2006年10月10日

沖縄の10・10空襲は、今日の“軍事要塞化戦略”の始まり

10月10日というと、
 「少し前までは“体育の日”でさ、
  曜日に関係なく祝日だったもんだから、
  日曜と重なる年はアンラッキィだったよなぁ」

というノー天気な人も多いと思いますが、
1944年(昭和19年)10月10日、62年前の今日は、
沖縄全域に米軍による無差別空襲が行われた日でもあるのです。

当時の国民学校では、遠足を“行軍”、
ランドセルも敵国の言葉として“背嚢”(はいのう)と
言い換えられ、
学年や学級は中隊、小隊と呼ぶようにされました。

2月、政府は決戦非常措置要綱を決定し、
沖縄県庁は本土や台湾への疎開を進め、
町村では防衛隊の編成が始まり、
5月からは、中学生らも
陣地構築に駆り出され、授業は中止されました。

郷土(=本土)防衛と鼓舞され、
「軍官民共生死一体化」
という掛け声のもと、沖縄戦に突入してゆくのですが、
沖縄人にとってそれは、「共生」などではなく「共死」であり、
強制された「自死」への道でもあったのです。


米海軍第3艦隊所属の第38高速空母機動部隊が、
10日早朝から、
グラマンF6ヘルキャット艦上戦闘機や爆撃機など、
延べ1,396機の艦載機を投入して、
沖縄本島を中心に奄美大島以南の南西諸島の主要な島々に
波状攻撃をしました。

・ 第1次空襲  6時40分〜 8時20分
  延べ約240機で読谷村の飛行場などを攻撃

・ 第2次空襲  9時20分〜10時15分
  延べ約220機で船舶および飛行場攻撃

・ 第3次空襲 11時45分〜12時30分
  延べ約140機で那覇、渡久地、名護、運天、
  与那原、泡瀬などの各港湾施設を攻撃

・ 第4次空襲 12時40分〜13時40分
  延べ約130機で那覇市へ集中攻撃

・ 第5次空襲 14時45分〜15時45分
  延べ約170機で那覇市へ集中攻撃

飛行場や港湾などの軍事拠点だけでなく、
民間施設に対しても、無差別空爆が9時間も続いた結果、
本島では少なくとも軍人・軍属、民間人を含む668人が死亡、
768人が負傷しました。

海上でも空爆と潜水艦攻撃により、
民間船舶を含む約200隻が沈没しました。

久米島近海では、民間人数百人が犠牲になりました。

昭和19年3月に編成された沖縄守備軍の
第32軍司令部(牛島満司令官)が置かれた那覇市は
家屋の9割が全焼全壊となりました。

南西諸島を襲った初の大規模空襲で、
県民1か月分に相当する米や、
医薬品など多大な損害を被りました。

米軍の10・10(じゅうじゅう)空襲の主目的は、
「マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムを占領し、
 日本の包囲網を着々と縮めつつある米軍が、
 次の占領目標のフィリピン侵攻作戦を支援するために、
 南西諸島に築かれた日本軍の
 航空基地を壊滅すること」

にあったようです。

南西諸島の空爆に出撃した米軍の第38機動部隊は、
・ 空母28隻
・ 戦艦6隻
など、245隻の大艦隊で、
当時南西諸島に接近中の台風に乗じて、
知念村の沖合い約280km地点まで
日本軍に察知させずに到達し、10日早朝から
艦載機による5次にわたる波状攻撃を行ったのです。

那覇市では、午前7時に空襲警報が発令され、
サイレンや半鐘が鳴り響きましたが、
米軍機は、その前の午前6時40分には、
すでに那覇市上空に到達していました。

米軍機は低空から機銃掃射を繰り返し、
軍事施設だけでなく、民家や学校、病院にも
無差別に爆撃を行いました。

那覇市全域には、またたく間に火災が発生し、
黒煙が上空高く立ち込めたと伝えられています。

米軍による爆撃は、那覇市以外でも
・ 大東島
・ 奄美大島
・ 徳之島
・ 宮古島
・ 石垣島
などにも同時多発的に行われました。

特に、
・ 伊江島
・ 北(読谷)
・ 中(北谷村嘉手納)
・ 南(浦添)
・ 東(西原)
・ 小禄(現・那覇空港)
の飛行場は集中的に破壊されました。

軍関係船舶も、ほとんどが撃沈、撃破されました。

さらに、
・ 屋我地島のハンセン病療養所
・ 名護国民学校
・ 南風原村与那覇の民家
・ 糸満の民家
なども攻撃を受けました。

沖縄守備隊第32軍の「南西空襲詳報」では、
・ 第32軍の軍人・軍属の戦死者136人
・ 海軍の戦死者82人
・ 陸軍関係の人夫の戦死者120人
・ 民間人の死者330人(このうち那覇市255人)
が犠牲になった、と書かれています。

第32軍は、各種砲弾が多大な損害を受けたほかにも、
・ 県民1か月分に相当する精米3,255トン
・ 味噌などの調味料187トン
沖縄陸軍病院では、
・ 医薬品4割
を失いました。

空爆の第4次(12時40分〜13時40分)と
第5次(14時45分〜15時45分)は、
那覇市に対する無差別攻撃でした。

その結果。那覇市民255人が死亡、
負傷者は358人に達しました。

第4次(12時40分〜13時40分)攻撃では、
多数の焼夷(しょうい)弾が使用され、那覇市中心部の、
・ 上之蔵町
・ 天妃町
・ 西新町
・ 東町
が炎上、
住民が一斉に退避して無人化していたことで消火活動が遅れ、
その後の第5次攻撃も併せて、
那覇市の家屋9割が焼失したのです。

この空襲の時、
民家の防空壕へ真っ先に逃げ込んだのは日本軍兵士で、
後から防空壕に入ろうとする住民を追い出しました。

焼け残った家は軍が徴用し、物は勝手に使い、
残っていた婦女子を暴行するという事件も多発したそうです。


五穀豊穣を祈願して、
約400年間も行われている那覇の大綱引が
一昨日の8日(日曜)午後3時から、
国道58号線久茂地(くもじ)交差点で行われ、
数万人が集まる大盛況でしたが、
62年前の10日は、
このあたりは焼夷弾の投下で火の海だったのです。

posted by RIUさん at 17:45| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(1) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

今日9月7日は、沖縄戦終結の「慰霊の日」〜後編

1945年(昭和20年)7月2日に
米軍が「沖縄戦終了の宣言」をするまでの経緯

九州・台湾の日本軍は、
沖縄へ延べ7,800機もの航空機を送り、
“菊水作戦”とよばれた特攻作戦も敢行されました。

“菊水作戦”は、6月22日まで第10次にわたって行なわれ、
20歳前後の海軍飛行予備学生たちの多くが特攻機で出撃し、
再び帰還することはありませんでした。

不沈艦といわれた戦艦「大和」を中心とした海上特攻隊も
沖縄戦に投入され、
4月7日、沖縄に到達することなく
九州の南方海上で撃沈されました。

日本海軍は沖縄戦に総力を投入し、
飛行機も軍艦もそのほとんどを失うことになりました。

5月3日以降,沖縄守備隊は2度の総攻撃を敢行しますが,
米軍の圧倒的な武力に歯が立たず、
この時点で,日本軍は主力部隊3個師団の約85%に相当する
6万4,000人の戦死者を出し,
大部分の兵員を失ってしまいました。

米第6海兵師団は那覇市安里の北側丘陵地での9日間
「シュガーローフ」の戦いで
米軍は2,600人を超える戦死者と
1,300余人の戦闘恐怖症による精神障害者を出しています。

5月27日沖縄守備隊は首里城の司令部壕を放棄し,
本島南部の摩文仁(まぶに)へ撤退を開始,
5月31日首里城司令部壕は米軍に陥落しました。

小禄飛行場(現那覇空港)の大田実司令官率いる海軍部隊
4千人の将兵は陸軍守備隊と別行動をとり、
撤退せずに武器不足から航空機用機銃を改造するなどして
豊見城の海軍司令部壕(現・海軍壕)で抗戦していましたが
6月中旬には壊滅してしまいます。

大田実少将は6月6日に海軍次官宛てに
「…沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

という訣別電報を打った後、
海軍司令部壕内で6月13日ごろに
拳銃で頭部を打ち抜いて自決しました。

南部戦線において、沖縄守備軍は、
・玻名城(旧・具志頭村、現・八重瀬市)
・八重瀬岳(旧・東風平村、現・八重瀬市)
・与座岳(糸満市)
・国吉真栄瀬岳(糸満市)
の台地を結ぶ線に陣地を築いて米軍に抵抗しました。

守備軍が撤退していった南部一帯には自然壕が多く、
多くの住民が壕の中に避難していました。

そこへ沖縄守備軍兵士と、
軍を頼って軍と共に南部へ移動した住民が
入り交じって沖縄本島最南端の喜屋武(きゃん)岬に
追い込まれてゆきました。

6月7日ごろ、ついに米軍により喜屋武岬一帯は包囲され、
東西10q足らずの地域に、
約3万人の沖縄守備軍兵士と10万人余の住民が
ひしめいていました。

住民は自然壕や海岸の岩影、アダン林の中などに
避難し隠れましたが、
米軍は戦車を先頭に火炎放射機などを使用して
容赦なく追い詰め、
海からは艦砲射撃、空からは飛行機の爆撃や機銃掃射など、
情け容赦ない「掃討作戦」が展開され、
多くの守備軍兵士や地元住民が命を落としました。

住民は頼みとする「友軍」に食糧を奪われ、
壕を追い出されたり、スパイよばわりされ、
虐殺された人も多かったのです。

6月17日までには、沖縄守備隊陣地は突破され
摩文仁岳の司令部壕に米軍が迫ってきました。

翌18日には米軍のバクナー中将が、
沖縄守備軍牛島司令官に降伏勧告状を送りますが、
牛島司令官はこれを拒否し、
日本陸軍第10方面軍宛てに訣別電報を送ります。

翌19日に牛島司令官は、
「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、
 最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」

と、
要するに
「降伏せず、最後の一兵まで天皇陛下のために戦え」
という命令を出し、6月23日未明、
長勇(ちょういさむ)参謀長と共に、
摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決をしてしまうのです。

米軍は、6月21日にはニミッツ元帥の名で
「沖縄戦の勝利」
を宣言していました。

米軍の記録でも同日、
「日本軍の組織的抵抗が終了した」
と記されているようです。

6月25日、大本営は牛島司令官の訣別電報を受けて、
沖縄戦における日本軍の組織的作戦の終結を公表しましたが、
沖縄では米軍との激闘は続いていました。

6月26日には米軍は久米島に上陸しました。

同島には海軍見張り所分遣隊(鹿山隊長他約30名)が
駐屯していました。

この久米島では、鹿山隊によって
20人の島民が虐殺されています。
6月29日までにスパイ容疑で10人が殺され、
日本が無条件降伏した8月15日以後でも
10人が虐殺されているのです。

6月30日には、沖縄守備隊第32軍の
第24師団(山部隊)第32連隊の雨宮巽師団長、
木谷美雄参謀長が自決し、
南部での敗残兵の掃討戦が終わりました。

米軍は、7月2日に
「アイスバーグ作戦(沖縄作戦)の終了」
を宣言しました。

本島北部での掃討戦が実際に終わったのは8月4日でした。


沖縄守備軍が正式に降伏する9月7日までの経緯
軍組織が壊滅して統制を失い、補給も途絶えた日本軍は、
・ 第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)
・ 同連隊指揮下の2個大隊
など
各々が食糧を住民から強制的に強奪しながら、
終戦後もゲリラ的局地戦や切り込みを続けていました。

北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが
米軍に投降したのは8月29日です。

8月15日のポツダム宣言後も、
陸軍の航空機が8月15日に鹿児島県の知覧基地から、
海軍の航空機は8月19日に鹿屋基地から
沖縄へ向けて出撃しています。

ポツダム宣言受諾後、
日本政府は敗戦処理に取り掛かりましたが、
沖縄ではなお戦闘状態が続いていて、
「終戦後」の8月26日には、
沖縄攻略部隊のアメリカ第10軍司令部は、
連合国総司令部から
「9月2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じさせるように」
という命令を受けています。

9月7日、琉球列島守備軍第2八師団長の
・ 納見敏郎中将が宮古島から
・ 奄美大島から高田利貞陸軍中将、加藤唯男海軍少将ら
が降伏調印のために嘉手納基地に召還されました。

沖縄守備隊の三将軍は、
米第10軍司令官スティルウェル大将に対し、
「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」
を申し入れ、
6通の降伏文書に署名して正式に降伏しました。

降伏文書の内容は、次の通りです。
「下記署名の日本軍司令官は、
 1945年9月2日横浜に於いて
 日本帝国政府に依り執行された全面降伏に基づいて、
 ここに正式に下記の境界内の
 琉球諸島を無条件に引き渡すものである」


沖縄守備軍司令部の中では、
高級参謀の八原博通大佐が米軍の捕虜になり、
また、航空参謀の神直道少佐が
大本営報告の命令で本土に脱出したようです。

9月7日の沖縄守備隊の降伏後でも、
「終戦」の伝達は全島に行き届くはずもなく、
9月半ばを過ぎてもなお、
沖縄の各地で敗残兵や住民が
山中や自然壕に隠れていたそうです。



最終的に沖縄守備軍が正式に降伏調印した日が、
61年前の今日9月7日でした。

沖縄でも、特別報道はされませんが、
9月7日というのは、沖縄にとって意義深い日なのです。


沖縄はこのあと、
1972年まで27年間、米国の植民地となったのです。

posted by RIUさん at 15:30| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日9月7日は、沖縄戦終結の「慰霊の日」〜前編

今日9月7日というのは、
私は個人的に、とても大事な日なので、
今日はこのことについて記述します。

沖縄の「慰霊の日」とは、
「戦火で亡くなった人を悼み喪に服する日」
のことで、
毎年6月23日に
糸満市摩文仁の平和記念公園で沖縄戦全戦没者追悼式など、
県内あちこちでイベントが行われています。

「慰霊の日」が近づくと、図書館では、
・ 沖縄戦関係図書
・ 沖縄戦の写真
・ 図表
などが展示されますし、
博物館では沖縄戦当時の遺品や敗戦後の生活用品や
落下傘で作った衣類、
1オンスの缶詰缶で作ったカンカラ三味線などが展示されます。

戦跡めぐり、講演会もあちこちで行われ、
学校ではクラスごとの平和学習などが行われたりしています。

6月23日の当日12時には「黙とう」し、
この日は沖縄県だけの準「祭日」扱い日になっていますから、
この日に運悪く沖縄観光に来ようものなら、
あちこち臨時休業で驚かれた方もいると思います。

「慰霊の日」が、
終戦記念日(8月15日)前の6月23日に、
なぜ設定されているかの経緯は昨年記述していますので、
お時間のある方はご覧下さい。
・ 2005年6月22日 慰霊の日


昭和20年8月15日の終戦後も、
沖縄では局地戦が展開されていて、
9月7日に嘉手納の米軍司令部で
正式に沖縄守備軍が降伏文書に調印して、
正式な終戦になりました。

そういうわけで、
「日本陸海軍の組織的抵抗は、
  この沖縄戦の終結をもって終了した」

という、
今日は「沖縄戦終結の日」なのです。


米軍の沖縄上陸までの経緯
1942年(昭和17年)6月の
無謀なミッドウェー海戦で日本海軍が完敗したことで
日本軍は制海空権を失い、
太平洋戦線からの後退を余儀なくされ、
日本が占領する太平洋上の島々を次々と米軍が制圧し,
日本本土攻略の機会を伺うようになりました。

後退する戦局のなかで、台湾と沖縄の基地の重要性が高まり,
1943年(昭和18年)夏ごろから,
・ 沖縄本島
・ 伊江島
・ 宮古島
・ 石垣島
など10数か所に,
日本軍の飛行場建設のための突貫工事が行われるともに,
翌1944年(昭和19年)3月には,
南西諸島の防備を強化するため,
沖縄守備軍(第32軍)が創設され,
同年6月から
中国戦線や本土からの実戦部隊が配置増強されました。

1944年(昭和19年)6月29日には、
沖縄に向かう独立混成第44旅団・第45旅団の
将兵約4,600人を乗せて鹿児島から出航した
軍用船・富山丸が徳之島沖合いで,米潜水艦に撃沈され,
約4,000人が亡くなりました。

また同年7月には,老幼婦女子の疎開計画が実行され,
8月中旬から学童疎開が始まり,
8月22日には826人の学童を含む1,661人が
「対馬丸」に乗り込み出航しますが、
米潜水艦ボーフィン号の攻撃を受け沈没,
一瞬にして1,484人が犠牲になりました。
・ 学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その1
・ 学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その2
・ 学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その3

米軍は,沖縄戦を“アイスバーグ(氷山)作戦”と名づけ,
約1,500隻の軍艦と,
戦闘部隊と補給部隊を合わせて54万8,000人もの
兵員を動員して沖縄攻略を展開するのですが、
その一環として,同年10月10日,
米空軍のB−29型爆撃機など、
延べ900機による9時間に及ぶ
激しい空襲(10・10−じゅうじゅう空襲)が
那覇・首里をはじめ
宮古島,石垣島,大東島などに敢行されました。

この空襲で,548人が死亡し,家屋1万1,451戸を焼失,
那覇の市街地の90%が焦土と化したうえ,
県民の1月分の食糧を意味する30万の米俵や
貴重な歴史的遺産が数多く焼失しました。

10月10日の空襲の後,
第32軍から精鋭部隊の第9師団(武部隊)が,
台湾防備の強化を目的に移動したため,
沖縄守備軍の兵力不足は深刻さを増します。

そのため日本軍は,
1945年(昭和20年)の2月〜3月にかけて
法的根拠もないまま,16歳から45歳までの沖縄住民の男子を
司令官命令で招集し,
・ 陣地構築や飛行場の建設労働
・ 伝令
・ 物資の移動・運搬
・ 戦場
等、二等兵以下の都合の良い下働き準戦闘員に動員したのでした。

米空軍は,1945年3月9日夜から10日にかけて
サイパン,グァム,テニアンの各基地から飛び立った
300機を超えるBー29の大編隊で
夜間の東京に大空襲を敢行します。

この東京大空襲の焼夷弾投下で東京の下町一帯は火の海となり,
江東地区は全滅,約23万戸が全焼し,
100万以上の人が家を失い,
12万人以上の死傷者を出しました。

このころより本土空襲が激化し,
・ 3月11日には名古屋
・ 3月14日には大阪(13万戸が焼失)
・ 3月18日から20日にかけては九州各地
続いて四国,呉が空襲されました。

高度1万メートルからのBー29の爆撃では、
地上の高射砲は全く役立たず,
迎撃用の日本の戦闘機は既になく,
国民は空襲や火災から逃げ惑うことや、
竹槍を持って、米軍上陸に備えるくらいしかできなかったのです。

米軍は3月26日に,
沖縄西方25キロの慶良間(けらま)諸島に上陸し,
激しい戦闘が展開されました。

慶良間諸島は大小約20の島々からなりますが,
住民の多くが住んでいたのが
渡嘉敷(とかしき)島と座間見(ざまみ)島でした。

慶良間諸島上陸は,
水上機基地・補給基地としての戦略的価値を重視した
ニミッツ元帥の戦術でした。

米艦隊からの猛烈な艦砲射撃の後の米軍の上陸で,
島の住民たちは窮地のたち,追い詰められます。

日本軍は無策にも海岸地帯に食糧を保管していたため,
米軍の上陸でその全てを失ったことで、
日本軍は,住民から食糧を強制的に供出させ,
米軍の攻撃に備えて日本軍は安全な壕の中、深くに陣取りました。

壕を追い出された住民は裸同前で米兵の前に放り出され、
流浪することになりました。

米軍との持久戦を想定した日本軍にとって,
住民は足手まといになるばかりか,
食糧不足の要因にもなることで、
日本軍は,住民に集団自決を強いることになり、
その結果,700余人が自決に至り、
米軍は3月29日までに,慶良間諸島を制圧します。

米軍は4月1日午前8時36分,
第24陸軍と第3海兵隊を主力とする
米太平洋艦隊司令官兼太平洋方面部隊指揮官ニミッツ大将配下の,
バックナー中将の率いる将兵18万2,000人を擁した
第10軍が沖縄本島中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷)に
上陸作戦を敢行しました。
 読谷村上陸.jpg

