2005年09月30日

子牛を襲う犬!

仔牛.jpg

6月27日 沖縄の哀れな犬の現状〜その1
6月28日 沖縄の哀れな犬の現状〜その2
6月29日 沖縄の哀れな犬の現状〜その3
6月30日 沖縄の哀れな犬の現状〜その4
7月 3日  沖縄の哀れな犬の現状〜その5
7月 4日  沖縄の哀れな犬の現状〜その6
7月10日 沖縄の哀れな犬の現状〜その7
7月12日 沖縄の哀れな犬の現状〜その8
7月14日 沖縄の哀れな犬の現状〜その9
7月18日 マナー啓蒙看板!
9月26日 今日26日まで「動物愛護週間」でした!
9月28日 沖縄の哀れな犬の現状〜その10 


石垣島では、今月10日頃から、
石垣市真栄里、宮良、平得の牧場や牛舎で、
犬による被害として13頭の仔牛が死に、
14頭がケガを負う事態になっています。

仔牛は1頭当たり約40万円らしく、
被害総額は520万円に及びます。

被害に遭ったのは、生後3ヶ月〜4ヶ月の1m程度の仔牛で、
近くに管理者や親牛がいないところを襲われているのだそうです。

アフリカのサバンナ状態ですね。

また、農家が飼っている生後6ヶ月のポニーが犬に追いかけ回され、
がけ下に転落して重傷を負ったそうです。

9月10日に石垣島は台風15号が接近したのですが、
このときに放し飼いにされていた犬や野良犬が
徒党を組んで集団で襲っているようです。

数千年前の狼のDNAがそうさせるのでしょうか。

子供に被害が及ばないか心配ですね。

八重山福祉保健所が被害現場周辺でワナを仕掛け、
2週間で7匹の犬を捕獲しました。

このうち1匹は、早速バカ飼主が名乗り出たものの、
登録はもちろんのこと首輪もなく、
厳重注意の上、引き取り手続きを進めているそうです。

仔牛を殺された牧場主は、
牛舎に泊まりこみで警戒を続けているそうです。

徒党を組んでいる犬の中には、
明らかに首輪をしている犬もいるらしいのですが、
こういう事件は、マナーに無知な飼主は見ていないか、
知っていても他人事であることが問題なんですよね。

誰しも飼い犬は家族で大切なのですが、
他の人から見たら「動物」でしかないのですからね。
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2005年09月29日

マラソン女王野口みずきの移籍

アテネ五輪女子マラソン金メダルの野口みずきが所属する
「グローバリー女子陸上部」は昨日28日
正式に同部の廃部を発表しました。

今後1カ月から1カ月半をメドに同社が窓口となり、
受け入れ先を探します。

陸上部は現在、選手やスタッフ計16人で
京都市内を拠点に活動しています。

この環境を維持したまま、チーム全体の移籍先を探し、
移籍先が決まるまではグローバリーが
引き続き支援することになりました。

野口にとっては、ひとまず安心ですね。

グローバリーは先物投資者の契約解除を認めず、
訴訟が相次ぎ、また自殺者が出たことで、
ついに監督官庁からの営業停止処分や警察の強制捜査があり、
基幹業務である商品先物取引業からの自主廃業を8月上旬に発表し、
陸上部の支援継続が困難な状態になっていました。

グローバリーの被害者のページ

野口1人ならともかく、チーム全員の移籍というと、
引き取り先はかなり限定されます。

移籍先は収益を上げている大企業になるはずです。

チーム全員を引き取るということは、
・ 監督、コーチ、トレーナー、選手の人件費(給料)
・ 練習・試合の遠征費(国内・海外)
・ 専用移動バス
・ 合宿所の家賃・管理費
・ 栄養士などの食事の管理者の雇用
・ 専属マッサージ師の雇用
などを合算した経費は年間で2〜3億円くらいかかるのです。

こんな費用を出せる企業は、大企業だけでしょう。

企業のメリットは“広告塔”としての役割です。

マラソンや全日本実業団女子駅伝は、
全国ネットのTV中継をして、視聴率も良いため、
先頭争いをすれば、企業の恰好のCMになります。

一般に、マラソン中継で先頭争いをした選手の所属先企業は、
「CM換算すると約3億円」
と言われていますから、
仮に野口1人だけしか活躍しなかったとしても、
充分ペイするわけです。

現在のチームの実力は、
全国実業団女子駅伝に出場しても
総合6位には入る可能性は充分にあるはずです。

藤田信之監督をご存じない方も多いと思いますが、
以前ワコールの監督として全国制覇もしている優秀な指導者です。

野口は1998年にワコールを藤田監督らと共に退社し、
翌年春にグローバリーに入社していますから、
移籍は今回が2度目となります。

野口にとっては、
グローバリーは先物取引での悪評でイメージが悪くなるだけなので、
良い移籍先であれば、大正解でしょう。

野口はベルリンでは35km過ぎからバテバテになりましたが、
バテた理由は「暑さ」ではありません。

野口はアテネもそうでしたが暑さに実績がある選手です。

今回2度目になる「移籍」問題が、
心理的にプレッシャーになっていたからです。

そういう状況下では、よく頑張ったと思います。

競り合いになるレースであれば、もっと失速していたでしょうから。

野口の身長が150cmで、
1歩間が148cmと言われるストライド走法ですが、
「バテたときに歩幅が狭くなる」
という、この走法の欠点が露呈した格好になりました。

野口は、必死に腕振りのリズムを変えまいとしていましたが、
歩幅が狭くなっているために、もがいているように見えました。

「走ること」だけに集中できていれば、
2時間18分台で走れたはず
(今回の優勝記録は2時間19分12秒)なので、
本人も監督も悔いが残るレースだったと思います。

グローバリーには、
既に2、3社から問い合わせがあったと言われています。

何とか、野口が「走ること」に集中できる環境が
整えられることを期待しています。

小出監督がリクルートの陸上部を辞める原因となったのは、
企業が出場レースを指定したり、口出しが多かったことです。

日本代表選手、とくに国際大会でメダルを取るような選手には、
・ 壮行会
・ パーティ
・ 社長や役員との会食
・ 社長や役員に帯同させられて、接待行脚
などが待ち受けています。

会社がスポンサーである以上、
ある程度は避けて通れないと思いますが、
出場試合の指定や口出しは止めてほしいと思います。

野口は真面目で謙虚、口数も少ないのですが、
有森裕子は違ったタイプです。

アトランタ五輪で銅メダルを取ったときのインタビューで
「自分で自分を褒めたい」
と迷言しましたが、
“人に対する感謝を常とする”野口や高橋尚子は
絶対口にしないセリフです。

昨年12月には、有森の出身地の岡山の
桃太郎スタジアム(岡山県陸上競技場)前に
自身の銅像が造られて、
本人も喜んで除幕式に出席しているんですよね。

2年前には実家の隣に
有森裕子資料館(アニモ・ミュージアム)を建ててしまいました。

入場無料かと思ったら、大人の入場料金300円も取るんですね。

昨年は1500人も入場したという話なので、
入場無料の高校生以下が中心でしょうが、リピート性は薄いでしょう。

有森はヒール(悪役)のイメージが付いて回りますよね。

そんなだから、ゲイのガブちゃんと
結婚するようなバチがあたったのでしょうか。
有森の会見1
有森の会見2

2005年09月28日

沖縄の哀れな犬の現状〜その10

6月27日 沖縄の哀れな犬の現状〜その1
6月28日 沖縄の哀れな犬の現状〜その2
6月29日 沖縄の哀れな犬の現状〜その3
6月30日 沖縄の哀れな犬の現状〜その4
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7月14日 沖縄の哀れな犬の現状〜その9
7月18日 マナー啓蒙看板!
9月26日 今日26日まで「動物愛護週間」でした!

沖縄県は犬の人口比捕獲数は全国ワースト2

沖縄県庁福祉保健部は、2004年度の
県動物愛護センターと各保健所で捕獲・引取りがあった犬の
抑留数を公表しました。

2004年度は8,428頭と、
2003年度の9,056頭を下回りましたが、
2004年度の人口10万人当たりの全国都道府県での比較では、
捕獲数は437頭でワースト2でした。

狂犬病予防注射数(人口比)はベスト3でしたが、
沖縄県は依然として全国的にモラルの低いことが裏付けられました。


県内の犬の抑留数の推移
1999年度 1万3547頭
2000年度 1万2495頭 (前年比−1052頭)
2001年度 1万1208頭 (前年比−1287頭)
2002年度   9666頭 (前年比−1542頭)
2003年度   9056頭 (前年比− 610頭)
2004年度   8428頭 (前年比− 628頭)
抑留数は減少の一途ですが、これは全国的にも同様です。
県内でのピークは、1996年度の約1万8400頭です。

2004年度の8428頭の内訳
・ 捕獲数 5807頭
・ 引取数 2621頭


県内の殺処分
沖縄の哀れな犬の現状〜その5」に
自治体ワースト20ランキング(平成15年度)
を掲載していますが、その一部を抜粋します。
1. 茨城県  9,868頭
(毎日平均27.0頭が殺処分)
2. 千葉県  9,422頭
(毎日平均25.8頭が殺処分)
3. 沖縄県  7,956頭
(毎日平均21.8頭が殺処分)
と、沖縄県は殺処分数において、全国ワースト3でした。


人口10万人当たりでの全国との比較
・ 捕獲数
  徳島県に次いで全国ワースト2
・ 引取数
  全国ワースト5
・ 狂犬病予防注射数
  全国ベスト3
  市町村に登録している犬のデータなので、
  高率(=good)になっているだけの話です。

  市町村に犬を登録すると数千円の登録手数料を徴収されるので、
  多くの飼主は登録していないし、
  犬を登録すること自体認知されていない
のです。
  「失業率」がハローワークで失業保険の手続き申請をした人の
  データとして出されていて、
  ハローワークに行かない人を含めた実数と
  かけ離れているのと同様ですから、
  この「ベスト3」は全くアテになりません。
  登録していない犬は狂犬病予防注射をしませんから、
  その“実数”も含めると、ワーストひと桁のはずです。
  日本では1956年以降、狂犬病は発生していませんから、
  狂犬病予防注射をしていない犬が多いからと言って、
  特別目くじらを立てられないのは、そのせいなんです。
・ 殺処分数
  全国ワースト3


県福祉保健部薬務衛生課での考え方
・ 全国的にペットはより飼いやすいネコに移りつつある
・ 飼主のモラルは向上しつつある
・ 安易に犬を飼い、面倒見切れず捨てる事例が多い
・ 捕獲された犬の引き取りは2割程度

☆ 犬・猫の比率は全国的に6:4で犬のほうが多いです。
☆ 飼主のモラルは全く向上していません。
  担当課が仕事をしているという実績?を
  勝手に自己評価しているだけです。
  実際に近所での飼い方は全く進歩していません。
  八重山の保健所で抑留犬をホームページで公表しているのも、
  八重山では最近まで、多くの犬が放し飼いで飼われていたから、
  捕獲される犬が多い、
  つまり離島はよりモラルが低いと言えるのです。
  モラルが低い人たちに、どう知らしめるかが
  “モラル向上”の糸口なのですが、
  モラルが高い一部の人とモラルの低い多くの人のギャップは、
  むしろ広がるばかり
です。


沖縄県動物愛護センターを改築する計画(決定事項)で改築後の取組み
・ ペットのしつけ方や飼う場合の相談
・ トレーニングなどの普及啓発への取組み
・ ペットの適正飼育のための地域での取組み強化

☆ 老朽化にしても、県財政が悪化している中で、
  改築する必要性があるとは思えません。
☆ 捕獲・殺処分は民間委託して、
  愛護センターはその管理をしているだけです。
☆ 普及啓発活動も、内容がお粗末すぎます。
☆ 動物愛護センターへの5千万円近い予算は、異常に多すぎます。
☆ 人間並みに、犬・猫の登録制を
  検討するべき(無料で)ではないでしょうかexclamation&question
  南風原町では、登録するだけで3千円も徴収されるので、
  登録しない人が圧倒的に多い。当たり前ですよね。
☆ 現在の市町村での登録は、
  狂犬病予防注射の確認と捕獲された場合の飼主確認のためで、
  「鑑札」を首輪に付けていてもすぐに落ちてしまいます。
  そのため、ヤツ犬は散歩の首輪には「鑑札」を付けていません。

posted by RIUさん at 12:56| Comment(0) | TrackBack(1) | 沖縄の哀れな犬の現状 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月27日

沖縄の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その4

050927酒酔運転ポスター.jpg
050927JR緑の窓口前.jpg


8月27日 沖縄の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その1
9月 8日 沖縄の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その2
9月12日 沖縄の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その3


秋の全国交通安全週間が今週金曜日の9月30日まで続けられています。

沖縄県の目標は「飲酒運転の撲滅」なのですが…。

24日(土)夜、県内各地では一斉交通検問が実施されました。

本島幹線道路の周辺など約50ヵ所300人体制で
県内一斉の車両検問が実施されました。

那覇市の国道330号では、警察官が、走行中の車両を止め、
ドライバーに声をかけて免許証を確認したり、
酒を飲んでいないか確認をしていました。

検問の結果、飲酒運転で23人が検挙されたほか、
シートベルトを装着していないなど400件近くの交通違反が検挙され、
この内1人が酒気帯び運転で逮捕されました。

県内では今年に入って、去年の同時期より2人多い46人が
交通事故で死亡しています。

この内飲酒がらみがおよそ3割と、
死亡事故に占める飲酒運転の割合は
17年連続全国ワースト1を保持していて、
なお前人未到の記録に挑戦中です。

全国交通安全週間の1週間前に、
糸満市役所1階ロビーで、なかなか興味深い、
沖縄ならではの催しがありました。

糸満警察署が主催した『“路上寝”を防ぐ』ためのパネル写真展です。

糸満署管内では、昨年“路上寝”が323件発生し、
当然死傷者も出ています。

今年も、8月だけで43件も発生し、
連日警察に訴えが寄せられることから、
パネル展示を実施したようです。

人口わずか5万7千人の糸満市では、
1日に約1人は路上で寝ているので、
ドライバーの人は、暗がりの路上には特に気をつけなければなりません。

もちろん、糸満市だけの問題ではなく、全県下同じようなものです。


昨日の動物愛護週間や、今回の“路上寝”を防ぐイベントで一番問題なのは、
トラブルを起こしそうな人はまず見ないし、関心もない
ことなんですよね。

画像は「拾い」です。
2枚目は、JR上野駅か新宿駅の「緑の窓口」前のホームレス?学生?
posted by RIUさん at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄といえば飲酒運転 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月26日

今日26日まで「動物愛護週間」でした!

050926八重山福祉保健所0929版.jpg

6月27日 沖縄の哀れな犬の現状〜その1
6月28日 沖縄の哀れな犬の現状〜その2
6月29日 沖縄の哀れな犬の現状〜その3
6月30日 沖縄の哀れな犬の現状〜その4
7月 3日  沖縄の哀れな犬の現状〜その5
7月 4日  沖縄の哀れな犬の現状〜その6
7月10日 沖縄の哀れな犬の現状〜その7
7月12日 沖縄の哀れな犬の現状〜その8
7月14日 沖縄の哀れな犬の現状〜その9
7月18日 マナー啓蒙看板!

