋門が完成する
1837年 「大塩平八郎の乱」、大阪の大塩平八郎が
      飢饉で苦しむ民衆救済のため挙兵し、豪商を襲い、
      米や金を貧民に与えた。乱は1日で弾圧された
      同年、モールス(米)が電信機を発明
1838年 アメリカで1万数千人のチョロキーたちが、
      住み慣れた土地から追い立てられ、西部へ向かった。
      厳冬の季節で約4分の1が途中で死んだ。
      「涙の道」(Trail of Tears)と呼ばれた
1839年 「アヘン戦争」、九竜近く清朝海軍とイギリス船が
      放火をまじえたのをきっかけに両国は戦争に突入した
      (〜1842年)
1840年 イギリスでペニー・ブラックと呼ばれる世界初の
      郵便切手を発行(近代郵便制度の始まり)
      同年、金さんが江戸北町奉行に任命される
1841年 老中・水野忠邦が「天保の改革」を発令
      同年、渡辺華山が自殺
1842年 「南京条約」、清朝政府は全面的にイギリスに屈服、
      南京条約を締結しアヘン戦争(1839年)は終結した。
      条約には香港の割譲、上海などの開港と通商などが盛り込まれ、
      イギリスがさらに中国へ進出する足がかりとなった
1843年 金さん50歳
1844年 「三銃士(デュマ・ペール)」が出版されベストセラーに
1845年 「明白な天命(Manifest Destiny)」
      西へ向かって拡大するのが神から与えられた
      アメリカ人(白人)の使命だとする原住民を無視した
      身勝手な考え方で、今でも続くアメリカ拡大主義の原点。
      ジャーナリストのジョン・オサリヴァンが
      雑誌に発表したことにより広まり,
      この勢いのなかでテキサスはアメリカ南部の1州として
      併合された
1847年 信州一帯に大地震(善光寺地震)。
      御開張で混雑していた善光寺の参拝者の大半が死亡。
      死者あわせて8600人
      同年、イギリスで「嵐が丘(エミリー・ブロンテ)」が
      出版されベストセラーに
1848年 天保の薪水給与令
      同年、カリフォルニアのシェラネバダ山脈から
      流れ出るアメリカ川のほとりで金鉱が発見された。
      噂は急速に広まり、多くの人々が集まった
1849年 江戸・室町に「山本海苔店」が創業
      同年、一獲千金をねらう人々がカリフォルニアに集まり、
      約1万5千人だった人口が、
      1年の間に9万3千人にふくれあたった。
      この年に金鉱熱にうかされてカリフォルニア行った人は
      “forty−niner”と呼ばれた
1850年 江戸・青山に潜伏中に高野長英が、追っ手に囲まれ自刃
1851年 清、太平天国の乱
      同年、ワシントン−ボルチモアの間に
      世界最初の電車(動力は蓄電池)が開通
      同年、ロンドンで初の万国博覧会開催。
      25カ国が参加し、600万人が訪れた
      同年、「ニューヨーク・タイムズ」創刊
      同年、「白鯨(メルビル)」が出版されベストセラーに
      同年、フランスでフーコーが
      振り子実験による地球自転の証明をする
      同年、上野国の侠客「国定忠治」が、
      殺傷、賭博、関所破りなどの罪で磔に
      同年、ハワイに漂着した中浜(ジョン)万次郎らが、
      アメリカ船で琉球に来航
1852年 開国・尊王攘夷運動・討幕
      同年、「アンクル・トムの小屋」(ハリエット・ストウ)が
      発売される。
      黒人奴隷制度の残虐さを描き、
      「奴隷解放のバイブル」と呼ばれるようになった
      同年、金さん南町奉行を辞任する
1853年 金さん60歳
      同年、アメリカのマシュー・ペリー提督の率いる4雙の
      軍艦が江戸湾浦賀沖に現れ停泊した。
      蒸気船が2雙と帆船が2雙であった。
      帝国主義化を進めるアメリカの
      大平洋進出に伴う極東来訪であった
      同年、幕府が砲台設置のため、お台場の造営に着工
      同年、クリミア戦争でイギリスとフランスがロシアに宣戦
      看護婦ナイチンゲールがクリミアでの奉仕活動を志願
      同年、アメリカでリーバイ・トラウスがジーンズを発売する
      同年、江戸・本所で中浜(ジョン)万次郎が塾を開いた
      同年、東海地方で大地震(小田原地震)。
      小田原城下町で880戸が全壊、死者は119人。
      全体の死者は3780人におよんだ。
1854年 ペリーが8隻の艦隊を率いて浦賀に再来航、
      幕府、日章旗を日本国総船印に制定、
      日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約を結ぶ
      同年、ペリーが琉球王府と琉米修好条約を締結
      同年、吉田松陰がペリー艦隊に密航を試みるが失敗し、
      伊豆・下田の海岸で逮捕される
      同年、四国・近畿・東海地方で大地震(嘉永大地震)。
      大阪では大津波による被害もあった。
      死者2千人余、倒壊家屋203戸。
1855年 金さん62歳で亡くなる
      同年、幕府が蝦夷地全域を直轄地とした
      同年、薩摩藩が日本最初の洋式帆船の軍艦「昇平丸」と
      自力で製造した国産初の蒸気船「雲行丸」の試運転に成功
      同年、マグニチュード6.9と推定される
      直下型地震が江戸を襲った(安政大地震)。
      地震と同時に33カ所から火災が発生し
      江戸の大半を焼き払った。
      死者約1万人。倒壊家屋約1万5千戸。
      地下水の異常などの前兆があったとされる。