迎え撃つ日本の沖縄守備軍・第32軍は,
・ 第24師団(山部隊)
・ 第62師団(石部隊)
・ 独立混成第44旅団(球部隊)
のほか,
いくつかの砲兵部隊を主力とする陸軍8万7,000人と
海軍1万人,それに沖縄県民義勇隊2万2,000人という、
合計しても米軍の4分の1の戦力に過ぎなかったのです。

日本軍が米軍の上陸を阻止するという水際作戦を放棄したことと,
米第2海兵師団が南部から上陸しようとみせかける陽動作戦に,
日本軍が完全にはまり、
中部戦線が手薄になっていたこともあって,
上陸作戦敢行わずか1時間足らずで
1万6,000人の米軍兵士が
「演習気分」で無血上陸に成功してしまったのです。


長くなりそうなので2回に分けることにしました。

posted by RIUさん at 11:10| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月22日

今日は、学童疎開船「対馬丸」が撃沈された日です。

今日8月22日は、学童疎開船「対馬丸」が
米海軍の潜水艦に撃沈されて、62年目にあたります。

犠牲者を追悼し、心よりご冥福をお祈りいたします。

昨年、学童疎開船「対馬丸」については、
このブログでも3回に分けて記述しましたので、
ご興味のある方はご覧下さい。

学童疎開船「対馬丸」が撃沈〜その1
学童疎開船「対馬丸」が撃沈〜その2
学童疎開船「対馬丸」が撃沈〜その3

posted by RIUさん at 09:57| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月23日

今日は「慰霊の日」

今日は、沖縄では官公庁や多くの会社、
学校が休日扱いになる「慰霊の日」です。

「戦火で亡くなった人を悼み喪に服する日」
で、小泉将軍様も式典に出席されるようですが、
それが、
「なぜ6月23日なのかexclamation&question
ということに疑問を感じています。

昭和20年の沖縄は、
6月23日以降も、多くの生存者が逃げ惑い、
多くの被害者を出しました。

8月15日の終戦以降も、局地的な戦闘がありました。

沖縄戦が終わったのは、
終戦後3週間も経った9月7日のことなのです。

私は、この日が「慰霊の日」だと思っています。

詳細は、昨年記述しましたので、興味のある方はご覧下さい。

posted by RIUさん at 12:00| Comment(0) | TrackBack(2) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月13日

「有川中将以下将兵自決の壕」の無残と「魂魄(こんぱく)の塔」

沖縄本島南部の糸満市真壁や米須地区は、
直径2kmの円にスッポリと収まるほどの区域なのですが、
ここは沖縄戦の大激戦地でした。

ひめゆりの塔がある第三外科壕も、この区域にあります。

ひめゆり学徒が、
壕にガス弾を投げ込まれ多くの死者が出たのは
昭和20年6月19日でした。

有川主一中将は石第64旅団長として奮戦していましたが、
米軍による圧倒的な武力により旅団将兵は玉砕し、
昭和20年6月21日の未明に、
有川主一中将や高級副官竹下勇大尉以下、
一部の将兵と共にこの壕で自決したのです。
有川中将ゥ決の壕.jpg
この壕は、
直径約8m、深さ約3mの壺の様な形の大きな穴で、
今でも覗き込めるようになっていますが、
この中に、なんと多くのゴミが投げ込まれているのです。
壕の中にフてられたゴミ.jpg
なんて罰当たりな人がいるのでしょうか。

ここは、霊感の強い人には、深夜
「敵襲だぁーっ!」
という声が聞こえる、
という所としても有名なのですが、
声が聞こえる怖さより、壕に落ちる方が怖いと思いますよ。
壕には、柵もないのですから。

この米須霊域には、
・ 北海道
・ 東京都
・ 奈良県
・ 和歌山県
・ 香川県
・ 広島県
・ 島根県
・ 鳥取県
・ 大分県
の慰霊碑の他に、
・ 有川中将以下将兵自決の壕
・ 開南健児の塔
・ 魂魄(こんぱく)の塔
があります。

上記の他の府県は、平和記念公園内に慰霊碑があります。

『沖縄戦の慰霊の碑』
というと、
摩文仁(まぶに)の
「平和祈念公園」
を思い浮かべると思います。

太平洋を一望出来る丘の上に、
国籍及び軍人、民間人を問わずに、
沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ記念碑
『平和の礎(いしじ)』があり、
天皇陛下や総理大臣も慰霊に来られますから、
ご存知の方も多いと思います。

ここは、平成7年6月23日の
「慰霊の日」
に完成したのですが、
それ以前は、同地は昭和54年2月から
「国立沖縄戦没者墓苑」
となっていました。

さらにそれ以前は、
現在の平和記念公園から2kmほど南の
米須霊域の「魂魄(こんぱく)の塔」が、
沖縄戦の戦没者慰霊塔だったのです。
壕邂の塔・石碑.jpg
終戦後、
道路や畑の中などに散乱していた遺骨約3万5千余柱を
村民が集めて弔ったのを
「魂魄(こんぱく)の塔」
としたのです。

壕邂の塔.jpg
昭和54年に「国立沖縄戦没者墓苑」に分骨する前は、
遺骨が多すぎて半円形のドーム状になっていました。

ここは、いつしか忘れ去られて、
訪れる人も少なく閑散と静まり返っているのです。

壕邂の塔・石碑2.jpg



posted by RIUさん at 12:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

今日は「出陣学徒壮行会」の日〜その3「各地での壮行会」

10月21日 今日は「出陣学徒壮行会」の日〜その1
10月22日 今日は「出陣学徒壮行会」の日
                   〜その2「出陣学徒の戦没数」


文部省・学校報国団本部主催の「出陣学徒壮行会」は、
10月21日に明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で
行われましたが、
翌月には仙台と名古屋の2ヶ所でも、
岡部長景文部大臣のもとで実施されています。

仙台・名古屋では、
数県にわたる大学・高専校の連合野外演習に続いて行われました。

東北・北関東学徒野外連合演習並びに出陣学徒壮行会
一. 日時
   昭和18年11月17・18日

二. 場所
   仙台・岩沼間一帯の仙台平野、宮城野原練兵場

三. 参加学徒
   青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県・
   茨城県・栃木県・群馬県・新潟県の合計10県に
   所在する大学・高専37校、
   宮城県下中等学校29校、合計約9,000名

四. 演習の経過
   青葉兵団(北軍)・関東兵団(南軍)に分かれて
   攻防戦、在地部隊より砲兵・飛行機も応援

五. 壮行式
   11月18日 午前11時、宮城野原練兵場
   岡部長景文部大臣が馬上より閲兵・分列受礼、宣戦の詔書奉読、訓辞
   壮行の辞  仙台高等工業学校学徒 荒谷英一
   答辞    東北帝大法文学部学生 平井啓一


東海地区学徒野外連合演習並びに出陣学徒壮行会
一. 日時
   昭和18年11月21・22日

二. 場所
   名古屋市郊外本地ヶ原・天白村・小幡ヶ原

三. 参加学徒
   静岡県・愛知県・三重県・岐阜県・山梨県・長野県の
   合計6県に所在する大学・高専33校、
   愛知県下中等学校50校、合計約1万2,000名
四. 演習の経過
   北軍・南軍に分かれて対峙し、
   攻防戦、在地部隊より砲兵等応援、学鷲(がくわし)6機も参加、
   岡部長景文部大臣が馬上より統監

五. 壮行式
   11月22日 午前10時半、小幡ヶ原
   岡部長景文部大臣が馬上より閲兵・分列受礼、宣戦の詔書奉読、訓辞
   残留学徒壮行の辞、出陣学徒の答辞


その他の地区でも下記のように壮行会が行われました。

在阪出陣学徒壮行式
一. 主催
   学校報国団大阪地方部

二. 日時
   11月16日 午前9時半

三. 会場
   大阪中之島公園

四. 参加学徒
   大学・高専26校、1万3,161名(うち女子2,774名)

五. 式次第
   宮城・靖国神社遥拝
   君が代奉唱(大阪警備府海軍軍楽隊演奏に併せる)
   宣戦の詔書奉読、訓辞  
         学校報国団大阪地方部長・真島利行(阪大総長)
   激励の辞 中部軍司令官 後宮淳ほか
   壮行の辞 男子代表   阪大医学部学生   大賀泰郎
        女子代表   府立女専英文科生徒 中川照代
   答辞   出陣学徒代表  大阪商大学生   小川 武

六. 分列行進
   出陣学徒を先頭に、女子学生も加わって天神橋上に整列、
   松屋町筋を行進、大阪府立実業会館前(現・商工会議所付近)の
   受礼台に立つ真島総監に頭右(かしらみぎ)、11時半終了


神戸出陣学徒壮行会
11月19日 東遊園地

京都出陣学徒壮行会
11月21日 平安神宮前

札幌学徒壮行式
11月29日 大通聖恩碑前広場

中国、四国、九州地区でも行われたはずですが、資料が見つかりません。
また、「外地」と呼ばれていた以下の都市でも壮行会が行われていました。

満州地区(在満学徒壮行会)
11月3日  新京(現・長春)・ハルビン・奉天(現・瀋陽)・大連

台湾地区
10月21日  台北

中国地区
11月27日  上海

posted by RIUさん at 14:26| Comment(0) | TrackBack(1) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月22日

今日は「出陣学徒壮行会」の日〜その2「出陣学徒の戦没数」

出陣学徒の戦没数

戦局悪化の補てんとして最前線に送られた多くの学徒は、
再び学窓に戻ることなく、故郷から遠く離れた異国の地で、
どうやって亡くなったのかもわからないまま散ってゆきました。

終戦後各地の戦友会や出陣学徒を送り出した大学が
戦没者調査を行っていますが、
尊い犠牲の総数は、いまだに正確にわからないのです。

・ フィリピン−ルソン戦   戦没者約900名
・ 戦艦大和出撃作戦    戦没者約 18名
・ 航空特攻隊−陸軍特操二期  戦没者約 76名
・ 航空特攻隊−海軍飛行科予備学生十四期 戦没者約157名
・ 航空特攻隊−海軍飛行科予備生徒一期  戦没者約 40名
など、
作戦ごとの学徒戦没者数は、ある程度記されているものもありますが、
アジア全域での学徒戦没者数は、
推計でしか出すことができないのです。


海軍予備学生・生徒の資料
・ 飛行科第十四期予備学生  
卒業者数3,323名  戦没者数411名  戦没率12.3%

・ 飛行科第一期予備生徒  
卒業者数2,208名  戦没者数165名  戦没率 7.4%

・ 兵科第四期予備学生  
卒業者数3,408名  戦没者数270名  戦没率 7.9%

・ 兵科第一期予備生徒  
卒業者数1,029名  戦没者数 89名  戦没率 8.6%

・ 主計第十一期見習尉官  
卒業者数 559名  戦没者数 55名  戦没率 9.8%

卒業者数合計1万527名  戦没者数990名  戦没率平均 9.4%


出陣学徒を送り出した大学による調査
・ 東京大学  
  昭和18年12月入隊数2,884名  
  戦没者数279名  
  戦没率9.6%

・ 東京商大  
  昭和18年12月入隊数821名  
  戦没者数75名  
  戦没率9.1%

海軍予備学生・生徒各科、東京大学、東京商大は、
ごく一部の資料ですが、いずれも9%台になっています。

粗っぽい計算になりますが、これで全体を推計してみると、
昭和18年12月の入隊者総数を大まかに5万名として、
上記3者の平均9・3%を掛けると、4650になりますから、
出陣学徒の推定戦没者数は約4600名になります。
posted by RIUさん at 15:05| Comment(0) | TrackBack(1) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月21日

今日は「出陣学徒壮行会」の日

行進2.jpg
行進.jpg
行進・東大.bmp
行進・最前列.jpg
学徒の行進・脚.jpg
行進・スタンド.jpg
東条英機.jpg


学徒出陣に至る経緯
1937年(昭和12年)に始まった日中戦争は、
中国に多くの利権を持つ米・英と日本の対立を悪化させ、
1941年(昭和16年)12月、
日本が米国・英国に宣戦布告して
大東亜戦争を始めることに至りました。

ハワイの真珠湾攻撃やシンガポール・フィリピン占領など、
当初は破竹の勢いで日本に有利であった戦局も、
開戦2年目頃からは次第に戦局が悪化し、
1943年(昭和18年)になると、
南太平洋にまで広がった戦線も次第に後退を余儀なくされ、
大本営による過大な戦果報道の中、
戦況は国民の眼にもおぼろげながら
劣勢に向かっていることが感じられるようになりました。

広大な戦域に広がっての兵員の損耗ははなはだしく、
それを補うために勉学途中の大学生・高等学校生・専門学校生の
徴兵猶予を停止して兵役に服させ、最前線に送ることになりました。

それが「学徒出陣」で、
その第一陣が、1943年(昭和18年)12月に
入隊することになりました。

入隊を控えたこれら学生、生徒(学徒)のうち、
首都圏にある一都三県の77校に在学する学徒を、
10月21日に明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)に集めて、
その走行を激励するために
文部省・学校報国団本部主催で開かれたのが「出陣学徒壮行会」です。

“学徒出陣”というと、
雨の中を銃剣を担って悲壮な面持ちで学校別に
勇ましく行進する姿が思い浮かべられるほど、
忘れることができない、また忘れてはならない場面なのです。

この時の情景を、参列した一学徒は、
当時を追懐して下記のように書いています。

  昭和18年10月21日―私たちにとっては思い出深い日である。
  迫り来る苦難の日々を象徴する如く、
  東京の空は低く垂れ込めた雨雲に覆われて、
  出陣学徒壮行会の行われた明治神宮外苑競技場には、
  秋雨が冷たく降っていた。
  分列行進の先頭をつとめた東京大学の校旗は、
  白地に「大学」と紋章型に記しただけのものであったが、
  それだけに厳粛でまた凛(りん)然とした感を与えた。
  スタンドは理科系学生や女学生など見送る学生で埋められていた。
  送る者も送られる者も、
  戦況の不利を思い祖国の前途を思うと悲壮であった。
  その後の2年近くの歳月の中で、
  冷雨の中を校旗を奉じて粛々と進んだ隊列の中からも、
  雨に打たれて友を見送ったスタンドの中からも、
  多くの青春の御霊(みたま)は、
  遥かなる山河に眠って再び学窓に帰らぬ人となった。
    (東大十八史会編「学徒出陣の記録」・はじめに、昭和43年)



出陣学徒壮行会要綱
(読みやすいように、カタカナをひらがなに変換しました)
一、 目的
  大東亜戦争決戦に当たり近く入隊すべき学徒の尽忠の至誠を傾け
  其の決意を昂揚(こうよう)すると共に
  武運長久を祈願するため「出陣学徒壮行会」を挙行し、
  其の行いを壮ならしめんとす。
二、 主催
  文部省、学校報国団本部
三、 実施日時
  昭和十八年十月二十一日
  1 集合完了  八時三十分
  2 分列開始  八時五十分
  3 開  式  十時
四、 会場
  明治神宮外苑競技場
五、 参加範囲
  1 東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県所在の
    男子官公私立大学、高等、専門学校、師範学校学徒にして
    本年度徴兵検査を受くべき者
  2 右学校学徒にして本年度徴兵検査を受けざる者の中代表者
  3 東京都内女子高等師範学校、女子専門学校、
    師範学校女子部学徒中代表者
六、 服装
  1 出陣学徒(本年度徴兵検査を受くべき学徒)
    男子は制服に脚絆を穿ち制帽を用うること
    女子は制服を着用すること
    水筒及昼食を携行すること
(七、標識 八、隊の編成 九、集合…省略)


壮行式典
要綱に示された分列行進開始時間は、
雨天のため集合に時間を要したからか、
実際には30分遅れた9時20分に始まりました。

陸軍戸山学校軍楽隊演奏の観兵式行進曲の旋律に合わせて、
東京大学(当時は東京帝国大学)を先頭に
官・公・私立大学の順で分列行進が続き、
その後を高等学校、専門学校が
これも官・公・私立の順で行進しました。

先頭の東京大学は校旗を奉じた6人の一隊を最前にして、
銃剣を担った八列縦隊、一列100人の隊列が、
一大隊800人の集団で数大隊続くことになっていました。

競技場北側入口(時計台下)より行進を開始し、
中央貴賓席前の受礼台に立つ岡部長景文部大臣に
頭右(かしらみぎ)の礼をした後、指定の場所に整列しました。

要綱の示すところによると、
文科系、理科系を問わず本年度徴兵検査を受けるべき者が
行進に加わることになっていて、
実際に理科系・師範系の大学在学生も行進しています。

行進に加わることになっていたのは全体で32大隊と
予定されていたようですから、
参加総数は2万5千名前後、ということになります。

それから21年後の1964年(昭和39年)
東京オリンピックのエントリー選手が5,541名で、
開会式にグランドに整列した選手団が各国役員を加えても
7千余名であることからしても、
その3倍を超す学徒が整列した出陣学徒壮行会の壮絶さが
思いやられます。

また、出陣学徒を見送るために競技場スタンドを埋めたのは
徴兵適齢前学徒や、兵役に関係のない女子学徒で、
その総数は107校6万5千名と報道されています。

分列行進に約1時間を要し、壮行式典は予定より10分遅れて、
午前10時10分開式となりました。

式典の次第は下記の通りです。
一、宮城(きゅうじょう)遥拝(ラッパ「君が代」吹奏)
一、君が代奉唱(二小節前奏後一同奉唱)
一、明治神宮、靖国神社遥拝(ラッパ「国の鎮め」吹奏)
一、宣戦の詔書奉読(文部大臣)
一、祈念(戦没者および前線将兵に対する黙祷)
一、内閣総理大臣訓辞
一、文部大臣訓辞
一、在学学徒代表壮行の辞
一、出陣学徒代表答辞
一、「海ゆかば」斉唱(二小節前奏後奉唱)
一、万歳奉唱

最初に宮城遥拝などの冒頭儀礼があって、
その後、東条英機首相が訓辞を行いました。

冒頭に藤田東湖の正気(せいき)の歌
「天地正大の気、粋然として神州に集まる」の部分を引用して、
「諸君の前に立ち親しく相見えて私は神州の正気粛然として
今ここに集結せられて居るのを感ずる」
と述べ
「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就き、
祖先の遺風を昂揚(こうよう)し仇(あだ)なす敵を撃滅して
皇運を扶翼(ふよく)し奉るの日は来たのである」
と激励しました。

この後、残留学徒代表として
慶応義塾大学医学部学生奥井津二が壮行の辞として
「吾々も諸兄に続いて召されて征く日を想ふと湧き上がる感激に連る」
と述べ、
「処刑が学窓を去って戦場に赴くことは
決して学徒たることを止めることでないのと等しく、
吾々学窓に留まるものも
決して兵士たることを忘れ去ることではない」
と戦線と学窓が連なる気持ちを述べ、
「どうぞ諸兄元気で征って下さい」
と結びました。

こうした壮行の辞を受けて
出陣学徒を代表して
東京大学文学部学生江橋慎四郎が答辞を述べました。

それは、まず明治神宮外苑という
多年武を練り技を競った思い出多き地での壮行会開催に感謝し、
「生等(せいら)今や見敵必殺の銃剣を提げ、
積年忍苦の精進研鑽を挙げてことごとくこの光栄ある重任に捧げ、
挺身以って頑敵を撃滅せん、生等もとより生還を期せず、
在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、
屍を乗り越え、邁往(まいおう)敢闘、
以って大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、
皇国を富岳の奉(やす)きに置かざるべからず」
と漢文調の悲壮な文言を連ねて出陣の気持ちを述べました。

こうして「海ゆかば」を斉唱し、
万歳奉唱をして閉式になりました。

閉式後、出陣学徒は二隊に分かれて
宮城遥拝のための行軍に移りましたが、
その際に白いブラウスに制服姿の女子学生が、
流れる涙をぬぐいもせず、
退場しようと行進する出陣学徒に駆け寄る姿は、
故国の急を救わんと戦線に向かう学徒の胸を打つものがありました。

当時、日本女子大生として参列していた作家・杉本苑子さんは、
その時の送る側の気持ちと会場の空気について
次のように書いています。

 …学生の行進が開始され、ゲートの方に進み始めました。
 大正14年生まれの私どもは、
 小学校からずうっと軍国主義教育の真っ只中に育ってきましたから、
 学生たちが去って行くとき、かちかちに感激してしまいました。
 涙をポロポロこぼし、わあわあ泣きながら、
 みんなは、なだれをうったように学生たちの方へ駆け出しました。…
 あの日、行く者も残る者も、ほんとうに、これが最後だと、
 何というか、一種の感情の燃焼がありました。
 この学生たちは一人も帰ってこない、
 自分たちも間違いなく死ぬんだと。
   (「サンデー毎日」1973年10月28日号所収)