全国的に9月20日から今日26日まで、全国の市町村が
「動物の愛護と管理に関する普及啓発のための各種行事」
を行いました。

沖縄県では、連休中に沖縄市で
子ども達が動物とのふれあいが楽しめる企画が催されたようです。

沖縄市のこどもの国にある「沖縄こども未来ゾーン」で
「動物愛護の集い」が開かれ、
・ 野良犬や野良猫を処分する施設の現状を紹介したパネルなどの展示
  写真の掲示だけでなく、実物を見せた方が
  効果的ではないかと思います。
  大里村の愛護センターで実際に行われているガス処分と焼却処分を
  見せるとか、オリに入れた拘留犬と、その処分日をボードに書いて
  見せるとか、焼却処分して袋詰めした骨粉を見せるとか、
  今年処分した犬の種類別リストを見せるとかの方がはるかに効果的でしょう。
  お役所仕事としての効果を期待しない
  きれいごと行事で済ませるなら意味がないのではexclamation&question
  と冷ややかに見ています。
・ 動物愛護の為の活動基金を募集するコーナー
・ 動物愛護をテーマにした「図画作文コンクール」に入賞した
  児童の作品も会場で掲示され、ついでに表彰式も行われました。
・ 県内で1頭しかいない災害救助犬や嘱託警察犬の訓練の様子が
  披露されました。

県では年間約4千万円もの有り余る予算を
“普及啓蒙活動”に使っているらしいけど、
沖縄市のイベントに1千万円くらい使ったのでしょうかexclamation&question
見た感じでは、せいぜい100万円くらいなのではexclamation&question

役にも立たないようなイベント週間も、
ようやく今日で終わるのですが、
石垣島の八重山福祉保健所では
沖縄県にしては斬新な取り組みをしています。

今日の画像は、
八重山福祉保健所がホームページ上で公開している
抑留犬の情報
(画像は拘留期限9月29日正午)です。

八重山福祉保健所は、飼い主が見つからず処分される犬を減らそうと、
保健所で抑留している犬の写真を
昨年8月からホームページで掲載、
犬の特徴や種類などを記し、飼い主へ引き取りを求めています。

 (沖縄県動物愛護センターでは、画像こそ出していませんが、
   拘留しているイヌのリストは公開
しています。)

ホームページで紹介しているのは、
八重山地域で捕獲した放し飼いの犬や野犬などで、
犬の写真と性別、推定年齢や種類などの特徴に加え、
捕獲場所と拘留開始日を掲載しています。

「犬がいなくなったが、昼は仕事で確認しに行けない」
という市民の声に応えようと、
インターネットで閲覧できるように犬の写真の掲載を開始したようです。

八重山福祉保健所では2004年度に
放し飼いや野犬、引き取り依頼の犬など計732匹を拘留しています。

そのうち、飼い主が引き取りに来なかったり、
もらい手が見つからない578匹
大里村の県動物愛護センターに送られ、
ガス室で安楽死させられています。

また、保健所内で処分したり、病気で死んだ犬は57匹でした。


ヤツ犬の散歩は、「今日は東へ、明日は西」
風の向くまま気の向くままに歩き回るフーテンの寅さんと同じように、
日によってコースが違うのですが、
自宅から半径2km内での“放し飼い危険エリア”は、
あっち、こっち、と指折り数えても、
たちまち両手の指では不足してしまいます。

昨日は、棒切れを持ち歩いた飼主とすれ違いました。

放し飼いイヌが寄ってきたら、叩くのでしょうかexclamation&question

最近、放し飼いの2軒が、自宅の門を封鎖しました。

人やイヌに危害を加えたか、
車にはねられたか何かアクシデントがあったのでしょう。

普通は、こういう前に予想できないといけませんよね。

散歩で出会う飼主の7割は“手ぶら”ですから、
当然フンタも「放置」でしょう。

ヤツ犬の散歩コースでひんぱんにイヌフンタを置き土産される家があります。
もちろん、家の前の歩道ですけど。

この家はイヌが大嫌いなようで、
置き土産フンタを赤チョークで囲み、
ダンボールの切れ端に何やら書いて置いてあるのですが、
左手で書いたのか、外国人が書いたのか達筆すぎてよく読めませんが、
「かたづけろ」みたいな文句が書いてあるようなのです。

フンタを置き土産した飼主は、モラルのかけらもないので、
もちろん片付ける訳はありません。

フンタはいつしか風化され、
粉状で飛散するか、雨で流れてしまいますが、
それまで“さらしモノ”状態なのです。

こういう家は、証拠もないのにヤツ犬の犯行だと疑うだろうし、
早々に通過しないと危険なのですが、
こういう危険な空気を察知できないヤツ犬は、
意味もなく立ち止まってクンクンしたり、
ションタしたりするんですよね。

この家の怒りは凄まじいもので、
車道側のガードレールに地面から30〜40cmくらいのところに
針金を巻きつけるようになりました。

針金の端は、伸ばしてカットしてあるので、
ションタで寄ってきたイヌの目潰しをする目的であるのは明らかです。

ひょっとすると、ヤツ犬を狙っているのかもexclamation&question

危険な家の住人に仁王立ちされて、
金剛力士像のように睨まれたことも何度もあります。

散歩中は、放し飼いイヌと出くわすかもしれないし、
イヌ嫌いの家もあるし、
最近増えた自転車(無灯火)にも気をつけないといけないし、
散歩するだけでも、けっこう危険が伴なうようになりました。

沖縄は「モラル」という意味を勝手に曲げて解釈したり、
聞いたことさえない人が多いのかも。

posted by RIUさん at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 飼い主のモラル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月25日

ヤツは「上島」か?

050925RIU.jpg
050925上島.jpg

豆絞り(頬かむり)だけではなく、
ヤツ犬と上島竜兵ドコモポイントとの共通点はけっこう多い。

・ ヤツ犬は「琉ちゃん」、彼ドコモポイントは「竜ちゃん」
・ ヤツ犬は“狂気の3分”があり、
ドコモポイントは怒って帽子をたたきつけるリアクションがある
・ ヤツ犬は先輩猫が好きで、彼ドコモポイントはタイガース(猫虎)が好き
・ ヤツ犬も彼ドコモポイントも、「歩伏前進」が得意
・ ヤツ犬も彼ドコモポイントも、人に甘えるのが上手い
・ ヤツ犬も彼ドコモポイントも、根は「弱虫」

今日は、手抜きということで。もうやだ〜(悲しい顔)
posted by RIUさん at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | RIUさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月24日

明日のベルリンマラソンに野口みずきが出場します!

050904高橋尚子.jpg

8月22日 スポーツ解説者を斬る!〜マラソン編

画像は、9月4日に高橋尚子が出場した、アメリカバージニア州バージニアビーチで行われたロックンロールハーフマラソンのものです。


野口みずきは、おそらく日本新記録を更新するはずです。

今回、野口が負けるわけには行かない理由
・ アテネ五輪金メダリストというプライド
・ 新たなスポンサー探しでのアピール
  所属先のグローバルの陸上部は既に廃部していて、
  暫定的に今回のベルリンマラソンまで面倒を見る、
  ということになっていて、
  月曜からまたハローワークに通う立場になります。
・ 現役日本女性マラソンランナーでは最強という勲章を狙ってきたこと
  シカゴマラソンやベルリンマラソンはコースが平坦であり、
  「各選手専属のペースメーカーが複数用意される」
  という共通点があり、好記録が出易いので有名です。
  ベルリンマラソンでは、過去に高橋尚子、渋井陽子が
  ペースメーカーを先導させて日本記録を更新していますが、
  今回の野口も、競い合いがなくペースメーカーを
  帯同させて走ることになっていますので、
  野口にとっても走りやすいはずです。
  ベルリンでは、過去に男女で5回も
  世界新記録が更新されているコースなのです。
・ 競い合う“かけひき”がなく、平均スピードで走れるので、
  質の高い練習が目標通り消化でき、体調さえ良ければ、
  相当の自信を持ってレースに臨めるはずです。
  練習のインターバルトレーニングやペース走で、   
  5000mを16分10秒程度で設定して、
  それが克服出来ているはずです。


下記をご覧下さい。

渋井陽子(三井住友海上)の持つ
日本記録2時間19分41秒(世界歴代4位)の平均タイム
100m平均              19秒86
1000m平均           3分18秒6
3000m平均           9分55秒8
5000m平均          16分33秒
1万メートル平均         33分06秒
中間点(21.0975km)1時間09分50秒5
なお、ラドクリフの持つ世界記録は、2時間15分25秒です。

3000mを10分ちょうどで走る選手や
5000mを16分40秒以下で練習している選手では、
渋井の持つ日本記録は、間違っても破ることはできないことが
お分かりいただけると思います。


今回の野口の目標タイムを考えて見ましょう。

「2時間18分後半〜2時間19分前半」(藤田監督の話)

練習では、これに近いタイムが出ている裏づけですから、
2時間18分30秒を目標設定にしているはずです。

100m平均              19秒69(0.17秒)
1000m平均           3分16秒9(1,7秒)
3000m平均           9分50秒8(5秒)
5000m平均          16分24秒7(8.3秒)
1万メートル平均         32分49秒5(16.6秒)
中間点(21.0975km)1時間09分15秒(35.5秒)

カッコ内の数字は、渋井陽子の日本記録との差です。
数字は、平均タイムであって、通過仮想ラップタイムではありません。

藤田監督と野口は、おそらく練習がうまく消化出来て
相当な自信があるものと思います。

“記録を破る”というのは「根性」や「気迫」、
「レース展開」、「体調」というレベルではなく、
練習内容の質と消化に裏づけられて、初めて記録が出るのです。

練習でできないことは、レースで出来るわけがありません。

野口みずきはアテネ五輪以来1年1か月ぶりのフルマラソンの実戦です。
不安があるとすれば、この点だけでしょう。

さて、野口の日本新記録更新が達成されると、
また高橋尚子のパッシング記事が出るはずです。

「高橋はもう終わりだ」と決めつけているミーハー的な
マスメディアが報じていることは本当なのでしょうかexclamation&question

高橋は約2週間前の9月4日に、
アメリカバージニア州バージニアビーチで行われた
「ロックンロールハーフマラソン」というローカルな、
おそらく高橋尚子が出場しなければ誰も知らないような
ローカルな大会に出場しました。

アテネ五輪女子マラソン銅メダルの
ディーナ・カスター(32=米国)が序盤から独走し、
1時間7分53秒で逃げ切り、
高橋は最初からついてゆくことができなかったようです。

高橋はレース後にこう言っています。
 「(彼女が飛ばして)来るだろうと思っていた。
  5キロが16分10秒でちょっと速いなと思ってペースを下げた」

高橋は終盤にトップグループに付いてゆくことができずに
ズルズル失速し、最後は積水化学時代の後輩で
3位に入った上野理恵(29=積水化学)にまで抜かれて
1時間10分30秒のタイムで4着に敗退しています。

2年前のアテネ五輪選考レースであった東京国際で、
高橋は序盤の5000mを16分14秒のハイラップで通過
(4年前のベルリンでは16分46秒で入り、結果当時日本新記録を更新)
して、暑さもあって後半バテバテになった悪い記憶を
思い出したのだと思います。

この判断が良かったのかどうかは、
結果論でどうでも言えるので、
高橋のレース感にあれこれ言うのは避けたいと思います。

国民的英雄の高橋は「常勝」を期待されているので、
今回のの負け方が国民的英雄の負け方ではなく
「高橋はもう終わりだ」
と思われた理由だろうと思います。

高橋が目標にしている11月20日(日)の
東京国際マラソンから逆算すると
8、9月は走り込みの時期に当たり、
月1000km以上、多い日には1日70kmもの
猛烈な走り込みを続けています。

並みの選手では、限界を通り越して故障してしまう距離です。

陸上競技のトップ選手では、基本的に
「専門種目の2倍の距離を走りこなす」
ことで、距離に対する不安が打ち消される、
という考え方が練習に反映されるため、
1日に60kmも70kmも走るのですが、
これは高橋だけでなく、野口や渋井も同様です。

こういう血を吐くようなすさまじい練習によって、
一流選手が足腰、ヒザなどを故障してしまうことがあるのです。

実際、高橋も何度も骨折したり、肉離れを起こして
目標レースに出られないことがありましたよね。

高橋は疲労がピークに達している状態での
ハーフマラソン強行出場でしたが、
もう1つの問題は実戦不足にありました。

終盤にトップグループに付いてゆけなくなったのは
スタミナ切れではなく、
先頭集団内の駆け引き(スピードの緩急)で
予想以上に体力を消耗したのが主な原因かもしれません。

マラソンには、「スタミナ」に加えて「スピード」も必要ですし、
トップグループのスピードの緩急に対応する「変速」も必要なのです。


野口みずきの、昨年のアテネ五輪マラソン(8月22日)以降の
出場レースは下記の通りです。

・ 今年2月に香川丸亀ハーフマラソンに出場し、
  1時間13分7秒と惨敗
・ 5月に鳴門総合運動場で行われた関西実業団で
  10000mに出場し31分44秒29で優勝
・ 6月に韓国の華城市で行われた
  2005 Samsung Distance Challengeで
  5000mに出場し15分42秒で2着
・ 7月3日の札幌国際ハーフマラソンで
  1時間9分46秒で3着
で、今回のベルリンに臨みます。

全て、1着ではないし、5000mや1万mも
平凡な記録に終わっています。

目標のレース(明日のベルリン)に向かって、
調整しながらレースに出ていることが
お分かりいただけるものと思います。

野口はハーフマラソンでの日本記録を持っていて、
その記録は1時間7分47秒(昨年1月宮崎女子ロード)です。

高橋は過去10回ハーフマラソンに出場し、
記録があるのは7回で(残り3回はゲストとしてのお遊び参加)、
自己最高記録は5年前の1月の1時間8分55秒であり、
高橋のハーフマラソンは、過去全てにおいて
“調整”としてのレース参加となっています。

高橋の2週間前の4着の記録と自己最高との差は、
「1分35秒」ですが、
それがダメだと言うなら、野口はどうでしょうかexclamation&question

野口の7月3日の札幌国際ハーフマラソンでの記録と、
野口自身の自己最高記録との比較では、
その差は「1分59秒」もありました。

野口も札幌国際には“調整”で参加したことが分かります。

もちろん、真夏のハーフマラソンでは毎年記録は望めませんが。

高橋や野口など一流選手は、出場するレースで全て勝つのではなく、
年間に1〜2回の目標を定め、
それを確実に勝つために、他のレースは“調整”で参加してくるのです。

高橋はハーフマラソンで4着に敗退したことで、
目標としている11月20日の東京国際までの練習内容が、
むしろポイントがはっきりして、良かったのではないかと思っています。

高橋はスタミナ、スピードはまだまだ世界に通じるものがあり、
問題は終盤30km以降の勝負処で、突き放せるかどうかだけでしょう。

そこを意識した練習に微調整したはずです。

また、11月20日の東京国際は、
高橋が勝つお膳立てが出来つつあります。

1つは、高橋自体の復調の兆しが見えてきたこと。

2つ目は、高橋の目の上のタンコブになる選手が
出場しない公算が大きいこと。

ラドクリフは“解説”だし、ヌデレバは招待せず、
野口はベルリンに出てしまうからムリだし、
渋井は目標を北京に切り替えて練習中で、
選考レースまでは高橋や野口とは一緒に走らないでしょうから。

となると、出場するのは高橋と既に勝負付けが済んでる選手ばかり、
というようになりそうです。

8月14日ヘルシンキの世界陸上に出場した日本代表5人
(原裕美子、弘山晴美、大島めぐみ、小崎まり、江田良子)
クラスでは、高橋には敵わないでしょう。

それでも、このレースで復活をしたい高橋は、
無謀に記録を狙わずに、“勝ち”を意識したレース運びをするはずで、
そうなると30kmあたりでも、数人がトップ集団を形成して、
その後抜け出す作戦を取るものと思われます。

となると、主力が欠けたメンバー構成では、
「2時間22〜24分くらいで高橋が勝つ」
と思います。

その時点で、ミーハーなマスメディアは
「北京でラドクリフと一騎打ち」
だと持ち上げるかもしれません。


オリンピックのマラソン代表は、
「脈拍が1分間に40未満」
と言われています。

高橋は「35」で、
野口は、聞き間違いかもしれませんが「31」です。

小出監督に弟子入り志願をしていて、当初相手にされなかったのが、
急きょ弟子入りOKになったのは、この「脈拍35」に
小出監督が仰天したからなんです。

普通の人は「60以上」です。
ぜひ計測してみて下さい。

これは、車のエンジンと同じように考えられます。

660CCの軽自動車や1500CCのファミリーカーと
ベンツの5000CCで長距離を高速走行したら、
そのエンジンはどう違うか、というのと同じです。

運動をすると血圧が上昇しますが、
一般人ではたちまち高血圧状態になってしまうでしょう。

高橋や野口など一流選手は、
運動中でも一般人の正常数値より少し高いレベルの血圧で、
それだけ心肺機能が高いのです。

高橋は天真爛漫な性格で、
マスメディアやCMに華々しく登場し人気がありますが、
野口は貧しい生い立ちが性格や顔に出ているのか、
暗く華がありません。

私は、野口は「物言わぬ武士」をイメージしています。

野口と高橋の身長差は15cmはあるはずなのに、
野口の走行ストライドは、高橋より広いです。

もちろん、高橋は「ピッチ走法」、
野口は「ストライド走法」と、走法自体が違うのですが、
野口は、ストライド走法を維持するために
ウェイトトレーニングで鍛えています。

野口は明日9月25日、高橋は11月20日に
それぞれ今年最大の目標にチャレンジしますが、
類いまれな素質の持ち主が、想像を絶する練習をして、
いろいろなものを背負ってレースに臨む彼女たちに、
結果はどうあれ、
私は最大の賛辞を贈り見守ってあげたいと思います。

2005年09月23日

ヤツの先輩!