金さんの遠山家は、源頼朝の家臣、加藤景廉が
美濃国恵那郡遠山荘の地を与えられ、
その長男の景朝が遠山荘にちなんで
遠山左衛門尉を称したのが始まりです。

その後多くの分家に分かれましたが、
その中の明智遠山氏が徳川家康に仕え、
旗本となりました。

金さんは、この明智遠山氏の一族になります。


金さんは若い頃グレていたことで知られていますが、
これには複雑な家庭事情があります。

遠山家は実子に恵まれない家系で、
金さんの祖父・景好自身も養子だったようです。

その景好も、なかなか子供が授からなかったため、
親戚から養子として景晋(金さんの親父)を迎えました。

ところがその直後に実子の景善が生まれてしまいました。

そうなると祖父・景好は、実子の景善を跡継ぎにしたいと
考えるようになり、自身が死ぬまで、
養子の景晋(金さんの親父)に出仕を許さなくなってしまいました。

やがて祖父・景好が亡くなると、
幕府への届け出(長男は養子の景晋)通り、景晋が跡継ぎになりました。

ここで、ややこしくなるのですが、
後を継いだ養子の景晋(金さんの親父)は、
「景善のほうが実子なのだから、彼の血統に家を戻すべきだ」
と考え、金さんが生まれた時、彼の出生届を1年遅らせて、
義弟にあたる景善(金さんの祖父・景好の実子)を先に
自分の養子にしてしまいました。

景善も既に結婚していて、男の子が生まれていましたが、
この子は早死にしていました。

ここで、またややこしくなるのですが、
景善(金さんの祖父・景好の実子)は、
義兄の子供である景元(金さん)を自分の養子にしてしまいました。

そして、またまたこの後、
景善(金さんの祖父・景好の実子)には
もう一人男の子・景寿が生まれます。

ここで景善(金さんの祖父・景好の実子)は、何を血迷ったのか、
この子の存在で後々家督相続で問題が起こらないようにするため、
この実子・景寿を他家に養子に出してしまいました。

景晋(金さんの親父)は表面的には家をまとめるために、
景善(金さんの祖父・景好の実子)を自分の養子にして
景善をたてていたのですが、
本心としては、祖父・景好がそうであったように
「実子・景元(金さん)を跡継ぎにしたい」
と考えていました。

そこで養子・景善(金さんの祖父・景好の実子)の出仕を
なかなか許しませんでした。

家督相続の都合で、養子だとか実子だとかで複雑になった環境下で、
景元(金さん)は、
「自分は養子の子であり、
もともとの直系である義父・景善が家督相続をすべきだ」
と考えて、家出してグレてしまうんですね。

