2005年10月06日

久々の安室ネタ!

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7月19日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その1
7月20日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その2
7月21日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その3
7月22日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その4
7月24日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その5
7月25日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その6
7月26日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その7
7月27日 「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その8
7月28日 “エディット・ピアフ”の人生〜その1
7月29日 “エディット・ピアフ”の人生〜その2
7月30日 “エディット・ピアフ”の人生〜その3
7月31日 “エディット・ピアフ”の人生〜その4


家裁が安室に長男の親権を認めたのは、安室が仕事も収入も安定しているから
先月の「女性自身」誌に安室の記事が掲載されていました。

・ 9月 6日号 離婚3年家裁決着 取り戻した「7歳長男の親権」
・ 9月20日号 親権回復7歳長男入学式 
           40カ国生徒外国人学校で未来を思う「母の笑顔」

タダ読みしたところによると、
・ 安室奈美恵(27)と元夫・SAM(43)は
  2002年(平成14年)7月に離婚し、
  家裁の離婚調停で長男の温大くん(7)の親権はSAM、
  養育権は安室がそれぞれ持っていた。

・ 調停といっても2人が子供を取り合ってモメたというのではなく、
  あくまでも2人が話し合って決めたことを
  きちんと手続きしただけのことだったらしい。

・ それが今回、再び家裁の調停で親権も安室側に譲渡された。

・ この決定によって温大くんは
  SAMの姓である丸山から安室姓に変わった。

・ 長男は戸籍上も安室の“もの”になった。

・ 離婚後も同じマンションの別フロアに住んで育児を分担し、
  幼稚園の運動会には揃って顔を出すほど
  良好な関係が続いていたから、
  なぜ今になって、親権を安室に移す必要があったのか
  疑問視する向きもあったが、
  SAMに再婚のウワサが流れ、
  このままでは息子を取られると考えた安室が
  親権の譲渡を望んだと言われている。

・ 家裁の調停に際しては2人の収入面も考慮されたといわれている。
  昨年度の安室の推定年収は7200万円あり、
  生活面、養育面での不安は全くない。

・ そんな安室とは対照的にSAMは
  所属ユニット「TRF」の活動を休止中で、
  しかも今春、都内にオープンしたダンススタジオの運営に四苦八苦で
  育児のために時間をかけるのは不可能と言われている。

・ SAMの実家は埼玉県内で病院を経営する資産家として知られているが、
  SAM個人の収入は安室に遠く及ばない。
  家裁は父親よりも稼ぎのある母親が親権を持つのが妥当だと判断した。

安室は7月に発売したアルバム「Queen of Hip―Pop」の
売り上げが50万枚を突破し、
先月9月1日から全国35公演のコンサートツアーが始まるなど絶好調です。

溺愛する息子も手元に置くことができ、ますます仕事にも身が入って、
母子ともに成長してほしいものです。


温大くんの外国人学校入学
温大くんをインターナショナルスクールに入学させましたが、
国際的な感覚を身につけさせることを優先したものと思います。

インターナショナルスクールは
文部科学省から日本の小学校として認可されていないので、
高校か大学から海外に留学させる可能性が高いはずです。

インターナショナルスクールの英語のレベルは、
小学校2,3年で、日本人の子弟でも英検2級に相当し、
単語量としては、小学校6年で、約6万5千語に到達します。

「東大入学レベルで3万五千語が必要」と言われていますから、
英語力としては相当なものになります。

日本の学校と違ってかなり自由度が高く、イジメも少ないのですが、
宿題はかなり多く、遊んでいる暇はありませんから、健全でしょう。

単に英語が上達するだけではなく、
社会情勢を見抜く力や、問題解決能力は磨かれるはずです。

入学してくる子は、学校の場所にもよりますが、各国大使館の子弟が多いです。

デメリットは、
・ 文部科学省から小学校の認定がされていないことと
・ 授業料が高額なこと
・ 高校は日本の公私立ともほとんどが入学できないこと
・ 日本語の読み書きが劣ること
です。

私は、安室の判断は賢明だと思います。


安室の刺青?
右の手首にはバーコード柄と唐草模様の刺青、
左の二の腕には温大くんの名前と
1999年に義弟に惨殺された
安室の母親の生年月日が刻まれた刺青があったはずなのに、
2003年(平成15年)大みそかの紅白歌合戦では消えていた、
というのが疑問視されていたことがありました。

あれは「刺青(タトゥー)」ではなく、
「アートメイク」でしょう。

アートメイクとは、植物から抽出した色素で肌の表面を染める、
洗っても落ちないメイクです。

刺青と勘違いしている方も多いようですが、
刺青は皮下組織にまで色を入れて行くので、
レーザー治療等で人為的に消さない限り一生消えることはありません。

レーザーで消しても、皮膚はゴワゴワになります。

アートメイクは皮膚の表面に色を入れて行くので、
放っておくと2〜3年で脱色して色が薄くなってしまうんですよ。

刺青のように永久に残るものではありません。

NHKは、不祥事に端を発した受信料拒否問題が起こる前だったので、
強気に「刺青が青少年に与える悪影響」を説いて
消すことを条件に出場させたのでしょう。


近況さっぱりだった「MAX」も、久々のヒット!
MAXのニュー・シングル「ニライカナイ」が7月6日に発売されました。

沖縄では、沖縄のオリオンビールの新商品
「サザンスター」のCM曲としても起用されて、
連日聞かない日はありません。

今回の曲はMAXの通算28枚目になるそうですが、
今までで最高に良い曲なのでは、と思います。

この曲はイタリア人のユーロビート・プロデューサーが沖縄に訪れた際、
沖縄独特の音楽や衣装に触れインスピレーションを受けて
制作した「癒し系沖縄ユーロ」で
MAX自ら作詞にも取り組んでいますから、
今までの曲とは意気込みが違うのです。

沖縄独特の指笛も入っています。

サビの「愛しい人〜南風に〜そっと〜」の部分が、
BOOMの「島唄」の「島唄よ風に乗り〜」の部分に
少し似てるような気もしますが、まっいいかexclamation

「ニライカナイ」とは、一言でいうと“神の宿る聖地”という意味です。

周囲を海で囲まれた沖縄は、海から様々な恩恵を授かって来ました。

白い浜には、数々の美しい貝や魚たち、
時には木の実、異国の生活道具なども打ち寄せられますが、
それら海からの授かりものは異郷からくる「寄りもの」と考えられて、
先人たちは「海のかなたに神々の住む島がある」と
考えて伝えられてきました。

その楽土を「ニライカナイ」と呼んでいるのです。

現在でも夏、旧暦六月に入ると、
「ニライカナイより神を招き寄せる祭り」
があちこちで行われます。

安室やMAXだけでなく、
沖縄出身のミュージシャン、
宮里藍を始めとしたスポーツ選手など
もっともっと頑張ってもらいたいものです、
国会議員になったミュージシャンの喜名昌吉と
プロ野球ソフトバンクホークスの新垣渚投手以外は。
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2005年07月31日