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ヤツ犬は先輩猫に頭が上がらない。

理由は、ヤツ犬が貰われて来たときに、
既に家の中には先輩猫が居たからです。

先輩猫には他に3匹の兄弟猫と母親猫がいます。

先輩猫以外はバカばかり猫なので、家の中には入れません。

ちなみに、先輩猫の名前は「ブン」、他のバカたち猫の名前は、
・ ケリー猫(黒)
・ ネネ猫(バカ)
・ ハナ猫(鼻くそ)
・ 母親の「ミー」猫(片目)
で、カミさんや子供が命名しました。

カッコ内は、私が名づけた名前です。

凶暴な黒以外は、ほとんど庭でゴロゴロしているだけの無能ネコ猫ですが、
ハブを見かけないのは、バカたち猫のお蔭かもしれません。

6月4日 ついに自宅に“ハブ”現る!

お礼に水をかけてあげたりしています。

そう言えば、トカゲを生け捕りにしたのは「鼻くそ猫」でした。

7月29日 沖縄といえば「キノボリトカゲ」!

彼ら猫は全員去勢・避妊手術を受けています。

元・ノラ猫に、1匹1万円もかかってしまいました。


ヤツ犬が小さい頃、凶暴な黒猫にビンタを喰らった以外は、
ヤツ犬は特別なイジメを受けませんでした。

もちろん、ヤツ犬は殴られたことは片時も忘れたことはありません。

殴った「黒猫」とは、今でも相性が悪いようです。

ヤツ犬はむしろ、彼ら猫に遊び相手をしてもらっていました。

ヤツ犬はその恩義を感じているので、先輩猫には頭が上がらないのです。

幼少期にネコ猫と暮らしたことで、
ヤツ犬は一時自分をネコ猫だと思い込んでいたようで、
ヤツ犬は高台からよくジャンプをしていました。

ネコ猫のような華麗なジャンプをイメージしているらしく、
ドスンと落ちると「アレッexclamation&question」という表情をしていました。

引越し前の家では、ヤツ犬が食卓に飛び乗ったりしたのも、
ネコ猫のつもりだったのかもしれません。

身体は3倍以上大きくなってしまっても、
ヤツ犬の方が年下なので、
カミさんがネコ猫を優先したりすると、ヤツ犬は激しく怒ります。

最近のヤツ犬は、いつも人と一緒なので、
今度は自身を人間だと勘違いしているのかもしれません。

ヤツ犬は身体はデカくても、実は甘えん坊なんです。
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2005年09月22日

ヤツの前世は侍か?〜その6

6月12日 ヤツは前世で関係の深い人だった?
9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1「大岡越前」
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2「長谷川平蔵」
9月19日 ヤツの前世は侍か?〜その3「遠山の金さん」
9月20日 ヤツの前世は侍か?〜その4「半七捕物帳」の半七
9月21日 ヤツの前世は侍か?〜その5「右門捕物帳」の近藤右門

銭形平次

「親分、てぇへんだぁ!」
と、子分の八五郎が持ち込んだ難事件を
神田明神下の名親分・岡っ引きの銭形平次が
得意の推理力と観察力で解いてゆくのですが、
残念ながら銭形親分はフィクションなのです。

野村胡堂による原作「銭形平次捕物控」は、
1931年(昭和6年)4月から
「文芸春秋オール読物」に掲載され、
以降1957年まで27年間、
合計333編もの大長期連載を果たしました。

長編、短編、特別編も併せると383篇にもなり、
1人の人物を主人公にした小説としては
世界最長ではないかという説もあるようです。

野村胡堂(本名長一)は1882年(明治15年)
岩手県大巻村(現紫波町)に生まれました。

盛岡中学に進み同級生の金田一京介と知り合い、
以後死ぬまで交友を続けます。

金田一京介は野村が亡くなった時の葬儀委員長を務めています。

金田一耕介ではありませんよ、
耕介は横溝正史原作の探偵で、京介は国語学者です。

東京帝大に進学しますが、明治43年に父が亡くなり
学費が払えなくなって除籍処分にされてしまいます。

明治45年に報知新聞に入社、政治部で活動しました。

大正3年の同新聞のコラムで初めて
「胡堂」のペンネームを使用しました。

当時、岡本綺堂の書いた「半七捕物帳」は、
捕物小説の先駈けとして、当時から大変な人気があり、
出版社から
『「半七捕物帳」のようなものを書いて欲しい』
という依頼を受けて、
昭和6年に銭形平次の連載を始めることになった、と伝えられています。

平次は神田明神下の御台所町(現在の外神田2丁目付近)の長屋に住み、
平次とは対称的に、
そそっかしく女性に弱い子分の八五郎(ガラッ八)が
「親分てぇへんだぁ」
の声で持ち込む事件を解決していくという筋立てになっています。

投げ銭で賊の動きを止める得意技が「銭形」の異名を生みました。
(建設業の「銭高組」から付けられたという説もありますが…?)

野村胡堂がこのシリーズの執筆を停止したのは
1957年(昭和32年)「オール読物」8月号で、
目の病気のためでした。

昭和33年菊池寛賞を受賞、
昭和35年紫綬褒章を受賞し、
東京オリンピックの前年1963年(昭和38年)に
76歳で亡くなりました。


「銭形平次」は何度か映像化され、
堀正夫、嵐寛寿郎、長谷川一夫、安井昌二、若山富三、
大川橋蔵、北大路欣也、最近では村上弘明が平次を演じました。

ガラッ八役は佐々十郎、林家珍平、花菱アチャコ、三木のり平、
ハナ肇、船越英二、最近では石井正則らが演じています。

平次の奥さんのお静は八千草薫、鈴木紀子、香山美子、
最近では東ちづるが演じました。

神田明神の境内には、長谷川一夫ら、
往時の関係者が建てた銭形平次の記念碑があります。

銭形平次は実在の人物ではないのに、
鳥居本社のある神田明神下の代表的な有名人となっています。


銭形平次のTV番組は、
1966年に白黒版で放送開始以来18年間、
主演の大川橋蔵は、全888話を一人の主役で乗り切った功績で
ギネスブックにも掲載されているようです。

大川橋蔵の銭形平次と東野英二郎の水戸黄門とは、
時代劇のTV番組としての功績からすると、
甲乙つけ難い秀作と言えるでしょう。


江戸時代では、実際には岡っ引き・下っ引きは
同心から個人的に雇用されているものなので、
十手などは常時携行していませんでした。

捕り物に参加するために必要な場合は、
臨時に奉行所が貸し与えたので、
銭形平次のように自宅に十手を置いていて、
いつも持ち歩く岡っ引きというのはいなかったようです。

同心は安月給なので、
一般に八丁堀に与えられている屋敷の一部を、
医者や学者などに貸して、その家賃で収入を得ていた、
という話もあります。


大川橋蔵主役のTV番組のエンディングに
「寛永通宝」という巨大な銭形が出てくるところがありましたね。

四国の八十八カ所・観音寺市の観音寺に江戸時代からあるもので、
一説では1633年(寛永10年)に
丸亀藩主生駒高俊公が藩内の巡視に訪れた時に
地元の人々が歓迎のため一夜?で築きあげたものと言われています。
(寛永13年という説も)

全周340m、南北90m、東西122m、高さ2mという
巨大なものらしいです。

直接見てみたいものですね。

posted by RIUさん at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月21日

ヤツの前世は侍か?〜その5

6月12日 ヤツは前世で関係の深い人だった?
9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1「大岡越前」
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2「長谷川平蔵」
9月19日 ヤツの前世は侍か?〜その3「遠山の金さん」
9月20日 ヤツの前世は侍か?〜その4「半七捕物帳」の半七

「右門捕物帳」の近藤右門

「右門捕物帳」は、佐々木味津三(ささきみつぞう)によって書かれた、
南町八丁堀同心近藤右門を主人公とする全38編の短編シリーズです。

捕物帖の歴史から見れば、岡本綺堂の『半七捕物帖』と
野村胡堂の『銭形平次捕物控』の間に位置し、
・ 半七捕物帳
・ 右門捕物帳
・ 銭形平次捕物控
この3つが「3大捕物帳」と言われ、
以下の2つ
・ 若さま侍捕物手帖
・ 人形佐七捕物帳
を加えたものが「5大捕物帳」と言われています。

佐々木味津三は、1896年(明治29年)愛知県北設楽郡津具村で生まれ、
1934年(昭和9年)急性肺炎で37歳で亡くなりました。

「右門捕物帳」の他に『旗本退屈男(全11話)』も執筆しています。

佐々木味津三〜大衆小説家
青空文庫−佐々木味津三作品

南町奉行に属する同心で、八丁堀に住み、
江戸は八百八町に睨みを利かせる主人公の近藤右門は、
いつも、むっつりしていて、余計なことは話さず、
アゴをなでては独特のさえた推理を組み立てる気骨の男に設定されています。

なかなか格好良いですよね。

 「派手な別仕立の羽織の両袖に丸に“右”の字を大きく染め抜き、
  朱房の十手を草香流にピタリと構えれば、
  泣く子は黙り、江戸中の女はしびれる」
とあり、
それが、“むっつり右門”こと無口で知られる同心、近藤右門で、
さらに居合と柔術の達人なんです。

この右門と正反対のおしゃべりな岡っ引き伝六が、
そのやり口と現場に残されたわずかな証拠から
奇怪な事件の探索に乗り出すストーリー展開になっています。

『右門捕物帳』は、華やかな娯楽作品として書かれていることで、
現在では、映画やテレビで、
徹底した娯楽作品として取り上げられることが多くなっています。
posted by RIUさん at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月20日

ヤツの前世は侍か?〜その4

9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2
9月19日 ヤツの前世は侍か?〜その3

「半七捕物帳」の半七

「半七捕物帳」は、岡本綺堂によって書かれた、
半七を主人公とする江戸探偵物シリーズ、全69篇の作品群を言います。

イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、岡本敬之助の長男として、
1872年(明治5年)東京の芝高輪に生まれ、
大東亜戦争の直前1939年(昭和14年)に67歳で亡くなりました。

綺堂は芸名で、本名は敬二です。

幼くして歌舞伎に親しみ、父の影響を受けて英語も堪能でした。

東京府立一中卒業後、1890年(明治23年)18歳のときに
東京日日新聞に入社。

以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、
42歳まで24年間を新聞記者として過ごします。

新聞記者時代の1896年(明治29年)24歳のときには
処女戯曲『紫宸殿』を発表しています。

1902年(明治35年)綺堂30歳のときに岡鬼太郎と合作した
『金鯱噂高浪(こがねのしゃち・うわさのたかなみ)』は、
歌舞伎座で上演されています。

江戸から明治にかけて、歌舞伎の台本は
劇場付きの台本作家によって書かれてきましたが、
明治半ばからは、坪内逍遥ら、演劇界革新の担い手に
新作をあおいだ「新歌舞伎」が台頭してきました。

二世市川左団次に書いた『維新前後』(1908年)、
『修禅寺物語』(1911年)の成功によって、
綺堂は新歌舞伎を代表する劇作家となりました。

1913年(大正2年)41歳以降は作家活動に専念し、
生涯に196篇の戯曲を残しています。

父がイギリス公使館に勤めていたことから、
早くから欧米の文学作品も精読していたのですが、
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を
原著でまとめて読んだのをきっかけに、
江戸を舞台とした探偵小説の構想を得て、
1916年(大正5年)44歳のときから『半七捕物帳』を書き始めました。

書かれた時期は、44歳から晩年の65歳まで21年に及んでいます。

1917年(大正6年)綺堂が45歳のときに、
第1話『お文の魂』を「文芸倶楽部」に書いています。

設定は明治20年代末に新聞記者をしていた作者が、
幕末に岡っ引をつとめていた神田の半七という老人と知りあって、
順々にその手柄話を聞くという構成になっています。

神田の半七親分(1823年生まれ)は実在して、
その知人たちから直接聞いた話を基にして
書かれたものだという説もあります。

この説では、
「半七は神田三河町に住み、10人ほどの子分がいた」
ということになっています。

岡本綺堂は「三浦老人昔話」という小説も書いているのですが、
この中に出てくる三浦老人は半七親分の一廻り年上で、
隠居している身ですが、
ここを訪ねていろいろ昔話を聞くという話になっています。

『半七捕物帳』の第1話の終わりに、綺堂は半七老人のことを
「彼は江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであった」
と書いていて、
シャーロック・ホームズを強く意識して書いていることがわかります。

江戸社会の犯罪を通して、奉行や与力や同心や目明かしのしくみ、
さまざまな人間の心理のドラマ、幕末の社会情勢、
季節の行事や祭礼や風物詩、これら全てを
捕物帳というスタイルに仕立ててあります。

綺堂が半七を書くまで、日本には探偵小説はありませんでした。

『半七捕物帳』は日本の探偵小説のルーツであり、
かつ時代推理小説のルーツでもあるのです。

「捕物帳」という日本独自のスタイルが出現したことで、
読者は江戸幕末の全ての情景を身近に感じ取ることが
できるようになりました。

この半七を基にして、以降
・ 銭形平次
・ 人形佐七
・ 黒門町の伝七
などが次々に登場して来ますが、主役はいずれも岡っ引でした。

岡っ引ネタ尽きると探偵のキャラクターが変わり、
主役の役職もバラエティーに富むようになり、
・ 八丁堀同心の近藤右門
・ 火付盗賊改の長谷川平蔵
・ 遠山の金さん
などが登場してくるのですが、
全ては和製シャーロック・ホームズの半七が元祖になっているわけです。


岡本綺堂に興味のある人は、下記サイトが最強です。
綺堂事物

また「半七捕物帳」は、本格的な推理小説でありながら、
著者の岡本綺堂の生い立ちや性格が災いして、
少し読みにくい、とも言われています。

それは、
・ 岡本綺堂は幕臣の流れを引く人物で、自身を江戸時代に郷愁があり、
  捕物帳を書くにあたって、江戸の町を正確に復元し、
  町で行われている様々な活動などを活写して、
  自ら仕上げた江戸の町を作品の中に再現しようという試みが、
  具体的であればあるほど、読者側にも江戸の町の地理や、
  文化、風習などそこそこの“知識”が要求される。
  江戸から明治になって消えかけている江戸の町は、
  大正の関東大震災によって一挙に姿を消してしまいます。
  その、消えてしまった町へのこだわりが強いために、
  現在ではちょっとした壁が作品にあるように
  思われてしまうのかもしれません。

・ 岡本綺堂自身は、イギリス公使館に勤務していた父親の影響で
  英語が堪能で、当時では相当の知識レベルにありながら、
  家系が幕臣の系統に属するために、
  明治の官界では十分に力を発揮できないと思い、
  外の方面に活動の場を求めることに至りました。
  こういう不満が根底にあるので、
  理屈っぽくなってしまったのかもしれません。

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2005年09月19日

ヤツの前世は侍か?〜その3

9月17日 ヤツの前世は侍か?〜その1
9月18日 ヤツの前世は侍か?〜その2

遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)

1793年(寛政5年)に生まれ、
1855年(安政2年)62歳で亡くなっています。

天皇(生きているうちに関わった天皇)
119代光格天皇 1779年11月25日〜1817年3月22日、
在位38年
120代仁孝天皇 1817年3月22日〜1846年2月6日、
在位29年
121代孝明天皇 1846年2月13日〜1866年12月25日、
在位20年