景元(金さん)の配慮にも関わらず、
直系である義父・景善が何と早死にしてしまい、
景元(金さん)は家に戻ってきます。


景元(金さん)は家出してグレていた頃に
入れ墨を入れていたとされています。

その模様は時代劇では「桜吹雪」とされていますが、
一説には「女の生首」であったとも、
実は入れ墨はしていなかった、とも伝えられています。

本当のところは今となってはわかりませんが
(できれば桜吹雪であってほしいですが)、
金さんはどんなに暑い日でも人前では決して肌を見せなかったそうですから、
入れ墨をしていた可能性は高いはずです。


景元(金さん)は直系である義父・景善の死後、はじめて出仕しています。

1840年(天保11年)3月2日、
金さん(遠山左衛門尉景元)は江戸北町奉行に任命されます。

江戸町奉行は、現在の警視庁長官と都知事と
東京地裁長官を併せたような重い職務です。

江戸幕府は、当時基本的に権力の集中を避けるため、
同じ職務を複数の人に割り当てていて、
月交代で担当になることになっていました。

江戸町奉行には、ご存知のように、
「南町奉行」と「北町奉行」があって、
1ヶ月ごとに交互に仕事をしていました。

金さんは当初北町奉行でしたが、後に南町奉行になります。

遠山景元が北町奉行として活躍した時代、
南町奉行は鳥居甲斐守忠耀という人でした。

鳥居が天保の改革を厳密に実行しようとしたのに対し、
遠山景元はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとし、
両者は常に対立関係にありました。

例えば鳥居がある時、
風紀上よくないとして「江戸中の舞台小屋を全て廃止」しようとした時、
金さんは「全て廃止するのはひどい」として、数個を残せるように交渉し、
江戸の人々に喝采されています。

当時江戸の人々は、鳥居のことを名前に引っかけて「キツネ」と呼び、
対して金さんのことを、さらに上手をゆく「タヌキ」と
呼んでいたようです。

何かと対立していた二人ですが、
1843年(天保14年)2月24日、金さんは鳥居の策略で、
「大目付」という閑職にリストラ(形式上は昇進)されてしまいます。

それでもキツネの上手をゆく“タヌキ”の金さんは、
今度は逆に巧妙な策略で鳥居を失職させてしまうんですね。

鳥居忠耀のいろいろな違法行為が暴かれてしまって、
鳥居は四国丸亀藩お預けになってしまいました。

追放された鳥居の後任の南町奉行には金さんが任命されました。

紆余屈折しながら、
1845年(弘化2年)3月15日から
1852年(嘉永5年)3月20日まで7年間、
今度は南町奉行として、再び江戸庶民を守るために活躍しました。

大目付から南町奉行へという公式には降格になるこの人事は、
当時異例中の異例だったようです。

金さんは奉行を辞任すると、
晩年は「帰雲」という号で俳句を書いたりして悠々自適の余生を送り、
3年後の1855年(安政2年)2月29日に亡くなりました。

金さんのお墓は西巣鴨の本妙寺にあります。


遠山金四郎は、将軍吉宗の時代の大岡越前忠相と並び称される名奉行で、
大岡越前忠相が享保の改革を行った吉宗の腹心として活躍したのに対し、
遠山は天保の改革を行った老中・水野忠邦に近い人物として重用されました。

ただし将軍吉宗と大岡越前が非常に信頼深い関係であったのに対して、
金さんと老中水野は常に緊張関係にあったようです。
posted by RIUさん at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月18日

ヤツの前世は侍か?〜その2

長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞう・のぶため)

1746年(延享3年)に
赤坂築地中之町(現.東京都港区赤坂6丁目)で生まれ、
1795年(寛政7年)に49歳で亡くなっています。

天皇(生きているうちに関わった天皇)
115代桜町天皇 1735年3月21日〜1747年5月2日、
在位12年
116代桃園天皇 1747年5月2日〜1762年7月12日、
在位15年
117代後桜町天皇 1762年7月27日〜1770年11月24日、
在位8年
118代後桃園天皇 1770年11月24日〜1779年11月9日、
在位9年
119代光格天皇  1779年11月25日〜1817年3月26日、
在位38年