“エディット・ピアフ”の人生〜その4

ピアフの晩年

最愛のマルセル・セルダンが飛行機事故で急死し、
失意の中で「愛の讃歌」を創唱した後も、
ピアフは交通事故、麻薬中毒、アルコール依存症、借金、
恋愛、結婚・離婚、入・退院など再三繰り返しながら、
シャンソンの女王の座に君臨し続け、
ピアフが47歳の1962年に、最後の結婚をすることになります。

相手は20歳も年下のギリシャ生まれのイケメンの無名歌子テオ・サラボ。

翌1963年もピアフは入退院を繰り返し、
サラボと2人で舞台に立つことが最後の夢でしたが、
ピアフの体はすでに弱り切り、再起不能になっていて、
激動の時代を駆け抜けた彼女はついに同年10月11日
心臓マヒで亡くなりました。

彼女が残した巨額の借金は、サラボが歌手としての稼ぎから全て返済し、
やがてサラボも死んでしまうんですね。

彼女の死とともに戦前から続いてきた古いタイプの
シャンソンの時代は終わりを告げ、
新しいシャンソンの時代を生み出して行くことになりました。

ピアフのドラマチックな人生そのものが「シャンソン」だったわけですが、
彼女はとても“純粋”な女性で、精一杯生き抜きました。


中高年のエロ親父が、20歳も年下の若い女性を愛人にすることは、
世間ではよくあることで“認知”されていますが、
中高年の女性が、20歳も年下の若い男性と恋に落ちることは、
ある意味“犯罪的行為”で敵視される風潮にあります。

おかしな話ではないはずなのに変ですよね。

三輪明宏も、
「オバさんたちは、世の中の若い男と、もっともっと恋をしなさい」
と言っています。

ピアフの最後の結婚は、
杉田かおるが20歳のジャニーズのイケメン青年と結婚するようなものですよ。

今から40年も前の話ですから、
フランスでも「奇異」に見られていたようです。

“純粋”なピアフは「人を愛する行為がなぜいけないのか」と、
男女の深い愛を歌った『愛する権利』という曲を創唱しました。

原詩に忠実な三輪明宏の「愛する権利」の歌詞は次の通りです。

     この地球の常識など
     愛の宇宙じゃ小さなもの
     どこの国の神も法も
     愛を禁じる権利はない
     裁くことは出来はしないさ
     人が人を愛することは
     悪ではない、罪ではない

     男が女を
     女が女を、男が男を
     年寄りが若者を
     異国人同士が
     愛し合っても
     人間同士が愛し合うことに変わりは無い
     殺したわけでも、盗んだわけでも
     ないのだから


     人は誰も
     幸せになる
     権利がある
     私もまた
     孤独と戦い
     人生に傷つき
     血を流して代償を払った
     どんな力も奪えるものか
     この権利を守り抜くのだ
     やっと手にした
     愛の権利を
     あなたを愛する
     権利を


ピアフの生き様からすれば、安室奈美恵はまだまだでしょうが、
祖母・母から「ひたむきに頑張る」DNAを受け継いだ安室は、
「母の殺害事件」後、失意を乗り越え、着実に前に進み出しました。

人間として一回りも二回りもパワーアップした安室を、
どうか温かい目で見守ってあげてほしいと思います。
posted by RIUさん at 11:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月30日

“エディット・ピアフ”の人生〜その3

「愛の賛歌」に至る背景

連合国によるパリ平和条約が締結された1947年、
ピアフが32歳の時に、
ニューヨーク公演の会期中、
あるカクテル・パーティの席でマルセル・セルダン
(ボクシングのチャンピオン、カサブランカ出身、
妻と子供はカサブランカにいたので“不倫”になる)
と出会います。

後にピアフが
「マルセル・セルダンが私の人生を変えたのです」
と回想したほど劇的な出会いでした。揺れるハート

世界的に有名な2人は、
忙しいスケジュールの合間を縫って、愛を確かめ合い、
ピアフも至福の時を過ごしていました。

翌1948年、
NYマジソン・スクエア・ガーデンにて
世界ミドル級選手権大会で
セルダンがトニー・ゼイルを破り世界チャンピオンになります。パンチ

ピアフが34歳の1949年10月28日、
セルダンがニューヨークでの世界タイトルマッチ(防衛戦)に臨むために
搭乗した飛行機が大西洋のアゾレス諸島に墜落し、急死してしまいます。がく〜(落胆した顔)

その時ピアフはNYのクラブ「ヴエルサイユ」に出演していました。

わずか一年の短い恋は、セルダンの突然の死により、悲劇の結末を迎えました。

ピアフはセルダンをあきらめきれず、
交霊術にすがり、回転テーブルの予言を信じるようになります。もうやだ〜(悲しい顔)

ピアフはセルダンの突然の死に、
立ち直れないほどのショックを受けましたが、
歌に人生のすべてを捧げてきた彼女は、
「セルダンへの強い憶いをこめた激しい女心」
を歌にしました。

久遠の愛を高らかにうたい上げた
名曲『愛の讃歌』(ピアフ詞、モノー曲)です。
三輪明宏が原詩に忠実に歌う歌詞は、曲名をクリックするとご覧になれます。

ピアフ35歳の1950年1月,
「愛の讃歌」をクラッシック音楽の殿堂「プレイエル音楽堂」にて創唱、
全身全霊をこめてうたうピアフの歌声は、深い感動を与えたそうです。

同年2月には、
セルダンの妻、マリネット・セルダンからの電報を受け取り、
カサブランカで2人は会っています。
どんな会話をしたのか怖いですね。がく〜(落胆した顔)


明日は、ピアフの晩年の様子を記述する予定です。
なかなかタイトルのRIUさんの話に戻らないですね。
本当は「犬ブログ」のはずなのにexclamation&question
posted by RIUさん at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月29日

“エディット・ピアフ”の人生〜その2

イヴ・モンタンとの別れ

1944年6月6日、
映画「史上最大の作戦」で知られるノルマンディー上陸作戦が敢行され、
それから約2ヶ月間に渡り、ノルマンディー地方で、
連合国軍とナチス・ドイツ軍が死闘を繰り広げ、
フランスの英雄ド・ゴール将軍のパリ帰還は同年8月26日でした。

彼女は既に“反戦の闘士”としてフランス国内では有名人でした。

国中が戦火に包まれている同年7月、
パリの「ムーラン・ルージュ」に出演した年下の
イヴ・モンタン(1991年没)の歌を、当時29歳のピアフがテストし、
共演することに決めました。

彼女がモンタンに一目惚れしてしまったわけですね。

ジャズ・ポップス系のアメリカナイズされた歌手だった若いモンタンに、
ピアフは一から“シャンソン”を教育し直し、
フランスを代表するシャンソン歌手へと育て上げることになります。

モンタン、ピアフの恋人生活は、これから2年間だけ続きます。

翌1945年1月には、
モンタンのために「メイフェア」でレセプションを開催したり、
2月にはパリの「エトワール座」でデビュー公演までさせています。

ピアフの1つの特徴として、
  「熱烈に愛して、かいがいしく尽くして、
          あげくポイ捨てされて、失意に陥る

ことが何度も繰り返されるというのがあります。

ピアフは失意の状況下では、
酒浸りはもちろん、売春や情婦まがいまでしてしまうんですね。

1945年5月7日に、ナチス・ドイツは連合国へ無条件降伏をしますが、
同年8月にはピアフの母親がモルヒネの量を間違えて死亡しています。
父親は、その前年に62歳で亡くなっています。