昨日の「長谷川平蔵」と119代の天皇が重なっていますね。

「大岡越前」が70歳のときに、「長谷川平蔵」が生まれ、
「長谷川平蔵」が47歳のときに「遠山の金さん」が生まれています。

「大岡越前」と「長谷川平蔵(鬼平)」、「遠山の金さん」は
続けざまに歴史に登場していたことになりますね。


将軍(生きているうちに関わった将軍)
11代将軍家斉(いえなり))1787年4月15日〜1837年4月2日、
14〜64歳、在位50年
12代将軍家慶(いえよし))1837年4月2日〜1853年6月22日、
44〜60歳、在位16年
13代将軍家定(いえさだ))1853年11月23日〜1858年7月6日、
29〜34歳、在位5年
12代将軍家慶の息子家定は、小心・多病で子供を設ける能力がなく、
後継の選定が問題になったと言われています。


おおまかな出来事
1793年 ルーブル美術館開館(仏)
1794年 蔦屋重三郎が、写楽の役者絵の刊行を開始
1795年 女髪結がぜいたくを理由に禁止
      同年、メートル法制定(仏)
1796年 清、アヘンの輸入を禁止、白蓮教徒の乱(〜1805年)
      同年、ジェンナー(英)、種痘を実施
1798年 金さん5歳
      同年、フランス、ナポレオンのエジプト遠征
      同年、近藤重蔵、択捉島に大日本恵土呂府の標柱たてる
      同年、江戸・神田豊島町(現=東京都千代田区東神田)に
      岡田万作が寄席を開いた。江戸における最初の寄席とされる
1799年 ナポレオン戦争(〜1815年)
      同年、伊・アレッサンドロ・ボルタが
      塩水に銅板と亜鉛板を浸けて導線で繋ぐと
      電流が流れることを発見
1800年 伊能忠敬、蝦夷地の測量に向かう
      同年、「ボルタの電池」英・アレッサンドロ・ボルタが
      伊・が前年に発見した原理に基づいて液体電池を制作し、
      英国王立学会で発表。世界最初の一次電池
1801年 グレートブリテンおよびアイルランド連合王国成立
      同年、江戸・浅草駒形町に越後屋(現=駒形どぜう)ができた
1802年 十返舎一九が弥次・喜多の2人が繰り広げる珍道中
      『東海道中膝栗毛』を出版
1803年 金さん10歳
1804年 秋田・山形県境で象潟地震発生。
      2.5m隆起して潟は陸地となった
      同年、初代清水喜助が
      江戸・神田鍛冶町で大工として開業。清水建設の創業
      同年、ナポレオンが皇帝に
1805年 ナポレオン1世が、スペイン南西岸トラファルガル
      (英語名トラファルガー)岬沖で
      ネルソン提督の率いるイギリス艦隊に敗れた
      同年、華岡清洲が日本初の麻酔手術
1806年 神聖ローマ帝国消滅
1807年 江戸の大川(隅田川)にかかる永代橋が
      深川富岡八幡宮の祭礼見物に押しかけた群集の重みに
      耐えかねて崩落。1000人以上が死亡した
1808年 「間宮林蔵、樺太探検・間宮海峡発見」、
      ロシア南下を恐れた幕府に調査を命じられた間宮林蔵が、
      松田伝十郎と宗谷岬から出発、
      サハリン(樺太)が島であることを推定していったん帰還。
      夏にはひとりで現地へひきかえして越冬し調査を続けた
      同年、ゲーテ(独)「ファウスト」(〜1832年)
1809年 ロシア・トルコ戦争
      同年、間宮林蔵、カラフトに単身渡って海峡を探検。
      サハリン(樺太)が島であることを再確認した
1810年 フランス、オランダ併合
      同年、カメハメハ王朝がハワイ諸島統一
1813年 金さん20歳
1814年 ナポレオンが退位させられ、エルバ島に流された
      同年、葛飾北斎『北斎漫画』
1815年 ナポレオンがエルバ島から脱出、パリに向かった
      同年、「ワーテルローの戦い」、
      現在のベルギーの首都ブリュッセルの
      南東にあるワーテルローで戦われた。
      ナポレオン率いるフランス軍が敗北し「百日天下」が終わった
1816年 琉球にイギリス船に来航、通商を求めた
1817年 イギリス船浦賀に来航
      同年、江戸・亀戸天神(現=東京都江東区)に太鼓橋が完成。
      このとき祝いに駆けつけた深川の芸者たちが
      橋の形に似せて帯を結んだのが「御太鼓結び」の始まり
1819年 アメリカがスペインからフロリダを購入
      同年、イギリスがシンガポールを領有
1821年 伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成
1822年 ギリシア独立宣言
      同年、十返舎一九『東海道中膝栗毛』完結
1823年 金さん30歳
      同年、「モンロー主義」、
      アメリカがヨーロッパと相互不干渉のモンロー主義を宣言
1825年 「異国船打払令」、清・オランダ以外の外国船を
      すべて武力で撃退することを命じた
      同年、江戸・中村座で「東海道四谷怪談」が初演
      同年、イギリスのストックトン−ダーリントン間で
      世界最初の鉄道が開業
      同年、ベートーベン、「交響曲第9番・合唱つき」を作曲
1827年 オーム(独)が「電気回路の数学的研究」を著し、
      「オームの法則」を発表
1828年 「シーボルト事件」、長崎で、ドイツ人医師シーボルトが、
      禁制品の地図を海外に持ち出そうとして発覚した。
      のちに追放処分になった
      同年、越後で大地震。死者3万人余
1830年 フランス、七月革命
      同年、伊勢神宮への集団参詣「お陰参り」が大流行
      同年、江戸・浅草茅町2丁目に、人形店「久月」が開業
1831年 ベルギー王国独立
      同年、ファラデーが電磁誘導を発見
      同年、エジプト・オスマン帝国戦争(〜1840年)
      同年、葛飾北斎『富嶽三十六景』
1832年 鼠小僧次郎吉が、引き回しのうえ獄門になった
1833年 金さん40歳
      同年、歌川(安藤)広重『東海道五十三次』(〜1834年)
      同年、天保の飢饉(〜1836年)
      同年、ニューヨークで1セント新聞「サン」が創刊。
      アメリカ最初の日刊大衆新聞
1834年 葛飾北斎『富嶽百景』
1835年 江戸・日本橋の「山本山」6代山本嘉兵衛が、
      宇治の茶園で開発された新製法の茶に注目し、
      「玉露」と名づけて売り出した
1836年 メキシコ政府軍がテキサス州に不法移民していたアメリカ人の
      起こした反乱を鎮圧。
      アラモ教会を砦として戦ったデイビー・クロケットら
      187人が全滅した
      同年、パリの凱旋門が完成する
1837年 「大塩平八郎の乱」、大阪の大塩平八郎が
      飢饉で苦しむ民衆救済のため挙兵し、豪商を襲い、
      米や金を貧民に与えた。乱は1日で弾圧された
      同年、モールス(米)が電信機を発明
1838年 アメリカで1万数千人のチョロキーたちが、
      住み慣れた土地から追い立てられ、西部へ向かった。
      厳冬の季節で約4分の1が途中で死んだ。
      「涙の道」(Trail of Tears)と呼ばれた
1839年 「アヘン戦争」、九竜近く清朝海軍とイギリス船が
      放火をまじえたのをきっかけに両国は戦争に突入した
      (〜1842年)
1840年 イギリスでペニー・ブラックと呼ばれる世界初の
      郵便切手を発行(近代郵便制度の始まり)
      同年、金さんが江戸北町奉行に任命される
1841年 老中・水野忠邦が「天保の改革」を発令
      同年、渡辺華山が自殺
1842年 「南京条約」、清朝政府は全面的にイギリスに屈服、
      南京条約を締結しアヘン戦争(1839年)は終結した。
      条約には香港の割譲、上海などの開港と通商などが盛り込まれ、
      イギリスがさらに中国へ進出する足がかりとなった
1843年 金さん50歳
1844年 「三銃士(デュマ・ペール)」が出版されベストセラーに
1845年 「明白な天命(Manifest Destiny)」
      西へ向かって拡大するのが神から与えられた
      アメリカ人(白人)の使命だとする原住民を無視した
      身勝手な考え方で、今でも続くアメリカ拡大主義の原点。
      ジャーナリストのジョン・オサリヴァンが
      雑誌に発表したことにより広まり,
      この勢いのなかでテキサスはアメリカ南部の1州として
      併合された
1847年 信州一帯に大地震(善光寺地震)。
      御開張で混雑していた善光寺の参拝者の大半が死亡。
      死者あわせて8600人
      同年、イギリスで「嵐が丘(エミリー・ブロンテ)」が
      出版されベストセラーに
1848年 天保の薪水給与令
      同年、カリフォルニアのシェラネバダ山脈から
      流れ出るアメリカ川のほとりで金鉱が発見された。
      噂は急速に広まり、多くの人々が集まった
1849年 江戸・室町に「山本海苔店」が創業
      同年、一獲千金をねらう人々がカリフォルニアに集まり、
      約1万5千人だった人口が、
      1年の間に9万3千人にふくれあたった。
      この年に金鉱熱にうかされてカリフォルニア行った人は
      “forty−niner”と呼ばれた
1850年 江戸・青山に潜伏中に高野長英が、追っ手に囲まれ自刃
1851年 清、太平天国の乱
      同年、ワシントン−ボルチモアの間に
      世界最初の電車(動力は蓄電池)が開通
      同年、ロンドンで初の万国博覧会開催。
      25カ国が参加し、600万人が訪れた
      同年、「ニューヨーク・タイムズ」創刊
      同年、「白鯨(メルビル)」が出版されベストセラーに
      同年、フランスでフーコーが
      振り子実験による地球自転の証明をする
      同年、上野国の侠客「国定忠治」が、
      殺傷、賭博、関所破りなどの罪で磔に
      同年、ハワイに漂着した中浜(ジョン)万次郎らが、
      アメリカ船で琉球に来航
1852年 開国・尊王攘夷運動・討幕
      同年、「アンクル・トムの小屋」(ハリエット・ストウ)が
      発売される。
      黒人奴隷制度の残虐さを描き、
      「奴隷解放のバイブル」と呼ばれるようになった
      同年、金さん南町奉行を辞任する
1853年 金さん60歳
      同年、アメリカのマシュー・ペリー提督の率いる4雙の
      軍艦が江戸湾浦賀沖に現れ停泊した。
      蒸気船が2雙と帆船が2雙であった。
      帝国主義化を進めるアメリカの
      大平洋進出に伴う極東来訪であった
      同年、幕府が砲台設置のため、お台場の造営に着工
      同年、クリミア戦争でイギリスとフランスがロシアに宣戦
      看護婦ナイチンゲールがクリミアでの奉仕活動を志願
      同年、アメリカでリーバイ・トラウスがジーンズを発売する
      同年、江戸・本所で中浜(ジョン)万次郎が塾を開いた
      同年、東海地方で大地震(小田原地震)。
      小田原城下町で880戸が全壊、死者は119人。
      全体の死者は3780人におよんだ。
1854年 ペリーが8隻の艦隊を率いて浦賀に再来航、
      幕府、日章旗を日本国総船印に制定、
      日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約を結ぶ
      同年、ペリーが琉球王府と琉米修好条約を締結
      同年、吉田松陰がペリー艦隊に密航を試みるが失敗し、
      伊豆・下田の海岸で逮捕される
      同年、四国・近畿・東海地方で大地震(嘉永大地震)。
      大阪では大津波による被害もあった。
      死者2千人余、倒壊家屋203戸。
1855年 金さん62歳で亡くなる
      同年、幕府が蝦夷地全域を直轄地とした
      同年、薩摩藩が日本最初の洋式帆船の軍艦「昇平丸」と
      自力で製造した国産初の蒸気船「雲行丸」の試運転に成功
      同年、マグニチュード6.9と推定される
      直下型地震が江戸を襲った(安政大地震)。
      地震と同時に33カ所から火災が発生し
      江戸の大半を焼き払った。
      死者約1万人。倒壊家屋約1万5千戸。
      地下水の異常などの前兆があったとされる。


金さんの遠山家は、源頼朝の家臣、加藤景廉が
美濃国恵那郡遠山荘の地を与えられ、
その長男の景朝が遠山荘にちなんで
遠山左衛門尉を称したのが始まりです。

その後多くの分家に分かれましたが、
その中の明智遠山氏が徳川家康に仕え、
旗本となりました。

金さんは、この明智遠山氏の一族になります。


金さんは若い頃グレていたことで知られていますが、
これには複雑な家庭事情があります。

遠山家は実子に恵まれない家系で、
金さんの祖父・景好自身も養子だったようです。

その景好も、なかなか子供が授からなかったため、
親戚から養子として景晋(金さんの親父)を迎えました。

ところがその直後に実子の景善が生まれてしまいました。

そうなると祖父・景好は、実子の景善を跡継ぎにしたいと
考えるようになり、自身が死ぬまで、
養子の景晋(金さんの親父)に出仕を許さなくなってしまいました。

やがて祖父・景好が亡くなると、
幕府への届け出(長男は養子の景晋)通り、景晋が跡継ぎになりました。

ここで、ややこしくなるのですが、
後を継いだ養子の景晋(金さんの親父)は、
「景善のほうが実子なのだから、彼の血統に家を戻すべきだ」
と考え、金さんが生まれた時、彼の出生届を1年遅らせて、
義弟にあたる景善(金さんの祖父・景好の実子)を先に
自分の養子にしてしまいました。

景善も既に結婚していて、男の子が生まれていましたが、
この子は早死にしていました。

ここで、またややこしくなるのですが、
景善(金さんの祖父・景好の実子)は、
義兄の子供である景元(金さん)を自分の養子にしてしまいました。

そして、またまたこの後、
景善(金さんの祖父・景好の実子)には
もう一人男の子・景寿が生まれます。

ここで景善(金さんの祖父・景好の実子)は、何を血迷ったのか、
この子の存在で後々家督相続で問題が起こらないようにするため、
この実子・景寿を他家に養子に出してしまいました。

景晋(金さんの親父)は表面的には家をまとめるために、
景善(金さんの祖父・景好の実子)を自分の養子にして
景善をたてていたのですが、
本心としては、祖父・景好がそうであったように
「実子・景元(金さん)を跡継ぎにしたい」
と考えていました。

そこで養子・景善(金さんの祖父・景好の実子)の出仕を
なかなか許しませんでした。

家督相続の都合で、養子だとか実子だとかで複雑になった環境下で、
景元(金さん)は、
「自分は養子の子であり、
もともとの直系である義父・景善が家督相続をすべきだ」
と考えて、家出してグレてしまうんですね。

景元(金さん)の配慮にも関わらず、
直系である義父・景善が何と早死にしてしまい、
景元(金さん)は家に戻ってきます。


景元(金さん)は家出してグレていた頃に
入れ墨を入れていたとされています。

その模様は時代劇では「桜吹雪」とされていますが、
一説には「女の生首」であったとも、
実は入れ墨はしていなかった、とも伝えられています。

本当のところは今となってはわかりませんが
(できれば桜吹雪であってほしいですが)、
金さんはどんなに暑い日でも人前では決して肌を見せなかったそうですから、
入れ墨をしていた可能性は高いはずです。


景元(金さん)は直系である義父・景善の死後、はじめて出仕しています。

1840年(天保11年)3月2日、
金さん(遠山左衛門尉景元)は江戸北町奉行に任命されます。

江戸町奉行は、現在の警視庁長官と都知事と
東京地裁長官を併せたような重い職務です。

江戸幕府は、当時基本的に権力の集中を避けるため、
同じ職務を複数の人に割り当てていて、
月交代で担当になることになっていました。

江戸町奉行には、ご存知のように、
「南町奉行」と「北町奉行」があって、
1ヶ月ごとに交互に仕事をしていました。

金さんは当初北町奉行でしたが、後に南町奉行になります。

遠山景元が北町奉行として活躍した時代、
南町奉行は鳥居甲斐守忠耀という人でした。

鳥居が天保の改革を厳密に実行しようとしたのに対し、
遠山景元はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとし、
両者は常に対立関係にありました。

例えば鳥居がある時、
風紀上よくないとして「江戸中の舞台小屋を全て廃止」しようとした時、
金さんは「全て廃止するのはひどい」として、数個を残せるように交渉し、
江戸の人々に喝采されています。

