“風林火山”とは、「孫子」の句
「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、
侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」
の略で、日本人なら誰しも知っていることだと思います。
川中島の合戦は、
天文22年(1553年)に武田信玄に征服され、
信濃を追われた小笠原長時、村上義清が
上杉謙信に助けを求めたのを発端に起きた戦いで、
小競り合い程度の戦いも含めると全部で5回もありました。
・ 1回目 天文22年(1553年)
・ 2回目 弘治 元年(1555年)
・ 3回目 弘治 3年(1557年)
・ 4回目 永禄 4年(1561年)
・ 5回目 永禄 7年(1564年)
映画やドラマの題材になっているのは、
最も激烈な合戦が行われた第4回戦目です。
有名な話ですし、ドラマや映画で詳細に知られていると思いますが、
あえて合戦の流れから説明することにします。
いろいろないきさつは省略して、
永禄4年(1561年)4月、
越後の春日山城から上杉謙信が1万3千の兵を率いて、
川中島に出陣するところから、第4回戦が始まります。
「謙信が春日山を出陣した」という報を受けた武田信玄は、
1万7千の兵を率いて
古府(現在の甲府)の居城・躑躅崎館(つつじがさきやかた)を
出陣します。
途中、北信濃における武田方の前線基地・海津(かいづ)城の
高坂弾生昌信の兵3千と合流し、
総計2万の兵で、川中島へと向かったのです。
善光寺に到着した謙信は、3千の兵を残し、
残りの1万の兵で犀(さい)川を渡り妻女(さいじょ)山に登り、
山上に本陣を構えます。
これに対して信玄は、
海津城の西にある茶臼山に本陣を構えました。
11日間に渡るにらみ合いの末、
味方の士気が低下することを心配した信玄方の
宿将・飯富(おぶ)虎昌の進言を受け、
武田方が先に動き始めます。
この時、軍師・山本勘助が信玄に提案したのが、
「キツツキの戦法」
でした。
「キツツキの戦法」は『甲州流兵法』にある兵法の1つで、
「キツツキが木の穴の中にいる虫を捕るときに、
木の反対側をつついて、虫を驚かせて穴の中から這い出させ、
出てきたところを捕らえる」
という習性を戦術に応用したものです。
2万の軍勢を2つに分け、
一隊が妻女山に陣を張る謙信の本陣を夜襲し、
もう一隊は八幡原に陣を構えて、
上杉軍が妻女山を追われて八幡原に出てくるのを待ち、
これをはさみ撃ちにして上杉軍を壊滅させるという作戦でした。
信玄は、この戦法を採用し、
1万2千の軍勢を妻女山の背後に向かわせ、
自らは8千の兵を率いて、八幡原へと向かったのでした。
しかし、この作戦は失敗してしまいます。
なぜ失敗したか
それは上杉謙信の方が山本勘助より上手で頭が良かったからです。
謙信は、武田軍が陣を置いた海津城から、
夕暮れ時に一斉に煙が上がったのを見て、
「行動を起こす前の飯炊き」
と判断して、
「キツツキの作戦」を見抜いてしまったのです。
そこで、謙信は武田軍の裏をかくために、
・ 紙の幟(のぼり)を多く押し立てる
・ かがり火をあちこちで焚かせて煙を上げる
という“オトリ”を仕掛け、
「上杉軍も明日の合戦に備えている」
という風情を見せて、全軍が山を下り、八幡原へ向います。
「武田軍がキツツキ作戦で来るなら、
本軍は八幡原で待ち構えるはずで、その中に信玄がいる」
という“読み”で、そのものズバリでした。
『鞭(べん)声粛粛(しゅくしゅく)、夜河を過(わ)たる』
というのは、
江戸後期の儒者、頼山陽(らいさんよう)が詠んだ有名な詩ですが、
これは上杉軍が秘かに妻才山を下りて
千曲川を渡り八幡原へ進軍した時のことを詠んだのでしたね。
頼山陽の句碑が残る雨宮の渡は、
長野電鉄の無人駅・雨宮駅(長野県千曲市)近くの公園にあるそうです。
未明から朝にかけて、
この地域一帯には深い霧がたち込めていました。
少しずつ霧が晴れてくると、武田軍は仰天します。
目前に上杉軍が大挙して攻め込んできたからです。