暗黒の時代から解放された喜びと、
若いイブ・モンタンとの恋の喜びが重なり、
彼女の代表曲の1つ「ラ・ヴィ・アン・ローズ(=バラ色の人生)」を
作詞したと言われています。

その歌詞は、
ピアフがモンタンに対する思いをつづったものと言われています。

終戦翌年の1946年、ピアフが31歳のときに、
「ラ・ヴィ・アン・ローズ(=バラ色の人生)」が
米英軍の兵士の間で圧倒的人気を呼び、
彼らによって世界的な歌手になります。

同年の映画の主役にモンタンを推薦、自らも共演し、
その成功を祈って、大好きな酒を2年間酒を絶つんですね。

この映画の中で、モンタンは有名な「枯れ葉」を創唱したわけです。

モンタンからすれば、ピアフ様様なはずですが、
なぜかこの直後モンタンは彼女から離れてしまうんですね。

モンタンからすれば、
ピアフと肩を並べるほどの人気歌手に成長したわけですから、
ブスでチビで年上のピアフには、
もう「利用価値がなくなった」
ということでしょうか。
ひどいヤツですねexclamationちっ(怒った顔)

彼の売り出しに懸命になり、断酒してまで尽くしたピアフは
失意に陥ってしまいます。もうやだ〜(悲しい顔)

この恋は、もともと「師弟愛」という側面もあり、
単純な恋とは言えませんでしたからね。

明日は、ピアフが「愛の賛歌」を歌うまでの過程を書きたいと思います。


苦労・辛抱・努力・根性
は、演歌がヒットする時の必要条件らしいですね、
氷川きよしはちょっと違うようですが。

松田聖子も、なかなかのド根性の持ち主です。

結婚・出産・離婚・不倫・子供との不和など、
およそ女性が共感するようなストーリーを持ち合わせていて、
高額チケットが早期完売するほど、また支持されるようになりましたね。

聖子は、叩かれれば、叩かれるほど、マスメディアを逆に操作し、
一種天才的な『匠の技』を感じます。

安室奈美恵と松田聖子を比較すると、
安室は「一直線」、聖子は「したたかさ」が特徴的で、
私は安室を支持しています。
posted by RIUさん at 14:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月28日

“エディット・ピアフ”の人生〜その1

エディット・ピアフ Edith Piaf
美と退廃、栄光と不幸が連続した波乱万丈の短い人生を送った
フランスを代表するシャンソン歌手で、
1963年に47歳で亡くなっている。

歌手として不動の地位を築いたり、燃えるような恋愛を繰り返したり、
殺人容疑、自殺未遂、麻薬中毒、アルコール中毒、借金、
狂気の発作、自動車事故と、スキャンダルがついて回った。

ピアフの凄いところは、失意の挫折の度に、
アルコール依存、借金中毒で誰も相手にしないほど落ちぶれるのですが、
何かの“きっかけ”で、みるみるうちに復調するところにあります。

株でいえば、「ストップ高」と「ストップ安」が繰り返される、
激しい人生なわけです。

ピアフの人生は、普通の人間であれば、
10回は自殺する場面があるはずです。

私は、このピアフと安室奈美恵がどうにも重なってみえるのです。

2人とも、心の中に“強さ”、“たくましさ”を感じます。

安室奈美恵は、その童顔と痩せた容姿から、
一見「弱々しさ」をイメージしてしまうが、
安室のこれまでの人生を垣間見ても、
祖母や母親から「芯の太さ」を受け継いでおり、
また母親が殺害され、この失意からも見事に立ち直り、
アジアの舞台で活躍しているわけで、
安室の人間としての“強さ”というのは、私は相当なものだと思っている。

「安室奈美恵withスーパーモンキーズ」時代では、安室は浮いていたという。
スーパーモンキーズ(=MAX)の面々が、
安室を嫌って(=ねたみ?)いたからだが、
MAXは今どうなってしまったのか?
最初から、安室の意気込みの次元が違っていたからではないだろうか?

生い立ち〜ストリート・チルドレン
エディット・ピアフがこの世に生まれ落ちたのは、
1915年12月19日、クリスマスを目前にしたパリの下町
ベルヴィルの路上だったと言われている。

父親は、ストリートで逆立ちなどの軽業を披露する大道芸人で、
母親もストリートで歌う流しの歌手だった。

10歳頃から、彼女は父親とともに街頭に出てチップを集めた。

そんな貧しいその日暮しの夫婦の元に生まれた彼女は、
栄養失調で失明に近い眼病を患っていた。

彼女は筋金入りの「ストリート・チルドレン」だったが、
母親は男と駆け落ちしてしまい、アル中で倒れた父親に代わって、
彼女が歌える唯一の歌「ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)」を
歌っていたという。

15歳になると、アル中の父と決別し、
家出をして、1人で流しの歌手を始めた。

下町のいかがわしい繁華街で生き抜くため、
自ずと強い女へと成長していった。

当時、フランスでは流しの歌手は禁じられており、
ピアフは何度も警察に逮捕されている。

後に彼女が国民的な人気者となるのは、
彼女のこうした叩き上げの人生と反権力的な生き方が、
フランスの国民性にマッチしたからだと言えそうだ。

シャンソンは叙情詩で、
出逢い、誕生、恋愛、別れ、悲哀、孤独、老い、死などといった
人生の色模様を歌いあげたものなので、
フランスで支持されたのは当然かもしれません。

ストリートから舞台へ
16歳の頃、パリの下町、トロワヨン通りで歌っているところを、
一流キャバレー(=クラブ)の経営者ルイ・ルプレが、
彼女の人気と実力に目を付け、専属契約を申し出たことで、
彼が経営するキャバレー(=クラブ)で初舞台を踏む。

当時の有名な作詞家レーモン・アッソや、
女流作曲家マルグリット・モノーの影響を受けながら、
18歳で正式にデビュー。

150cmに満たない小柄でブスだが声にすばらしい迫力があったという。
「ブス」とは失礼だが、決して綺麗ではない、と言われている。
三輪明宏が「ブス」だと言っている。

ようやく運が向いてきた矢先に、経営者ルプレが何者かに殺害され、
彼女にも容疑がかかって、スキャンダルの渦に巻き込まれてしまう。

失意のどん底につき落とされた彼女は、
詩人レイモン・アツソとの恋愛によって、ようやく失意から立ち直った。

彼は、それまでの彼女の“独学”を修正するため、
シャンソン歌手マリー・デュバを手本にして、
彼女にシャンソンの歌い方を基礎から徹底的に教え、
22歳の頃、名門ABC劇場でのステージを成功させ、
一気にトップ・スターへの階段を駆け上がり始める。

ナチス・ドイツ占領下のパリで
1940年6月14日、フランス領内に侵攻していたナチス・ドイツは、
ついにパリを占領し、フランスはドイツの占領下に置かれることになった。