当時江戸の人々は、鳥居のことを名前に引っかけて「キツネ」と呼び、
対して金さんのことを、さらに上手をゆく「タヌキ」と
呼んでいたようです。

何かと対立していた二人ですが、
1843年(天保14年)2月24日、金さんは鳥居の策略で、
「大目付」という閑職にリストラ(形式上は昇進)されてしまいます。

それでもキツネの上手をゆく“タヌキ”の金さんは、
今度は逆に巧妙な策略で鳥居を失職させてしまうんですね。

鳥居忠耀のいろいろな違法行為が暴かれてしまって、
鳥居は四国丸亀藩お預けになってしまいました。

追放された鳥居の後任の南町奉行には金さんが任命されました。

紆余屈折しながら、
1845年(弘化2年)3月15日から
1852年(嘉永5年)3月20日まで7年間、
今度は南町奉行として、再び江戸庶民を守るために活躍しました。

大目付から南町奉行へという公式には降格になるこの人事は、
当時異例中の異例だったようです。

金さんは奉行を辞任すると、
晩年は「帰雲」という号で俳句を書いたりして悠々自適の余生を送り、
3年後の1855年(安政2年)2月29日に亡くなりました。

金さんのお墓は西巣鴨の本妙寺にあります。


遠山金四郎は、将軍吉宗の時代の大岡越前忠相と並び称される名奉行で、
大岡越前忠相が享保の改革を行った吉宗の腹心として活躍したのに対し、
遠山は天保の改革を行った老中・水野忠邦に近い人物として重用されました。

ただし将軍吉宗と大岡越前が非常に信頼深い関係であったのに対して、
金さんと老中水野は常に緊張関係にあったようです。
posted by RIUさん at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月18日

ヤツの前世は侍か?〜その2

長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞう・のぶため)

1746年(延享3年)に
赤坂築地中之町(現.東京都港区赤坂6丁目)で生まれ、
1795年(寛政7年)に49歳で亡くなっています。

天皇(生きているうちに関わった天皇)
115代桜町天皇 1735年3月21日〜1747年5月2日、
在位12年
116代桃園天皇 1747年5月2日〜1762年7月12日、
在位15年
117代後桜町天皇 1762年7月27日〜1770年11月24日、
在位8年
118代後桃園天皇 1770年11月24日〜1779年11月9日、
在位9年
119代光格天皇  1779年11月25日〜1817年3月26日、
在位38年

昨日の「大岡越前」と、115代・116代の天皇が重なっていますね。

「大岡越前」が隠居生活をしている70歳のときに、
「長谷川平蔵」が生まれ、
「大岡越前」が75歳で亡くなる年は、「長谷川平蔵」はまだ5歳でした。

将軍(生きているうちに関わった将軍)
8代将軍吉宗(よしむね)1716年8月13日〜1745年9月25日、
32〜61歳、在位29年
9代将軍家重(いえしげ)1745年11月2日〜1760年5月13日、
34〜49歳、在位15年
10代将軍家治(いえはる)1760年5月13日〜1786年9月8日、
23〜49歳、在位26年
11代将軍家斉(いえなり))1787年4月15日〜1837年4月2日、
14〜64歳、在位50年


おおまかな出来事
1752年 ペンシルヴェニア洲会議員のベンジャミン・フランクリンが、
      雷が電気現象との仮説を実証するため、
      雷雨の中で凧を揚げて実験をした
      同年、越前加賀騒動勃発
1753年 大英博物館設立
1754年 天皇の侍医山脇東洋が、
      斬首刑に処せられた罪人の解剖を見学して克明に記録した。
      日本で初めての死体の解剖
      同年、イギリスとフランスが北アメリカの支配権をめぐり、
      先住民や植民地人をまきこんで戦った(〜1763年)
1756年 平蔵10歳
1762年 ルソーが「社会契約論」を出版。王権神授説に対抗した
1764年 イギリスで産業革命が始まる
      同年、江戸・日本橋小網町に海苔専門店「山形屋」が開業
1766年 平蔵20歳
1768年 クックが第1回航海(〜1771年)
1769年 ワット、蒸気機関発明
1771年 千住小塚原で50歳くらいの女囚の腑分(人体解剖)が実施され、
      杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが見学。
      持ってきたオランダ語の解剖書『ターヘルアナトミア』の図と
      実物を見比べ、その正確さに驚嘆し、
      帰り道に翻訳することを決心し、
      翌日から早速翻訳に取り掛かる(1774年完成)
      同年、平賀源内がエレキテル(摩擦起電器)を完成
      同年、アダム・スミス『国富論』
      同年3月10日、八重山地震が発生、
      津波の被害が大きく、石垣島を中心に
      死者約2千人の大惨事になる
      同年、長谷川平蔵が盗賊改(とうぞくあらため)に
      就任する(25歳)
1773年 大原騒動(飛騨高山領一揆)
1774年 杉田玄白らによる「解体新書」5巻が完成する
1775年 ボストン西北のコンコードの兵器庫をイギリス軍が襲撃して
      占領しようとした。
      約70人の植民地兵がレキシントンで待ち受けて
      銃撃戦になった(独立戦争の始まり)
1776年 アメリカ、独立宣言
      (北米のイギリスの植民地13洲が、自由と独立を宣言した)
      平蔵30歳
1778年 フランスがアメリカ諸植民地の独立承認
1779年 伊豆大島三原山が大噴火、爆音が江戸中に響きわたる
1780年 無宿人に職を与えるため、江戸・深川茂森町に無宿養育所を設置
      同年、ロンドン近郊のエプソム競馬場で
      「ザ・ダービー・ステークス」が創設された
1782年 天明の大飢饉(〜1787年まで)、
      暴徒による襲撃、破壊、略奪が全国で発生。
      江戸では5日間、無政府状態になった
1783年 信州の浅間山が大噴火。爆発とともに黒砂が降り、
      軽井沢・沓掛・追分から鼻坂のあたりまで二抱えもの石が降り、
      人々は桶やすり鉢をかぶって逃げまどった。
      爆発は翌日まで続き、流れ出た溶岩は北方上野国吾妻群を襲い、
      死者2千人、埋没民家1800、
      降灰は関東一帯にわたり、江戸でも地上一寸に及んだ。
      これが関東ローム層になる。
      火山礫は吾妻川をせき止め、
      決壊して利根川すじに大水害が発生した
1784年 多摩郡の農民が蜂起し、名主宅を打ちこわした(武洲一揆)
      同年、若年寄の田沼意知が江戸城で旗本に斬られ9日後に死亡
1785年 カートライトが力織機を発明
      同年、電磁気に関するクーロンの法則を発見
1786年 平蔵40歳
1787年 合衆国憲法制定
      同年、長谷川平蔵(鬼平)が火付盗賊改役に任命された(41歳)
1789年 フランス革命始まる
      同年、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任
      同年、江戸・深川八幡宮境内相撲興行で、
      谷風と小野川に初めて横綱が免許された
1790年 江戸・石川島に人足寄場を創建することが決定
1791年 混浴禁止令が発令される
1792年 ロシア使節ラックスマン、根室に来航し通商要求
      同年、喜多川歌磨が『寛政の三美人』と呼ばれる浮世絵を描いた
1793年 ルーブル美術館開館
1794年 東州斎写楽『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』
1795年 女髪結がぜいたくを理由に禁止
      同年、フランスでメートル法制定
      平蔵49歳で亡くなる


長谷川平蔵は、旗本長谷川宣雄の子で、
幼名期は銕三郎(てつさぶろう)と命名され、
その後「宣以(のぶため)」となりました。

1765年、平蔵が19歳のとき、
父と共に本所三ツ目(現・新宿線「菊川」)に移り住みます。

この界隈は吉原と匹敵する岡場所でした。

平蔵は当時旗本仲間から「札付きの悪」として有名だったようで、
この移住を機に「本所の銕(てつ)」と呼ばれていました。

三ツ目通りは、
現在の辰巳−木場−白河町−菊川−吾妻橋−言問橋東までの
江戸の南北を走る主要幹線道路で、
これに平行して東(千葉寄り)に「四ツ目通り」、
西に「清澄通り」が走っています。

1769年、平蔵が23歳のとき、十代将軍家治に拝謁しています。

これは「御目見」と呼ばれるもので
旗本として武士として公式に認められるという儀式です。

通常は十代のうちに済ませるのですが、
平蔵は素行の悪さから、だいぶ遅れてしまったようです。

1773年、平蔵27歳のとき、
父宣雄が火盗改めから京都西町奉行に栄転しました。

平蔵も京都に付き従いましたが、赴任8ヶ月後に父が病死してしまいます。

平蔵の父は質素倹約を以て事に当たったため、
当時贅沢三昧だった京都奉行所内の風潮を一掃し、
市民に慕われていたようです。

平蔵は長谷川家の家督を相続し、元の本所三ツ目の屋敷に戻りますが、
その放蕩ぶりは変わらず、
小普請(無役の窓際族か辞令待ち)の閑職を与えられた後も
岡場所通いを続け、父が蓄えた財産をついに使い潰してしまいます。

転んでもタダでは起きないのか、
後年この時得た岡場所で働く人々、
「無宿無頼」と呼ばれた流れ者やヤクザ者が
将来、情報収集の強力な武器となるんですね。

1787年、平蔵41歳のときに、
火付盗賊改(火盗改)の加役(臨時職)を命じられました。

火盗改は江戸市中を巡回し、
火災防止や盗賊・博徒の捕縛を役目とするのですが、
平蔵は特に盗賊逮捕に目覚しい実績を上げました。

功利主義の山師などの悪評もある一方、
乞食に施しをする慈悲深い人柄を伝える資料もあり、
無宿人対策として石川島の人足寄場建設を老中松平定信に建議するなど、
弱者への気配りを見せる面もありました。

1787年5月、
天明の大飢饉で混乱する江戸で起こった打ちこわしの暴動を、
平蔵が先手組と与力75騎、同心300名を率いて鎮圧しました。

無政府状態と化した江戸を一気に回復させた手腕が
時の老中・松平定信の目に留まり、火附盗賊改の加役に任ぜられます。

加役とは先手組頭(戦時には足軽大将格)と兼任で
火盗改の任も受け持つ事で、
現在なら警察署と消防署の指揮権を任されるような大変な出世です。

平蔵は歴代の火盗改長官とは異なり、
無用な拷問を避け、自白によって罪を認めさせました。

また、若い頃から独自に培ってきた情報網を使い
迅速な逮捕で市中の評判となってゆきます。

神稲小僧や妖盗葵小僧の逮捕から、
人足寄場の設置と歴史に刻んだその功績は大きいです。

彼が当時の英雄であっただけでなく、
以後の警察機構に与えた影響も大きいのですが、
歴史的な資料は少なく、
池波正太郎作「鬼平犯科帳」によって世に出たとも言えます。
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2005年09月17日

ヤツの前世は侍か?〜その1

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ちょんまげを被らせるくらいじゃ、動物虐待にはならないですよねexclamation&question

時代劇で有名な
・ 大江戸の名裁判官「大岡越前守忠相」
・ 火附盗賊改の長谷川平蔵宣以
・ 『遠山の金さん』こと遠山左衛門尉景元(通称・金四郎)
は、実在の人物です。

彼らは時代劇のヒーローなので、
またテレビドラマで必ず取り上げられますので、覚えておきましょう。



大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみ・ただすけ)

1677年(延宝5年)に生まれ、
1751年(宝暦元年)12月19日、75歳で亡くなっています。

それだけでは分かりにくいので、

天皇(生きているうちに関わった天皇)
112代霊元天皇  1663年1月26日〜1687年3月21日、
在位24年
113代東山天皇  1687年3月21日〜1709年6月21日、
在位22年
114代中御門天皇 1709年6月21日〜1735年3月21日、
在位26年
115代桜町天皇  1735年3月21日〜1747年5月2日、
在位12年
116代桃園天皇  1747年5月2日〜1762年7月12日、
在位15年
ちなみに、初代天皇は神武天皇ですが、
紀元前660年2月11日に即位されたことから、
この日が「建国記念日」になっています。
現在は125代今上天皇です。

将軍(生きているうちに関わった将軍)
4代将軍家綱(いえつな)1651年8月18日〜1680年5月8日、
10〜39歳、在位29年
5代将軍綱吉(つなよし)1680年8月23日〜1709年1月10日、
34〜63歳、在位29年
6代将軍家宣(いえのぶ)1709年5月1日〜1712年10月14日、
46〜50歳、在位3年
7代将軍家継(いえつぐ)1713年4月2日〜1716年4月30日、
4〜8歳、在位3年
8代将軍吉宗(よしむね)1716年8月13日〜1745年9月25日、
32〜61歳、在位29年
9代将軍家重(いえしげ)1745年11月2日〜1760年5月13日、
34〜49歳、在位15年

おおまかな出来事
1637年      島原の乱
1639年      ポルトガル仙来航禁止(鎖国政策)
1643年      参勤交代の制度が確立する
1644年      明朝滅び清朝建国
1650年4月21日 新陰流の奥義をきわめた武芸者・柳生三厳(十兵衛)が
           44歳で没
1660年      イギリス王政復古
1660年1月25日 江戸の隅田川に「両国橋」が完成する
1669年3月31日 シチリアのエトナ火山が噴火し、死者1万5千人以上
1672年      江戸・日本橋(現=日本橋本町2丁目)で
           呉服店松坂屋が開業
1673年      江戸・日本橋(現=日本橋本町1丁目)で
           三井高利が呉服店越後屋(三越の前身)を開業
1677年      江戸・常磐橋門外に置かれていた
           牢屋敷が伝馬町に移された
           越前生まれる
1683年      八百屋お七事件で江戸・駒込大円寺より出火し、
           下谷・浅草・本郷から神田・日本橋に及び、
           お七は火刑に処される
1685年      初めて生類憐みの令を出す
           (1708年までくり返し布令)
1686年      越前10歳
1689年      松尾芭蕉が、江戸の深川から「奥の細道」に出発
1694年      江戸・高田馬場で中山(のち堀部)安兵衛が
           果たし合いに助太刀し、一躍有名人に
1696年      越前20歳
1699年      江戸・日本橋に、鰹節問屋のにんべんが創業
1701年      江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩が
           吉良上野介に刃傷に及び、内匠頭は即日切腹。
           上野介は刀を抜いて応戦していなかったので
           罪に問われなかった
1703年      赤穂藩の浪士が
           江戸・本所(現=東京都墨田区両国3丁目)の
           吉良邸に乱入し上野介以下17名を殺害した。
           浪士らは江戸市中で徒党を組み、
           武器を持参したことで切腹となった。
1706年      越前30歳
1716年      享保の改革に着手(〜1745年)
           越前40歳
1717年      越前、町奉行に任命される
1721年      評定所門前に目安箱設置
1726年      越前50歳
1732年      享保の大飢饉
1734年      青木昆陽が甘藷(サツマイモ)の栽培に成功
1736年      越前60歳
1738年      江戸・日本橋大伝馬町に呉服太物商「大丸屋」を開店
1746年      越前70歳
1751年      越前75歳で亡くなる


江戸の名裁判官というイメージが定着していますが、実際には
・ 天一坊
・ 直助権兵衛
・ 白子屋のお熊
などの事件の裁判をした程度で、
彼が手腕を発揮したのは裁判官としてではなく、
むしろ行政官として発揮したようでした。
・ 裁判の改革
・ 連座制の免除
・ 江戸町火消創設
・ 享保の改革の実践
・ 人材発掘
・ 新田開発
・ 物価統制
・ 通貨統一
・ 大江戸の整備
といった行政全般に力を注いでいます。

彼は徳川家三河以来の譜代の家に生まれ、
10歳で同姓の忠真の養子となり、
11歳で将軍綱吉に拝謁を許され、エリートコースを歩みます。

役職に抜擢されると、
「41歳で町奉行になる」
という当時では異例のスピード出世を果たしています。

清潔な人柄で、60歳になっても連日登城して、
丹念に仕事を処理していたそうです。

この奉行時代に紀州と松坂の境界線問題を厳正に裁いたことで
吉宗がこの人物に注目したようです。

そして1716年(享保元年)に吉宗が将軍に就任すると、
彼を江戸町奉行に抜擢(1717年)したのです。


忠相が江戸町奉行に任命された時、彼は北町奉行でしたが、
2年後にその奉行所(数寄屋橋)が南町奉行所と改名され、
彼はその後南町奉行として活動しています。

その頃の奉行所の陣容は与力25騎、同心120人。

これで御江戸八百八町の治安を守らなければならないので、
かなりの激務であったようです。

だいたい事件の発生件数からすると
1日平均30〜40件の判決が言い渡されていて、
その関係者の取り調べにあたる与力たち、
事件の捜査をする同心たちの負荷というのはすさまじく
重たいものだったようです。

町奉行所は北と南が月交替でおこない、
1月受付をしたら1月休みなのですが、
その休みの月にも下調べや調書書きですさまじい忙しさ、
実際には休みはほとんど無かったようです。

当時は、労働基準法なんか無縁ですからね。

事件が多いので、ほとんどの事件は与力がほぼ全て決着を付けていて、
奉行はその結果を承認するだけだったようです。

あとは主として取り調べの様子を見て回ることに時間を割いたようです。

奉行が御白州で直接取り調べをおこなったのは余程の重大事件でしょう。
何か残念ですね。もうやだ〜(悲しい顔)


時代劇の白州では、よく悪者に
「市中引き回しの上、打首獄門!」
と威勢よく言っていますが、
実際には相手が町人といえども、
死罪を言い渡すには老中の許可が必要でしたので、
死刑の場合その場で判決が言い渡されることはありませんでした。

老中は死刑認可の印を押すのに、印の入っている袋の紐を
「今日は2回りほどこうかな」
「今日は1回りだけにしておこう」
と何日もかけてから取り出し、そして押印したと伝えられています。

それだけ死刑というのは意味の重い刑罰として運用されていました。

当時の儒教の教えも反映されていたのかもしれません。

「人の命は地球より重い」
という考え方は、何も戦後の裁判官が突然思いついたものではなく、
日本という国の長い伝統なのでしょう。

平安時代では、数百年にわたって、死刑という刑罰は一切行われていません。
不思議な感じがしますね。

大岡忠相は町奉行所の構造の設計を行い、
その後奉行所が建て直される時は忠相の設計が基本的に踏襲されています。

また同心やその個人的な部下である岡っ引きたちに
拷問の禁止を徹底させ、冤罪防止のための心得なども厳しく説いています。

その辺りが「名奉行」と呼ばれた由縁なのでしょう。

また、吉宗の事績として知られる
・ 目安箱の設置
・ 養生所の設置
・ 町火消しの設置
などにも忠相は吉宗のブレーンとして貢献しているようです。

posted by RIUさん at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史(江戸時代まで) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月16日

今回だけ、RIUさんの政局への思い!