昨日の「大岡越前」と、115代・116代の天皇が重なっていますね。

「大岡越前」が隠居生活をしている70歳のときに、
「長谷川平蔵」が生まれ、
「大岡越前」が75歳で亡くなる年は、「長谷川平蔵」はまだ5歳でした。

将軍(生きているうちに関わった将軍)
8代将軍吉宗(よしむね)1716年8月13日〜1745年9月25日、
32〜61歳、在位29年
9代将軍家重(いえしげ)1745年11月2日〜1760年5月13日、
34〜49歳、在位15年
10代将軍家治(いえはる)1760年5月13日〜1786年9月8日、
23〜49歳、在位26年
11代将軍家斉(いえなり))1787年4月15日〜1837年4月2日、
14〜64歳、在位50年


おおまかな出来事
1752年 ペンシルヴェニア洲会議員のベンジャミン・フランクリンが、
      雷が電気現象との仮説を実証するため、
      雷雨の中で凧を揚げて実験をした
      同年、越前加賀騒動勃発
1753年 大英博物館設立
1754年 天皇の侍医山脇東洋が、
      斬首刑に処せられた罪人の解剖を見学して克明に記録した。
      日本で初めての死体の解剖
      同年、イギリスとフランスが北アメリカの支配権をめぐり、
      先住民や植民地人をまきこんで戦った(〜1763年)
1756年 平蔵10歳
1762年 ルソーが「社会契約論」を出版。王権神授説に対抗した
1764年 イギリスで産業革命が始まる
      同年、江戸・日本橋小網町に海苔専門店「山形屋」が開業
1766年 平蔵20歳
1768年 クックが第1回航海(〜1771年)
1769年 ワット、蒸気機関発明
1771年 千住小塚原で50歳くらいの女囚の腑分(人体解剖)が実施され、
      杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが見学。
      持ってきたオランダ語の解剖書『ターヘルアナトミア』の図と
      実物を見比べ、その正確さに驚嘆し、
      帰り道に翻訳することを決心し、
      翌日から早速翻訳に取り掛かる(1774年完成)
      同年、平賀源内がエレキテル(摩擦起電器)を完成
      同年、アダム・スミス『国富論』
      同年3月10日、八重山地震が発生、
      津波の被害が大きく、石垣島を中心に
      死者約2千人の大惨事になる
      同年、長谷川平蔵が盗賊改(とうぞくあらため)に
      就任する(25歳)
1773年 大原騒動(飛騨高山領一揆)
1774年 杉田玄白らによる「解体新書」5巻が完成する
1775年 ボストン西北のコンコードの兵器庫をイギリス軍が襲撃して
      占領しようとした。
      約70人の植民地兵がレキシントンで待ち受けて
      銃撃戦になった(独立戦争の始まり)
1776年 アメリカ、独立宣言
      (北米のイギリスの植民地13洲が、自由と独立を宣言した)
      平蔵30歳
1778年 フランスがアメリカ諸植民地の独立承認
1779年 伊豆大島三原山が大噴火、爆音が江戸中に響きわたる
1780年 無宿人に職を与えるため、江戸・深川茂森町に無宿養育所を設置
      同年、ロンドン近郊のエプソム競馬場で
      「ザ・ダービー・ステークス」が創設された
1782年 天明の大飢饉(〜1787年まで)、
      暴徒による襲撃、破壊、略奪が全国で発生。
      江戸では5日間、無政府状態になった
1783年 信州の浅間山が大噴火。爆発とともに黒砂が降り、
      軽井沢・沓掛・追分から鼻坂のあたりまで二抱えもの石が降り、
      人々は桶やすり鉢をかぶって逃げまどった。
      爆発は翌日まで続き、流れ出た溶岩は北方上野国吾妻群を襲い、
      死者2千人、埋没民家1800、
      降灰は関東一帯にわたり、江戸でも地上一寸に及んだ。
      これが関東ローム層になる。
      火山礫は吾妻川をせき止め、
      決壊して利根川すじに大水害が発生した
1784年 多摩郡の農民が蜂起し、名主宅を打ちこわした(武洲一揆)
      同年、若年寄の田沼意知が江戸城で旗本に斬られ9日後に死亡
1785年 カートライトが力織機を発明
      同年、電磁気に関するクーロンの法則を発見
1786年 平蔵40歳
1787年 合衆国憲法制定
      同年、長谷川平蔵(鬼平)が火付盗賊改役に任命された(41歳)
1789年 フランス革命始まる
      同年、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任
      同年、江戸・深川八幡宮境内相撲興行で、
      谷風と小野川に初めて横綱が免許された
1790年 江戸・石川島に人足寄場を創建することが決定
1791年 混浴禁止令が発令される
1792年 ロシア使節ラックスマン、根室に来航し通商要求
      同年、喜多川歌磨が『寛政の三美人』と呼ばれる浮世絵を描いた
1793年 ルーブル美術館開館
1794年 東州斎写楽『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』
1795年 女髪結がぜいたくを理由に禁止
      同年、フランスでメートル法制定
      平蔵49歳で亡くなる