ナチスの占領下において、アーティストたちは
・ナチスに反抗して地下に潜るか、
・彼らに協力するか
の二者択一を迫られた。

彼女はやむなく、ナチス主催のパーティーで歌ったり、
捕虜収容所でフランス人のために歌ったりする生活を始めた。

持ち前の“反骨のストリート・ファイティト”で、
その後彼女は自分の立場を利用し、
ナチスへのレジスタンス活動を展開して行く。

慰問先の捕虜収容所から、
何人かの捕虜をバンドのメンバーに紛れ込ませて脱走させるという、
まるでB級映画顔負けの荒っぽい作戦だったという。
posted by RIUさん at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月27日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その8

安室奈美恵は人間として成長した

惨劇の真相は、被害者・容疑者が共に死亡してしまっているのでわからないが、
恵美子さんにとって、大宜味村での暮らしは、
とても“快適”、“幸せ”であったとは言い難い。

恵美子さんは、シロクロはっきりつける性格のうえ、
自分で人生を切り開いてきた、という自負も強い女性なので、
事件が起こらなければ、
再度「離婚」していた可能性が高いのではないだろうか。

惨殺された恵美子さんのご冥福を心から祈りますが、
彼女の死に方は悲惨ではあったが、
彼女自身は、自分の人生を振り返ると、少なくとも
「思いっきり、精一杯、全力で生き抜いた」
ことに対しては後悔はないかもしれません。

那覇空港で
「東京で頑張ってくる。3年頑張ってダメだったら戻ってくる」
と言った奈美恵を、恵美子さんは、ただ
「頑張っておいで」
と優しく送り出したという。

その光景を想像しても、短い言葉のやりとりですが、
その奥に、もの凄く強い“エネルギー”を感じます。

少なくとも、恵美子さんは奈美恵を始め、
長男、長女それぞれの、新たな人生のスタートを見ることが出来たわけです。

事件後、怪我を治した辰信さんが、奈美恵に「父親」を意識した発言が相次ぎ、
奈美恵はこれを強く拒絶した。

彼女からすれば、
「実の父ではないし、その上母を不幸にした人たち(兄弟)の片割れを、
“父”と呼べるわけがない」
という怒りにも似た心境は、至極当然のことでしょう。

恵美子さんが死亡した後、娘である安室奈美恵にも、
公私にわたって陰りが生じた。
私生活では、離婚。
仕事面では、CDの売上げが低迷し、
さらに、所属するライジングプロダクションの
巨額脱税事件まで起こっている。

だが、安室奈美恵は「祖母」、「母」の
“チバリヨー(がんばり精神)” を色濃く受け継いでいる。

現在は、舞台を「ヤマト」から「アジア」全域に移し、
「アジアの歌姫」としての活動を展開中である。
そして、それは成功しつつある。

沖縄の強い女、3代目の人生行路はまだ始まったばかりである。

彼女が、仮に音楽の世界から身を引いたとしても、
彼女の中に潜む「強さ」が、必ずや“成功”に導くことでしょう。

また、彼女が芸能人である以上、
“人気”や“CD売上げ”、“マスメディアでの露出”
とは切り離せないことはあるでしょう。

実際、
「人気が落ちた」、「CDの売上げが少ない」等を指摘する人もいますが、
人間というのは、とかく
「金があるかないか」、
「社会的地位が高いか低いか」、
「成功したかしないか」
という観点で、人を評価しがちですが、
それらはレベルの低いミーハー的見地の人が重要にしている材料で、
本来、
『その人がどう生きたか』
という観点で考えたとき、
本当に大事とすべきところは
“その人のビジョン”の「質」
であり、それが人間力、魅力につながるものだと、私は思っています。

でないと、エルメスが電車男に恋心が芽生えないでしょう。
ミーハー的見地だと、
「エルメスが恋するのは、妻夫木 聡。キムタクは落ち目」
という流行に流される判断をすることになるわけです。

そういうレベルの人は、安室奈美恵が
・ コンサートでは「みんな、ありがとう!」としか言えなかった
・ 中華料理店から「まずい」と言って、飛び出した
・ 三宅 健と半同棲した、破局した
・ 出産時に黒人ダンサーとの子が出てきて、赤ん坊をすり替えた
などのゴシップネタに振り回されるわけですね。

それらが事実であろうがなかろうが、安室だって人間なんだから、
いろいろあったって良いんじゃないかなexclamation&question
もっと、暖かい、大きな眼で見てあげないと。

「七転び八起き」といって、
何度でも立ち上がる人が賞賛されるのだから、
人間って失敗して当然なんです。

重要なのは、何度でも立ち上がる“不屈の闘志” でしょう。

だから、私みたいに安室のCDを、
実は1枚も買ったことがない人間でも、
彼女が成長している姿を見て、
将来たとえ和製マライヤ・キャリーとして花開かなかったとしても、
彼女を1人の人間として応援し続けたくなるわけです。

安室奈美恵は、
インドネシア・スマトラ沖地震の復興支援イベント
「MTV ASIA AID」に出演し、
  「(被害の)現実に目を向けることで、
   残された人たちや子供たちに何をしてあげられるかを
   みんなが考えてくれれば」
と語り、地震で被災した子供たちのために
1000万円を日本ユニセフ協会に寄付している。

参考までに、有名人の寄付は、
ミヒャエル・シューマッハ 10億5000万円
ビル・ゲイツ        3億1500万円
スティーヴン・スピルバーグ 1億5700万円
サンドラ。ブロック     1億5000万円
レオナルド・ディカプリオ  1億5000万円
松井秀喜            5000万円
ぺ・ヨンジュン         3000万円 
       (新潟中越地震でも3000万円の寄付)
安室奈美恵           1000万円
ジャッキー・チェン        650万円
大泉 洋             300万円(スリランカ共和国へ寄付)
徳山昌守             300万円
       (義援金100万円+救援物資200万円分)
チョウ・コンファ         260万円
マリア・シャラポワ        105万円

日本企業では、
スズキ自動車          4000万円
トヨタ自動車          3000万円
東芝              2200万円
日立製作所           2000万円
三菱重工業           1000万円(義援金+救援物資)

安室が義援金を寄付したことを、ミーハー的レベルの人は、
「売名行為、人気取り、イメージアップ」
と解釈しているでしょうが、
安室が義援金を寄付したのは今回が初めてではないです。

これまで、私が知っているだけでも、
・平成12年にCDの売り上げの一部をユニセフに寄付
・昨年は台湾公演の際に「台湾児童及家庭扶助基金会」に500万円
・同じく昨年、韓国公演の時には
 「韓国社会福祉協議会」に5000万ウォン(約500万円)
を寄付している。
いずれも、安室の母親の事件後ですよね。

母親の事件後の安室は、特に
チャリティー意識がかなり強くなった
ことが特徴的で、人間として大きく成長している点だと言えます。

彼女自身も母親だけに、
特に子供が犠牲になった災害には敏感なのでしょうが、
彼女の母親の事件が大きく影響し、
それを乗り越えていることが彼女の素晴らしさだと思います。