日ごろ、政治と宗教の話はしないように心がけているのですが、
今回の衆院選挙は印象的でしたので、思っていることを書いておきます。

民主党が大敗した最大の原因は、
岡田代表に政権を担う覚悟と自信が無かったからでしょう。

上目遣いでカメラに向かい、
覇気の無い声で唸る「日本を諦めない」と言う
ネガティブで意味不明なコピー。

セリフを忘れた俳優では、名演技はできませんでしたね。


今回投票した多くの人は
「民営化しようがしまいが自分には殆ど関係がない」
と郵政民営化の得失について熟慮したのではなく、
「“民営化?いいんじゃないの”」
と言った程度の認識で投票したのだと思います。

自民党のマニフェストに120もの公約があって、
その中に「増税」や「軍国化」があるなんて知りませんでしたからね。

自民党は大勝したものの、勝利の中身は実際には極めて希薄であって,
逆風が吹けば次回は民主党が大勝する可能性も大いにあるでしょう。


小泉首相は「派閥解体」などといって
敵対派閥(橋本、堀内、亀井)だけを壊滅させましたが、
自分の派閥(森)だけはぬくぬくと太らせ、
またキリシタンの「踏み絵」を巧みに使い分け、
イエスマンだけを回りに置くことに成功しました。

お気に入りのオバさん刺客をはべらせて、
まさにハーレム気分でしょう。

別れた奥様だって、田中真紀子の時だって、
相思相愛が一転して追い出されたように、
小泉首相は根っからの気分屋で「熱しやすく冷めやすい」性格ですから、
オバさんたちも浮かれまくっていると、痛い目に合いそうですよ。

小池百合子は渡り鳥のジジイキラーですから、
小泉首相が翻弄されるのかどうか、興味は尽きませんが、
これで「結婚」だなんて言ったら笑っちゃいますよね。

「自民党をぶっ壊す!」と言ったのは
「敵対勢力を追い出し、絶対服従の奴隷家臣を揃える」
ことだったのですね。

そのうえで次期後継レースから有力だった亀井静香、平沼赳夫を
見事に排除し、高村正彦をコーナーの隅へ追いやって、
麻生太郎、谷垣禎一などの二級を浮上させつつ党内を強く統率し、
実は巧妙に次期本命の安倍晋三を排撃したのですね。

郵政民営化に反対票を投じ、自民党大勝を見て「民意」だといって、
賛成へ寝返った中曽根康弘を始め、
鞍替えを画策する多くの人たちのしょうもない様子を見ていると、
信長に反対したり賛成したりした松永弾正、三好入道、筒井順慶、細川晴元や
背後にあって政局を引っかき回した陰謀将軍足利義昭など、
あの時代と全く同じですね。

となると、誰が明智光秀になり、
本能寺の変はいつになるのか、
次の見どころはそれでしょうexclamation
posted by RIUさん at 15:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の政治・経済ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月15日

「○○しましょうね〜」という沖縄方言とは?

沖縄のまぎらわしい?方言で、
「○○しましょうね〜」
というのがあります。

本土では、
『Let's ○○○ with me.』
という意味の
「私と一緒に○○しましょう!」
とか「誘い言葉」ということになると思いますが、
沖縄では「○○します」あるいは「○○致します、○○させて頂きます」
という意味
で、老若男女を問わず、日常生活でよく使います。

例えば、
・ 「そろそろ行きましょうね〜」
・ 「行ってきましょうね〜」
・ 「調べてみましょうね〜」
・ 「袋に入れましょうね〜」
・ 「聞いてみましょうね〜」

また、語尾に「○○さ〜」と『さー』を付けるのは、
「○○でしょ」という意味ですし、
返事をする時に「はい、はーい」と『はい』を続けて2回言うのも、
「分かった」とか「了解したよ」、「じゃあね」という意味で使います。

「はい、はーい」は、電話の最後で使う人が多いです。

イントネーションが伝えられなくて残念ですが、
相手を思いやり、優しくて暖かみのある感じで、
沖縄の良さを表している方言だと思います。
posted by RIUさん at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月14日

ヤツは[エビオス錠]をバリバリ食べる!

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「エビオス錠」というのは、「エビオス嬢」ではなく、
『ビール酵母』を固めた錠剤なんですよね。

エビオスの効能は、主に整腸や栄養補給です。

「ドイツ流・家事の裏ワザ便利帳(PHP研究所)」という本に、
「犬をダニから効果的に開放するには
ビール酵母をエサに混ぜると効果がある」
と書いてありました。

どの程度の効果があるのかは書いてないのですが、
「ビール酵母」は畜産飼料にも配合するし、
ビタミン・ミネラル・アミノ酸が豊富で、
何より人間の健康食品としての実績が長い商品でもありますから、
ヤツ犬に与えても、動物実験や虐待にはならないでしょう。

ヤツ犬には1食に3粒ずつ与えて、そのつど、バリバリ食べています。
食感も気に入っているのかもしれません。

まだ食べさせて3日ですが、何となくダニが少なくなったような気が。

朝方、雨が降ったこともあるし、気のせいかも。
もう少し、様子を見てみましょう。
posted by RIUさん at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | RIUさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月13日

ヤツは“ボギー”か?

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「犬ブログのはずなのに、他の話題ばかりで、ヤツ犬がどうなっているのか?」
というリクエストにお応えして、久々にヤツ犬の登場です。

「ボギー」って、渋くて、粋で、ダンディな、言わずと知れた
『ハンフリー・ボガート』のことですよexclamation

今月末で1歳10ヶ月になろうとしているヤツ犬は、
特別教えてもいないのに最近メキメキと賢くなってきました。

一番下の画像は、ヤツ犬の段ボールのおもちゃ箱ですが、
ヤツ犬が自分で必要なものと、使い終わったものを出し入れするのです。

これって、もしかしたら天才exclamation&question

やはり前世で関係のある人が犬に生まれ変わっているのでしょうかexclamation&question
ヤツのTOYコレクション

先日の夕方散歩で、
ヤツ犬と同じくらいの大きさのデカ犬と鉢合わせしました。

一触即発状態から、向こうのデカ犬は、
なんと、主人の静かな聞こえないくらいの指示で「お座り」状態に。

その横を、ヤツ犬は暴れ馬状態で通過。

意気消沈した、その翌日から
「待て」、「お座り」の猛特訓を実践しています。

今のところ「お座り」は完璧にできて、
散歩やジョギングの人にはパーフェクトなのですが、
犬には3mまでしか我慢できず、ヤツ犬は闘牛のように突進してしまいます。

ヤツ犬が忠義のハチ公に勝てるのは、いつの日のことでしょうかexclamation&question
ヤツは忠犬ハチ公になれるか?


今日のヤツ犬の身体計測の結果
体重 42kg
体高(床から肩まで) 63cm体長(鼻先からお尻まで) 89cm
尻尾の長さ 33cm
立ち上がり最高点(頭の先) 147cm
posted by RIUさん at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | RIUさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月12日

沖縄県の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その3

8月27日 沖縄県の飲酒運転の意識は日本一低い〜その1
9月8日  沖縄県の飲酒運転の意識は日本一低い〜その2


沖縄の“飲酒”に関して、興味深い資料を見つけました。

沖縄県立看護大の今年の卒業論文です。

沖縄と長崎の大学生の生活習慣を調べた調査結果を
基にした内容になっています。

結論として、
「沖縄の学生はファーストフードの利用が多く、
飲酒時間も長い上に、喫煙者も多い」
という、沖縄の大学生は夜型社会の傾向が顕著で
“不健康度”の高さが浮き彫りにされています。

作成者は長崎出身で、
沖縄に住み始めてから外食産業の多さを実感し、
昨年7月に沖縄の大学生230人と長崎の大学生200人に、
「朝食」、「間食」、「運動」、「睡眠」など9項目についての
生活習慣を調べています。

沖縄・長崎とも米軍基地があり、欧米文化の影響についても探っていました。


沖縄と長崎の大学生の生活習慣の比較
1.ファーストフードを週1回以上利用
・ 沖縄の大学生 23.1%
・ 長崎の大学生 6.6%

ファーストフード店は、沖縄119店、長崎64店と沖縄の方が多く、
24時間営業が沖縄8店、長崎ゼロ、だそうです。

沖縄は「子供向けメニューや遊び場併設、ドライブスルーなどに
力を入れており、子連れが利用しやすい環境が整っている」とのこと。

2.飲酒を週1回以上する
・ 沖縄の大学生 40.6%
・ 長崎の大学生 22.1%

平均の飲酒時間は、
沖縄は長崎より1時間遅い午後10時ごろから飲み始め、
長崎より2時間遅い午前3時過ぎに飲み終わる、
という沖縄に電車がないこともあって、夜型社会の傾向が出ています。

飲む場所も、長崎の「自宅」「知人宅」に比べて、
沖縄は「居酒屋」「野外」が多い、とのこと。

「野外」というのは、ビーチや公園などを指します。

3.喫煙する
・ 沖縄の大学生 34.9%
・ 長崎の大学生 20.9%


初めて居酒屋に行った時期
1.小学生以前
・ 沖縄の大学生 30.6%
・ 長崎の大学生 15.3%

2.中学生
・ 沖縄の大学生 17.7%
・ 長崎の大学生 10.2%

3.高校生
・ 沖縄の大学生 41.1%
・ 長崎の大学生 30.7%

4.大学生
・ 沖縄の大学生 10.0%
・ 長崎の大学生 40.9%

5.利用経験なし
・ 沖縄の大学生 0.5%
・ 長崎の大学生 1.7%

「沖縄は飲酒に対して社会的な寛容さが見られる」

「沖縄は長寿のイメージがあったが、
 実際は食生活が健康的ではない面もある」

と分析されています。

すばらしい卒業論文です。

実際、居酒屋には親子連れが多く、
「ファミリー居酒屋」と看板に書いてあるのも、
今まであまり不思議に思わなかったのですが、
これってやはり異常なことだったんですねexclamation

沖縄では中学生になると、
グループで酒盛りを始めたりするのも珍しくなく、
昨年は久米島で中学生グループが飲酒して、屋根に登り、
転落死した事故がありましたが、
その母親が飲酒を黙認したことで逮捕されていましたね。

沖縄では、小さいときから「酒」に身近で抵抗感がなく、
ある意味“訓練”されて慣らされている「下地」があること、
沖縄社会が「酒」に寛容なことと、
飲酒運転の異常な多さというのは、
強い因果関係がある、ということですねexclamation×2もうやだ〜(悲しい顔)
posted by RIUさん at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄といえば飲酒運転 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月11日

スポーツ解説者を斬る!〜競馬編

8月22日 スポーツ解説者を斬る!〜マラソン編
8月23日 スポーツ解説者を斬る!〜野球編
9月9日  スポーツ解説者を斬る!〜柔道編
9月10日 スポーツ解説者を斬る!〜水泳編


フジテレビのスーパー競馬

福原直英アナ(メインキャスター)
左利きのイケメンホスト系ですが、
何年か前にも競馬アナを経験していることもあって、
かなりの競馬通で、落ち着いているし、安心して見ていられます。

大抜擢された新キャスター若槻千夏を、よくフォローしています。

若槻千夏(メインキャスター)
ルパンのあびる優と似ていて、若槻の方が貧相に見えます。

この子の好き嫌いは、はっきり分かれるタイプだと思いますが、
予想外に頑張っている。

回りが温かく見守っていたりするような感じがあり、
若槻自身とちりは多いものの、努力していることは充分伝わってきます。

でも、メインキャスターは、タレントでなくても良いのではexclamation&question

さとう珠緒(以前、メインキャスターをやっていた)
ぶりっ子キャラと違って、実際は男らしい性格という話です。

31歳の年齢では、今のキャラではそろそろ限界かも。

目がドルになっているのも気になりますね。

ホステスに転身すれば金持ちジジイが何人も毒牙にかかることでしょう。

斉藤陽子(以前、メインキャスターをやっていた)
もともと長野だったか?地方局でアナウンサーをしていました。

見るたびに太ってゆきましたね。

競馬の勉強はしないし、馬の名前を覚えないし、
ナルシストで自分だけカッコ良く映れば良いと思っているし、
外されて当然でしたね。

吉野公佳(以前、メインキャスターをやっていた)
性格的には一途に尽くすタイプのようで、
当時西部ライオンズに在籍していた清原とお付き合いのあげくに
ポイ捨てされたことで、拒食症になってしまいましたね。

復帰に時間がかかったと思ったら、
今度は“ネプチューン”のリーダー、名倉潤と半同棲後、
またもポイ捨てされてしまいました。

名倉が、元クラブホステスから強制わいせつ容疑で告訴されて、
警視庁捜査1課と麻布署から書類送検されたころ、
半同棲を解消しているんですよね。

公佳は男運がないのは不幸で同情しますが、
こうも悪い男ばかりに入れ込んで、使い捨て状態にされていると
公佳自身にも何か問題があるのかもしれません。

番組中も、公佳は眠そうで、
やる気がまるでない「かったるい」態度でしたから、
外されてもしょうがないですよね。

梅津弥英子(前回のメインキャスターで、フジテレビの局アナ)
できちゃった結婚?で、現在産休中。

青山学院大学卒業で、
在学当時は「ミス青山」になったくらい美人で頭の回転も速いのですが、
「ソツがない」ことが逆に欠点かも。

鈴木淑子(ゲストで時々参加)
三菱重工業(株)秘書課から競馬ジャーナリストに転出して、
その地位を不動のものにして他の追随を許しません。

いつも帽子をかぶり、上品で高感度が高く、知識も豊富で、
コメントも的確で、嫌う人は少ないのではexclamation&question

ジャーナリストとしてマスメディアに登場する傍らで
執筆活動もしています。

華道(龍生派教授)を始め、多彩な趣味を持っているようですが、
特技が「南京玉すだれ」というのは、ちょっと引いてしまいますね。

吉田均(解説)
フジサンケイグループの記者で、弁も立つので専属解説になっています。

真面目で、知的で、紳士的で、シャイなのですが、
「よろしくどうぞ」
という間違った日本語だけが気になります。

井崎脩五郎(解説、競馬ジャーナリスト)
若い頃、「ホースニュース・馬」という競馬新聞の
データ室にいたことで、競馬のデータは神がかり的に詳しい。

また、それが彼の説得力の根拠になっている。

面白おかしく、いろいろな“法則”を統計的手法で編み出しますが、
的中率は低い。

井崎のメインキャスターが、最も適任と思います。

伊藤利尋(実況アナ)
「めざましどようび」では八塩圭子とメインを組んで司会をしています。

典型的な文科系同好会の宴会バカ騒ぎタイプで、
ハチマキと扇子、タスキが似合いそう。

「アミーゴ」で悪乗りしたり、真面目が似合わない珍しいタイプの局アナ。

「アミーゴ」も現場スタッフに受けているだけで、
松岡修造や島崎俊郎の「アダモちゃん」と良い勝負で笑えない。

競馬中継には不向き、バラエティーの司会に向いている。

とても慶応大卒には見えない。

福井謙二(以前のメインキャスター)
フジテレビのベテランアナ、とんねるずとの番組も持っていましたね。

司会は無難にこなしますが、印象が薄いです。

ネクラタイプで、居酒屋でネチネチとグチったり、
すねたりやっかんだりする典型的なタイプとみたexclamation×2
posted by RIUさん at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の?スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

