2006年04月13日

「有川中将以下将兵自決の壕」の無残と「魂魄(こんぱく)の塔」

沖縄本島南部の糸満市真壁や米須地区は、
直径2kmの円にスッポリと収まるほどの区域なのですが、
ここは沖縄戦の大激戦地でした。

ひめゆりの塔がある第三外科壕も、この区域にあります。

ひめゆり学徒が、
壕にガス弾を投げ込まれ多くの死者が出たのは
昭和20年6月19日でした。

有川主一中将は石第64旅団長として奮戦していましたが、
米軍による圧倒的な武力により旅団将兵は玉砕し、
昭和20年6月21日の未明に、
有川主一中将や高級副官竹下勇大尉以下、
一部の将兵と共にこの壕で自決したのです。
有川中将ゥ決の壕.jpg
この壕は、
直径約8m、深さ約3mの壺の様な形の大きな穴で、
今でも覗き込めるようになっていますが、
この中に、なんと多くのゴミが投げ込まれているのです。
壕の中にフてられたゴミ.jpg
なんて罰当たりな人がいるのでしょうか。

ここは、霊感の強い人には、深夜
「敵襲だぁーっ!」
という声が聞こえる、
という所としても有名なのですが、
声が聞こえる怖さより、壕に落ちる方が怖いと思いますよ。
壕には、柵もないのですから。

この米須霊域には、
・ 北海道
・ 東京都
・ 奈良県
・ 和歌山県
・ 香川県
・ 広島県
・ 島根県
・ 鳥取県
・ 大分県
の慰霊碑の他に、
・ 有川中将以下将兵自決の壕
・ 開南健児の塔
・ 魂魄(こんぱく)の塔
があります。

上記の他の府県は、平和記念公園内に慰霊碑があります。

『沖縄戦の慰霊の碑』
というと、
摩文仁(まぶに)の
「平和祈念公園」
を思い浮かべると思います。

太平洋を一望出来る丘の上に、
国籍及び軍人、民間人を問わずに、
沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ記念碑
『平和の礎(いしじ)』があり、
天皇陛下や総理大臣も慰霊に来られますから、
ご存知の方も多いと思います。

ここは、平成7年6月23日の
「慰霊の日」
に完成したのですが、
それ以前は、同地は昭和54年2月から
「国立沖縄戦没者墓苑」
となっていました。

さらにそれ以前は、
現在の平和記念公園から2kmほど南の
米須霊域の「魂魄(こんぱく)の塔」が、
沖縄戦の戦没者慰霊塔だったのです。
壕邂の塔・石碑.jpg
終戦後、
道路や畑の中などに散乱していた遺骨約3万5千余柱を
村民が集めて弔ったのを
「魂魄(こんぱく)の塔」
としたのです。

壕邂の塔.jpg
昭和54年に「国立沖縄戦没者墓苑」に分骨する前は、
遺骨が多すぎて半円形のドーム状になっていました。

ここは、いつしか忘れ去られて、
訪れる人も少なく閑散と静まり返っているのです。

壕邂の塔・石碑2.jpg



posted by RIUさん at 12:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
有川中将自決の壕は38年前沖縄勤務のとき、中将と同郷の義父に頼まれ探し当てた所です。当時案内の杭は朽ちて折れていましたが,接ぎ挿して確認しました。
 慰霊の塔は離任後建設されました゜
Posted by 浦 昭彦 at 2015年03月15日 18:27
有川主一中将の沖縄での玉砕のことは知られていますが、大邱師範学校に配属将校として勤務中(当時大佐)、学生であった朴正煕が軍人への道に進むのを指導したことは知られていません。韓国人作家の「朴正煕伝」には有川大佐が出てきます。小生は同郷です(祁答院町)
Posted by 山口孝一 at 2017年04月11日 16:39
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