「海ゆかば」は、万葉集に出典されている大伴家持の歌を歌詞にしているんですね。

posted by RIUさん at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月21日

学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その3

対馬丸の引き揚げ問題
対馬丸が遭難して53年を経過した1997年(平成9年)12月4日、
科学技術庁の海洋探査機「ドルフィン3K」が、
鹿児島県悪石島北西沖約10キロの海底870mの深海に眠る
対馬丸の船名の撮影に成功しました。

船首部に描かれた「丸馬對」の文字を示す写真は、
沖縄県民に衝撃を与えました。

遺族らは、船体引き揚げや遺骨収集を政府に陳情します。

翌年の1998年(平成10年)12月24日、
対馬丸船体引き揚げ可能性調査検討専門家会議は総理府で記者会見し、
「船体の傷みが激しいのと水深が深すぎることから技術的に不可能」
とする最終調査結果を発表しました。

時の総理大臣は「平成おじさん」の小渕恵三。

平成10年6月の参議院選挙で自民党が大敗し、
橋本内閣は総辞職に追い込まれました。

小渕恵三が梶山静六、小泉純一郎を破り自民党総裁に就任し、
当時野党の公明党、自由党に接近し、
何とか自民党が政権を維持して小渕恵三内閣が発足した、
という混沌とした時期でした。

小渕首相は九州・沖縄サミット開催を実現し、
沖縄県名護市の万国津梁館近くに銅像が建立されていますが、
小渕恵三内閣は、
「内閣総理大臣はあくまで全体の方針を策定するだけで、
 各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せる」
というのが小渕恵三の基本姿勢であり、チームワーク型の内閣が特徴でした。

現在の小泉純一郎内閣の是非はともかく、
小泉内閣が強いリーダーシップを執り
国務大臣はその補佐に徹するようなワンマン大統領型内閣と、
小渕内閣とでは組織運営の違いが鮮明にあり、
対馬丸の引揚に関しては、小渕恵三は関心がなかったのだと思います。

「関心がなかった」というより、政権維持で精一杯だったのでしょう。

平成10年11月に、小渕恵三は公明党の地域振興券導入を受け入れ、
自由党党首 小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意しています。

その時期の「対馬丸引き揚げ」の話は、
タイミング的に後回しにされたと言っても過言ではないでしょう。

タイタニック号は、深さ約4000mに沈んでいても、
一部の船体は引き揚げられました。

要は、政府に「引き揚げる気があるかないか」の問題でしょう。

“御用学者”は、いつの時代でも強者の言いなりですから。

そういう経緯で、犠牲者の慰霊のための代替案として浮かんできたのが
「記念館建設」でした。


対馬丸記念館のオープン
「対馬丸記念館」は、この惨事で九死に一生を得た生存者と
遺族を中心とする財団法人対馬丸記念会が、
疎開船「対馬丸」の沈没後60年目にあたる、
昨年の2004年(平成16年)8月22日、
悲劇を後世に伝え、国境を越えて平和へのメッセージを
発信し続ける場にしようと、
対馬丸が出航した那覇港を望む那覇市若狭1丁目にある旭ヶ丘公園内の
遭難学童慰霊「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」が開館されました。

当時甲板員として乗船していた中島高男氏の協力で
船室が再現されているほか、同会が収集した遺影や名札、ランドセル、
証言を基にしたパネル、船の模型など約200点が展示されています。

遺品の多くは海底に沈んだり、遺族の空襲被災で、
遺品の極端な少なさが戦争の悲惨さを物語っています。


対馬丸記念館建設までの問題
対馬丸戦没者祈念館建設に関する平成14年度の沖縄県議会において、
対馬丸記念館建設にかかる費用は、
調査設計費     3千万円(国費負担)
記念館建設費    2億円 (国費負担)総面積500u
展示資料収集費等  1億円 (国費負担)
土地        那覇市提供 旭ヶ丘公園内:小桜の塔周辺)
管理運営費1千万円は県行政や県議会が拒否すること
となり、
・ 管理運営費など健全な収支計画の確立
・ 祈念館の管理運営は財団法人の責任で対処し、財政的支援は行わない
と結論付けられ、
『対馬丸記念館の管理運営費に関しては、
 沖縄県の財政状況を考えると拠出することはできず、
 将来の管理運営費の責任を考えると、
 対馬丸記念館建設そのものにも賛成しかねる』
という、
「建物は政府が全額負担で建てるから良しとして、
 建設後の維持管理運営費は県予算や県議会からは1円も出せないけど、
 どうするの?それでもやるの?」
という、とても沖縄県人の発想とは思えない考え方をする
マヌケな御用議員たちの意見が大勢を占めてしまいました。

沖縄県には、2枚の切り札があります。

1枚は「沖縄戦」、もう1枚は「米軍基地」です。

その2枚のカードで、1972年の復帰以来、
33年間で7兆7千億円もの巨額を政府からせしめていながら、
いまだに沖縄は貧乏なままです。

言い換えれば、33歳の働き盛りの人が、
3割しか稼ぎ出すことができず、7割を生活保護(政府)に頼っているのが、
今の沖縄なのです。
(このあたりの話は、また後日行います)
県庁や県議員に坂本竜馬みたいな人が1人でもいれば良いのですが…

頼みの県庁や県議会が、こんな程度ですから、
記念館建設に関しては、さすがに遺族会でも賛否が分かれたようです。

反対意見の多くは、建設後に課せられる自主運営の難しさを危ぐしていました。

しかし
「同じ悲劇を繰り返さないための学習の場に」
との願いが一致して、建設へ動き出します。

記念館は、その運営を入館料や友の会会費、寄付金で
切り盛りしなくてはなりません。

沖縄で下らない観光地に行くなら、ぜひ対馬丸記念館を拝観して下さい。


疎開を指揮する立場の県知事が、自ら疎開してしまった@
昭和19年12月31日の段階で、
沖縄県の人口は約59万人であり、
その内の約49万人は沖縄本島に残留していました。
県民の疎開は、
・ 輸送力の低下
・ 米軍の攻撃
・ 県民の郷土への執着
・ 見知らぬ土地への疎開に対する不安
など様々な要因から思うように進捗せず、
昭和19年7月から昭和20年3月上旬まで
九州以北の本土および台湾に疎開した県民は約8万人にとどまります。

そこで昭和19年12月、
軍司令部は激戦が予想される沖縄本島南部の非戦闘員を
比較的安全と予想される沖縄本島北部に
以下の通り疎開させることを沖縄県当局者に強く要望します。

・ 60歳以上の老人および国民学校以下の小児を
  昭和20年3月末までに北部に疎開させる。
  軍は北行する空車両および機帆船をもって疎開を援助する。
・ その他の非戦闘員は戦闘開始必至と判断する時期に
  軍の指示により一挙に北部に疎開する。
ところが、ここで沖縄県行政に信じ難い大失態が生じてしまうのです。


昭和19年10月10日の空襲
米軍は、
・ レイテ島上陸を成功させるための側面攻撃としての空襲
  レイテ島への侵攻を日本軍によって阻止されないようにするため、
  沖縄の飛行基地と港湾を襲い、
  飛行機や艦船などを撃破することを狙いとしていました。
  レイテ沖海戦(10月24日・25日)では、
  日本海軍は敗北、事実上潰滅することになります。
・ 沖縄上陸作戦の地図を作るための空中写真撮影も目的としての空襲
  沖縄本島全域に艦載機による爆撃を行い、主な都市を焦土と化しました。

沖縄本島
第1次攻撃 午前6時40分〜午前8時20分、
      延約240機、飛行場に来襲
第2次攻撃 午前9時20分〜午前10時15分、
      延約220機、船舶および飛行場に来襲
第3次攻撃 午前11時45分〜午後12時30分、
      延約140機那覇、渡久地、名護、運天港、与那原、泡瀬などの
      港湾施設に空襲
第4次攻撃 午後12時40分〜午後1時40分、
      延約130機、那覇市集中攻撃
第5次攻撃 午後2時45分〜午後3時45分、
      延約170機:那覇市集中攻撃
大東島
午後1時55分〜午後3時50分、18機、漁船、飛行場
奄美大島
午前7時45分〜午後4時7分、延約50〜60機、古仁屋、名瀬を爆撃
徳之島
午後2時50分〜午後3時、延約50機、飛行場
宮古島
午前7時30分〜午後1時35分、延約32機、海軍飛行場および船舶

被害状況
日本軍
戦死218名(第32軍136名、海軍82名)
戦傷243名(第32軍227名海軍16名)
民間
死亡:330名(うち那覇255名)
負傷:455名(うち那覇358名)
全焼、全壊:11451戸(内那覇1万1010戸)

特に那覇市は全市の9割の家屋が全焼全壊しました。
空襲による食糧の損害も多大で、
主食・副食・調味料等沖縄県民1か月分に値する量の損害を受けました。

飛行機や艦船も多く撃破され、
また兵器・弾薬・車両などの軍需品の多くは
港湾揚陸直後で分散し得なかったため、多大な損害を被りました。

これが沖縄の「10・10空襲」と呼ばれるものです。


疎開を指揮する立場の県知事が、自ら疎開してしまったA
沖縄県知事の泉守紀は10月10日の大空襲に恐怖し、
県庁を放棄して本島北部に退避してしまい、
県行政に支障を与えてしまいます。

12月23日には、なんと泉は東京に逃亡してしまいます。

さらに人脈を通じ、裏工作で、
処罰されることなく香川県知事に転出してしまうのです。
「世渡りがうまい」というより、ここまでくると呆れたものです。

ヘタな小説に出てくるようなお粗末さですね。

政府は政府で、県知事が逃亡したなら、
その穴埋めとして、臨時に第32軍司令官牛島満中将にでも
行政権限を委譲すれば良かったのですが、それもせず放置していました。

泉の敵前逃亡から昭和20年1月31日に新任の県知事として
島田叡が沖縄に着任するまでの約1ヶ月間、
沖縄県行政はほとんど停止状態に陥ってしまっていたのです。

この結果、県知事逃亡以降3月中旬までの3ヶ月間に
沖縄本島北部に疎開できた県民は約3万人にとどまり、
南部に残留することになった多くの県民が、
昭和20年4月1日嘉手納湾に上陸してきた米軍と
日本軍との地上戦闘に巻き込まれ、
洞窟陣地内に非戦闘員を抱え込んだ第32軍の作戦行動は
著しく阻害されてしまうことに至ります。

戦火の下で食糧の確保、避難者の受け入れ、壕生活の改善、治安維持、
防諜など行政の任務遂行に最善を尽くした新任・島田叡県知事は、
6月18日摩文仁の北西3キロの轟の壕の中で殉死?し、
牛島司令官と長勇参謀長は、6月22日摩文仁の軍司令部坑道口外で
頭を拳銃で射抜いて自決し、
沖縄戦は、軍民合わせて約20万人の日本国民を犠牲として終結しました。

日本軍のレイテ作戦が失敗し
アメリカ軍の沖縄上陸が予想される逼迫した戦況の中に生じた
「沖縄県知事の敵前逃亡」
が、軍隊と行政の双方の任務遂行を阻害し、
沖縄戦の悲劇を増幅させたことは重大事件です。

これは、ワシントンの日本大使館が
転勤する寺崎英成書記官の送別パーティを優先して
真珠湾攻撃前の宣戦布告実施に失敗したことと並び、
永久に糾弾されるべき「日本官僚の国家犯罪」と言えましょう。


嶋田叡(あきら)・沖縄県知事
対馬丸が米潜水艦に撃沈された事件によって、
県知事の泉は疎開政策に消極的になり、
逆に一般市民を戦闘に参加させる方針をとります。

島田叡は東京帝大へ進んで旧内務省に入省、警察官を経て
大阪府内務部長だった1945年(昭和20年)1月、
沖縄県知事の辞令を受けました。

「命は惜しいが、私が断れば他の誰かが行くことになる」
と、1月30日単身で赴任しました。

県庁は爆撃で破壊され、民家数ヵ所に間借りしていた。

島田知事は着任早々から村々を回って住民を励まし、
あるいは県民の食糧確保のために台湾に出かけたり、
疎開を薦めて10万人以上を本島北部や本土へ送すのが精一杯でした。

県行政は政府と軍との板ばさみにあり、一般市民の保護策はなかなか進まず、
それどころか老人や学生まで狩り出した挺身隊が
次々と結成される有様でした。

首里城の地下にあった日本軍司令部が本島南部への移動を決めた際は、
「戦線を広げて県民の犠牲を増やすだけだ」
と猛反対したと言われています。

米軍の物量作戦に追われて、日本軍は南部へと移動しました。

仮県庁舎もガマ(壕)を転々とし、防空壕で職務を続け、
3ヶ月間にわたる沖縄戦の終結までに十数回も場所を移すことになりました。

米軍上陸後は「飛ぶ(職場離脱する)鳥は追わず」の方針を貫き、
6月には部下に解散を命じ生き抜くように指示しました。

「最後の仮県庁舎」とした摩文仁のガマ(壕)を出たのは
6月18日と言われています。

摩文仁付近で消息を絶ち、最後の姿を見た者はいません。

太平洋戦争で国土唯一の地上戦になった沖縄戦の犠牲者は
20数万人に上ります。

その6割超が沖縄県民で、しかも約10万人は一般住民でした。

沖縄県内には学徒出陣者や各府県出身者らの慰霊塔が計120基もあります。

死を覚悟して県知事となり、
疎開と食糧確保に尽力、
沖縄戦下の国民の犠牲を最小限にくいとめようとした努力は
今でも高く評価され、
昭和51年に島民により平和祈念公園の慰霊塔群の中に
「島守の塔」が建立されました。


学童疎開船「湖南丸」も被害に
対馬丸が撃沈される8ヵ月前、
1943年(昭和18年)12月21日、
アメリカ潜水艦の雷撃を受けて沈没した
「湖南丸」にも沢山の少年少女達が乗っていました。

九州で海軍少年飛行兵を受験する少年や、
軍需工場に動員された沖縄の少女たち数百名を海に放りだして、
湖南丸はタイタニック号のように直立姿勢で深海に吸い込まれて行きました。

冷たい海水が身体を貫く12月の深夜の海面には
泣き叫ぶ子供たちが多数漂い、
護衛艦柏丸が現場に残って救助活動を開始します。

3時間におよぶ必死の捜索で400人余りの子供たちが救出されました。

漆黒の海から拾いあげられた子供たちが寒さと恐怖に震えながら
やっと収容された時、今度は柏丸に魚雷が容赦なく牙を向けてきたのです。

柏丸に満載していた潜水艦攻撃用の爆雷に引火して大爆発を起こし、
粉々の破片とばらばらに砕け散った少年少女の肉片が
まるで豪雨のように海面に降り注ぎ、全ては終わりました。
湖南丸乗客583名のうち、生存者はわずか5名と言われています。


県の調査によれば、
沖縄関係の戦時遭難船舶だけで三32隻と言われています。

遭難者の数は3千とも5千とも、
その事実は生きた者、残された者それぞれの心に、
取り除かれることのない重しを残しています。


戦争でお亡くなりになられた数多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げます。
posted by RIUさん at 12:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月20日

学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その2

対馬丸2.jpg

対馬丸の撃沈
那覇港から鹿児島に向かって出航した学童疎開船「対馬丸」は、
同じく学童疎開船の暁空(ぎょうくう)丸・和浦(かずうら)丸と
3隻で船団を組み、
砲艦「宇治」、駆逐艦「蓮(はす)」の2隻の護衛船が帯同して、
8月22日夜、船はいよいよ最も危険な海域に入ります。

「老巧船だからスピードが出ない。
 ジグザグコースを走って、潜水艦攻撃を避けるべきだ」
「しかし、それでは到着が遅れる」
輸送指揮官が船長を制して、船はほぼ直線に進みました。

「今夜さえ無事なら、明日は鹿児島に着く。眠らないで警戒しよう。」
教師たちは万一を考えて、なるべく子供たちを、甲板で眠らせました。

しかし、子供たちの半分も甲板に上げると、
もう横になる場所もない、すし詰め状態でした。

昨夜騒ぎすぎた子供たちは、その疲れか、
早くからぐっすりと眠り込んでいました。


米潜水艦「ボーフィン」号は、
8月18日 鳥島南西海上を哨戒、
8月19日 粟国島付近を哨戒、
8月20日 伊江島付近を哨戒、
8月21日 久米島付近を哨戒、
8月22日 鳥島南海上を哨戒、
   同日 午後8時21分 悪石島を攻撃場所と決め、
      午後9時15分 アグニ丸(対馬丸のこと?)を目標に定めます。


対馬丸が8月21日に学童を疎開させる数日前は、
対馬丸が輸送船団の1隻として、中国から那覇に向かっていることを
米軍はキャッチしており、
この時も米潜水艦「ボーフィン」号が
那覇の北西にある粟国島付近を哨戒していました。

目標が対馬丸だったのか、他の輸送船だったのかは分かりませんが、
この時は運良く輸送船団は米潜水艦に遭遇しませんでした。

米軍は、
「対馬丸らが那覇港を出発して鹿児島に向かう情報」
をキャッチしていた可能性は極めて高そうです。

・午後8時21分に悪石島を攻撃場所と決め、
・午後9時15分 アグニ丸(対馬丸のこと?)を目標に定め、
という待ち伏せするような行動は、
対馬丸らの航路を事前に知りえないと、とても出来ないはずです。

そして、今回も「ボーフィン」号であることも。

当時の日本軍の暗号無線は米軍にほとんど解読されていましたから、
那覇で民間人の大量乗船が行われたことも知り得たはずです。

米軍の無線傍受記録による「アグニ丸」というのは、
那覇港を出発した船団にはないので、
対馬丸や他の船の名前を間違えたのか、
米側のコード名なのかは分かりません。


8月22日午後10時10分、
鹿児島の南西約260km、
奄美大島と屋久島のほぼ中間の南西諸島悪石島北西12km
(北緯29度33分、東経29度30分)付近を航海中、
米潜水艦「ボーフィン」号は対馬丸を目標に定め、
約1kmの至近距離まで接近し、
潜望鏡で充分監視した上で魚雷を3発発射します。

同日午後10時11分、
中央機関部に第1弾被弾、続いて船体後部に第2弾、第3弾も被弾。

3発の魚雷を受けた対馬丸は、
天に届くような火災を発生して11分後に沈没してしまいます。

突然の魚雷の被弾で船倉内は大混乱に陥りました。

目を覚まさない子供たちを教師は投げとばして起しました。

人の頭を踏みながら縄はしごに殺到する子供たち。

甲板では、船員や高学年の子供が、
舷側を越えられない子供たちを片っぱしから海に投げ落としました。

親子で、子供たち同士で、手を取り合って海に飛び込みました。

しかし、沈没までの時間が余りにも短く、
大半の子供たちは船と共に沈んでしまいました。


護衛艦「蓮」は、直ちに米潜水艦「ボーフィン」号に
爆雷攻撃を加えましたが時すでに遅く効果はありませんでした。

残された4隻は、
対馬丸が火柱を吹き上げて暗黒の波間に消えるのを、見届ける暇もなく、
潜水艦の2次攻撃を避けるため散開して、
それぞれ目的地の鹿児島に向けて全速前進する以外の選択肢はありませんでした。

対馬丸には、那覇市をはじめ県内各地の国民学校の学童826名、
引率教師や一般疎開者835名(うち乗組員24名)の
合計1,661名が乗船していましたが、
一瞬にして1484名が犠牲となり、生存者は僅かに177名でした。

犠牲となった学童は767名に上り、
そのうち運良く生き残った7歳から14,5歳までの学童は59名だけでした。

一般疎開者などの生存者も118名しかいませんでした。
歴史上極めて悲惨な事件でした。

ほとんどの乗船者は船倉に取り残されたまま船もろとも沈没しましたし、
海に飛び込んだ人も、多くが台風の接近に伴う高波にのまれたり、
サメに襲われたり、溺れたりして沈んで行きました。

浮遊物やイカダにつかまって漂流した人々は、
運が良い人は翌日付近を通った漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、
奄美大島まで流されるなどして生き延びたのです。

遭難6日目に島に流れついた子供や8日目に助かった人もいました。


疎開児童他を乗せた輸送船3隻のうち、
“無事到着”の報せがないのは「対馬丸」だけでした。

沖縄の家族や国民学校など、関係者の間に
不安と共に恐ろしい噂がささやかれるようになりました。

約1ヵ月後、対馬丸で生存した5人の子供たちが
ひっそりと沖縄に戻されてきました。

この事件については戦時中は軍側の機密として公表されることはなく、
かん口令が布かれていました。

県民の多くは、この惨劇を知りながら、
戦後も長いあいだ口にしませんでしたが、
関係者以外の人々がこの事件を知るようになったのは、
昭和37〜8年になってからです。