長谷川平蔵は、旗本長谷川宣雄の子で、
幼名期は銕三郎(てつさぶろう)と命名され、
その後「宣以(のぶため)」となりました。

1765年、平蔵が19歳のとき、
父と共に本所三ツ目(現・新宿線「菊川」)に移り住みます。

この界隈は吉原と匹敵する岡場所でした。

平蔵は当時旗本仲間から「札付きの悪」として有名だったようで、
この移住を機に「本所の銕(てつ)」と呼ばれていました。

三ツ目通りは、
現在の辰巳−木場−白河町−菊川−吾妻橋−言問橋東までの
江戸の南北を走る主要幹線道路で、
これに平行して東(千葉寄り)に「四ツ目通り」、
西に「清澄通り」が走っています。

1769年、平蔵が23歳のとき、十代将軍家治に拝謁しています。

これは「御目見」と呼ばれるもので
旗本として武士として公式に認められるという儀式です。

通常は十代のうちに済ませるのですが、
平蔵は素行の悪さから、だいぶ遅れてしまったようです。

1773年、平蔵27歳のとき、
父宣雄が火盗改めから京都西町奉行に栄転しました。

平蔵も京都に付き従いましたが、赴任8ヶ月後に父が病死してしまいます。

平蔵の父は質素倹約を以て事に当たったため、
当時贅沢三昧だった京都奉行所内の風潮を一掃し、
市民に慕われていたようです。

平蔵は長谷川家の家督を相続し、元の本所三ツ目の屋敷に戻りますが、
その放蕩ぶりは変わらず、
小普請(無役の窓際族か辞令待ち)の閑職を与えられた後も
岡場所通いを続け、父が蓄えた財産をついに使い潰してしまいます。

転んでもタダでは起きないのか、
後年この時得た岡場所で働く人々、
「無宿無頼」と呼ばれた流れ者やヤクザ者が
将来、情報収集の強力な武器となるんですね。

1787年、平蔵41歳のときに、
火付盗賊改(火盗改)の加役(臨時職)を命じられました。

火盗改は江戸市中を巡回し、
火災防止や盗賊・博徒の捕縛を役目とするのですが、
平蔵は特に盗賊逮捕に目覚しい実績を上げました。

功利主義の山師などの悪評もある一方、
乞食に施しをする慈悲深い人柄を伝える資料もあり、
無宿人対策として石川島の人足寄場建設を老中松平定信に建議するなど、
弱者への気配りを見せる面もありました。

1787年5月、
天明の大飢饉で混乱する江戸で起こった打ちこわしの暴動を、
平蔵が先手組と与力75騎、同心300名を率いて鎮圧しました。

無政府状態と化した江戸を一気に回復させた手腕が
時の老中・松平定信の目に留まり、火附盗賊改の加役に任ぜられます。

加役とは先手組頭(戦時には足軽大将格)と兼任で
火盗改の任も受け持つ事で、
現在なら警察署と消防署の指揮権を任されるような大変な出世です。

平蔵は歴代の火盗改長官とは異なり、
無用な拷問を避け、自白によって罪を認めさせました。

また、若い頃から独自に培ってきた情報網を使い
迅速な逮捕で市中の評判となってゆきます。

神稲小僧や妖盗葵小僧の逮捕から、
人足寄場の設置と歴史に刻んだその功績は大きいです。

彼が当時の英雄であっただけでなく、
以後の警察機構に与えた影響も大きいのですが、
歴史的な資料は少なく、
池波正太郎作「鬼平犯科帳」によって世に出たとも言えます。
posted by RIUさん at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月17日