三菱重工業のイメージアップ戦略や、
小林幸子が新潟中越地震の被災者に500万円寄付して、
紅白歌合戦のトリをGETした“偽善”とは、その『質』の次元が全く違う。

また、新旧歌姫のもう1人である浜崎あゆみは
チャリティー意識は全く感じられない。

あゆは高額所得番付の常連だが、
多くの芸能人が義援金を送った新潟県中越地震の時でも
寄付に関する情報はなかった。

スマトラ沖地震では、あゆが10万円しか寄付しなかったことが
日刊ゲンダイに掲載されていた程度だ。

もちろん、“寄付行為”は義務でもないし、金額の大小が問題ではない。
「姿勢」が問題なのだ。

あゆは交際中?の長瀬智也と結婚できて、子供ができれば、
はたして安室のように「チャリティー意識」が芽生えるのだろうか…。

安室の活動に比べて、小室哲哉の精彩のなさが目立ちます。

“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”
で始まる「平家物語」を思い出してしまいます。
 
TRF、 globe、華原朋美、安室奈美恵、dos、
篠原涼子、ダウンタウンの浜田雅功とのプロジェクトなど、
いろいろありましたが、
現在小室プロデュースで、活躍しているのは、
安室や女優として評価が出てきた篠原涼子以外では、
復活した華原朋美くらいでしょうかexclamation&question

小室の近況に関心のある方は、下記サイトをご覧下さい。
    小室哲哉の台所事情
    香港の音楽会社・ロジャム売却

今回で、「安室奈美恵の母」殺害事件を再考するシリーズは
終了とさせて頂きます。
次回からは安室と重なるエディット・ピアフの人生を書きたいと思います。
くだらない私のブログを熱心に読んでいただいた浅沼さん、
コメントを頂戴し有難うございました。
posted by RIUさん at 11:38| Comment(20) | TrackBack(4) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月26日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その7

恵美子さんの人柄

首里・那覇・宜野湾などでホステスとして働いていた恵美子さんのことは、
それぞれの飲み屋街に行くと、今でも語り草となっている。

中には、
「あの事件は、兄弟との3角関係だ」
と、言う人もいるが、
恵美子さんが、いかに優秀なホステスであったかを語る人は多い。

「歳がいってすっかり太ったけど、若い頃は、そりゃあ美人だったさー。
色気もあって、酒が強くて、付き合いも良い。
子供もいるということだったが、
こっちでは、子連れのホステスやママなんか珍しくないからさー。
ママ目当てに通う客は多かった。
彼女は天性のホステスだったよ。」
(宜野湾の土木業者)

「好き嫌いがはっきりしていたね。
沖縄によくいる肝っ玉母さんタイプだよ。
親切なんだけど、うるさい。そのうるささが気に入らない客は、
あっ、これはオレに惚れてるなって、勘違いして、足しげく通う。
オレも、自分の性格がどっちかというとマゾだから、
ママのようなタイプは好きだったね。」
(宜野湾の会社員)

「ちゃんと化粧すると、スペイン系の美女。
豪快で気っぷが良くて感情も激しい。
そういうタイプが好きな客には人気があった。
ただし、高級ムードのクラブホステスには向いていなかった。
自分が全部仕切れるスナックのママが一番似合っていた。
それは、本人もわかっていたと思うよ。
もっとも、個性が強すぎて、那覇周辺なら彼女もやっていけるが、
田舎では目立ちすぎて難しい、と思っていたけどね。
そしたら、あの事件だろう。
彼女は、田舎には向いていなかったんだよ。」
(首里の会社員)

この首里時代の客に言わせれば、
恵美子さんの“追っかけ”だったのが、
後に恵美子さんと結婚する平良辰信さんである。

首里町から松山町、宜野湾と、彼女が店を変わるたびに、
客として彼女のところへ通っていた。

そして、当時42歳だった恵美子さんは平良辰信さんと再婚する。

恵美子さんと同年齢の辰信さんは初婚だった。

恵美子さんの子供たちは、
すでに東京に行っている奈美恵を除いて、沖縄で成人し、
それぞれ母の再婚には賛成だったという。

恵美子さんと辰信さんは、
辰信さんの実家がある大宜味村に新居を構えたのだが、
彼女はそこで宜野湾時代と同じ店名の「チェロ」というスナックを開いた。

静かな田舎町にあって、恵美子さんの存在は否が応でも目立った。

さらに、娘の奈美恵が大スターだとわかったことで、周囲の見る目は違った。

それでなくとも、血縁、地縁で固められ、平良(ひらら)姓の多い土地である。

他所(よそ)者で、派手な容姿をした恵美子さんに、村中の注目が集まった。

しかも、その“期待”に応えるかのように、
恵美子さん夫婦は、パトカーを呼ぶような派手な夫婦ゲンカをしている。

「夫婦のことは夫婦にしかわからない」
が、夫婦ゲンカは目立っていたという。

「あれは、辰信さんのジェラシーだったんじゃないかね。
恵美子さんは、店もやっているし、あの通りに派手だし、
お客さんには愛想も良い。
酒も強いし、冗談もうまい。
あけっぴろげだしね。
そのうち、辰信さんは、恵美子さんを殴るようになった。
それで、恵美子さんは、奈美恵さんのいる東京へ始終行っていたね。
あの夫婦は喧嘩が絶えなかった。
そこに、辰信さんの弟の謙二さんが、
最初のうちは恵美子さんをかばっていたので、
ややこしくなったと思うね。」
(大宜味村の主婦)

恵美子さん夫婦をめぐるこの手の話は、
いくらでも聞こえてくる。
そして惨劇が起きてしまった。
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2005年07月25日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その6

奈美恵

安室家は沖縄土着の家柄で、
戸籍上、父親の欄が空白の恵美子さんとは家柄が違う。

「門中」という、一族の強い絆で結ばれている沖縄では、
恵美子さんは、歓迎されざる「嫁」であったに違いない。

2人は、9年間の結婚生活を経た後、離婚に至っている。

子供3人は、恵美子さんが引き取った。

離婚の理由は不明だが、
その背景には、母親の清子さんの存在があったことは想像に難くない。

昼間は基地で働き、夜はホステスとして懸命に働き続け、
北谷に家まで建てた気丈な母親に育てられ、
そんな母親の背中を見て育った恵美子さんにも、
「女手1つでも、子供は育てられる」
という“負けず魂”が脈々と受け継がれていたからでしょう。

離婚後の恵美子さんは、
昼間は保母、夜はスナック勤めで頑張り抜きます。

基地と保育園の違いはあれ、母親と同じように昼夜ぶっ通しで働きました。

その間「子宮ガン」をわずらい、子宮摘出という不幸にも遭遇しています。

でも、持ち前の沖縄魂で克服し、首里近郊の店を1軒任されるなど、
ママ兼ホステスとしてメキメキ頭角を現した。

その後も、那覇では高級クラブの集まる松山町での
売れっ子ホステス時代を経て、
ついには宜野湾市内に、自前の店を持つまでに上りつめています。

長男、長女もそれぞれ成長し、次女の奈美恵は、
「歌とダンスに懸ける」
と小学生の頃から明言し、
自宅から歩いて1時間もかかる「沖縄アクターズスクール」に入学、
チャンスを掴み、「大和(ヤマト)」へ行き、成功することになる。