スポーツ解説者を斬る!〜水泳編

8月22日  スポーツ解説者を斬る!〜マラソン編
8月23日  スポーツ解説者を斬る!〜野球編
9月 9日  スポーツ解説者を斬る!〜柔道編


約1ヶ月前の7月17日〜31日、
世界水泳選手権大会モントリオール2005が開催されました。
その時の解説者を思い出してみましょう。

タレントの優香が単独司会をしましたが、
可もなく不可もなく、ただ無難にソツなく、印象にも残らず終わりました。

人気タレントで、視聴率をGETしようというのは少し古い手法かも。

優香も、水泳のことがよく分かってないのではexclamation&question

司会は局アナで充分でしょう。


松岡修造
絶叫型で、目立ちたがり屋の代表。
・ 「根性」
・ 「必ずやってくれる」
を、やたら繰り返すだけのミーハー的スポーツバカ。

少しでも画面に映ろうとする魂胆もみえみえで、
騒々しくて、見てるだけで腹立たしくなりますが、
そういう“演出”なのでしょうかexclamation&question

この男には、アニマル浜口と同じ霊が憑りついているとしか思えない。

彼が吠えまくっている間は、音声をゼロにするか、
トイレ休憩する以外、対策はありません。

先日“暑苦しい男性”の第1位になった、という報道がありました。
そう思っているのが私だけではないことが分かり安心しました。


実況アナウンサー
アントニオ猪木が現役の頃、
ワールドプロレスには、スタン・ハンセンやアンドレ・ザ・ジャイアント、
ラッシャー木村など個性的な選手がいて楽しかったです。

古舘伊知郎が独特の“”古舘節による実況中継で
面白みを倍加させていました。

プロレス自体はいつしか下火になり、
古舘の実況とプロレスがセットで、何とか持ちこたえていましたが、
古舘が実況中継アナから外れると、
プロレスは一気に急降下してしまいましたね。

その後の実況アナは、ことごとく古舘スタイルを踏襲しているので、
そういう人マネでは、どうやっても“元祖”にはかなわない。

最近の古舘は、
ニュースステーションで口をへの字にして偉ぶって話すように
なっているので、彼の素の性格の悪さが垣間見られるようで
好きではないのですが、
「話す」というのは、1つの技術であって、
かつての有名選手や人気タレント、というだけでは
なかなか難しい世界なのだと思います。

この水泳選手権でもそうでしたが、
「日本選手が現在何位か」
ばかり気にした実況になっていて、
その経過順位もかなりひいき目に言ったりしています。

水泳は8コースでセパレートであっても、
4〜6コースは混戦になっていると、画面ではわかりにくい。

もっと、忠実で分かりやすい実況にしてほしいです。


南原清隆 
ご存知、お笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」です。

2003年からリポーターをしているらしいのですが
全く気づきませんでした。

あまりにも生真面目にリポートするので、
「この人、あちこちで『南原に似ている』って言われているんだろうな」
と思って見ていました。

肝心のリポートはお寒い限りです。

プールサイドで競技が終わった選手へのインタビューをしていましたが、
「どうですか、今の気持ちはexclamation&question
とマイクを向けるのです。

選手が何を答えていいか戸惑うシーンが目立ちました。

実際、何て答えたら良いのexclamation&question

相方の内村光良の女子アナキラーぶりが制作スタッフから嫌われたり、
コンビの芸風に進歩がなく、
お笑いブームで新人に押されたりして、テレビ露出度が激減中なので、
スポーツキャスターへの転出を狙っているようですが、
「真面目過ぎ」がアダになって、返って存在感がない。

“ウリナリ”という番組で社交ダンスを始めて、メキメキ上達し、
1級ライセンスを取得したり、全日本選手権大会まで出場したり、
と一度何かを始めると、相当な凝り性のはずなのですが、
“水泳”のリポートに関しては、今のところは残念だけど失格ですね。

今のままではスポーツキャスターへの道は、相当険しいでしょう。


小谷実可子
画面に登場しても、最初に思うのは、
「誰?」
ということ。

話は決してヘタではないけど、とにかく地味。

タレント井森美幸のお姉さんが、
ボディビルダーになったようにしか見えない。もうやだ〜(悲しい顔)

一流の選手は、一流の監督になれないのと同じで、
残念ながら自らが経験してきたことが活かされていない。

選手当時の当日の精神状態が分かるからこそ、
ウォーミングアップでも静かにリポートしたり、
硬くなってしまうのかもしれませんね。

でも、存在感は薄い。


「元選手がスタッフ」の時代は終わりつつある
               〜スポーツビジネスの専門家育成


スポーツ総合研究所
ブログのページ
サンスポ.COM

(財)東京大学運動部が主催する
「スポーツマネジメントスクール」
というのがあります。

スポーツ界、スポーツクラブ、スポーツ関係団体に求められる
“プロデューサー”の養成セミナーです。

・ 財務・税務
・ 組織管理
・ マーケティング
・ 法務(行政法含む)
・ 広報・PR
など、専門家養成のためのスクール形式セミナーで、
すでに下記のように2回行われています。

・ 第1期 2003年10〜12月
・ 第2期 2004年9〜12月
・ 第3期 2005年10~12月予定
その名の通り「スポーツビジネス」のノウハウを真正面から議論し、
同時に生徒同士で横のつながりも広げようとする試みです。

立ち上げたのは広瀬一郎氏(東大法卒)。

彼は電通で、トヨタカップを成功させ、
ワールドカップ招致委員会を経て、独立。

上記「スポーツ総合研究所」を主宰しています。

この講座には、サッカー、野球などの
プロチームの関係者も多数集まっています。

今年からロッテの企画広報部長になった荒木重雄氏は
第1期の受講者ですし、
ソフトバンクの取締役になった元ロッテの投手・小林至氏は、
講座の講師も務めました。

これまでは、日本体育協会が
アマチュアスポーツ全種目の団体を管理し、
それぞれの競技団体の中で、
指導員やコーチなどの指導者、トレーナー、審判員など
「選手を指導する立場の人を養成」
し、日本体育協会の上に文部省がある、という構図だけでしたが、
ようやく日本にもスポーツビジネスが根付き出してきたようです。

スポーツビジネスをマネージメントと捉えることもそうですが、
選手指導の面でも、中学・高校・大学・社会人と
指導者がコロコロ変わるのも、おかしな話なんですよ。

小泉首相の郵政民営化改革だけではなく、
スポーツ界にも“改革”が必要な時期に来ています。

プロ野球界も、
昨年の近鉄とオリックスの球団合併に端を発した再編問題にしても、
その改革が出来るかどうかは「人材」にかかってきます。

「野球が好きで、
しかもビジネスとして理解している人がどれだけ改革に参加するか」
これだけでも、随分変わるはずです。

出航してきた素人にファンサービスはできないでしょう。

これまで球団フロントと言えば、
選手経験者や親会社からの出向組で、
改革の志なんてとてもムリな人材が占めていましたからね。

それが今年から少しずつ変わって、
外部からの人材が目立つようになりました。

・ ロッテの企画広報部長になった荒木重雄氏
・ 楽天の西村亮広報部長(電通子会社からqの転身)
・ 日本ハムにも広告代理店から転身したサポートスタッフ
まだまだ一部ですが、今後転身組が増えてきそうです。

そうなれば、スポーツがよりエキサイティングになるかもしれません。

現在の“リポーター”は、悪く言えば
「旬の過ぎたタレントや元有名選手の掃き溜め」
だから的確な表現ができないと思うんですよ。

それぞれの種目で、リポーターの“プロ”がいても良さそうですよね。

posted by RIUさん at 08:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の?スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月09日

スポーツ解説者を斬る!〜柔道編

8月22日 スポーツ解説者を斬る!〜マラソン編
8月23日 スポーツ解説者を斬る!〜野球編

「世界柔道」が昨日8日、エジプトのカイロ・スタジアムで開幕しました。

エジプトの柔道と言えば、
1984年ロサンゼルス五輪男子無差別級で、
日本の至宝・山下泰裕が準決勝で右足を痛め、
足を引きずって出場した決勝戦でエジプト人、モハメド・ラシュワンが、
山下の痛めていた右足をあえて攻めずに
1本投げで敗れたことがフェアプレーと讃えられたことを思い出します。

今回、ラシュワンは審判員として参加しているようですね。


三宅正治(フジテレビアナウンサー)
いろいろなスポーツ種目の専門アナで、
「ジャンクSPORTS」や
「感動FACTORYすぽると!」の司会も行っています。

真面目で出しゃばらず地味すぎるので、存在感が少し薄いが、
司会は上手で安心して見ていられます。

藤原紀香(メインキャスター)
格闘技好きらしく、K‐1には必ず出てきますが、
何と柔道にも出てきました。

柔道のことはさすがによく理解できていないようで、
もっぱら高感度を上げることに精一杯の様子です。

それが返ってわざとらしく見えてしまいます。

旬を過ぎたタレントは、その後の仕事確保に懸命です。

紀香もドラマで主役を張ることは
年齢的にもムリでしょうし(「大奥」に出るらしいです)、
スポーツキャスターに狙いを定めているのでしょうが、
だったら、各スポーツ種目を、
さわりの部分だけでも自身で実際にやってみるとかが
必要ではないでしょうか。

キャスターをやるにしても、
いきなり国際級をやるのではなく、
日本選手権や都道府県選手権、その下のブロック大会、
中高生の大会などにも顔出しして、
その競技をもっとよく知る努力をしないと、
何を言っても説得力がないです。

「スポーツキャスターの地盤を築いた上で他の仕事を確保したい」
というのは理解できますが、
紀香が出ていても出ていなくても、
特に影響がないと思われるような出方をしていると
返って拒否反応が強くなってしまいます。

こういうサイトがありました、参考まで。
「現場へ急げ!」スポーツ中継に芸能人は必要なの?

加藤晴彦(メインキャスター)
紀香以上に、起用への疑問が強い。

なぜ加藤がキャスターなのかわかりません。

加藤は、ラブワゴンの「あいのり」のレギュラーで、
涙を流す役目の印象しかないのですが、
スポーツとの関わり合いも感じられず、
なぜ国際柔道のメインキャスターなのかが理解できません。

案の定コメントも冴えず、ただ騒ぐだけで見苦しいです。

感じられたのは、
紀香と共に「高感度を上げたい」ことに一生懸命なことだけです。

TV局側も、タレントを客寄せパンダと思っているのか、
単なる“飾り”としてなのかわかりませんが、
タレントは必要悪だと気づくべきでしょう。

小倉智昭(ゲスト?)
朝の「とくダネ」の司会なので、
この時間帯は眠いのか、
テーブルのはじっこがお気に召さないのか、
1杯飲んで良い気分なのかわかりませんが、
いつもの陰険そうなオーラが感じられませんでした。

「泉谷しげるみたいな親父が出ているな」
と思ったら、小倉でした。

いつものカツラと違って、ベタっと頭に載せたような感じだったので、
彼が画面に映るたびに頭ばっかり気になって見てしまう。

海草が頭に載って海からはい上がってきたようにしか見えない。

シドニー五輪の時も現地に取材に行って、
おてもやん(=やわらちゃん)や高橋尚子を応援していたようだけど、
成田に到着して、「とくダネ」にギリギリ間に合わせるために
自分が運転する渋滞道路の車の中でカツラを合わせていたらしく、
1cmくらい浮いた状態でTVに出てしまったという
エピソードを思い出してしまいます。

この時は、スタッフさんたちは全員その異常事態に気づいていながら、
日ごろの仕返しに見て見ないフリを決め込んでいたんですよね。

とにかく、昨日の小倉はキレがなかったですね。

彼から陰険さを取ったら、ただのひねくれ親父でしかありません。

篠原信一(コメンテーター)
わかりやすく的確にコメントしていたし、
熱くならず冷静に試合を見ているし、なかなかの好印象でしたね。

阿武教子(コメンテーター)
世界柔道では大阪大会まで4連覇を成し遂げた王者の
貫禄がにじみ出ていましたね。

実力bPなのに、なぜか五輪では不運でしたよね。

篠原と同様、出しゃばらず、的確なコメントで好印象でしたよ。

古賀稔彦(コメンテーター)
平成の三四郎で、素人にわかりやすい解説で好きなのですが、
昨日は解説しているところを見ませんでした。

山口香(コメンテーター?解説?)
全日本女子体重別選手権大会10連覇、
1984年世界女子柔道選手権大会優勝、
1988年ソウル五輪では銅メダルを獲得して、
今や日本女子柔道の中心的な指導者になりましたね。

コメントは、もう少し、あと一言、二言余分に話した方が良いかも、
というくらい静かなものでしたね。

昨日は、タレント2名の高感度UPアピールがイヤで、
「試合」以外は、本を読んでいましたので、
解説者やコメンテーターの話をよく聞けませんでした。
posted by RIUさん at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の?スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月08日

沖縄県の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その2

参考:8月27日 「沖縄県の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その1」

昨年度の沖縄県内の飲酒運転摘発件数は9360件、
免許人口1000人当たりで見ると、
全国平均の約6倍に当たる「11.55件」で、
ぶっちぎりの断然トップなんですね。

沖縄県内の市町村別飲酒運転摘発件数ワースト10
(免許人口1000人当たり、今年1〜6月・上半期、県警交通部データ)
1位  東村   9.40件(昨年上半期は47位)
2位  佐敷町  7.34件(昨年上半期は22位)
3位  北谷町  6.83件(昨年上半期は5位)
4位  下地町  6.61件(昨年上半期は31位)
5位  嘉手納町 6.57件(昨年上半期は2位)
6位  大宜味村 6.53件(昨年上半期は25位)
7位  知念村  6.50件(昨年上半期は3位)
8位  国頭村  6.43件(昨年上半期は1位)
9位  城辺町  6.36件(昨年上半期は46位)
10位 大里村  6.32件(昨年上半期は11位)

那覇市や豊見城市などの都市部ではなく、
ローカル地域と都市部周辺が、みごと?ランクインしました。


県警交通部による分析では、
・ 摘発された人の36.2%が居酒屋で飲酒している
・ 居酒屋の少ないローカル地域の人が、
車で都市部まで酒を飲みに出かけ、そのまま車で帰ってしまう
という判断をしていますが、
警察官だって飲酒運転をしているくらいですからね。

沖縄県には電車がないので、どうしても帰りの「脚」は車になるんです。

そういう意味では、沖縄県人は
「飲酒運転を甘く見ている」
のもあるのかもしれません。

酒気帯びの検問もめったに行われないし、
行われるにしても、事前に場所や時間を予告されることが多いですし、
万一摘発されても「罰金」や「免許停止」で済む、
と思っている人も多いです。

一番多いのは、
「摘発されることはない」
「今日は大丈夫」
と思っているんですよ。

私もそうでしたから。

実際には、飲酒運転をきっかけにして、
「運転手」の仕事ができずに会社を辞めることに至ったりするケースも
多いらしいです。


県警の具体的対策
・ 摘発された人が飲酒した居酒屋に指導書を渡す
・ 飲酒者にはタクシーや運転代行で帰宅させるように協力を要請する
・ タクシーや代行運転の運転手に、
  酒気帯びらしい車を見かけたら通報するように協力を要請する