ヤツの前世は侍か?〜その1

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ちょんまげを被らせるくらいじゃ、動物虐待にはならないですよねexclamation&question

時代劇で有名な
・ 大江戸の名裁判官「大岡越前守忠相」
・ 火附盗賊改の長谷川平蔵宣以
・ 『遠山の金さん』こと遠山左衛門尉景元(通称・金四郎)
は、実在の人物です。

彼らは時代劇のヒーローなので、
またテレビドラマで必ず取り上げられますので、覚えておきましょう。



大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみ・ただすけ)

1677年(延宝5年)に生まれ、
1751年(宝暦元年)12月19日、75歳で亡くなっています。

それだけでは分かりにくいので、

天皇(生きているうちに関わった天皇)
112代霊元天皇  1663年1月26日〜1687年3月21日、
在位24年
113代東山天皇  1687年3月21日〜1709年6月21日、
在位22年
114代中御門天皇 1709年6月21日〜1735年3月21日、
在位26年
115代桜町天皇  1735年3月21日〜1747年5月2日、
在位12年
116代桃園天皇  1747年5月2日〜1762年7月12日、
在位15年
ちなみに、初代天皇は神武天皇ですが、
紀元前660年2月11日に即位されたことから、
この日が「建国記念日」になっています。
現在は125代今上天皇です。

将軍(生きているうちに関わった将軍)
4代将軍家綱(いえつな)1651年8月18日〜1680年5月8日、
10〜39歳、在位29年
5代将軍綱吉(つなよし)1680年8月23日〜1709年1月10日、
34〜63歳、在位29年
6代将軍家宣(いえのぶ)1709年5月1日〜1712年10月14日、
46〜50歳、在位3年
7代将軍家継(いえつぐ)1713年4月2日〜1716年4月30日、
4〜8歳、在位3年
8代将軍吉宗(よしむね)1716年8月13日〜1745年9月25日、
32〜61歳、在位29年
9代将軍家重(いえしげ)1745年11月2日〜1760年5月13日、
34〜49歳、在位15年

おおまかな出来事
1637年      島原の乱
1639年      ポルトガル仙来航禁止(鎖国政策)
1643年      参勤交代の制度が確立する
1644年      明朝滅び清朝建国
1650年4月21日 新陰流の奥義をきわめた武芸者・柳生三厳(十兵衛)が
           44歳で没
1660年      イギリス王政復古
1660年1月25日 江戸の隅田川に「両国橋」が完成する
1669年3月31日 シチリアのエトナ火山が噴火し、死者1万5千人以上
1672年      江戸・日本橋(現=日本橋本町2丁目)で
           呉服店松坂屋が開業
1673年      江戸・日本橋(現=日本橋本町1丁目)で
           三井高利が呉服店越後屋(三越の前身)を開業
1677年      江戸・常磐橋門外に置かれていた
           牢屋敷が伝馬町に移された
           越前生まれる
1683年      八百屋お七事件で江戸・駒込大円寺より出火し、
           下谷・浅草・本郷から神田・日本橋に及び、
           お七は火刑に処される
1685年      初めて生類憐みの令を出す
           (1708年までくり返し布令)
1686年      越前10歳
1689年      松尾芭蕉が、江戸の深川から「奥の細道」に出発
1694年      江戸・高田馬場で中山(のち堀部)安兵衛が
           果たし合いに助太刀し、一躍有名人に
1696年      越前20歳
1699年      江戸・日本橋に、鰹節問屋のにんべんが創業
1701年      江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩が
           吉良上野介に刃傷に及び、内匠頭は即日切腹。
           上野介は刀を抜いて応戦していなかったので
           罪に問われなかった
1703年      赤穂藩の浪士が
           江戸・本所(現=東京都墨田区両国3丁目)の
           吉良邸に乱入し上野介以下17名を殺害した。
           浪士らは江戸市中で徒党を組み、
           武器を持参したことで切腹となった。
1706年      越前30歳
1716年      享保の改革に着手(〜1745年)
           越前40歳
1717年      越前、町奉行に任命される
1721年      評定所門前に目安箱設置
1726年      越前50歳
1732年      享保の大飢饉
1734年      青木昆陽が甘藷(サツマイモ)の栽培に成功
1736年      越前60歳
1738年      江戸・日本橋大伝馬町に呉服太物商「大丸屋」を開店
1746年      越前70歳
1751年      越前75歳で亡くなる