ただし、奈美恵の「ヤマト」は、
恵美子さんの時代の「ヤマト」とは全く異なる。

奈美恵の場合は、周到に計算、用意された「ヤマト」の舞台が待っていた。
それは、奈美恵のクォーター風の容姿が、
ピッタリとはまる“J”ポップの世界だった。

安室奈美恵よりも古い世代の
喜納昌吉、ネーネーズなどの沖縄出身ミュージシャンたちは、
「沖縄」を売りにしていたが、
安室や、それに続いたSPEED、MAX、DA PUMP、
最近のORANGE RANGEなどは、沖縄風(琉歌)とはほど遠い、
それこそ踊りやグループの魅力を打ち出した「アメリカ世」の産物であった。

安室たちを売り出した沖縄アクターズスクールには、
「ハーフやクォーターじゃないとダメですか?」
という問い合わせが殺到したと言う。

売り出す側に戦略・戦術があったとはいえ、
安室奈美恵本人にも人並み外れた根性があった。

それは、祖母や母から受け継いでいる“負けず魂”で、
「これで食うしかない」と、ひとたび決めれば、
ひたすら頑張り抜くことだった。

そして、その背景には、「貧困」からの脱出がある。
その“熱意”と“情熱”が彼女を成功の道へと導いたことは間違いない。
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2005年07月24日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その5

北谷町.gif

恵美子さんの生い立ち

恵美子さんは「国際愛の結晶」として生まれている。

母親の清子さんは、週刊誌のインタビューに応じて
「(父親は)基地で働いていたイギリス人軍属」
(「週刊現代」97年11月15日号)
と答えている。

恵美子さんが生まれたのは、
終戦後5年を経過した1950年(昭和25年)であった。

今でこそ、「混血児」は『ハーフ』と呼ばれ、
カッコ良いと思う若者も多く、世間でも抵抗なく認知されているが、
この当時は、沖縄だけでなく全国的に、
『混血児』は「外国人との間に生まれた」というだけで、
イジメや差別の対象になった。

特に沖縄ではそうだった。

恵美子さんも、次女が一躍スターダムにのし上がったことで、
狭い沖縄という土地ゆえに
「あぁ、あの人ね。北谷(ちゃたん)出身の…」
とささやかれながら、共に有名人になっていった。

「北谷(ちゃたん)」の場所は画像の赤い部分の町です。

北谷町にはキャンプ瑞慶覧(ずけらん)、キャンプ桑江、
嘉手納(かでな)飛行場、陸軍貯油施設の米軍基地があり、
これらの米軍基地が北谷町に占める割合は約53.5%にも及び、
広大な米軍基地により居住地域は分断され、
住民は日常生活でも大変な不便を余儀なくされています。

現在は、北谷町・西海岸地区美浜の「アメリカンビレッジ」は
地元若者に人気のスポットとなっています。
米兵とのトラブルもよくありますが。

恵美子さんと同じ北谷町出身で同年齢の女性が、
昭和30年代の「混血児」が沖縄でどのような扱いを受けたかについて、
語ったインタビュー記事がある。
「私の母親も基地で働いていましたので、
混血児については理解あるほうです。
当たり前ですが、今となれば良い外国人も、悪い外国人もいることはわかります。
でも、私の親の世代は、とにかく外国人は悪いと。
外国人と付き合う女は、みんなパンパン(売春婦)だという
偏見に凝り固まっていました。
ましてや、その子供は混血児でしょう。
その中でも、黒人との間の混血児は差別されていました。
基地相手のバーにも、白人用と黒人用がありましたしね。
いずれにせよ、そんな中で、外国人との間に子供をもうけるというのは、
覚悟も必要ですし、生まれた子供も辛いスタートを余儀なくされました。
みんな昔の話ですが…」

恵美子さんは、生後間もなく北谷(ちゃたん)町から那覇に移り住む。

母親は昼間は米軍基地で働き、
夜はスナック勤務という暮らしの中で懸命に彼女を育てた。

恵美子さんの著書『約束』の中で、
那覇での暮らしぶりが以下のように書かれている。
「那覇は純粋に日本人の街だったんです。
だからこそ、私は目立ってしまいました。
ハーフ特有の顔立ちで髪もちょっと赤いせいで、
ほとんど外人を見たことのない人が那覇にはたくさんいたから
『何でお前みたいな外人がここにいるんや』
と言われたこともあります。(中略)
街を歩いていても、大人たちが私を指して、
『あの子はアメリカンだな』とか
『どっかのハーフ』
といったことを話している。
それも、私に聞こえるように話すのです。
ときには沖縄の方言でなじる人もいました。
多感期の中学生。
一歩間違えばグレていたと思います。
でも私は逆でした。
『負けるものか!』
と負けず嫌いになり、強くなった。」

感情を抑えた表現ではあるが、当時の状況が伝わってくる記述ですね。

この屈辱をバネにして、彼女は「負けてたまるか」とその後の人生を歩んでゆく。
地元の高校を卒業した後、
地元のバス会社に就職するが、それも辞めて「ヤマト(本土)」へ行く。

母親には内緒であった。

当時、女の子が「ヤマト」へ行けば、
二度と沖縄に戻ってこられないと思われていたからである。

大げさな話ではなく、戦後、沖縄には
「ヤマト」からの“人買い”が横行していたし、
当時の沖縄は、まだ、アメリカ統治下に置かれていたのである。

本土で、彼女は埼玉県の紡績工場に就職する。

その1年後、20歳になっていた彼女は、
沖縄から来ていた経営者の甥と結婚し、沖縄へ戻ってきた。

そして、安室恵美子となり、奈美恵を含む3人の子供をもうけたのだった。
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2005年07月22日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その4

アメリカ世(ゆ)

沖縄は狭い土地であり、地縁・血縁が入り乱れ、
県内のどこに行こうとも、それこそ氏素性が簡単に判明してしまいます。

苗字は、必ず地名に由来しており、
苗字を聞いただけで、出身地がおおよそ分かってしまうのです。

沖縄県民は一族意識が強いです。
旧正月、旧盆、清明祭、冠婚葬祭など、
年間に何度も一族が集結する行事があります。

沖縄のお墓は、亀甲(かめこう)墓といって、
海や市街を見渡せる景観地や山の中にあるのですが、
中の納骨部は、
一族全てが死後入る事が出来るほど広いスペースになっているのです。
沖縄戦では、亀甲墓の中にも住民が被災を逃れて隠れていましたからね。