戦後、潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた
米海軍下士官アーサー・カーター元二等兵曹は、
『学童がいるとは知らなかった』
と話していますが、
・ 日本軍の暗号無線を傍受、解読して「対馬丸」の航路上で、
  待ち構えていたこと
・ 「対馬丸」に1kmまで接近して、潜望鏡で確認後攻撃していること
等から、学童かどうかはともかく、
少なくとも非戦闘員を中心とした非武装船であることは
理解できていたはずです。

しかし、当時米軍は、商船も攻撃対象としていました。

対馬丸は商船と見られていたのです。

・ 商船のように見せ掛けて実は軍艦かもしれないし、
・ (商船が)燃料など軍事物資を積んでいるかもしれない
こともあり、米軍は
「種類を問わず撃沈させる」
という、ハーグ条約
(海戦法規では交戦国の非武装商船に対しては、
 乗員の安全を確保した上でのみ、拿捕や沈没処分が認められている)
を無視した方針であったのです。

潜水艦「ボーフィン号」は、
現在、戦艦アリゾナ、戦艦ミズーリとともに
真珠湾の観光用の記念館になっています。

そこでは戦果として、
「商船40隻と帝国海軍船籍4隻を沈没させた」
となっていて、学童疎開船撃沈とは紹介されていません。

“真珠湾の仇”という意味での象徴となっているのだと思います。


対馬丸事件は、輸送船富山丸の沈没からわずか2カ月後の出来事でした。

沖縄からの疎開輸送は、
昭和19年7月から翌20年3月まで
延べ187隻に及び、約8万人が安全に疎開できたのですが、
犠牲になったのは対馬丸1隻だけでした。

多くの遺骨は、今なお冷たい深海の底に沈む、
魚雷で穴のあいた船体の中に眠ったままです。
posted by RIUさん at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月19日

学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その1

対馬丸.jpg

8月22日は、学童疎開船「対馬丸」が撃沈されて、61年目にあたります。

学童疎開の背景

昭和19年7月7日、日本軍はサイパン陥落により、
本土決戦の時間稼ぎのため、米軍を沖縄で食い止める作戦を急ぎます。

その一環として、沖縄県民を本土に8万人、台湾に2万人を移し、
その分新たに日本兵10万人を沖縄に配備・強化し、
米軍を迎え撃つ計画を立てました。

同日深夜、
当時の県知事・泉守紀あてに大本営から緊急指令の電報が届きます。

「沖縄から老幼婦女子を計10万人本土と台湾に引き揚げさせよ」
という趣旨のものでした。

7月19日には、学童疎開に関する通達が出されました。
疎開の対象は、
「国民学校初等科第3学年から第6学年までの男子希望者」
を原則として、さらに
「初等科第1、第2学年の者でも、
心身の発達十分で付き添いが要らないと認められた者は許可する」
となっており、
「児童40名に対し1名の割合で教員を付すること」
とされていました。

そんな中、那覇国民学校では重苦しい緊張感につつまれて、
連日職員会議が開かれていました。

「学童疎開は国家に対して我々の出来る最も身近な御奉公だ。
軍の要請で働ける者意外は全部県外へ出て行かねばならない」
「疎開船が潜水艦にやられた場合、責任は誰が取るのか」
「疎開は国策です」

不安は感じるものの、学校は兵隊の宿舎となり、
「児童たちさえ連日飛行場づくりの作業をするような沖縄よりも、
本土へ行ったほうが満足な教育が出来る」
と考える教師もいて、疎開する児童集めが急ピッチで進められました。

疎開とは
「災害や敵襲に備えて、住民、施設などをリスク分散させる」
ことです。

対馬丸および一連の学童疎開には
「足手まといになる学童を安全な地域に移す」
という目的の他に、
「たとえ沖縄全県民が玉砕することになっても、優秀な子どもを後世に残す」
という、いちるの望みを託したのと、
「日本軍兵士の食料を確保するための口べらし」
という戦時下における現実的な目的なども同時にありました。

「生まれ育った土地から離れたくない」
と、頑として疎開を受け入れなかった住民もいましたし、
当時の沖縄県知事の泉守紀が、
恐怖感から後に県行政を放棄して本土へ逃亡してしまい、
疎開が遅れたこともあり、
結果、非戦闘員である多くの住民が戦争に巻き込まれ、
悲惨な末路を辿っていくことになります。

昭和18年5月以来、沖縄近海では米水艦によって
民間船舶が次々と沈められていました。

すでに嘉義丸・湖南丸・台中丸・富山丸などは
那覇―鹿児島間の海域で米潜水艦の攻撃を受けて沈没していましたが、
当時は公然の秘密とされていました。

学童疎開においても、攻撃を受ける可能性は充分予想されましたが、
それでも危険を冒して出航せざるを得なかったのは、
刻々と迫る戦況の悪化から
「米軍の沖縄上陸は時間の問題」
という、もはや一刻の猶予もなく、
お年寄りや子供、女性を疎開させるまで
追い詰められた事情にあったからでした。

「対馬丸」(6724トン)は、
1916年(大正5年)にニューヨーク航路の第1号船となった貨物船で、
第2次世界大戦中は日本陸軍に輸送船として徴用されていました。

1944(昭和19)年8月21日夕方、
那覇港には貨物船3隻(和浦丸・暁空丸・対馬丸)が
疎開する学童たちを待っていました。

港には約5千人以上の疎開者とその家族が、
最後になるかもしれない「別れ」のために集まって来ました。

「乗るのは軍艦じゃないんですね」
厚い雲に覆われた夕空とともに、親たちの胸に不安がよぎります。

絶壁のように高い対馬丸の船腹を登り、
甲板に降り立った子どもたちの中には、
親と離れた淋しさにベソをかく子もいましたが、
多くの子は初めての大きな船に興奮して楽しんでいました。

国民学校の学童826名は、
教師・付添人を含めた一般疎開者835名(うち乗組員24名)と共に
総勢1661名が対馬丸に乗船し、
暁空(ぎょうくう)丸、和浦(かずうら)丸と、
駆逐艦「蓮(はす)」と砲艦「宇治(うじ)」の2隻を
護衛艦として帯同し、
共に8月21日午後6時35分に那覇港を出航して行きました。

疎開船3隻の中で、対馬丸は最も大きい船でした。
posted by RIUさん at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月17日

終戦後の戦い・ソ連侵攻〜その3

北千島の白虎隊
樺太と共にソ連軍との“戦後の戦い”を強いられた千島の戦闘は、
8月18日午前1時半に始まりました。

千島列島でソ連軍の侵攻を受けたのは
最北端の占守(しむしゅ)島だけでしたが、
攻撃は占守島と約10kmしか離れていない
カムチャッカ半島の最先端にあるロパトカ岬からの
長距離砲による砲撃で始まりました。

当時、北千島(占守島、幌筵〔ほろむしろ〕島)には
第91師団を中心に約2万3千名の兵力が北方守備についていました。

このうち占守島には、8千人の兵が陣地を築いていました。

日本軍はすでに終戦の報を得ていて、
一部の部隊では武器の廃棄作業も始まっていて、
武装解除を進めているところでした。

そこに、
「ソ連軍、竹田浜に上陸」
の報が入り、日本軍は急きょ「自衛戦闘」態勢に入りました。

戦車連隊も出動した日本軍の水際防御戦闘は凄まじく、
敢然と不法侵入した約9千人のソ連軍を圧倒します。

しかし、師団司令部は第5方面司令部の命令で、
8月18日午後4時をもって攻撃を中止し、防御体勢に入ります。

そして軍使を派遣して戦闘中止を画策します。

第5方面司令部も大本営に急報し、
大本営はマッカーサー司令部に戦闘中止を訴えます。

「8月18日千島列島占守島に対し一部の兵力上陸し、
 我方は自衛の為己むを得ず戦闘中なり。
 彼我共に停戦しある今日、甚だ不都合と認むるに付、
 至急停戦する様指導あり度」
しかし、ソ連はマッカーサー司令部からの連絡には応じようとせず、
戦闘続行の構えを崩しませんでした。

この間にも、日本軍は何度も軍使を派遣し、
8月21日になって、ようやく停戦合意に至りました。

日本軍の死者370名に対し、ソ連軍の死者は3千人以上と言われるほど、
日本軍はソ連軍を追い詰めていました。

北千島の日本軍は8月23・24日の両日に武装解除し、
国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島など
南千島の各守備隊も9月4日までに武装解除して、
武器をソ連軍に引き渡しました。

ソ連軍は、南樺太でも“降伏”無視の攻撃を
その後もソ連軍は軍事行動を止めませんでした。

無抵抗の日本軍をしり目に、千島列島を次々に南下して、
ついに8月28日には択捉(えとろふ)島、
9月1日には色丹(しこたん)島、
9月5日には水晶(すいしょう)島〔歯舞(はぼまい)諸島の1つ〕を
占領して、北海道を目前にして、ようやく動きを止めます。

当時、ソ連は、アメリカに対し、
「根室〜留萌を結ぶラインをソ連占領地区にする」
ことを要求していたのです。

占守島で不法に侵入したソ連軍に敢然と立ち向かった日本軍将兵だけでなく、
その南の幌筵島の将兵も含め、
約2万3千人を主体として、カムチャッカ半島に強制連行し、
強制労働につかせます。

満州の関東軍をシベリアに強制連行したことと同様の仕打ちでした。

占守島で頑強に抵抗した第91師団の将兵は
シベリアのマガダン(現マガダン州州都)に連行し、
最も過酷な鉱山採掘労働に従事させました。

その後、残留の一般邦人の大半は帰国できましたが、
朝鮮人は帰国が許されず、現地に残されました。

厚生労働省の推計では、
「シベリアには約60万人が抑留され、約6万人もの命が失われた」
となっていますが、
ソ連における日本人捕虜の抑留状況に関する正確な資料は
過去に発見されておらず、実態はわからないままなのです。

日ソ不可侵中立条約を一方的に破棄し、侵攻し、多くの日本人の命を奪い、
日本兵を捕虜としてシベリアに強制連行・労働をさせておきながら、
補償や謝罪は一度もなく、
未だに北方 領土を不法占拠しているのが「ロシア」なのです。
posted by RIUさん at 10:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月16日

終戦後の戦い・ソ連侵攻〜その2

修羅場の真岡町
樺太の第2の戦場となる真岡町は、
樺太南部の間宮海峡側西海岸に面した街で、
人口2万1千名余の要所でした。

真岡町では、急きょ8月17日から老人や婦女子を中心に
北海道への疎開が始まり、8月19日までに漁船を含めた各種船舶で
約6千名が出港しています。

しかし、まだ1万5千人余の一般邦人が残っていました。

この真岡町の沖合いに,
ソ連の北太平洋艦隊が姿を見せたのは8月20日早朝でした。

真岡一帯は、この朝濃霧に包まれていました。

その霧の中から突然艦砲射撃の砲弾が街の中に降り始め、
午前6時前、狙撃旅団と混成部隊が、
真岡中央湾の三方向から上陸して来ました。

このとき真岡には歩兵第25連隊第1大隊を中心に、
わずかな部隊が残っているだけでした。

すでに連隊主力は8月18日に軍旗を奉焼し、
古年次兵の召集解除をした直後でしたから
、ソ連軍に対抗するすべはありませんでした。

ソ連軍の上陸地点の港の岸壁は、
北海道に疎開しようと集まった人々で埋まっていて、
係留された船の中には北方の珍内町から引き揚げてきた約1500名の
婦女子を乗せているものもありました。

港の人たちは大混乱になって逃げ惑い、
機銃掃射を避けて防空壕に隠れた人々には容赦なく
手榴弾が投げ込まれました。

国民服姿の人は有無を言わせず自動小銃を乱射され、
建物には火が放たれました。

歩兵第25連隊の山沢大佐は第1大隊長の仲川少佐に対して、
速やかに軍使を派遣して事を穏便に取り運ぶよう指令します。

ところが,村田徳兵衛中尉以下17名の軍使一行は
自動小銃の一斉乱射を受け、大部分が射殺され、
3名だけが逃げ帰ってきました。

混乱の中、札幌から師団命令が届きます。

「俘虜となるも停戦せよ」
という指令でした。

山沢大佐は、ロシア語の達者な村山主計中尉を
再び停戦交渉のために軍使として送り出します。

しかし、村山中尉も乗って行った自動車の中で射殺されてしまいます。

軍使の射殺事件はこの真岡だけではなく、他でも起こっていました。

恵須取町に隣接した塔路町では,
8月15日にソ連軍の上陸を受けましたが、
停戦交渉におもむいた安部庄松町長と山口三之助警防団団長が
銃殺されています。

さらに8月25日には、
大泊に上陸したソ連軍によって、
海軍武官府の軍使、増水主計大尉も射殺されています。

真岡の町は凄惨を極めていました。

銃を乱射し、火を放ちながら迫ってくるソ連兵を見た住民の中には、
自決した人たちも多数いました。

真岡郵便局では8名の女性電話交換手たちが
「通信機関は最後まで死守せよ」
という軍命令を守り、附近が火の海になるまで頑張っていました。

しかし、銃砲声がますます激しくなり、
ついにソ連兵の接近を確認して、
用意していた青酸カリを口にして命を絶ちました。

こうして「戦後」に突如として始まった真岡の戦闘は、
8月22日にようやく終息します。

何人もの軍使を殺されながらも、
ようやくソ連軍との間に「停戦協定が成立したから」です。

この真岡地区だけで戦死した将兵は105名、負傷は87名に上り、
一般住民の死者は、判明しただけでも509名に上りました。

引揚船への容赦ない魚雷攻撃
ソ連軍との停戦協定が成立した8月22日午前4時30分、
樺太からの引き揚げ者を満載した通信省海底電線敷設船「小笠原丸」は、
北海道の留萌市に近い増毛町別苅沖を航行中、
ソ連潜水艦の魚雷攻撃を受け、一瞬のうちに沈没してしまいます。

岸にたどりついた生存者は推定乗員720名のうち、
女性が11人、男性が51人の合計62人だけでした。

「小笠原丸」が撃沈された朝、
留萌近海ではさらに2隻の引揚船が潜水艦に攻撃されています。

1隻は、留萌の北20kmの小平町鬼鹿の沖を航行中の
海軍所属の「第2新興丸」で、同船は魚雷が命中したものの沈没は免れて、
どうにか留萌港にたどり着くことができましたが、
約400人の死者、行方不明者を出す大惨事でした。

生存者の話では、
突然の魚雷攻撃でパニック状態になった甲板の住民めがけて、
上空からソ連の戦闘機が機銃掃射の反復攻撃を加えてきたからだと言います。

もう1隻は、引揚船として使っていた特設砲艦「泰東丸」で、
これは瞬時に沈没しています。

「生存者なし」というだけで、被害者数の記録はありません。

日本がポツダム宣言を受諾し、
戦闘行為の停止を世界に宣言した8月15日から8日間も経っての、
それも非戦闘員の惨劇は、決して風化させてはいけないと思います。
posted by RIUさん at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月15日

終戦後の戦い・ソ連侵攻〜その1

60年前の昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾し、
日本は無条件降伏をしました。

終戦で、戦争が全て終わったわけではなく、
沖縄では、8月下旬までゲリラ戦が展開されましたし、
南方でも多くの日本兵がゲリラ戦や切り込みを行ったり、
終戦を知らずに隠匿生活を送ったりしていました。

グアム島では、横井庄一軍曹が日本の無条件降伏を知らず
1972年(昭和47年)1月24日に発見されるまで
28年間ジャングル生活を送っていましたし、
フィリピンのルバング島では、
小野田寛郎少尉が戦後30年を経て帰還しています。

小野田少尉の当初のメンバーは
小野田と、島田庄一伍長、小塚金七上等兵、赤津勇一一等兵の4名でした。

このうち1949年赤津一等兵が投降し、
1954年、地元の軍隊と武力衝突し、島田伍長が戦死。
1972年地元民と衝突、小塚上等兵が戦死し、
小野田少尉1人の帰還となりました。

横井庄一軍曹や小野田少尉の話では、
他にもまだ日本兵が隠匿していたようで、
早い段階で捜索していれば、小野田少尉のグループも含めて、
生きて帰還された兵士もいたことと思うと残念に思います。


終戦当時、北方の南樺太、千島でも、
まだ日ソ両軍が激戦を繰り広げていました。

終戦8ヶ月前の昭和19年12月31日現在、
樺太には41万7976名、戸数7万6321戸の一般邦人が
居住していました。

さらに、強制連行されて炭鉱やパルプ工場などで
働かされていた朝鮮人労働者が、約3万人を超え、
その他、軍の土木工事などを請け負っていた土建会社の現場作業員、
民間会社の工場などで働いていた本土からの季節労働者などが約3万人、
そして第88師団を中心とする日本軍が2万388名、
その総数は約50万名に達していました。

樺太防衛の第5方面軍(札幌)第88師団(師団長・峯木十一郎中将)が、
それまでの混成旅団を基幹として編成されたのは、
昭和20年2月28日でした。

主な部隊は、
・ 歩兵第25連隊
・ 歩兵第125連隊
・ 歩兵第306連隊
・ 山砲第88連隊
・ 工兵第88連隊
などでした。

ソ連は昭和20年5月8日にナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏をすると、
ヨーロッパ戦線の部隊、約55万人を
シベリア方面に移動させ始めていました。

既存の兵力と合わせると、約130万人になります。

兵力増強の動きは、樺太方面でもみられ、
ソ連領と日本領の境界である北緯50度の国境線を守備する監視哨からは、
ソ連領内の緊迫した動きが師団本部に伝えられていました。

師団では「ソ連の侵攻は近い」と判断し、
再三にわたって札幌の第5方面軍司令部に
樺太防衛の具体的な作戦指導の決定を求めていましたが、
対米作戦第一にとらわれていた軍司令部からは
何の具体的指示もありませんでした。

樺太の悲劇は、この軍司令部の戦況判断の甘さに起因していました。

現地の第88師団が「対米」から「対ソ」への作戦転換命令を
軍司令部から受けたのは8月3日でした。

樺太の現地部隊がソ連の対日宣戦布告を知ったのは、
8月9日の午前5時、アメリカのラジオ放送を傍受したことでした。

第88師団長の峯木中将は、
直ちに北緯50度の国境線を守備している歩兵第125連隊に
防衛態勢の強化を命じます。

そして「樺太の第2次世界大戦」は、この日の午前7時30分過ぎ、
国境線のほぼ中央にある武威加警察官派出所に対する
ソ連軍の激しい砲撃によって始まりました。

続いて、日の丸高地と言われた軍の国境監視哨、半田警察署が攻撃され、
戦火は一挙に拡大してゆきます。

国境に近い気屯に連隊本部を置いていた歩兵第125連隊は、
侵攻してくるソ連軍に対し、
後退しながらも8月15日前後までは必死の抵抗を試み、
一進一退を繰り返していました。

樺太の第88師団には、
北海道の第5方面軍から8月15日正午の玉音放送に続いて
「終戦」の軍命令が届きます。

ところが、翌日の8月16日午後には
「自衛戦闘を行い、南樺太を死守せよ」
という軍命令が再び届きます。

ソ連軍との戦闘は続行されることになりました。

第88師団は召集解除した地元樺太出身の兵士に再召集をかけるなど、
各地で混乱が続出します。

義勇戦闘隊という名で召集された民間人からは
「軍は戦争が終わったというのに、まだやるのか」
といった非難も出ていましたが、
北部の国境地帯では現に戦闘が続行されています。

師団司令部はやむなく部隊を再配置し、自衛態勢の整備に躍起となりました。


ソ連の詭弁
連合国の一員でありながら、戦闘を止めなかった理由は、
 「天皇の降伏についての発表は一般的な無条件降伏宣言にすぎず、
  軍隊に対する戦闘停止命令はまだ出ていないし、
  日本軍は依然として抗戦している。
  ソ連は日本軍が戦闘行為を停止した段階で日本軍降伏を認める。
  よって、極東のソ連軍は攻撃を続行した」
とソ連の公式戦史に書かれています。

8月12日にスターリンは
 「日本の武装兵力の全面降伏を受理し、調整し、実行するため、
  連合軍最高司令官としてダグラス・マッカーサーを任命する」
というトルーマン米大統領の提案に同意する返答を行っています。