武田軍は窮地に陥り、
そして一万の上杉軍による猛烈な攻撃が始まりました。
上杉軍は
「車懸(くるまがかり)の戦法」
で攻め立てます。
「車懸の戦法」とは、
軍勢を車輪が回転するようにグルグル移動させながら、
常に新手を繰り出して
絶え間なく猛攻を繰り返すという攻撃型の陣立です。
これに呼応して武田軍は
「鶴翼(かくよく)の陣」
で迎え撃ちます。
「鶴翼の陣」とは、
鶴が翼を広げたときのように横に長い陣形で、
敵軍の攻撃をかわして包み込もうとする、守備型の陣形です。
この時の武田軍は12段で構えたといわれています。
ランチェスターの法則にもあるように、
兵力の差は明らかに不利なんですよね。
上杉軍の圧倒的な兵力の前に武田の軍勢は総崩れになり、
上杉軍は信玄の本陣近くまで迫ったといわれています。
・ 謙信が単騎で信玄に切りかかり、信玄が軍配で防いだ
・ 信玄は、この時傷を負って、それが基でやがて死んだ
等という話は、本当かどうかはわかりません。
面白おかしく色付けされた後世の作劇かもしれません。
しかし、この戦闘で、
武田軍は信玄の実弟で武田軍の副将でもある武田典厩信繁や、
諸角豊後守昌清
(もろづみぶんごのかみまさきよ、信玄の曽祖父・武田信昌の六男)等の
名だたる武将が討ち取られてしまったのです。
信玄の実弟・信繁は、
・ 信玄の父・信虎は、長男・晴信より
活発で才気にあふれ明朗な次男・信繁を可愛がり、
家臣も晴信派と信繁派に二分したのですが、
信繁は兄・晴信に子供の頃から忠誠を尽くしていました。
・ 成人後も
「信玄公は兄ではない。主人だ。
皆もそのつもりでお仕えするように。
間違っても私の家が信玄公の弟の家であるなどと
誇ってはならない。
あくまでも忠義な家臣としてお仕えするように」
と家族や家臣に諭していました。
・ 「甲斐国を治める資格と能力は兄にある。
自分にはそれだけの力はない」
というように、腹心の立派な弟でしたから、
討ち死には信玄にとって相当なショックであったに違いありません。
総崩れとなった味方や
信繁など名だたる武将が相次いで討ち死にする様を見ていた山本勘助は、
軍師としての至らなさを痛感し、恥じて自己嫌悪に陥り、
責任を取るために上杉軍に突入し、死に場所を求めたわけですね。
山本勘助は全身に86ケ所の手傷をうける奮戦の末、
討ち死にしましたが、享年62歳といわれています。
また、山本勘助は、「甲陽軍鑑」などの軍記物語によって
創造された人物だという説もありましたが、
北信濃の豪族で上杉氏に仕えた市川氏の子孫に伝わる
『市川文書』によって、
勘介が実在した人物であったことが証明されています。
ちなみにこの合戦は、
妻女山を急襲する筈だった武田軍の別動隊の1万2千が
八幡原に戻ってきたことで事態は一変し、
圧倒的優位に立っていた上杉軍は大混乱に陥り、
善光寺方面に敗走して幕引きになりました。
双方で8千人が戦死するという激戦でしたが、
世に言う“引き分け”ではなく、
武田軍の敗北は明らかでした。
その全責任は「キツツキの作戦」を企て、
これを謙信に見抜かれた参謀・山本勘助にあります。
となると、勘助ははたして名参謀・名軍師と言えるのでしょうか
優れた軍師の条件として、
・ 優れた智謀を誇り、
・ 自分の献策を用いてくれる主君を選び、
・ その献策が主君に採用され、かつ功を奏し、
・ その結果主君が繁栄する、
だとすると、
山本勘助を始め、歴史上の多くの名参謀・名軍師と伝えられる人たちは
失格してしまいます。
羽柴秀吉に仕えた竹中半兵衛だって、
秀吉が播磨の三木城攻めの最中に死んでしまいますし、
三国志の諸葛孔明だって、劉備玄徳を死なせてしまうのですから、
名参謀・名軍師とは言えないでしょう。
こうして考えると、
織田信長に仕えた黒田官兵衛が合格点、
日露戦争でバルチック艦隊を
「丁字戦法・七段構えの戦法」
で撃破した参謀・秋山真之が金メダルだと思うのです。
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