また、地元新聞に毎日掲載される死亡広告欄には、
死去した人をびっしりと取り囲むように、
当人の家族はもちろんのこと、親戚一同の遺族の名前がずらりと並んでいます。

そこには、他家に嫁いだ娘やその子供、
あるいは遠く南米やアメリカに移住した一族たちの名前まで含まれ、
こうした一族の絆を、沖縄では「門中」と呼んでいます

「門中」は、同じ先祖を持つ父系の血縁集団ですが、
この沖縄独特の制度が、一族に濃密な連帯意識を植え付けている反面、
時としてそれが逆に作用する場合があります。

何か不祥事を起こした人間が出れば、
その者を一族の恥として排除してしまうのです。

こうした排除の制度が、戦後の沖縄で、あちこちで噴出しました。
戦後の米軍統治時代を沖縄の言葉で「アメリカ世(ゆ)」と言います

沖縄は、戦争中「大和世(やまと・ゆ)」に引きずられて、
島を焦土にされてしまいました。

米軍は、当時の沖縄の人口約43万人、沖縄守備軍約11万人と同等の
約54万人の戦力で攻め込んできました。

その結果、最近の調査では約16万人の沖縄住民が戦没しました。
この数字は、沖縄で戦死した沖縄守備軍・軍人の約3倍強にあたります。

戦後、アメリカによる統治下(=植民地)に置かれ、
「アメリカ世(ゆ)」になった沖縄では、
米軍基地建設のために、農地などの土地が収用されてしまいました。

現在報道されている沖縄本島・中部の米軍基地キャンプ・ハンセンでは、
イラク派兵のグリーンベレーが実射訓練を始めましたが、
金武(きん)町の面積の59.6%を基地が占めています。

その他、嘉手納町82.8%、北谷町53.5%、宜野座村の51.5%など、
県下53市町村のうち25市町村にわたって39施設・24,286haの
米軍基地が所在しており、実に県土面積の10.7%を占めています。

33年前にアメリカから日本に返還された沖縄は、
現在でも“米国統治”と何ら変わっていません。
変わったのは、“日本統治”になっただけでしょう。

島民の生活は、困窮を極めますが、戦勝国アメリカに逆らうことはできません。
しかも、焦土となった沖縄には、何の産業もありません。
生きるため、食うためには、米軍基地に依存せざるを得なかったのです。
沖縄で“模合(モアイ)”が発展したのはこの頃です。

     沖縄独特の金銭的相互扶助システム(民間金融)の事で、
     語源は、“もやい=船と船、船を岸につなぎとめる為の
     綱”から来ているという話です。
     本土の“無尽(ムジン)”に似ていて、
     毎月1回、第○曜日に全員が集会し、一定の掛け金を積み立て、
     必要な人が借受するシステムが“模合(モアイ)”す。


米軍基地に“依存”するにも、いくつかの形がありました。
・ 基地内で働く者
・ 命がけで基地に忍び込み、物品を盗み出す者
・ 米軍基地周辺の飲食店に勤務し、売春を働く者もいました。
  戦争未亡人や生活に困窮した女性たちでした。

当時の新聞には、
・ 軍物資泥棒は容赦なく射殺
・ 部隊内で売春、撃たれる
・ コザ(現在の沖縄市)の女給殺し
・ 強姦米兵に懲役10年
・ 米兵、巡査殺人事件
というように、米軍基地絡みの事件を報じる見出しが多かったのです。

そういう屈辱的な時代にも、
沖縄の人々は、基地がある暮らしに慣らされてゆきます。
アメリカと“平和強調”しなければ、生活が成り立たなかったからです。

コザや金武町、浦添などあちこちに米軍専門の飲食店ができるなど、
喧騒はあっても、戦争の殺伐とした雰囲気は和らいでゆきました。

そんな中、米兵と地元女性との間で“恋愛”も始まりました。
恋愛をすれば、自然の流れで米兵の子供を身ごもる女性も現われました。

終戦4年後の1949年(昭和24年)、
当時の「うるま新報」に、戦争未亡人の福祉のために、
「沖縄婦人連合会」が発足、というニュースに続き、
次のような記事が掲載されていました。

「那覇市社会事業課には、
毎日2万人前後の貧窮市民が押しかけ、救済を涙で訴える。
軍政府が割り当てた救済人員は月に700人足らずである。
混血児は国際愛の結晶・強姦・妻子置き去りで440人(9月統計)。
実際は1,000人いるという。」

(「戦後の沖縄世相史」比嘉朝進・暁書房)
当時の新聞は、混血児を「国際愛の結晶」と表現するような、そんな時代でした。
posted by RIUさん at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月21日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その3

母・恵美子さん(当時47歳)の著書『約束』の中で、
“自身の生い立ち”についての記述


「私には父親がいません。途中でいなくなったのではなく、
 最初からいなかったのです。(中略)
  母はもともと、地元の歯医者に嫁いでいました。
 ところが、5年間の結婚生活で子供ができなかった。
 昔の沖縄では子供は最大の宝です。(中略)
 子供の生めない嫁。昔の沖縄では、それだけで離婚の対象になってしまう。
 当人同士というより、親戚一同の意見が強いんです。
 母も『嫁失格』の烙印を押され、追い出されるように離婚してしまいました。
 それから軍で働きながら私を生んだという皮肉な結果。
 後にも先にも、母の子供は私1人です。
 父親がどこの誰かは知りません。
 アメリカ人とかイギリス人とか、中にはイタリア人という人もいます。
 わかっていることは私が白人とのハーフであることだけ。
 それは親戚の叔母さんや叔父さんから聞いていました。(後略)」
                           (『約束』扶桑社)

同書の執筆を手伝ったジャーナリストに、
恵美子さんは現在の境遇を、
「実は幸せすぎて怖いの。人生、いいことばかりは続かないから…」
と述懐しています。

彼女の半生を振り返ったとき、
差別的境遇の中を必死に生き抜き、長男・長女が独立し、
次女・安室が大ブレイクしたことで、ようやく安堵の日々が送られるようになり、
確かにそれは実感のこもった言葉であったに違いない。

そして、この“実感”は「現実」になった。
それも、最悪の惨劇として「現実」になってしまいました。
posted by RIUさん at 07:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月20日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その2

大宜味村の場所.gif

事件の国頭(くにがみ)郡大宜味(おおぎみ)村
画像では、地図右上の国頭郡と58号線の間の「×」印のところが大宜味村です。
那覇から北へ90km。
西は東シナ海に面し、東は300m前後の低い山脈に接し、
村の総面積の約76%が森林というのどかな村です。
本土復帰後の人口は、約3千人台で推移しています。
「シークヮーサーの里」
「芭蕉布の里」
「長寿の里」
としての“癒し”ゾーンでもあります。


殺人事件の概要
1999年(平成11年)3月17日、午前10時40分頃、事件発生
・ 自宅を出た安室奈美恵の母・平良恵美子さんと夫の辰信さんが
  道路を横断しようとしたとき、
  辰信さんの弟、謙二容疑者(事件後、近くの山中で除草剤での服毒自殺)の
  運転する黒いスカイラインが突っ込み、恵美子さんをはねた。
・ その直後に、車はUターン、前進を繰り返し、彼女を何度もはねた。
・ 辰信さんが倒れた恵美子さんを電柱の陰に隠そうとしたが、
  謙二容疑者は、その電柱めがけて何度も車を激突させる。
・ さらに謙二容疑者は車を降りると、準備していたナタ状の凶器で、
  倒れている恵美子さんに切りつけた。
・ 辰信さんは路上に落ちていた鉄パイプで応戦。
・ 物音を聞きつけた住民が集まってきたために、謙二容疑者は逃走した。
・ 恵美子さんは意識不明のまま、名護市内の病院に救急車で運ばれたが、
  当日午前11時48分に死亡。
・ 辰信さんも謙二容疑者の車にはねられていたが、命に別状はなかった。