ソ連は戦闘を停戦するどころか、
ソ連軍統帥部が、樺太の真岡町と千島列島侵攻作戦を決定したのは
8月15日であり、間宮海峡側の恵須取(ウグレゴルスク)村攻撃の
艦船が樺太の対岸、沿海地方のソフガワニ港を
出撃したのは8月15日の深夜でした。

ソ連の目的は、南樺太と千島列島の軍事占領を既成事実化し、
戦後の領土拡張を目指したものでした。
posted by RIUさん at 12:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月13日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記4

菊水、金剛、多々良と続いた回天隊の「停泊地攻撃」は、
敵の防潜網、対潜攻撃の強化に阻まれて継続困難になりました。

そのために、司令部が考え出した作戦が,
「洋上の艦船を狙う航行艦襲撃」
でした。

南太平洋のソロモン海戦以来、
輸送任務に追われることが多かった潜水艦を、
本来の役目に立ち返させようとする作戦でした。

洋上回天戦の第1弾として,最新鋭の伊47と伊36の2隻が選ばれ、
天武隊が編成され、沖縄とマリアナ諸島の中間海域を作戦海域と定めます。

折田善次少佐は4回目の艦長出撃でした。

天武隊の回天搭乗員は、
隊長の柿崎実中尉、前田肇中尉、古川七郎上等兵曹、山口重雄一等兵曹、
新海菊雄二等飛行兵曹、横田寛二等飛行兵曹の6人でした。

このメンバーは、前回3月に出撃しながらグラマンや駆逐艦の攻撃で
被災し帰還するに至った多々良隊の時と、
そっくりそのまま同じメンバー構成でした。

柿崎隊長たちは、
「またお世話になりに来ました。宜しくお願いします。」
と微笑みながら、桜を1枝ずつ手にして伊47に乗り込んで来ました。

「今度こそ本懐を遂げるのだ」
という決意のほどが眉間に見えました。

柿崎隊長は、
「特別の配慮は一切ご無用。魚雷発射と同じ気持ちで、
 回天発進を命じて下さい。」
と、折田艦長に挨拶しました。

昭和20年4月20日、伊47は山口県光市光基地から出撃します。

前回3月の多々良隊では、出鼻をくじかれたこともあり、
豊後水道を出る前に、魚雷はもちろん、回天も
いつでも発進できるように準備しました。

5月1日夜、レーダー室から待望の報告。
「輸送船団らしき敵艦隊発見。」

曇天で暗く、回天戦はムリ、と折田艦長は判断。
「魚雷戦用意」を発令します。

白鉢巻の柿崎隊長が艦橋に来て、
「回天を使って下さい」
と懇願します。

「無理は絶対いかん」
と折田艦長ははねつけます。

船影4千mまで接近し、潜望鏡で目標を定め、射程に入れました。

「発射魚雷4、魚雷深度3m、発射準備」
一呼吸置いて、
「発射」
と命じました。

3分経過。
潜望鏡の視野に、火柱が1本。

近くに2本目が炸裂。
視野の右側にも3本目の火柱が上がります。

2隻に3本が命中。
うち1隻は沈没確実と判断されました。

この戦闘の興奮が覚めやらぬ翌日の5月2日午前9時過ぎ、
聴音室は音源を補足。

柿崎隊は、柿崎の
「さあ、行くぞ」
の声と同時に、各自の回天へ一斉に駆け出します。

まず、1号艇の柿崎中尉と3号艇の山口一等兵曹に、佐丸幹男機関中尉が、
「柿崎、しっかり頼むぞ」
と肩を叩きます。

「任せて下さい」
と柿崎は一言だけ、笑って右手を上げ、
回天の下部ハッチを開き、中に消えました。

ほどなく2つの艇が発進。

やがて、相前後して2つの大爆発音が起こりました。

続いて2号艇の古川上等兵曹。

海軍に入隊以来、魚雷一筋に生きてきた古川は、
快調な熱走音を出して敵艦に突進。

聴音室が2つの音をとらえます。

1つは敵の船、もう1つは古川艇です。

2つの音は弱まり、いったん消え、また大きくなりました。

ジグザグ操行で逃げる駆逐艦を、全力で追いかける古川艇の奮戦ぶりが、
聴音室で手に取るように分かりました。

「よし、行け」と思う間もなく、大轟音が伝わってきました。


伊47は5月4日、沖縄とグアム島を結ぶ敵補給線上に進出します。

5月6日早朝、レーダーが目標を探知します。
敵巡洋艦でした。

5号艇、前田中尉が発進しました。

爆発音が轟き、前田艇の命中で轟沈を確認。

残り2基の回天は、電話の感度不良などで発進できずに終わりました。

折田艦長は大戦果を収めた後、潜水学校教官に転出します。

伊47は、2代目艦長鈴木正吉少佐の指揮下で、
7月19日沖縄南東海域に進撃しましたが、
連日の荒天に妨げられて会敵できず、8月11日に帰還します。

8月15日に終戦を迎え、
精鋭伊47は米軍に引き渡されて海没処分に付され、
激闘の生涯を閉じました。

伊47をはじめ、回天戦は、かなりの戦果を挙げたことが
推測できるのですが、アメリカの公式発表は
・ 給油艦ミシシネワ
  昭和19年11月20日、西カロリン諸島ウルシー環礁で、
  伊47の仁科関夫海軍少佐の回天攻撃により撃沈されています
・ 駆逐艦アンダーヒル
  昭和20年7月24日、フィリピン・ルソン島沖で伊53の
  回天攻撃で撃沈
の2隻撃沈だけ、とされています。

魚雷と回天攻撃の区別が不明瞭なのか、
回天被害を容認したくなかったのかはわかりませんが、
ゼロ戦による特攻作戦や、回天による人間魚雷作戦等の自爆攻撃は、
米軍に強烈な脅威と恐怖心を与えたようで、
終戦直後、米軍との連絡のためフィリピン・マニラに赴いた日本軍使に対し、
マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は、開口一番
「回天を搭載し作戦中の潜水艦は何隻か。直ちに作戦を停止させよ」
と命じたそうです。


人間魚雷回天の創始者の1人であり、
また菊水隊として回天1号機で出撃した仁科関夫中尉は、敗戦を予期して、
「自分たちがいしずえとなって、日本は立派になるのです。
 自分たちの死は決して無駄ではありません。」
と、折田艦長に所信を明かしていたそうです。

また、仁科中尉のご遺族は、
他の回天隊員の遺族から
「お前の息子があんな物を作ったから、うちの息子が死んだ」
とののしられ、かなり辛い思いで戦後を過ごされたそうです。


日本海軍の潜水艦は、当初「第○潜水艇」と呼ばれ、
1916年(大正5年)から、
水上排気量600トン以上を一等潜水艇、未満を二等潜水艇としていました。

1919年(大正8年)にこの区分が変更になり、
1千トン以上が一等、1千トン未満500トン以上が二等、
500トン未満が三等になりました。
さらに、呼称も「艇」から「艦」に改められました。

1924年(大正13年)から、
一等の艦名には「伊号」、二等は「呂号」、三等は「波号」を
艦名の頭称に用いるように改定されました。

伊号潜水艦は、このときからの呼称です。


回天特別攻撃が最初に編成された、昭和19年11月の「菊水隊」に選ばれた
伊号36・37・47は以下のような生涯を過ごしました。

伊号第36潜水艦
・ 昭和17年9月10日竣工
・ 同年12月31日、ソロモン諸島のショートランド島に到着
・ 昭和18年7月2日、ケ号作戦で、
  アリューシャン列島にキスカ島東方、及び北方の配備へ。
  その後再び南方へ。
・ 昭和20年1月12日、西カロリン諸島ウルシー環礁ソロン島で
  回天4基を発進
・ 同年6月、米海軍LSTを撃破
・ 昭和21年4月1日、五島列島沖で米海軍により爆破処分

伊号第37潜水艦
・ 昭和18年3月10日、呉潜戦に編入
・ 同年6月4日、マレーシアのペナン島に到着
・ 同年6月16日、英軍タンカー「サン・アーネスト」を撃沈
・ 同年6月19日、米船「ヘンリー・ノックス」を撃沈
・ 同年10月23日、ギリシャ船「ファネロメニ」を撃沈
・ 同年11月27日、ノルウェータンカー「スコオシア」を撃沈
・ 昭和19年2月22日、英軍タンカー「ブリティッシュ・チバリ」を撃沈
・ 同年2月25日、英船「アスコット」を撃沈
・ 同年11月19日頃、敵駆逐艦の爆雷を被災後、消息不明

伊号第47潜水艦
・ その名から「死ナズ」と言われていたように、
  回天を搭載した伊号の精鋭艦36・53・58と並び、
  終戦まで生き永らえました。
・ 昭和19年7月10日、第11潜水戦隊に編入
・ 同年11月19日、西カロリン諸島ウルシー環礁を偵察
・ 昭和20年3月28日、第5玄作戦多々良隊として
  内海西部発、沖縄に向かう
・ 同年5月1日、沖大東島沖合いで米軍船団を雷撃、
  艦種不詳2隻の撃沈を報告
・ 同年5月7日、米軍空母または巡洋艦1隻の撃沈を報告
・ 昭和21年4月1日、五島列島沖で米海軍により爆破処分

昭和21年4月1日に、長崎の五島列島沖で、
米海軍により爆破処分された伊号潜水艦は、
36・37・53・58・156・157・158・159・162、
366・367・402の合計12隻に上りました。
posted by RIUさん at 14:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月12日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記3

菊水隊に続き、西太平洋の敵停泊地を奇襲するために、
伊号6隻で回天特攻金剛隊が編成されました。

その一員として、伊47潜は昭和19年12月25日、
山口県徳山市大津島を出港、
赤道を越えてニューギニア北岸中央のフンボルト湾内ホーランジア停泊地の
襲撃に向かいました。

昭和20年1月11日、フンボルト湾の北50海里(約100km)に到着。

湾内には50隻近い敵艦船がいる、との情報が入りました。

1月12日午前1時、回天搭乗員4名乗艇。

同日午前4時15分、折田艦長は「1号艇、用意、発進」と下令します。

金剛隊隊長・川久保輝夫中尉の1号艇の発進を確認。

続いて、2号艇の村松実上等兵曹、3号艇の佐藤勝美二等兵曹、
4号艇の原敦郎中尉。

電話線が切れる最後の瞬間、口々に「大日本帝国万歳」と絶叫して
ゆくのを折田艦長は聞きました。

同日午前5時11分、ホーランジア方向の水平線に
大きな赤みがかった橙色の閃光が噴出。

1発命中を確認。

間もなく電信室が「われ潜水艦の攻撃を受けつつあり」を意味する
敵のSOS連送の緊急電波を傍受。

停泊地が大混乱に陥った状況をつかみ、全基突入に成功と認め、
伊47潜は急速潜航して帰路につきました。

昭和20年3月、沖縄戦開始。

回天特攻多々良隊を編成。

伊号の47・56・58・44が、回天を総計20基搭載しました。

歴戦の勇伊47潜は、先陣を承って、
3月29日、山口県光市の光基地を出撃します。

同日、午後4時過ぎ、
日向灘沖で北上するグラマン戦闘機の編隊と遭遇し、急速潜航。

翌3月30日午前2時過ぎ、
種子島の東方25海里(約50km)で艦影2を発見。

急潜するも、敵レーダーにキャッチされ、包囲されます。

回避行動4時間、抜け出せない状況の中で、敵の機雷攻撃が始まりました。

巧みにかわしながら、回避行動12時間、
21発目でようやく、離脱に成功します。

種子島付近で浮上し、点検してみると、重油漏れの箇所があり、
対処方法を検討中にグラマン戦闘機が飛来。

急速潜航中の深度20mで、真上に大爆発音が2発。

爆弾の破片が艦橋を直撃、1番潜望鏡が漏水で使用不能になるも、
何とか逃げ延びられました。

回天も3基が損傷しており、沖縄周辺の敵の警戒網が厳重であることから、
折田艦長は作戦遂行をあきらめ、帰途につくことを選択しました。
posted by RIUさん at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月11日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記2

11月16日に、西カロリン諸島ウルシー泊地の
飛行偵察の報告が入電します。
「ウルシー環礁内に敵戦艦、空母、輸送船など約200隻が集結中」
とのことで、艦内に歓声と引き締まった空気が流れます。

11月19日未明、潜望鏡を覗いた折田艦長が
「敵艦隊発見、7000(m)、航海長見ろ」
と重本航海長に観測を命じます。

リーフ(環礁)越しに、直線距離で7000mの近距離に敵艦隊がいます。

懐中深く潜入したために、監視の哨戒艇はいません。

ウルシー停泊地には、10ほども小さな島があり、
その間にリーフが横たわっています。

折田艦長は慎重に島を回り、リーフを避け、
敵艦に最も近い発射地点を選びました。

敵艦隊の最も手前の艦との距離は、1万mと推定しました。

11月20日、午前00時30分、
浮上した伊47潜で、搭乗員に回天乗艇命令が下されました。

ハッチのふたが開かれ、
まず3号艇の佐藤章少尉と4号艇の渡辺幸三少尉が、それぞれの艇に入り、
操縦装置や計器に異常がないことを確認して、
整備員にハッチを閉めるよう求めました。

整備員はすくみ、金縛りにあったように動けませんでした。

搭乗員は再度、閉めるように強く求めます。

整備員は、嗚咽をこらえながらハッチのボルトを閉めました。

次に、福田斉中尉が、挙手の敬礼をして、全乗員に
「お世話になりました。行きます。」
と、いつもの元気な声で別れの挨拶をして2号艇へ。

最後に仁科関夫中尉が、感謝の意を述べ、乗員と握手をかわし、
1号艇の人となりました。

いよいよ発進です。
5分おきに見送ったその情景を、
折田艦長は、戦後の手記で下記のように表しています。
いずれも、折田艦長が電話で
「会心の突撃を祈る。最後に何か言うことはないか?」
と聞いた、彼らの返事です。


「仁科関夫中尉は『お世話になりました。後続艇を宜しく願います。
後を頼みます。−出発します!』」
と平常と変わらない淡々たる口調で、午前4時15分、発進しました。
佐藤章少尉は、
「無事にここまで連れてきて戴いて有難うございました。
昼間見たあのでっかい戦艦に必ず命中します。
艦長以下乗員一同の武運長久を祈ります。−出発します。」
渡辺幸三少尉は、
「お世話になりました。落ち着いて行きますからご心配なく。伊47潜万歳」
と、見事な発進ぶりで駆走してゆきました。
福田斉中尉は、
「ご心配かけました。操舵機の作動良好です。−出発します。」
午前4時30分、「用意」「発進」を令すると、
バンドが外れ、回天が起動し、電話線が切れる瞬間に、
最後の雄叫びが私の耳を打った。
と、手記に書かれています。

停泊地の真ん中に真っ赤な火の塊が盛り上がり、
吹き上がって大きな火柱となりました。

命中、午前5時7分。

続いて5時11分、同じ方向に火柱。

命中2発目を折田艦長は確認しました。


一方、伊36潜の回天は、
4基中3基が架台から離れないなどの事故があり、
今西太一少尉(慶大−予備学生)の3号艇だけが、
11月20日午前4時54分に発進しています。

パラオ島コッソル水道に単独で向かった伊37潜は、
同水道西口で敵護衛駆逐艦に発見され、
爆雷攻撃を受け被災、回天を搭載したまま、悲壮な最後をとげています。

西カロリン諸島ウルシー環礁の戦果は、
米軍の報告によると、
下記2隻は、それぞれ1基の回天によって沈められた、となっています。
・ 給油艦ミシシネワ沈没
  回天発進の時刻と、地点の関係から、
伊36潜の今西艇が撃沈した可能性が強い、と言われています。
・ 戦艦ペンシルヴァニア沈没

米海軍は、回天5基のうち2基が、それぞれ海と空から撃沈され、
別の1基は砂州に衝突して爆発した、と報告しています。
それぞれ、どの艇のものかは不明ですが、悲壮な最後をとげました。
posted by RIUさん at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月10日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記1

回天.jpg

人間魚雷計画
太平洋戦争の末期、
「生産力の巨大なアメリカとまともに戦って勝てるわけがない。」
「こちらが1人で1千人の敵を倒せば勝てる。」
そのためには、
「体当たりして1艦を沈め得る強力な爆薬を抱えた魚雷が必要」
という必死必殺の考え方で、計画が練られて行きます。

“天を回らし、戦局を逆転させる”
という願いを込めて、「回天」と命名されました。

試作基を造るうちに、
当初予定されていた「脱出装置」の設計が難しく、
取り付けないことに決められました。


回天の構造
気泡の航跡を残さない93式酸素魚雷を改装した1人乗りの兵器で、
初期の1型は、
・ 全長14.75m
・ 直径1m
・ 全重量8.3トン
・ 最高出力30ノット(時速55km)
・ 上げ下げ自由な約1mの特眼鏡(潜望鏡)
・ 頭部に1.55トンの強力TNT火薬を装着
  (普通の魚雷の3倍強の破壊力があり、
   この1発でどんな巨艦も撃沈させることができました)
を備え、
・ 潜航
・ 浮上
・ 変針
・ 変速
が自在にでき、また自動的に一定の深度、速力で直進できました。

搭乗員は懐中電灯と砂時計を頼りに、
1人で全ての機器を操作することになりますので、
相当な訓練を受けた優秀な頭脳の精鋭部隊でなければなりませんでした。

・ エンジンに点火しないで「冷走」して燃料切れになったり、
・ 気筒爆発、深度計の不備による海底衝突
などの事故があったりで、殉職者も続出したようです。

戦争の敗色が濃い時期で、
人手不足による整備員の技術ミスも目立ちました。

スクリューを逆回転できない構造のため、後進が出来ないので、
万一攻撃目標からズレが生じた場合、少し遠回りして迂回し、
追跡するという不便さもありました。

いろいろな問題点を抱えながらも、
搭乗員たちは必死必殺の訓練にまい進しました。


最初の回天出撃
1944年(昭和19年)10月下旬、
米軍最強の海兵隊は、パラオ諸島、正確には、西カロリン諸島に集結し、
これに奇襲をかけようとする
日本海軍の第6艦隊(潜水艦隊)の作戦計画に基づき、
最初の回天特別攻撃隊が編成され、
第1次作戦を「玄作戦」、
出撃隊を「菊水隊」と命名されました。

「菊水隊」は、伊36号、伊37号、伊47号の3隻の潜水艦で構成され、
回天搭乗員は、1隻に4人ずつ、合計12人が配置されました。

第1次出撃隊は、兵学校、機関学校、予備学生出身の士官ばかりで
構成されましたが、これは「士官先頭」という海軍の伝統によるものでした。

伊号第47潜水艦の回天搭乗員は下記の4名、いずれも20歳前後の精鋭でした。

仁科関夫中尉
小・中学校、海軍兵学校を首席で卒業し、柔・剣道も4段の腕前でした。
回天特攻作戦を具体化した中心的な1人です。

福田斉中尉
機関学校出身で、機関学校の名誉を担って、特攻の第1陣に志願しています。

佐藤章少尉
九州大学法学部を卒業後、予備学生を志願するも、
戦局の悪化から、国難を救うために回天特攻に志願しています。
彼はすでに結婚していて、妻に宛てた手紙の中で、次のように書き送っています。
「他に嫁ぐもよし。ただ汝は私の永久の妻なり。
この世において、たとえ他人の妻たるの名を仮せられようとも、
余の妻たるに変わりはない。極楽にて待っている。」

渡辺幸三少尉
慶応義塾大学経済学部を卒業し、予備学生から、回天特攻に志願しています。
医師だった父が早く亡くなり、苦労して育ちました。
姉に宛てた遺書の中で、
「叔父が出してくれた奨学金は、
自分の遺産の中から利子を加えて返してほしい」
と頼んでいます。
苦労人の彼は、人生に借りを残してはならない、と考えていたのでしょう。

回天は4基ずつ、3隻の伊号潜水艦の甲板に木製バンドで固縛され、
昭和19年11月8日、山口県徳山市の大津島から
伊36潜と伊47潜は、西カロリン諸島ウルシー島の泊地へ、
伊37潜は単独で西カロリン諸島パラオ島のコッソル水道へ
出撃して行きました。

航行中の伊47潜では、回天搭乗員4名の起居動作は、
乗り込む以前と全く変わった様子がなく、
返って乗組員の邪魔にならないようにして、
米軍の艦船の模型を出し、向きを様々に変えて測的の訓練をしたり、
海図を広げては、どこをどう進むか、熱心に研究していたようです。