江戸の名裁判官というイメージが定着していますが、実際には
・ 天一坊
・ 直助権兵衛
・ 白子屋のお熊
などの事件の裁判をした程度で、
彼が手腕を発揮したのは裁判官としてではなく、
むしろ行政官として発揮したようでした。
・ 裁判の改革
・ 連座制の免除
・ 江戸町火消創設
・ 享保の改革の実践
・ 人材発掘
・ 新田開発
・ 物価統制
・ 通貨統一
・ 大江戸の整備
といった行政全般に力を注いでいます。

彼は徳川家三河以来の譜代の家に生まれ、
10歳で同姓の忠真の養子となり、
11歳で将軍綱吉に拝謁を許され、エリートコースを歩みます。

役職に抜擢されると、
「41歳で町奉行になる」
という当時では異例のスピード出世を果たしています。

清潔な人柄で、60歳になっても連日登城して、
丹念に仕事を処理していたそうです。

この奉行時代に紀州と松坂の境界線問題を厳正に裁いたことで
吉宗がこの人物に注目したようです。

そして1716年(享保元年)に吉宗が将軍に就任すると、
彼を江戸町奉行に抜擢(1717年)したのです。


忠相が江戸町奉行に任命された時、彼は北町奉行でしたが、
2年後にその奉行所(数寄屋橋)が南町奉行所と改名され、
彼はその後南町奉行として活動しています。

その頃の奉行所の陣容は与力25騎、同心120人。

これで御江戸八百八町の治安を守らなければならないので、
かなりの激務であったようです。

だいたい事件の発生件数からすると
1日平均30〜40件の判決が言い渡されていて、
その関係者の取り調べにあたる与力たち、
事件の捜査をする同心たちの負荷というのはすさまじく
重たいものだったようです。

町奉行所は北と南が月交替でおこない、
1月受付をしたら1月休みなのですが、
その休みの月にも下調べや調書書きですさまじい忙しさ、
実際には休みはほとんど無かったようです。

当時は、労働基準法なんか無縁ですからね。

事件が多いので、ほとんどの事件は与力がほぼ全て決着を付けていて、
奉行はその結果を承認するだけだったようです。

あとは主として取り調べの様子を見て回ることに時間を割いたようです。

奉行が御白州で直接取り調べをおこなったのは余程の重大事件でしょう。
何か残念ですね。もうやだ〜(悲しい顔)


時代劇の白州では、よく悪者に
「市中引き回しの上、打首獄門!」
と威勢よく言っていますが、
実際には相手が町人といえども、
死罪を言い渡すには老中の許可が必要でしたので、
死刑の場合その場で判決が言い渡されることはありませんでした。

老中は死刑認可の印を押すのに、印の入っている袋の紐を
「今日は2回りほどこうかな」
「今日は1回りだけにしておこう」
と何日もかけてから取り出し、そして押印したと伝えられています。

それだけ死刑というのは意味の重い刑罰として運用されていました。

当時の儒教の教えも反映されていたのかもしれません。

「人の命は地球より重い」
という考え方は、何も戦後の裁判官が突然思いついたものではなく、
日本という国の長い伝統なのでしょう。

平安時代では、数百年にわたって、死刑という刑罰は一切行われていません。
不思議な感じがしますね。

大岡忠相は町奉行所の構造の設計を行い、
その後奉行所が建て直される時は忠相の設計が基本的に踏襲されています。

また同心やその個人的な部下である岡っ引きたちに
拷問の禁止を徹底させ、冤罪防止のための心得なども厳しく説いています。

その辺りが「名奉行」と呼ばれた由縁なのでしょう。

また、吉宗の事績として知られる
・ 目安箱の設置
・ 養生所の設置
・ 町火消しの設置
などにも忠相は吉宗のブレーンとして貢献しているようです。

posted by RIUさん at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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