弟が白昼、車で兄夫婦を襲い、何度も何度もひき殺そうとして、
そのあげくとどめを刺す凶器まで用意していたことは、
よほどの恨みがなければ、とてもこのような残忍な行動を起こすわけがない。
しかも、犯行後の服毒自殺を覚悟し、除草剤まで準備していたのは、計画的である。


事件当時の安室
ダンサーのSAMと結婚して長男・温大君を授かり、
1年間の産休をとった後、
前年のクリスマス直前に第一弾として「I HAVE NEVER SEEN」を発売して復帰し、
年末の紅白歌合戦からTVに登場、
第2弾の「RESPECT the POWER OF LOVE」を発表した直後であった。


事件の真相は今でも解明されていない
・ 被害者である恵美子さん、加害者の謙二容疑者が共に
死亡してしまったことから、犯行の動機はわからなかった。
・ 夫である辰信さんの
    「弟には付き合っている女性がいたが、
     自分と恵美子が2人の結婚には強く反対していた。
     結局、その女性が身を引く形になったが、弟はそれを恨んで、
     自分と恵美子を殺そうとしたのではないか」
  という証言しか残されていない。
・ 謙二容疑者は、恵美子さんだけを執拗に狙っており、
  兄・辰信さんは最初からターゲットではなかったと考えるのが筋ではないのか?
・ 謙二容疑者が付き合っていた女性も、事件現場の大宜味村の出身である。
・ 彼女の実家は、恵美子さん夫婦の新居の隣家であった。
・ 謙二容疑者の自宅、つまり兄弟の実家である平良商店も
  歩いて1〜2分という至近距離にあり、
  顔を突き合わせて暮らしているような間柄であった。
・ 事件の数年前までは、4人で仲良く飲食も度々あったと言われている。
・ 彼女も、謙二容疑者にも共に離婚暦があり、
  それぞれが2人ずつ、合計4人の子供を連れて
生まれ故郷で再出発しようとしていた。
・ 恵美子さんが惨殺された事件の半年ほど前、
  彼女は同じ村内の実家から車で20分ほどのところへ引っ越してしまい、
  再婚は実現しない結果になった。
・ 44歳という分別盛りの年齢にあったはずの謙二容疑者が、
  その恨みから兄夫婦を襲ったというのであろうか?
・ それなら、再婚が実現不能の時点(事件の半年前)に
  大きな暴力・殺傷沙汰があってもおかしくないが、それはなかった。
・ とすれば、再婚に反対したこと自体が動機とは考えられない。
・ なぜ、殺害のターゲットが兄・辰信さんではなく、恵美子さんだったのか?
・ 事件から6年が経過した現在も、真相は解明されていない。
posted by RIUさん at 06:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月19日

「安室奈美恵の母」殺害事件を再考する〜その1

再考に至った動機

事件は、1999年3月17日なので、本当は来年3月に記述するつもりでした。
一昨日の7月17日(日)、
沖縄で【三輪明宏 音楽会 2005 《愛》】がありました。
毎年、ラストの曲目がエディット・ピアフの「愛の賛歌」です。

「愛の賛歌」は、結婚式で歌われたり、
カラオケで聞く、不人気bPの曲であったりして、あまり聞きたくない歌ですよね。
あれは、誰がどういう感覚で訳したのか、
原詩とは程遠い内容になってしまっています。


「愛の賛歌」の原詩は次の通りです。

  高く青い空が 頭の上に落ちて来たって
  この大地が割れて ひっくり返ったって
  世界中の どんな重要な出来事だって
  どうってこたぁ ありゃあしない
  あなたの この愛の前には
  朝日が目覚めたとき あなたの温かい掌の下で
  あたしの身体が愛にふるえている
  毎朝が愛に満たされている
  あたしにはそれだけで充分

  もしあんたが望むんだったら
  この金髪だって染めるわ
  もしあんたが望むんだったら
  世界の涯だって付いてゆくわ
  もしあんたが望むんだったら
  どんな宝物だって お月様だって盗みに行くわ
  もしあんたが望むんだったら
  愛する祖国も友達もみんな裏切ってみせるわ
  もしあんたが望むんだったら
  人々に笑われたってあたしは平気
  どんな恥ずかしいことだってやってのけるわ

  そしてやがて時が訪れて 死があたしから
  あんたを引き裂いたとしても それも平気よ
  だってあたしも必ず死ぬんですもの
  そして死んだ後でも二人は手に手を取って
  あのどこまでもどこまでも広がる 真っ青な空の
  青の中に座って永遠の愛を誓い合うのよ
  なんの問題もない あの広々としたあの空の中で
  そして神様もそういうあたし達を
  永遠に祝福して下さるでしょう


私は、人間は『どう生きたか』という“生き様”を大事に
人生を精一杯思い切り生きるべきだと考えています。

“悔いのない人生”とは、
「もうやることがなく惰性で生きる」のではなく、
死ぬ直前でも明日や来週、来月の予定があり、貪欲に生きたいのだけど、
今までの人生を振り返ったら、充分に思い切り生きてきたし、
「まぁいいか」というような人生を送りたいと思っています。

「惰性で生きる」というのは、
死ぬのをただ待つ「生きる屍(しかばね)=ゾンビ」と同じだと考えています。
60歳で定年退職をして隠居すると、とたんに老けてしまい、
“目”に活力がなくなりますよね。
目標がなくなるからだと思います。
沖縄には、80歳になっても、まだ「現役」の高齢者が多く、
みなさん、目に輝きがあります。
「果たすべき役割を持ち、楽しみながら生きる」って、素敵だと思いませんかexclamation&question

「栄光と悲惨と愛の凄絶な人生」を送ったフランスの歌手エディット・ピアフと、
安室奈美恵の生き様がどうも重なるところがあり、
「三輪明宏・音楽会」の記憶(興奮)が覚めやらぬうちに記述することにしました。

『吉凶』という言葉がありますが、
三輪明宏によると、「吉」は、どんどん前に進んで良い時、
「凶」は、不幸ではなく、内を固める時期で、知識・教養を高めて、
来るべきときに準備しておく時期、というように言われていました。

私は、安室奈美恵のファンではありませんが、
彼女は思い切り生き抜いているような、強さ・たくましさ・逆境の強さを感じます。
彼女を応援し続けたいと思っています。

次回から、
・ エディット・ピアフの凄絶な人生とは
・ 安室奈美恵の母・殺害事件のあらまし
・ 安室奈美恵の母の人生
・ 事件の考察
などについて、記述して行きます。

このブログは、迷犬RIUの話がMainのはずなのに、
あっち飛び、こっち飛びで統一せず済みません。もうやだ〜(悲しい顔)
posted by RIUさん at 10:04| Comment(6) | TrackBack(0) | 沖縄の有名人「安室奈美恵」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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