攻撃日が迫っても、淡々として、落ち着いていて、
食後は軍医長や手すきの乗員を相手に、囲碁や将棋に興じていました。

折田善次・艦長ら乗員の方が緊張して、
折田艦長は
「どんなことがあっても、4人を無駄死にさせてはならない」
と思い詰めて、食が細りました。

出撃2日目と3日目は荒天で高波が後甲板の回天にぶつかるので、
回天が壊れぬように、針路の選定、速力の調整に神経を削りました。

夜間は搭乗員を回天の中に入れ、
操縦装置や電話の点検、テストを入念に行っていました。
posted by RIUさん at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月09日

インディアナポリスを撃沈した伊58号について〜追記

8月6日の
今日は広島に原爆が投下された日です」の、
原爆を輸送したインディアナポリスを、その後撃沈した伊58号について、
追記したいと思います。

米軍側の動向
太平洋戦争が終わったとき、米調査団がすぐに来日しました。

彼らは大型巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈した潜水艦の
番号を知りたがり、艦長に攻撃の状況を聞きたがりました。

「なぜ、多くの軍艦の中からインディアナポリスを待ち伏せしたのか?」を。

インディアナポリスが原爆の心臓部である
「ウラニウム235」を運んだからなんですね。

「普通の貨物船では危険」と、
米海軍は、巡洋艦以上の軍艦を使う必要性を考えていたところに、
たまたまインディアナポリスが復帰した事情がありました。

同艦は、1945年(昭和20年)4月30日、
日本陸軍の誠39特攻隊の隼戦闘機に体当たりされ、損傷し、
2ヶ月かけて修理を終えて、復帰してきたのです。

1945年7月16日(アメリカ時間)、
インディアナポリスは、「ウラニウム235」と「起爆装置」を積み込み、
カリフォルニア州のサンフランシスコから出航し、
全速力で西に向かい、途中ハワイの軍港パールハーバーに燃料などの
補給の為に一時寄港して、B-29爆撃機による
日本爆撃の基地があったマリアナ群島テニアン島までの
10,200kmを平均速力29ノット(時速54キロ)の高速で
走り続け、所要日数10日で7月26日に無事にテニアン島に到着し、
輸送の任務を終えました。

そのウラニウム235型原子爆弾は「リトルボーイ」と命名され、
8月6日、エノラ・ゲイに搭載され、広島に投下されました。

米軍上層部は、
「日本側は、極秘に進められていた原爆部品の輸送を
事前にキャッチしていたのか?」
「重大な機密が漏れていたのか?」
「だとしたら、どうやって漏れたのか?」
と疑念を持ったのです。

実際には、敵の後方補給線を狙った伊58号が、
たまたまその海域でインディアナポリスに遭遇しただけなのですが。


「伊58号」の動向
日本海軍の新鋭潜水艦「伊58号」は、
日本の敗戦が近い1945年(昭和20年)7月18日、
山口県の平生(ひらお、瀬戸内海に面した軍港)から出撃しました。

平生には、人間魚雷「回天」の訓練所も設けられていました。

偶然にも、「伊58号」の出撃した7月18日は、
米海軍のインディアナポリスがサンフランシスコを
出港したのと同じ日なんですね。

どういう因果なのか、奇しくも2週間後に、
この2隻はフィリピンのレイテ島沖で遭遇することになります。

「伊58号」は、艦内の95式53センチ酸素魚雷のほか、
甲板上に人間魚雷「回天」6本も甲板に搭載していました。

暑い艦内では、乗組員はふんどし1つの丸裸状態
だったと伝えられています。

日本の敗北15日前の昭和20年7月30日未明、
見張員は距離1万mで左真横に操行する
アイダホ型戦艦(インディアナポリス)を発見します。

護衛艦はいませんでした。

人間魚雷「回天」の搭乗員は、「伊58号」の艦長に、
「早く行かして下さい!」
と依頼してきました。

しかし、艦長・橋本以行少佐は、これを退けました。

「敵は全く油断していて、ジグザグ操行さえしていない。
 この状況なら、貴重な人命を失う回天を使わなくても、
 普通の戦法で、充分に命中が期待できる」
と判断したからでした。

あるいは、月の明かりが弱く、
回天の貧弱な97式特眼鏡(長さ2.9m)では、
命中の可能性が低い、という精度上の考えがあったのかもしれません。

「伊58号」は7月30日午後11時26分、
右舷1,500mで2秒おきに6本の魚雷を発射します。

場所は、フィリピンのレイテ島の東方沖です。

艦首と前部2番砲塔の下方右舷に1発ずつ、計2本が命中、爆発しました。

魚雷の深度は浅くセットされていましたが、
その被害は甚大だったようで、
インディアナポリスは右舷に傾きながら艦首を沈め、
命中より15分後、海中にその姿を没しました。

インディアナポリスは、15.7ノット(時速27km)の速力で、
訓練のためレイテ島に向かっていました。

同艦が、もろくも沈没したのは、南海の暑さのため、
油断して2番デッキの防水扉が開放されていたことも不運でした。

乗艦していた1196名のうち、
艦と運命をを共にしたのは約300名、
海中に落ちた者が約900名でした。

「伊58号」は、
「アイダホ型敵戦艦に魚雷6本を射ち、確実に撃沈せり」
と、広島県呉市の第6艦隊司令部に打電しました。

「伊58号」は、その2週間後、沖縄防衛線で回天を使い、
ドック型上陸艦LSDオークビルと、
その護衛駆逐艦トーマス・F・ニッケルの2隻にも被害を与えています。

「伊58号」は、終戦前日の8月14日、広島県の軍港・呉に帰港しています。

「伊58号」による大型巡洋艦インディアナポリス撃沈は、
第2次世界大戦で潜水艦が沈没させた最後の大型軍艦となりました。

米海軍の哨戒機や通信班の怠慢から、
海上を漂流している生存者の捜索は、
沈没から3日も経ってから、やっと始まりました。

死者の数があまりにも多いため、終戦後の昭和20年12月、
米海軍はインディアナポリスの艦長マクベイ大佐を「軍法会議」にかけました。

「伊58号」の艦長・橋本少佐も証言台に立たされましたが、
「重巡洋艦は、潜水艦よけのジグザグ・コースをとっていなかった」
と証言しています。

軍法会議では、マクベイ大佐は職務怠慢により
「海軍士官の序列を100番下げる」
という判決になりました。

審判中、橋本少佐には何度も
「インディアナポリスはジグザグをしていた」
という偽証をさせようと働きかけられていたようです。


「伊58号」
巡洋潜水艦の回天母艦
水線長(全長)106.9m、最大幅9.3m、燃料満載842.8トン、
14cm主砲×1門(158弾)、25mm機銃×2門(2,100弾)、
53cm発射管×6(艦首)、魚雷19本搭載、
潜偵複座椅(海上航空機)×1、防御安全潜行深度100m
艦長・橋本以行少佐。
昭和19年9月7日、
    第11潜水戦隊(地方部隊所属の防備用潜水艦の部隊)に編入。
昭和20年4月10日、
    沖縄西方面に進出したが、
    「敵警戒厳重にして泊地進入困難なる」旨、打電報告。
同年7月28日、
    米駆逐艦ローリーを撃沈。
同年7月30日、
    大型巡洋艦インディアナポリスを撃沈。
昭和21年4月1日、
    五島列島沖合いで、米海軍により爆破処分。

Z型C2(低速型)の627号艦型で、
7隻の製造計画のうち、実際に製造されたのは、
伊54号・伊56号・伊58号の3隻でした。
伊54号・伊56号は下記のように、共に消息不明になっています。

伊54号
昭和19年3月31日、
    第11潜水戦隊に編入。
同年10月15日、
    フィリピン東方海面に配備を変更され、米機動部隊と遭遇・交戦。
10月23日、
    消息不明。

伊56号
昭和19年6月8日、
    第11潜水戦隊に編入。
同年10月24日、
    米LST1隻を撃破。
昭和20年3月31日、
    玄作戦多々良隊として沖縄に向かうも、その後消息不明。

伊号潜水艦
日本海軍の1等潜水艦(「伊号」)115隻の末路は、
・ 沈没・撃沈     30隻
・ 消息不明      55隻
・ 終戦後米軍に接収  25隻
・ 老朽のため廃艦・除籍 5隻
日本海軍の潜水艦は上記1等潜水艦(「伊号」)115隻を含めて、太平洋戦争開戦時は190隻ありましたが、敗戦時に残存していたのは59隻で、実に131隻に及ぶ多数の潜水艦を喪失しました。

潜水艦乗員の士官の生存率も、
・ 51期 6名 35%
・ 59期 4名 27%
・ 64期 4名 17%
と甚大な被害を被りました。


日本海軍は、潜水艦に航空機を搭載し、
それを実用化した世界唯一の海軍でした。

潜水艦という“Under Water Sea Power”に、
飛行機という“Air Power”を組み合わせて
「潜水空母」というシステム的戦力を誕生させた日本海軍の発想と、
それを実現した技術力は高く評価され、
この着想がアメリカ海軍の
戦略ミサイル原子力潜水艦に受け継がれて行きました。
posted by RIUさん at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月08日

明日は長崎に原爆が投下された日です。

テニアン北飛行場から出撃
1945年8月8日夜、
ファットマンを爆弾倉に搭載したB‐29爆撃機「ボックス・カー」は、
8月9日、午前2時49分に第1目標は小倉、第2目標を長崎として、
13名の乗組員を乗せ、テニアン基地A滑走路を発進しました。

偵察機は「小倉上空の低空の雲量は3割の晴れ」と報告してきましたが、
10時44分にボックス・カーが小倉上空にさしかかると、
一面雲に覆われており、3度旋回を試みましたが、
目標地点の兵器廠と小倉市中心部は目測できず、
さらに高射砲や戦闘機の迎撃が激しくなり、
第1目標を断念し、第2目標の長崎へ向いました。

気象条件を気にした理由は、
・ 原爆は3万フィート以上の高空から、
  しかも目測によって投下されるので、
  従って視界が良くなくてはならないこと。
・ 3万フィート以上の高度が必要な理由は、
  日本の対空砲火も届かないし、
  日本の戦闘機もここまでは上ってこられないため。
・ もう一つの理由は、
  原爆は普通の爆弾のように地上に落ちてから爆発するのではなくて、
  爆発効果を大きくするために2千フィートの上空で爆発するように
  時限装置がセットされているためです。
  原爆は搭載機から離れると、放物線を画いて前方に落ちて行きますが、
  もし飛行機が投下後もそのまま直進していると、
  飛行機は原爆の爆発位置の真上にさしかかる勘定になるので、
  投下後はいち早く危険区域から脱出しなければなりません。
  そのためには投下後「155度の急角度で旋回する必要がある」と
  科学者は計算しました。
  ところが高々度の上空の急旋回は、
  空気が希薄であるために失速をおこして、
  機はキリ揉み状態になり墜落する可能性があるので、
  急降下しつつ155度の急旋回をしなければなりませんでした。
  しかも目測による投下ですから、
  視界をさえぎる雲の存在は禁物だったわけです。


小倉について
・ 前日に八幡空襲があった
  中国四川省の成都基地から飛び立ったB‐29が
  日本への初空襲を行ったのが1944年6月16日でした。
  爆撃されたのは八幡製鉄所(旧八幡市)を中心とした地域で、
  ここは小倉造兵廠(旧小倉市)より西側に、
  7kmしか離れていない場所でした。

  この日付と場所が大きな意味を持つことになります。

  この初空襲は、アメリカ陸軍航空軍にとって
  非常に意義深いものだったようで、
  1945年6月、米空軍はその1周年を記念して
  同地への「記念爆撃」を企画します。

  その6月16日、マリアナのテニアン基地では、
  B‐29爆撃部隊への爆弾(焼夷弾)搭載も済み、
  八幡製鉄所を目標とする空襲の準備はすでに完了していました。

  しかし離陸寸前、天候の理由で目標が大阪尼崎へと変更されたのです。

  非常に大規模な、記念爆撃にふさわしい規模を計画していたようで、
  この日、大阪尼崎は壊滅的被害を被りました。

  米空軍は「八幡への記念爆撃」を諦めずに、
  その後もしつこく機会を窺います。

  そしてやっとその好機が訪れたのが1945年8月8日だったのです。

  この2日前には、広島に1発目の新型爆弾が投下されています。

  そして2発目の第1目標候補である小倉市に対しては、
  通常爆撃を厳禁する命令が以前より出されていました。

  しかし、たった7kmしか離れていない、
  ほとんど同じ地域とも言える八幡市に対しては
  爆撃禁止命令は出されていなかったのです。

  新型爆弾の爆撃部隊は、その目的を厳重に秘匿された秘密部隊でした。

  テニアン基地においても、他の通常爆撃部隊との情報交換などの交流は
  一切なく、通常爆撃部隊には、8月9日に小倉に新型爆弾が
  投下される予定であることなど全く知らされていませんでした。

  もしも情報交換などがなされていたら、
  おそらく8日の八幡爆撃は中止されていたでしょう。

  であれば、八幡からは小倉上空に立ち昇るキノコ雲が
  見えたものと思われます。

  しかしながら八幡は予定通り空撃され、
  それによって生じた火災の煙は翌日まで消えませんでした。

  翌9日、小倉上空に飛来したボックスカー号機長は
  このように記録しています。
  「10時44分、目標は地上の濃いもやと煙に隠されていた」

・ 爆撃部隊が遅れた
  8月9日午前10時15分、ボックスカー号は
  屋久島上空9,000mで随伴機を待って
  旋回を繰り返していました。
  (この特徴ある島は、はぐれた随伴機との会合地点になっていたようです)

  随伴する2機のうち、1機とは5分後に出会いましたが、
  もう1機がなかなか現れませんでした。

  爆撃部隊は、「爆弾搭載機」と「写真撮影機」、
  そして「気象観測機」の3機で構成されていました。

  観測機は、攻撃予定の1時間前に目標の上空で気象情報を得て、
  搭載機に連絡する任務を持っています。

  新型爆弾投下にあたっては、完全目視による投下が厳命されていたため、
  天候の確認をしてから目標を定め、進撃することになっていました。

  その観測機は既に目標に向けて先行し、
  ボックスカー号は撮影機をじっと待ち続けます。

  無線によって得られた気象状況は
  「小倉、低い雲3割、中高度、高度の雲は無し」
  「長崎、好天だが雲量増加中」
  目標選定をする機長に、
  前日の八幡空襲の影響が伝えられていたかどうかは不明です。

  ボックスカー号機長は目標を予定通り「小倉」に定めました。

  そしてなかなか現れない撮影機との会合を諦め、
  小倉に向けて進撃を開始します。

  ここで予定時間をかなりオーバーしてしまいました。
  遅延時間は約45分もかかりました。

  この遅れがなかったら、八幡空襲の煙ともやは、
  どのように小倉上空を覆っていたのでしょうかexclamation&question

・ 投下条件を厳守した爆撃手
  巨額のマンハッタン計画による貴重な新兵器の投下を
  万が一にも失敗しないために、
  投下に際しては厳しい条件が付けられていました。

  放物線を描いて落下していく爆弾の軌道を予測し、
  全て計算ずくの状況が設定されていたわけです。

  必中させるために、機長は機を同じ高度、同じ速度を保ちつつ、
  目標に対して一直線に侵入します。

  そして爆撃手は、この直線飛行の間に投下目標(照準点)を
  目視確認して投弾するように計画されていました。

  つまり、ボックスカー号は敵国の軍都上空で、
  高度9,400m、時速320kmで約70kmの距離を
  直線飛行しなくてはならないのです。

  10時40分、ボックスカー号は大分県姫島上空から
  爆撃航程に入りました。

  約4分後に小倉上空に侵入。

  しかし爆撃手が照準点の目視確認に失敗します。
  「地上の濃いもやと煙」によって、
  この時、造兵廠内の投下目標は覆い隠されていたのです。

  投弾の機会を逸したボックスカー号は、
  そのまま、虚しく目標直上に達しました。

  すると、真上から見れば、目標が確認出来たのです。

  機長は
 「侵入角度を変えて、よく観測すれば、爆撃航程中でも目標を捉らえられる」
  と判断し、小倉上空を離脱し、
  ふたたび危険な直線飛行による爆撃航程をやり直します。

  第1回目の侵入角度から120度角度変更、再侵入しますが、また失敗。

  また角度を変えて再侵入するも、またまた失敗。

  計3回失敗してしまいました。

  この間の約45分間、爆撃手の指は
  投下ボタンに何度も掛けられたことでしょう。

  後日、小倉への投下失敗について、
  「十分な爆撃航程が取れなかったこと」
  「照準点の目視が出来なかったこと」
  が理由として報告されています。

  つまり1回目の失敗は爆撃手の目視失敗によるもので、
  2、3回目の失敗は機長が爆撃航程を短縮してしまったことと
  爆撃手の目視失敗によるものだったと想像できます。

  しかし、目標方向への侵入自体は目視により可能だった事から、
  後の長崎と比べればかなり好都合な投下条件だったことは明らかです。

  もしも爆撃手が、照準点辺りに適当に見当をつけて
  投下ボタンを押していたら…。


午前11時前に長崎市上空に到達しましたが、
長崎上空にも雲が覆っていました。

すでに燃料がギリギリしかなく、
レーダーによる爆撃態勢に何度かチャレンジし、
最後のチャンスに、たまたま雲の切れ間が見え、
午前11時1分、2つ目の原子爆弾が投下されました。


長崎について
新型爆弾は、12時02分に長崎上空で遂に爆発します。

この長崎は、幸運な小倉とは逆に実に不運な状況にありました。

・ 米軍の大都市爆撃目標から外された

  長崎の造船産業は、当初の戦略爆撃では当然目標とされていました。

  実際、1944年8月11日には、
  中国四川省の成都基地からB‐29が飛来して爆撃しています。

  しかしその後、1945年3月からの
  「大都市を目標とした焼夷弾空襲」
  が始まると、兵器産業関係への空襲は後回しとなっていったのです。

  地形的に山が迫っていてレーダー観測が効かない長崎は、
  なおさら空襲を受けなくなっていました。

・ 兵器工場爆撃期間中に無傷だった
  兵器産業地への空襲は、
  1945年6月20日以降に集中して行われ始めました。

  長崎は造船所などがあり、当然狙われるはずの都市でした。
  しかし爆撃されません。
  それは幸運な出来事のはずでした、7月までは。

  1945年7月下旬、新型爆弾の目標候補から外された
  京都の代替都市が選定されました。

  その不運な都市が、
  その時点まで「幸運にも」無傷でいた長崎だったのです。

・ 反対は押し切られた

  長崎は、山と海が複雑に入り組んだ、平地の少ない地形です。

  この地形では、新型爆弾の破壊力の限界がわかりません。

  どこを目標地点としても、破壊予想半径内に建造物が何もない
  地域がかなり含まれてしまうからです。

  多分に実験的要素を含んでいた新兵器の投下目標として不適切であり、
  いわば選ばれるべきでない都市でした。

  「広島」、「京都」、「小倉」は、
  全く理想的な投下目標都市の形をしていました。

  つまり、
     1 破壊予想半径の3kmが市街地にスッポリ入る
     2 適当に建造物が多く人口が多い
     3 テニアン基地から近い
  という条件を完全に満たしていたからです。

  3都市以外に「新潟」も候補地として挙げられた時期もありましたが、
  新潟はテニアン基地から遠く、“効果”として貧弱なため、
  7月までには除外されていました。

  突然に長崎が候補地に入れられた後も、
  その不規則な地形を考えて、常に第2、第3候補とされていました。

  「なぜ京都でなく長崎なのだ」
  と、米軍部内でも長崎を目標とすることを
  不満とする考えが多かったそうです。

  爆撃部隊の責任者である少将が、
  ポツダム会議に出席中のトルーマン大統領に
  「京都を爆撃させて欲しい」
  と直訴したほどでした。

・ 小倉では投下されなかった
  小倉では、投下に際しての厳命
  「完全目視下において照準、投下する」
  を守り、3回チャレンジし、結果投下を断念しました。

  沖縄に緊急着陸して給油する前に、
  長崎の上空を1回通過するだけの燃料は残っていました。

  機長はテニアンに戻るのか、
  第2目標の長崎に向かうのか
  の選択に迫られ、そして長崎への飛行を決断します。

・ 厳命を無視して投下された
  ボックスカー号が長崎上空に到着したころには、
  すでにかなり雲量が増加してしまっていました。

  目標(市街地)へと接近するにも、
  目視がほぼ不可能で、
  終始レーダーを使用しなければならないほどでした。

  目標上空に達しても、
  数秒間しか目標を確認出来なかったと報告されています。

  もちろん、厳命に従えば投下を断念するべき状況でした。

  しかし、このまま帰ると、原爆を積んだまま着陸することになります。

  日本の戦闘機に遭遇したり、故障、着陸失敗など、
  どのような不具合が生じるのかわかりません。

  さりとて海上にて投棄するなど論外です。

  下手をすれば、これが最後の1発なのですから。

  11時50分に長崎上空に到達…投下をためらいつつ飛行中、
  小倉では厳命を厳守した爆撃手は、
  わずか20秒間だけ雲間から現れた工場地帯を目標と認め、
  ついに11時58分に爆弾を投下します。

  マニュアルにない状況での慌ただしい投下…約1分後、
  目標地点から大きく3kmほど北に外れて
  上空約500mでプルトニウム原爆が爆発します。

  3方に山が迫る、非常に狭い地域でした。

  本来の目標は、
  長崎市北部に位置する松山町171番地(現松山町5番地)
  テニスコートの上空でした。


「ファットマン」の威力
この爆弾は、プルトニウム爆弾で、
直径1.52m、長さ3.25m、重さ4.5トンの広島型に比べ、
スマートな大型爆弾でした。

広島原爆を上回る、高性能火薬TNT2万2トン分の
エネルギーを瞬時に放出しました。

熱線、衝撃波と爆風、放射線の影響は、
広島原爆よりも広い範囲に及びました。

長崎の場合は、市の中心部より北に外れて爆発し、
山が接近していたために、極めて複雑な被爆の状況が
つくり出されましたと言われています。

原爆の「火球」から放出された熱線が、
最も人体に強い影響を与えたのは
爆発後0・2秒〜0・5秒の間でした。

原爆の熱線による射熱傷を「第1次原爆熱傷」と言い、
これに対し原爆の熱線が家屋に火災を起こし、
あるいは衣服を燃やして受ける熱傷を「第2次原爆熱傷」と呼んでいます。

表面が炭のようになる5度の熱傷は、
長崎では爆心地から半径1450mの距離に及びました。

爆心地ではその10倍以上の
1平方cm当たり222カロリーの熱線を受けました。

太陽光線によって0・3秒間に1平方cm当たり受ける熱量は
0・007カロリーですから、その数万倍の熱線を浴びたことになります。

この熱線量では、皮膚のすべての層が焼き尽くされるばかりか、
内臓の組織および臓器までもかなりの熱傷害を受けるようになります。

爆心地付近では、小さな子供の場合黒こげになり、
内蔵も水分が蒸発して、小さな黒い炭の塊のようになったと言われています。

当時の長崎市の人口は約24万人と推定されており、
市域の36%が破壊されました。

死者は7万3884人、重軽傷者7万4909人を数えています。

三輪明宏も長崎で被爆しています。
当時10歳だったそうです。


日本軍の空爆対策
B‐29による空爆が盛んになって、
ようやく戦争も終りに近づいた頃、
初めて日本軍のB‐29射撃用の15cm砲がやっと完成しました。

東京・井の頭公園近くの久我山に1門据えられました。

この火砲及び照準器の成績は非常によくて、
たちまちB‐29十数機を撃墜したため、
遂にB‐29の爆撃編隊は、久我山附近を通過することも、
爆撃することも止めてしまったので、
久我山地方に住んでいた人達は不思議に思っていたそうです。

その後、日本軍が手に入れた本邦爆撃用のアメリカの航空地図には、
久我山附近を危険地域として特にマークが付けられ、
爆撃はもちろん止め、その附近にも近寄らせなかったと言われています。

もしこの高射砲の量産が進められていたら、
東京を始め日本の都市は、
焼け野原にはならずに済んでいたのかもしれません。

広島、長崎に原子爆弾は落とされなかったのかもしれません。

もっとも、ポツダム宣言を受諾せず、
本気で「本土決戦」を選択したのかもしれませんが…。

当時、小倉にはこの15cm高射砲が据えられていながら、
ファットマンを搭載した「ボックス・カー」が飛来したときには、
指揮者は留守であり、
攻撃を判断する権限が代理指揮者に与えられていなかったと伝えられています。

曇天下でも1万mの高度を飛行するB‐29を射撃可能で、
実績もあった装備がありながら、実行可能な手段が行われず、
2発目の原爆投下をみすみす許してしまったわけです。



ボックス・カーは長崎にファットマンを投下後、
直ちに急降下しつつ左へ急旋回し、
北東へ向け全力で離脱して爆発の衝撃波を避けた後、
旋回しつつ観測を続け、沖縄に向け南下して行きました。

会合点(屋久島)での遅れと小倉を経由したことで
帰路の燃料が不足したため、
ボックスカーは午後2時00分、沖縄の読谷飛行場に緊急着陸し、
給油などで3時間滞在して午後11時6分テニアンに帰着しました。

全任務時間は、沖縄での地上滞在3時間を含めて
19時間17分だったそうです。

翌8月10日、米空軍機から1日遅れの「警告ビラ」が、
原爆で廃墟となった長崎上空から撒かれたそうです。

日本の外務省の不手際で
「宣戦布告」がパールハーバーへの奇襲攻撃後になったことを
意識してのことでしょうかexclamation&question

ボックス・カーの機長は、戦後
 「2発の原爆が、少なくともその後実行する予定であった
  九州上陸作戦で死傷したであろう約40万人のアメリカ将兵の命を救った」
と主張し続けました…。
posted by RIUさん at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月07日

沖縄の不発弾処理

不発弾処理.jpg

戦闘に使われる爆弾や艦砲弾は、必ず不発の弾が出ます。

航空機からの投下または戦艦や陸上から発射されたり、
手榴弾など全ての弾のうち、爆発しない率を「不発弾の出現率」と呼び、
その出現率は5%
だそうです。

60年前の沖縄戦に限らず、最近のイラク戦争でさえ、
この出現率で不発弾が発生していると言われています。

沖縄戦で日米両軍が県内全域に投下した爆弾や砲弾、敷設した地雷は
約20万トンにも及ぶと推定され、不発弾の出現率5%で推察すると、
不発弾は1万トンに達すると考えられています。

1972年の本土復帰から2004年度までの32年間では、
県内で1507.2トン(2万7120件)の不発弾が
陸上・海上自衛隊を中心に最終処理されており、
アメリカ統治下に米軍や民間による不発弾処理を併せると、
概ね7千トンが処理されたと言われています。

残る3千トンのうち、
どのように探しても見つからないであろうとされる
「永久不明弾」500トンを引いた2,500トンが、
まだまだ県内いたる所で今でも人を殺そうと
どこかに潜んで埋まって待っていることになります。

年度別の不発弾処理は40トンから80トンの間を行き来しており、
撤去にはまだ40〜50年もかかる計算になり、
戦後60年経った今でも、
「沖縄戦はまだ終わっていない」
ことになります。


不発弾の事故
県内で不発弾による事故を挙げればきりがありません。

南部では、戦争直後はクワで農地を耕作中に不発弾にカツンとあたり、
暴発するという事故が多数あったようです。
沖縄に「義手・義足」が多いのと関連があるようです。

沈没した弾薬輸送船のスクラップを回収しようとした
船の乗組員32人が死亡した事故、
いわゆる「ダイナマイト漁」に使うため
不発弾から火薬を取り出そうとして爆発し、
多くの漁業者が死亡したこともありました。

復帰2年後の1974年には、
那覇市小禄の聖マタイ幼稚園前の下水道工事現場で不発弾が突然爆発し
幼児を含む死者4人、負傷者34人、家屋全壊14棟という
大きな被害が出ています。

1972年復帰後の県内の不発弾による事故は、
合わせて65件発生しており、7人が死亡、47人が負傷しています。

復帰後33年間に、全国で処理された不発弾のうち、
沖縄が占める割合は件数ベースで30・1%、
重量ベースでは40・7%に達します。

処理された不発弾の数が、沖縄戦の壮絶さを物語っています。

終戦から1972年に復帰までの不発弾等の処理は、
米軍及び民間により行われたのですが、
アメリカからしたら沖縄は植民地的扱いなので、
記録なんか取っていないんですね。
そのためその間の数字的なことは全く不明なのです。
いいかげんなものですね。もうやだ〜(悲しい顔)


不発弾の種類
沖縄で発見される主な不発弾は以下の6種類です。
・ 爆弾
・ 砲弾
・ ロケット弾
・ 手榴弾
・ 迫撃砲弾
・ 地雷


磁気探査による不発弾の調査
沖縄には磁気探査協会や沖縄県磁気探査事業協同組合という
団体があるくらい、磁気探査専門の会社が多数あります。

宝探しのように、磁力で地面を探索して、
不発弾を発見する方法を取っています。

1m間隔で機械を持ち歩き、
反応のあった箇所をスコップで掘っていくわけです。
もちろん重機は使えません。

深さ1メートルごとに探査を行わなければならないため、
費用や時間など負担も大きく、
1件あたり、最低でも100万円以上かかるようです。

畑の表面は土なので問題なく掘れるわけですが、
60センチぐらい掘ると珊瑚の層が出てくるので、
それをまた、キンガナという道具(鉄の棒)で砕きながら
掘り進んで行くのです。

いつ不発弾が出てくるかわからないので、
簡易磁気探査装置で探しながら掘っていくのですが、
不発弾が真っ直ぐ向いているのか、横向きなのか、
どんな状態で埋まっているのかは機械でもわかりませんから、
危険な作業になります。

米軍の爆弾の信管は、前と後ろ両方に付いているようです。

不発弾が発見されると、不発弾処理では日本で一番経験豊富な
沖縄の自衛隊が処理することになります。

死と隣り合わせの仕事である不発弾処理隊のメンバーは、
「郷土(故郷)を守りたい」
という沖縄魂の持ち主たちで、志願してここに配属されているようです。

磁気探査の会社は、ふだんは米軍基地内での仕事が中心だそうで、
何か建物を建てるとか、穴を掘るというときには必ず探査するそうです。

日本軍の基地跡に米軍基地があることが多いので自然と不発弾も多いようですね。


不発弾を発見したら
不発弾を発見したら、触ったり動かしたりせずに、
すぐ最寄の警察署または交番に届けることになっています。
当たり前ですよね。

海中の場合は、最寄の海上保安所または海上保安部に
届け出ることになっています。

海の場合は海上自衛隊が、陸の場合は陸上自衛隊が処理を行います。

昨年は、沖縄県庁の職員が、何をトチ狂ったのか、
不発弾を県庁に持ち込んでしまったことがありました。もうやだ〜(悲しい顔)

ハンマーで信管を叩いて自爆テロでもする気だったのでしょうかexclamation&question
幸い、コレクションとして置物にしていただけだったようですが…もうやだ〜(悲しい顔)

農家が、拾った不発弾を軽トラに乗せて、
違う場所に捨てたこともありましたね。もうやだ〜(悲しい顔)


不発弾探査機器の能力
不発弾の埋没状況により異なりますが、
現在、探査会社で使用されている不発弾探査機器の最高の性能のものは、
1トン爆弾で地下4メートル程度、
50kg爆弾で地下2.6m程度、
砲弾で地下1.5m程度の深さまでのものを探知する能力があるようですが、
実際には1mごとに行われています。


不発弾処理にともなう避難半径
不発弾の大きさや種類によって避難の範囲も変わってきます。

爆弾の種類と避難距離の関係は次の通りです。
・ 5インチ砲弾      (避難半径230m程度)
・ 50kg、120kg爆弾(避難半径400〜600m程度)
・ 250kg爆弾     (避難半径700m程度)
・ 500kg爆弾     (避難半径800m程度)
・ 1トン爆弾       (避難半径1km程度)
・ 地雷          (避難半径300m程度)


不発弾処理の出動回数
年間約300回、ほぼ毎日あるような日常的な出来事になっています。
過去には年間600回近いこともあったようです。
自衛隊は緊急出動要員が常時待機してくれています。


不発弾の海中爆破処理
不発弾処理は、発見された場所周辺の環境や不発弾の種類・状態など、
さまざまな状況によって処理方法が異なります。

理想的なのは、現場に十分な深さの穴を掘り、
その場で安全に爆破することですが、
那覇市内など住宅が多い地域では行えません。

そこで不発弾の起爆装置である「信管」を取り外すという
最も危険な作業が必要となるのですが、
これはどうしても人の手によらなければできないのです。

信管の状態を調べて爆弾が動かせるものかどうかを調べる
”信管識別“という、命がけの危険な作業になります。

「信管を外せる」と判断した場合は、
信管にレンチを装着し、手動で回して外す作業に取り掛かるわけです。

信管が外された不発弾は、数をまとめて海中爆破処理を行います。

先日は、那覇港沖400メートル地点の海底で
自衛隊の水中処理隊など約70人が、
不発弾の上にプラスチック火薬を設置し、
導火線を引き海中爆破作業を行いました。


処理費用
不発弾探査費・処理費は、
その半額は市町村が負担することになっているため、
自治体にとって大きな財政負担となっています。

沖縄県は2年後に財政破綻が懸念されていますし、
県内どこの市町村でも財政は火の車状態です。

国が興した戦争で、沖縄が犠牲になったのに、
なぜ沖縄県側が半分負担しなければならないのでしょうかexclamation&question

不発弾処理対策は戦後処理問題として
国の責任で行われるべきだと思いますし、
何より、攻撃をして不発弾をばら撒いた
アメリカに責任があるのではないでしょうかexclamation&question

単純な責任転嫁や被害者意識ではなく、
沖縄は今は日本の統治下に置かれていますが、
終戦から1972年までの27年間は、
アメリカの統治下に置かれていたからです。

今だって、アメリカの植民地の中で、その管理を日本がして、
沖縄は自治だけを任されているようなものなんですよ。
posted by RIUさん at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月06日

今日は広島に原爆が投下された日です。

爆撃圏内.jpg

米軍は、戦争を早く終わらせるために原爆を投下したのではありません。

ソ連の参戦が間近(8月15日)になり、
早く原爆を投下しないと日本が降伏し戦争が終わってしまうので、
投下時期を早めてしまったのです。

戦争終結後の、
戦勝国としての「利権」を有利に進めるために原爆を投下した

のです。


開発されたばかりの「秘密兵器」であるウラン235型原爆(リトルボーイ)は、
テニアン島到着から10日後の8月6日に
人口密集地である広島上空で投下されました。

14万人の非戦闘員を無差別に虐殺した原爆投下は、
アメリカにとってはあくまでも実験にすぎず、
8月9日の長崎では,
さらに強力なプルトニウム型の原爆を使用し、
2種類の原爆の性能、つまり人体に及ぼす被害状況を比較しました。

日本人は間違いなく原爆実験のモルモットにされたのです。


テニアン島
米軍は、当時の長距離爆撃機B25の2倍以上の航続距離を持つ
超長距離爆撃機の開発を進め、1944年初頭に
B‐29の生産が軌道に乗りました。

基地化を進めることで、日本本土を随時空襲できることになるわけです。

また、同年初頭に日本軍は孤立した中国を屈服させようと
大陸打通[だつう]作戦を開始し、
これに対して米軍は中国奥地の成都にB29の基地をつくりました。

同年6月6日には、連合軍がフランスのノルマンディーに上陸を敢行します。

6月15日に米軍がサイパン島に上陸し、
その同日の深夜には成都基地のB29が八幡製鉄所を爆撃します。
これがB29による最初の日本本土空襲で、“世界戦略”の一環です。

同年年7月9日にサイパン島が玉砕陥落し、
サイパン島から南南西に8kmしか離れていないテニアン島には
7月24日未明に米軍が侵攻開始し、8月1日にはテニアン島が陥落しました。

テニアン島には北飛行場があり、
米軍は日本本土空襲の航空基地確保に成功したわけです。

同年11月になるとサイパン、グアム、テニアンに基地が造られ、
東京も爆撃圏内に入りました。

広島に投下した原爆を搭載したB-29爆撃機の
エノラ・ゲイ号(Enola Gay、機長の母親の名前をそのまま命名した)は、
このテニアン北飛行場から出撃することになりました。


投下目標地の選定
米軍は1945年春に、投下目標地の条件を次のように決めています。
・ 投下によって、日本国民の戦意を打ち砕けるような場所
・ 重要な司令部、軍隊の駐屯地、軍需品の生産中心地など
・ 空襲を受けておらず、原爆の威力がはっきりと現われる場所

最初に候補に上がったのは17地域で、
その後ナチス・ドイツが無条件降伏し、
原爆は
「なるべく速やかに」
「他の建物に囲まれた軍事目標に対し」
「兵器の性能に関する事前通告なしに」
使う決定が確認されました。

これらの条件に基づき、最終的に
広島、小倉(現在の福岡県北九州市)、長崎の3都市に選定されました。

8月9日の目標は当初は小倉でしたが、
上空が煙や雲に覆われていたことで、長崎に変更されました。


当時の広島
明治の初めに鎮西鎮台(九州の陸軍駐屯地)分営が置かれて「軍都」となり、
太平洋戦争末期には西日本の最重要軍事拠点となりました。
軍需産業も盛んで、朝鮮から徴用された工員、慰安婦ら
多数の外国人も住んでいました。
被爆当時の広島市の人口は、推定35万人と言われています。


原爆の輸送
米国は原爆を製造開発する為のマンハッタン計画に基づき、
科学技術の総力を挙げて原爆の製造に取組みました。

その原爆をカリフルニア州の軍港から
快速の大型巡洋艦「インディアナポリス」に積み込んで、
B-29爆撃機による日本爆撃の基地があったマリアナ諸島の
テニアン島に輸送することになりました。

1945年7月16日にアメリカの西海岸を出港した巡洋艦は
全速力で西に向かい、途中ハワイの軍港パールハーバーに
燃料などの補給の為に一時寄港し、
テニアン島目指して再び航海を続けました。

アメリカの西海岸からテニアン島までの10,200kmを
平均速力29ノット(時速54キロ)の高速で走り続け、
所要日数10日で7月26日にテニアン島に到着し、
原爆と起爆装置などの輸送の任務を終えました。

原爆の最終組立はテニアンで行われています。


インディアナポリスの弔い
巡洋艦インデアナポリスは、グアム島を経由して
次の任務であるフィリピンのレイテ湾に向かう途中、
1945年7月30日未明に、
日本海軍の「伊−58号」潜水艦に雷撃されて沈没しました。

この巡洋艦には1,196名が乗組んでいましたが、
12分後に沈没した艦からは900名が海上に脱出しました。

当時は洋上に不時着水したパイロットや、
沈没した艦船から脱出した人達にとって、
サメの襲撃から身を守ることは切実な問題でした。

その為に米軍ではパイロット用に1人乗りのゴム・ボートが開発され、
サメの忌避剤である「シャーク・チェイサー」も
救命胴衣に装備されていました。

これに対し日本海軍の唯一のサメ対策といえば、
六尺フンドシ(2メートル)を海中に流すことでした。

「サメは自分の身長よりも長いものは襲わない」
と言われた漁師たちの迷信を信じていたからですね。

では体長3メートル以上のサメが来たら、どうするのでしょうかexclamation&question

脱出の際にボートに乗れなかった多くの人達は
浮具を着けて集団になり漂流しましたが、
やがて恐ろしいサメの攻撃に見舞われました。

グアム島とフィリピンの中間地点には熱帯性の大型のサメが多く生息し、
最初は集団の外側にいた人間から一人、また一人とサメに襲われてゆき、
朝から晩まで、夜中も次々にサメに襲われては、
断末魔の悲鳴を上げながら喰われて死亡しました。

海面一帯には沈没した艦からの燃料油が層を作り多量に浮かんでいましたが、
それにも血が混じるようになりました。

生存者の話によると、現場周辺には百匹以上のサメが集まり、
漂流している彼等の足の下を常に泳ぎ回り、
不運な漂流者を目掛けて絶え間なく襲ってきましたが、
その度に悲鳴を上げながら足や胴体を喰いちぎられて死んで行きました。

3日目にはサメに喰われる恐怖、飢と渇き、絶望から多くの者が幻覚を生じ、
水の代わりに多量の油が混じる海水を飲んでは嘔吐し、力尽きて沈みました。

4日後に漂流中の一団が捜索機により発見され、
沈没から5日目になって艦長以下315名が、ようやく救助されました。

海上に脱出した者の65%、585名が飢えと渇き、
それに大部分がサメに襲われて死亡したものと推定されました。

救助に来た駆逐艦の乗組員によれば現場海域には多数のサメが集まり、
救命胴衣を着けたまま、下半身をサメに喰われた遺体が
数多く浮いていたとのことでした。

広島に投下された原爆には
「インデアナポリスの乗組員に捧げる」
という文字が書かれました。

艦長は終戦後
「艦及び乗組員を危険にさらした罪」
で軍事裁判にかけられることになりました。


B‐29
B‐29の正式名称は、
「ボーイングB‐29スーパー・フォートレス」(超空要塞機)です。

超長距離通常爆撃機として設計され、緊急に製造された最新型爆撃機でした。

高度1万m以上での飛行が可能で、
航続距離は当時では異例の5600km(4トン爆弾搭載)もありました。

全長30.2m、全幅43m、高さ9mという
当時世界最大の大型爆撃機でした。

エノラ・ゲイはその内の一機で、
広島への原子爆弾投下のため特別な改良が加えられました。


出撃
攻撃前日、機長は一人のペンキ工に命じて、
機首に「ENOLA GAY」と大書させています。

この任務には7機のシルバープレートB‐29が使用されています。

そのうち3機は目標上空の天候偵察のために
エノラ・ゲイの1時間前に離陸しました。

また1機は爆弾と同時に投下する爆風測定器を、
もう1機は爆発を撮影するカメラを搭載していました。

エノラ ゲイが原爆を搭載し、
さらにもう1機が緊急時のバックアップとして
硫黄島に前もって駐機していました。

1945年8月6日午前2時45分(日本時間午前1時45分)、6機が
中部太平洋のテニアン島北飛行場を飛び立ちました(機長以下乗員12名)。

日本時間午前5時、硫黄島上空。

機首を四国に向け、高度9200フィート(2800m)の高度まで
上昇してそのまま進入(時速205マイル)。

攻撃直前さらに急上昇、午前8時15分17秒、
高度約3万フィート(9140m)の広島上空で原子爆弾投下、
43秒後に地上1890フィート(576m)の上空で爆発しました。

すなわち、実験を除く人類史上初の原子爆弾爆発の時刻は
1945年8月15日午前8時16分(日本時間)となります。

一般的には、原爆の影響を受けて止まった多くの時計の針が
「8時15分」を指しているとして、
爆発した時刻を「8時15分」と感覚的にとらえている人も多いはずです。
原爆記念日の黙祷開始時刻も8時15分に行っています。

広島市HPを見てみると、原子爆弾「投下」時刻が「8時15分」であり、
原爆が炸裂したのは、その43秒後であるとはっきり記載していてあります。

広島市HPより抜粋
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。
原子爆弾は、投下から43秒後、
地上580メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、
小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。
火球の中心温度は摂氏100万度を超え、
1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、
爆心地周辺の地表面の温度は3千〜4千度にも達しました。

中国新聞より抜粋
広島原爆・爆心地は、従来説よりも16.2m西、
○○病院南西側(従来説は南東側)とのこと。
原因は、爆心地推定に使ってきた米陸軍作成の地図に”ズレ”があり、
現在の地図上に正確に転記されていなかったためという。
放射線影響研究所(放影研、広島市南区)調査結果発表による。
爆心地の座標は、被曝線量推定方式「DS86」を
検証するための基準点となるものである。
なお、原爆の爆発高度について、別の報告によると
爆心地上空600m(従来説580m)が妥当という。
爆心地の位置を数値地図で読み取ると、おおよそ次のようになる。
原爆ドームの南東方向120〜30m
北緯34度23分28秒
東経132度27分26秒


エノラ・ゲイは広島に原爆を投下後Uターンし、
午後2時58分(日本時間午後1時58分)テニアン島北飛行場に帰還。

往復飛行時間12時間13分。
航続距離2960マイル(4764km)。

直ちに、機長ティべッツ大佐は殊勲十字章が授与された。


エノラ・ゲイ展示(スミソニアン博物館)
スミソニアン航空宇宙博物館新館(米国ワシントン郊外)が、
2003年12月にオープンし、
広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ(B‐29爆撃機)の
一般公開が始まりました。

エノラ・ゲイは、「技術の進歩の証し」として
数多くの航空機といっしょに展示されており、
原爆投下に関する説明では、
「1945年8月6日、戦闘としては初の原爆を投下した」
とあるのみで、被害の実態(死傷者数や歴史的な経緯)等については
一切触れられていません。


原爆死没者数(1945年末までの死亡者数)
広島原爆死没者数の公的な推定値は、
「14万人±1万人」とされていますが、
その人数はあくまでも推定値であり確定したものではありません。


多くの犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
posted by RIUさん at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

今日は「阿波丸」撃沈を、米国務省がその責任を認める声明を出した日

「阿波丸」撃沈事件の概要
2千名余りの乗客乗員と,9800トンもの貨物を満載して
シンガポールから日本へ向けて航行中であった
1万2千トン級の大型貨客船「阿波丸」が、
米軍が沖縄本島に無血上陸を果たした昭和20年4月1日午後11時、
緑十字船 『阿波丸』 が、
台湾海峡で米国潜水艦クイーン・フィッシュ号の魚雷4本を受け、
不法に撃沈された事件。

阿波丸は,
米国および連合国側の要請によって、
「日本の占領下で捕虜および抑留されている
将兵や市民16万5千人(アメリカ軍捕虜と市民約1万5千人、
連合国軍捕虜と市民約15万人)のために
赤十字の救援物資を運び届ける」
という特殊な任務を帯びており、
連合国側から、往復路の航海絶対安全を保証されていた「緑十字船」であり、
国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、
1人の生存者・下田勘太郎氏を除いた2,129名全員が死亡し、
タイタニック号の1,519名を上回る、当時の世界史上最大の海難事故
となった。

安全航行が保障された船を警告もなく攻撃することは
明かな国際法違反であった。
 
アメリカ政府は責任は認めたものの、
事件の真相が明らかにされることはなかったexclamation



事件の背景
アメリカ政府が、当時中立であったソビエト政府を通じ、
日本軍占領地帯にある連合軍捕虜・抑留者への救恤品(きゅうじゅっひん=軍事用語)−国民が軍・兵隊に対して送る金品・煙草・医薬品等の見舞品のこと=慰問品を送るよう要請したことに基づいた任務の船であった。

そのため連合国から病院船扱いの「安導券」( Safty Conduct 安全なる航行の保障)を与えられていた。

1945年2月17日、約2千トンの救援物資を載せて門司を出港。

高雄、香港、サイゴン、シンガポール、ジャカルタに寄港し、
その積荷である連合国の救援物資を届け、
帰途につくべく最後の帰港であるシンガポールに
1945年3月24日再度入港している。

阿波丸の船室は一等船室が37人分しかないものの、
ジャカルタで多数の在留邦人を乗せた後、
シンガポールでも多数の東南アジア在留邦人が乗り込み、
大多数の乗客は船倉に押し込めら、寿司詰め状態であった。

この船には、
すでにシンガポールからスズ3千トン、 生ゴム3千トン、
その他の貴金属、希少金属類、
さらに戦略物資を積み込み、総計9800トンの貨物が積載されていた。

また便乗者として官僚や大手民間会社の社員なども乗り込んでいた。

このような戦時禁制品や官僚の輸送は本来の許可内容から外れるが、
これは日本側が航海の安全を引き換えにした隠れみのにしようとした意図があった。

阿波丸の船体は白く塗られ、
夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、
夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。

3月28日予定通りシンガポールを出港し、
最終目的地である福井県敦賀港へ向かった。

すでにこの海域の制海権・制空権ともに日本の手にはなく、
護衛も付けることなくたった1隻で航行していた。

4月1日に台湾の高雄へ正午位置を
「北緯23度20分、東経117度27分」
と報告し、
台湾海峡の入口からこれから台湾海峡に入るとの連絡があったが、
その後音信が途絶え阿波丸の消息が不明となった。

この時、米国側にあっては、
4月1日午後11時、
東シナ海で敵に対する哨戒作戦に従事していた米海軍の
第17機動部隊所属のクイーンフィッシュ号が、
濃霧のたちこめる牛山島沖、
北緯25度26分01秒、東経120度08分01秒の海上で、
敵国の駆逐艦と思えた船舶を1時間追跡ののち、
距離3600Mから4発の魚雷を発射、
船体のほぼ中央に命中。

17ノットで航行中の阿波丸はSOSを発進する間もなく、
2,129名の尊い人命は積荷や船体もろとも一瞬にして海底のもくずと消え去った。

現場に到着したクイーンフィッシュは
海上に漂う生存者の救助を行い、
1人の日本人生存者を救出。

翌4月2日、
体力の回復したその捕虜から聞き出したところによると、
昨夜撃沈した船舶は、日本の商船・阿波丸であることが判明した。

この情報が米海軍太平洋艦隊潜水艦隊司令官から
4月2日に米国政府に報告された。

米国政府内では、
事件の対策をめぐって協議が行われたが、
結局、その事実を公表するのは、
阿波丸撃沈のニュースを受け取ってから8日後の4月10日となった。


事件発覚
日本側ではこの事件をすぐには知ることができなかった。

事故3日後の4月4日午後に 門司港外の六連島沖に予定通り到着しなかったこと、
翌4月5日、最終到着港であるにも姿を見せなかったこと、
しかも無線連絡がないことから阿波丸に重大な事故があったことが推察され、
ここでようやく捜索が開始された。

当初日本側は、
国際法による安全保障の見地から、
アメリカによって撃沈されたことなど考えていなかったので、
4月10日にスイス政府を通じてアメリカ側に対して「阿波丸」消息を照会している。

そのころ既にアメリカ側は、
「阿波丸」を撃沈させた潜水艦クィーンフィッシュ号からの報告を受けていた。

困惑したアメリカ側は、
生存者救出と積荷の証拠になるものを収集することを、
クィーンフィッシュと、付近を航行していた潜水艦シーフォックスに命じている。

4月12日、ワシントン発ロイター電は、
アメリカ海軍省の発表を以下のように報告した。
『 連合国の安導券を有した日本船阿波丸は、
4月1日夜12時ころ潜水艦によって撃沈された。
魚雷の発射は多分アメリカ潜水艦によるものと思われる。 』
日本が阿波丸の最後を知った第一報であった。


日米交渉と結末
日本政府は米国に対し、
その不法を抗議すると共に謝罪と損害賠償を請求するべく
中立国のスイスを通じて米国政府に交渉を開始したが、
米国政府は、終戦間近の7月13日になってようやく、
「阿波丸は安全保障の取決めの諸条件に十分従っているようにみえるので、
それが阿波丸だと確認する責務はアメリカ潜水艦の艦長の側にあった。
彼がそれをしなかったという点で、
アメリカ政府は阿波丸撃沈の責任を認める」
としながらも、
賠償問題は戦争中は十分な解決が不可能で、
戦争終結まで延期したいと提案した。

加害者に対する責任の追及や賠償交渉も進まないうち、
同年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、
敗戦による無条件降伏するに立ち至り、国も国民も呆然自失の状態に陥った。

阿波丸の賠償問題は、戦後に持ち越され、
日本側はまだ賠償請求の意思を明確に持ち賠償交渉が続けられたが、
昭和23年には、マッカーサーの方針で
「賠償請求権放棄」
を、片山、芦田、吉田内閣が次々に受け入れてしまい、
ついには昭和24年の第5国会(吉田内閣)に於いて、
「日本の戦後復興に多大の協力を惜しまなかった米国に対し、感謝の念を表す手段」
として、
「阿波丸事件賠償請求権を放棄する案」
が米国忠犬の与党より上堤され、
絶対多数で決議されてしまったのである。

最終的に遺族に対しては
「人命1人につき僅か7万円の見舞金を一方的に支給するのみ」
で、この問題は終了したとされている。

ただ1人の生存者のコックも1969年に他界し、
当時の遺族も高齢になり、
重要な人材と軍需物資を満載した阿波丸の撃沈事件は
米国の故意かそれとも過失か、
真相は依然として謎に包まれたまま闇に葬り去られようとしている。

長年、台湾海峡に沈んだままになっていた阿波丸については、
昭和54年に中国政府が
水深60メートルと比較的浅い処に沈んでいる阿波丸を発見。

極秘に引揚げ作業に取り組み、
「遺骨、遺品、積荷の一部を回収した」
と発表し世間を驚かせた。

昭和55年12月
「阿波丸のサルベージ作業をほぼ終えた」と発表。

中国側の好意で、
遺骨368柱、
錆びた時計、万年筆、眼鏡、荷札、靴、尺八、パイプ、陶製の人形など
遺品1683点が日本に返還されている。

一部では、クィーンフィッシュ号艦長の「単純な無電確認ミス」という説もあるが、
どうして安全航行保障が破られ米国潜水艦は魚雷攻撃を行ったのか、
という阿波丸撃沈の謎だけでなく、
この「阿波丸事件」は、
大戦後に日本が請求権を放棄するという賠償問題の処理のプロセスや、
連合国による停船・臨検も受けないという保証から
「巨額の財宝が阿波丸に積まれていた」
という話から生れる沈没船引揚げについてのいろいろな動きなど、
非常に奇妙で複雑な事件。

また戦争末期に、
絶対安全に東南アジアから日本へ帰れる船と信じられたため、
帰航の乗船希望者が殺到し
乗船選考割り当てで乗船できた幸運の人たちが
阿波丸と運命を共にすることとなってしまったのである。


posted by RIUさん at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月22日

明日は「慰霊の日」

明日は、沖縄では「慰霊の日」といって、
「戦火で亡くなった人を悼み喪に服する日」で、
糸満市摩文仁の平和記念公園で沖縄戦全戦没者追悼式など、
あちこちでイベントがあります。

12時には「黙とう」し、沖縄県だけの準「祭日」扱い日になります。

沖縄戦などでなくなった23万8千人の戦没者の名を刻んだ平和の礎(いしじ)が
ドミノのように一面に広がっています。

沖縄戦が終わってから、まだ60年しか経っていないのです。

6月23日がなぜ「慰霊の日」なのか?
・ 沖縄が米軍占領下にあった1961年、アメリカ立法院で制定されました。
・ 米軍の記録では、沖縄守備隊第32軍牛島 満・司令官と長 勇・参謀長が自決したのが6月22日となっていて、
その日を「日本軍の組織的戦闘が終了した記念日」として解釈し、
「慰霊の日」に定めたわけです。
・ その後、自決した日は6月23日との信憑性の薄い証言が出てきて、
1965年に「6月23日」に改められました。
・ 1972年5月15日に沖縄は日本に返還され、
1974年に県の条例で「6月23日 慰霊の日」として
県機関の休日となることが定められ、現在に至っています。

慰霊祭
・ 沖縄守備隊・牛島 満・司令官が自決した場所(摩文仁)が「平和記念公園」となり、この場所を中心に県内各地で慰霊祭関連のイベントが催されます。
・ 沖縄県民にとって「慰霊の日」とは、
「沖縄戦を振り返り、二度と戦争を起こしてはならないと誓いを新たにする日」となっています。


なぜ、沖縄守備隊の司令官・参謀長が自決した日が「慰霊の日」なのか?
・ 牛島司令官が頭を拳銃で撃った日が、
アメリカ軍の記録(押収した資料や証言)では22日なのに、「23日になっているのがおかしい」、という意見もありますが、
自決の日時が22日の午後11:30でも、23日の午前0:30であったとしても、
そういう問題ではなく、「日本軍の最高司令官が死んだ日をアメリカが記念日にした」ことと、
それをそのまま引きずってしまって、
「沖縄戦が本当に終了した日」が慰霊の日になっていないことが私の疑問なのです。
・ 牛島司令官が自決する前日、
全将兵に「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず(戦陣訓と当時の教育)」「一般住民も石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と命令したたことが凄惨さを増した主因ですが、
アメリカも22日に「掃討作戦(アイスバーグ作戦)」という皆殺し作戦に出て、
凄惨な局地戦が続き、この日以降戦死者が急増し、軍人・住民併せて数万人が亡くなっています。
・ 本土では8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下されたが、9日の長崎に投下した原爆搭載機ボックスカー(B29)は、沖縄読谷山の飛行場に着陸していますから、この時期には、現・糸満市近郊以外はアメリカ軍に制圧されていることがわかります。
・ アメリカ軍が7月2日に「沖縄戦終了の宣言」をしましたが、
日本軍の沖縄方面への航空作戦は8月下旬まで続けられました。
8月15日のポツダム宣言後も、
陸軍の航空機が8月15日に鹿児島県の知覧基地から、
海軍の航空機は8月19日に鹿屋基地から沖縄へ向けて出撃しているのです。
ゲリラ戦も糸満市近郊では展開されていました。
ポツダム宣言受諾後、日本政府は敗戦処理に取り掛かりましたが、
沖縄ではなお戦闘状態が続いていたことになります。
・ 「終戦後」の8月26日には、沖縄攻略部隊のアメリカ第十軍司令部は、
連合国総司令部から
「9月2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じるように」
という命令を受けています。
・ 9月7日、琉球列島守備軍第2八師団長の納見敏郎中将が宮古島から、奄美大島から高田利貞陸軍中将、加藤唯男海軍少将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還されました。
三将軍は、アメリカ第十軍司令官スティルウェル大将に対し、
「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」
を申し入れ、六通の降伏文書に署名して正式に降伏しました。
・ 降伏文書の内容は、次の通りです。
「下記署名の日本軍司令官は、1945年9月2日横浜に於いて日本帝国政府に依り執行された全面降伏に基づいて、ここに正式に下記の境界内の琉球諸島を無条件に引き渡すものである」
・ 「慰霊の日」は、牛島司令官らが自決して組織的戦闘ができなくなった6月22日より、アメリカ軍が沖縄戦終了を宣言した7月2日か、日米両軍の司令官が南西諸島の降伏文書に署名した9月7日にすべきなのではないでしょうか?
・ 沖縄県の施設である「平和の礎(いしじ)」では、沖縄戦の期間を「昭和20年3月23日から、9月7日」としていることからも、6月22日(23日?)は、アメリカの記念日であって、沖縄戦集結の日ではないはずです。
・ ちなみに、NHKでは、9月7日を「沖縄戦終結の日」としています。
平成16年3月31日放送「その時歴史が動いた」の「さとうきび畑の村の戦争〜新史料が明かす沖縄戦の悲劇〜」   
6月23日以降の沖縄戦が描かれ、9月7日を「その時」にしています。
その理由は、
@ 沖縄県が、9月7日の降伏文書調印を、「沖縄戦の公式終結」としていること。
A 同様に、沖縄県の施設である「平和の礎(いしじ)」では、沖縄戦の期間を「昭和20年3月23日から、9月7日」としていること。
B 8月末まで戦闘を続けていた元軍人の証言に基づき取材・制作され、牛島司令官が自決する前に、「最後まで戦うよう訓令」していたため、「組織的戦闘」は終了しても、部隊ごとに抵抗を続けていた。
元軍人が所属していた部隊などが武装解除に応じた結果、9月7日の降伏文書調印となったので、この人の体験を描く意味でも、9月7日をその時としました。
となっています。

追記
・ 沖縄守備隊の第32軍による「沖縄県民指導要綱」という
極秘文書が最近発見され、この中で、
「軍官民共生共死の一体化」
の記述があり、「本土防衛決戦」の時間をかせぐため、
当初から沖縄は『捨て石』と決められていた上で、
沖縄の人たちは、軍と生死を共にすることも求められていました。
・ 日本軍が沖縄県民に「集団自決」を強要したり、
日本兵による沖縄住民虐殺、食糧強奪、略奪、放火、強姦、壕から避難民を追い出す、
など非道の限りを尽くし、島民からは
「アメリカ兵より、日本兵の方が怖ろしい」と言われる始末でした。
・ 食糧を略奪するため、また、アメリカ兵に居場所を通報される「スパイ視」扱い、
方言がわからない、単に弱いものイジメのストレス発散など、簡単に虐殺・処刑をしていました。
・ 小中学校の教科書から、
「日本軍による沖縄住民虐殺」の記述が激減しています。
「臭いものにはフタ」のようで、「南京大虐殺はなかった」とか、
小泉首相の靖国参拝とか、あながち無関係ではなさそうですね。

下記サイトも、ご興味があれば、ご覧下さい。
     沖縄戦


沖縄のTV局や新聞社では、慰霊の日を前に、連日「沖縄戦」を取り上げていますが、明日まででしょう。
次は8月15日前でしょうか。
12月14日だけに「赤穂浪士」の映画をTVでやるのと同じで、
何か事務的に“恒例行事”化しているようで寂しいですね。

こういう重たい話にご興味のある方は、
名門青山学院高等部の入試で「ひめゆり学徒体験談は退屈」と出題した事件
もありますので、お時間のあるときにご覧下さい。

ちなみに、私は過激右翼ではありませんよexclamation

沖縄は、毎年「慰霊の日」前後が梅雨明けになりますが、
今年の梅雨明けは少し遅れそうです。

posted by RIUさん at 11:30| Comment(0) | TrackBack(1) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。