なかなか手ぬるいですよね。


摘発件数ゼロの花マル市町村
(カッコ内は、平成17年8月1日現在の人口)
・ 伊是名村(1757人)
・ 粟国村  (984人)
・ 北大東村 (656人)
・ 渡名喜村 (509人)

やっぱり、人口の少ない離島だけでしたね。もうやだ〜(悲しい顔)
posted by RIUさん at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄といえば飲酒運転 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月07日

沖縄移住ブームの検証〜その5

9月1日が関東大震災が発生した日だったことで、
「沖縄移住ブームの検証」を中断したことを忘れていました。

沖縄移住ブームの検証〜その1
沖縄移住ブームの検証〜その2
沖縄移住ブームの検証〜その3
沖縄移住ブームの検証〜その4


住むなら那覇などの市街が無難

ローカル地域は、全国どこでもそうだと思いますが、
特に沖縄は血縁、地縁が強い地域です。

毎日の付き合いはもちろん、集落の寄り合いや行事、
共同作業など地域密着型の濃厚な人間関係を
面倒がらずに出来るかどうかが、
長期沖縄暮らしの成否のカギを握る大きなポイントになるでしょう。

沖縄人は、
「温かくて開放的で、誰でも受け入れる」
というイメージが強いですが、実際にはかなり閉鎖的です。

初対面の相手に対しては、最初にまず注目するのは
「ウチナー」か
「ナイチャー」か
の判断です。

顔や話し方、苗字などから地元民でないと判断されると
「ナイチャーですか?」
と聞かれます。

北海道から九州までの本土の人間を全て「ナイチャー」と呼び、
差別することにも沖縄人の視野の狭さが表れているのかもしれません。

それを「島国根性」と揶揄(やゆ)されるかもしれません。

「地元民と移住者との間に存在する大きな断絶の原因を
作っているのは地元側」、という考え方もあるでしょうが、
8月30日検証3での記述のように、
純朴な沖縄人は本土の人間から今まで再三にわたり騙され、
利用され続けて来ている歴史があるので、
どうしても一線を引いて、警戒してしまうんですよね。

現在、川崎市に約1万人、横浜市鶴見区に約3万人、
大阪市大正区に約2万人など沖縄出身者が多く生活をしている地域があり、
最近の沖縄ブームで「リトル沖縄」などと言われていますが、
もともと1910年代〜1950年代にかけて、
本土の工業化で、出稼ぎや移住した沖縄人が、
標準語を話せないことで、随分差別をされたことで、
“守る”意味合いでまとまって住むようになったことが始まりなんです。

東北地方の「ズーズー弁」も差別の対象になり、
山形県の人たちや秋田県など東北なまりの強い人たちも、
東京近郊で出身地域ごとに、まとまって住むようになっていました。

こういう歴史があるので、
どうしても特に中高年者の中には、
本土の人を心の中でよく思わない人が存在するのも事実なんです。

それとは別に、
沖縄の人のもともとの純朴さ、優しさ、情の深さに触れると、
それは本土の都会では忘れ去られたものが、ここにあるような気になり、
とても安らぐはずです。

海風が運ぶミネラル豊富な空気を吸い込めば、
たちまち健康になることでしょう。

今どき、公園や道路で無邪気に走り回る子供たちを見れるのも、
沖縄くらいかもしれません。

沖縄に暮らすとなれば、
沖縄独自の伝統、文化、風習、常識に馴染めない場合も多々あるでしょう。

どこの地域にもありがちなのですが、
特に沖縄は地域コミュニティーの結束が強く、
外部のものには排他的なところがあります。

この傾向はローカル地域に行けば、行くほど強くなります。

転勤で短期間しか沖縄にいない人や、
沖縄に移住したけど、すぐに嫌になって本土に戻ってしまう人も多く、
「この人はいつまで沖縄に居るのだろう?」
という目で見られていることが多いのも事実です。


「沖縄に来てどれぐらい?」
「転勤で来たの?」
「奥さんは沖縄の人?」
「いつまで沖縄にいるの?」
等もよく聞かれる言い回しです。

これらの質問は、
「一時的に沖縄に来ているかどうか」
を確かめる質問です。

この手の質問には
「沖縄が好きで移住して来た。ずっとここに住むつもり、沖縄は最高さ〜」
と会うたびに答えると、
沖縄の人たちとの心の距離はずっと縮まるでしょう。


不動産賃貸について
那覇市内のマンションの賃貸料は、
2LDKクラスで5〜7万円、駐車場代、管理費なども併せると
6〜8万円前後でしょう。

本島北部では、戸建て3万円という格安物件もありますが…。

沖縄というと、青い海の見える物件を探したくなりますが、
建物が潮によるサビで汚かったり、交通的に不便であったりしますので、
あまりお奨めできません。

ローカルな地域で、高台の戸建てで海が見える、というと
毎年の台風のたびに大変な恐怖を味わい、寿命を縮めることになりますよ。
本土に襲来する台風より、沖縄に来るときの方が強烈ですから。

また、ローカルな地域であればあるほど、
毎日の買い物や銀行、郵便局、病院などに
不便になることを覚悟しないとダメです。


市町村の受入れ促進制度
過疎の村では、移住を奨励している地域があります。

年度によっても違いがありますが、正確な情報は
沖縄県庁より、沖縄県内の市町村役場の総務課に
直接PS‐Mailや電話などで問い合わせると良いでしょう。

2年前には、「定住促進制度」が、
・ 本島北部・大宜味村(シークヮーサーの名産地)
・ 宮古郡・多良間村
  (宮古島と石垣島とのほぼ中間の人口約1400人の離島)
・ 宮古郡・上野村
  (宮古島の南側に位置し、ドイツ村のあるところ)
でありました。

宮古郡・伊良部町(、宮古島の隣の島)では、
促進制度は昨年休止したようです。


沖縄で農業をやってみたい人
沖縄は亜熱帯気候で、基本的に夏場は休耕にして、
10月〜5月の本土の裏作時期が農業の時期になります。

農地や作物選定などは「沖縄県新規就農相談センター」に、
直接PS‐Mailや電話などで問い合わせると良いでしょう。

お上意識が強いので、早い回答や親身な対応は、
あまり期待しない方がよいかも。

県内市町村の「農業委員会」に電話などで相談してみても良いでしょう。
こちらも、親身な対応は期待薄だと思いますが。

全国的に捉えれば、
沖縄は新規就農がやりやすい環境に置かれているかもしれませんが、
本当の話は門戸は狭そうです。

沖縄に定住後、
現地に親しい人ができれば、
この人のコネで土地を借りる方が、早く良い場所が確保できるはずです。

一般論ですが、
いくら休耕地であっても、農家は先祖代々の大事な農地で、
しかも条件の良い場所は、全国的に絶対に貸さないはずです。

条件の悪い土地(水が出ない、形が悪い、遠い、傾斜地など)を
貸してもらえる可能性はあるはずです。

最初は、そういう土地でもやって行く心構えができるかどうかです。

また、栽培・収穫した作物をどうしようとしているのかも
考慮しないとダメです。

農地を借り小作になってJAの組合員になっても、
土壌改良と栽培で肥料を買わされ、
雑草除けだと言って除草剤を買わされ、
収穫できてもA品しか引き取られないし、
市場相場での買取価格で、
しかもJAからの支払い精算はだいぶ後ですから、
このパターンでは先行投資ばかりで、資金繰り難に陥るし、
まず収益性はないと言えます。

JAとは関係なく、独自に販売先を見つけるような
考え方をしないと難しいかもしれません。

安易に
「農業でもやってみるか」
という考えでは、失敗する可能性は大だと言えそうです。


沖縄で起業してみたい
沖縄県庁・商工労働部の出先機関である沖縄県産業振興公社で、
起業相談を受けています。

まず、ビジネスプランを作成した上で、相談してみて下さい。
ここは、対応は柔らかいのですが、レベルは低いです。

沖縄では、プランの真贋を見抜く眼力を持つ人には
まずお目にかからないのですが、
この産業振興公社公社もほとんど期待できません。

起業しての成否より、起業手続きに関しての相談に近くなると思います。


まとめ
「沖縄でこういうことをしてみたい」
という夢を持って、ぜひ沖縄の良さを堪能してほしいと思いますが、
「本土のやり方で沖縄を変えてやろう」
とする考え方は、相手にされない可能性が高いです。

むしろ、
「こういうことをお手伝いしたい」
という謙虚な気持ちでいる人の方が受け入れられると思います。

このあたりをヒントにして下さい。

そして、いきなり移住するのではなく、
ウィークリーマンションやマンスリーマンションを借りて、
家探しをしたり、沖縄で暮らせるかどうかの
見極めをしたりするべきでしょう。

まずは、リハーサルから始めるテスト定住をお奨めします。
posted by RIUさん at 08:29| Comment(1) | TrackBack(1) | 沖縄といえば“移住ブーム” | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月06日

海に囲まれた沖縄のプール事情

海に囲まれた沖縄ですから、
沖縄人はさぞかし水泳が得意と思われるかもしれませんが、
人口10万人当たりの公共プール数は
2.13と全国44位なのです。

沖縄のプールというと、学校のプールかリゾートホテルのプールは
思いつきますが、民間の大規模なプール施設はどこかにあるのか、
思いつきません。

本土では、小・中学校・高校では、
ほとんどの学校にプールがあると思いますが、
沖縄では1972年の復帰後から徐々に設置され始めました。

そのため、まだ全ての学校にはプールはありません。


平成16年度の沖縄県内小・中学校でのプール設置校は下記の通りです。

本島北部地区
小学校全61校中、プール設置校は23校、設置比率37.7%
中学校全31校中、プール設置校は10校、設置比率32.2%

本島中部地区
小学校全77校中、プール設置校は62校、設置比率80.5%
中学校全42校中、プール設置校は26校、設置比率62.0%

本島南部地区
小学校全86校中、プール設置校は71校、設置比率82.6%
中学校全51校中、プール設置校は34校、設置比率66.7%

宮古地区
小学校全22校中、プール設置校は17校、設置比率77.3%
中学校全18校中、プール設置校は 6校、設置比率33.3%

八重山地区
小学校全35校中、プール設置校は11校、設置比率31.4%
中学校全21校中、プール設置校は 5校、設置比率23.8%

沖縄全体
小学校全284校中、プール設置校は184校、設置比率64.8%
中学校全163校中、プール設置校は 81校、設置比率49.7%

都市部ほど充実され、過疎地域ほど後回しになっていることが
分かります。

沖縄では石垣島、宮古島、伊是名島などで
トライアスロン大会がありますが、
最初の「水泳」がネックになって、
沖縄人は参加するより、もっぱら応援が中心とならざるを得ないのです。

そのため、コース沿線での応援はとびきり熱いのです。
1つのお祭りなんですよ。

沖縄は紫外線が強いために、
夏場は特に用事があるとき以外は外に出ない習慣になっています。

ビーチに行っても、
Tシャツを着たまま、海に浸かる沖縄人は時々見かけますが、
原則として沖縄のビーチで水着を着ているのは、
本土からの観光客と断言できるでしょう。

そもそも、漁師や釣り人、海岸線で海草やタコ、貝類を採る人、
引き潮で遊ぶ家族連れ以外で、海に入る人は少ないのではexclamation&question


那覇空港の隣で、飛行機を着陸寸前で見れる瀬長島では、
・ 弁当を食べるために休憩している人
・ 営業者で仕事をサボっている人
・ ビーチパーティをするグループ
・ 花火で遊ぶ人
・ 犬を捨てる人
・ 犬を散歩させる人
・ アベック
などは車で来ていますが、
ビーチでパーティをしたり、遊んだりする以外は、
せいぜいゴミや飼い犬の投げ捨てに降りるくらいで、
なかなかビーチには出て来ません。

1972年の復帰時に小学校を卒業した、現在45歳以上の人では、
「カナヅチ」は相当多いのではないでしょうかexclamation&question

本土では恥ずかしく悲しい「カナヅチ」ですが、
沖縄では「隠れカナヅチ」はいませんし、
「カナヅチ」自体、恥ずかしくないので、堂々としています。

「オレ、泳げないんですよ」
と、平気な顔して堂々と言われると、
電車男が「オタク」を趣味として、
堂々と発表する勇気ある行動と重なって見えていまい、
「泳げないのはおかしい」
と思っていた私の方がよほどおかしい、ということが分かりました。


「カナヅチ」が多い沖縄人でも、船舶免許を持っている人は多いです。

石を投げれば、必ず船舶免許を持っている人に当たるほどです。

趣味で「“釣り”に行こう」と言われると、
普通は岸壁や岬、乗合いの釣船をイメージしますが、
沖縄では個人の小船を所有している人がいて、よく海に連れ出されます。

若者では、ジェットスキーをグループで所有しているのも、よく耳にします。

となると、沖縄では泳げる人と泳げない人が、
はっきり「2極分化」しているのでしょう。

沖縄で必要なのは「プール」より「クーラー」なのかもしれませんね。
posted by RIUさん at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月05日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その5

埼玉県における朝鮮人虐殺(大里群熊谷町を中心)−2

熊谷町へー柳原地区への引継ぎ
佐谷田村から熊谷町に入って
最初の柳原(現・曙町)地区の自警団に引き継がれる。

ここの役員は朝鮮人が疲れているのを見かねて住居の庭で休ませ、
ささやかな飲み物や食事を与えている。

蕨からの町送りの途中で確認できる
ごく稀なきちんとした休息であった。

休憩したのは現在の熊谷市曙町3丁目あたり。
近くには廃社になってしまった白山神社があった。

村部自警団の人間の中には
朝鮮人に同情や優しさを見せる者があったが、
熊谷町柳原地区の住民の優しさはその中でも特別のものであった。

皮肉なことに朝鮮人たちはその柳原の休憩から出た後すぐに、
熊谷町中心地区の自警団に引継ぎされる直前、
その自警団らに熊谷駅近くで襲われ、集団虐殺されることになる。

柳原の休憩が朝鮮人たちにとって最後の人間らしい扱いであった。

スタートの蕨から熊谷までは約50km、約30時間を
ほとんど休憩もなく歩いてきており、
途中に逃亡、虐殺、列車に乗せようとした駅での混乱、
小型トラックへの積込みなどを繰り返しのながらの悲惨な行進である。

護衛する側は自分の担当区間だけ送ればよく、
いきおい担当区の中で問題が起きなければそれでよく、
できるだけ早く次の区へ送り責任から解放されることを考え
休憩時間や食事時間の配分や気配りはしないし、
また担当が小刻みに代わる町送りだとそれができない。

そうした無計画な移送の結果、朝鮮人は疲労、ストレスと共に、
移送自体への不安、不信感が極限に達して逃亡を図ることになり、
逃亡者の虐殺の原因の1つは「町送り」という方法にあったと言えよう。

熊谷町柳原地区の自警団に護送された朝鮮人が
熊谷町の中心部へさしかかろうとした時、
熊谷町の中心部の方から群集となった民衆が手に手に武器を持って
「熊谷町中心部へ入れるのを阻止」
しようと押し寄せてきた。

引き継ぐはずの熊谷町中心部の自警団がすでに暴徒化していた。

自警団だけでなく、やはり暴徒化した熊谷町の一般町民が
多く加わっていた。

群集は一旦暴走し始めたら、留まるところを知らない。

そして熊谷町中心部入口で熊谷町最初の殺りくが行なわれた。

おとなしく送られてきた無抵抗の朝鮮人に民衆が集団で襲いかかり、
残虐な牙を向けたところに熊谷の虐殺の特徴がある。

朝鮮人たちが縛られて移送されていたかどうかについては、
目撃談がまちまちではっきりした資料は残されていない。

・ 朝鮮人たちが縛られていなかった、との証言
  「久下村では朝鮮人は縛られてはいませんでした」
  「布団を背負った人、子供を負ぶった人、学生、女の人
   …縛られてはいなかった」

・ 朝鮮人たちが縛られていた、との証言
  「久下村で軽く荒縄で縛られていたようです」
  「朝鮮人は太いロープで縛ってあるのでもう逃げられません」
  「角帽学生、女の人、子供。軽く荒縄で縛られていた」
  「ロープで縛られていました」
  「縄でひとかたまり」
  「護送された朝鮮人たちは縛られていて、
   食い物も食うような食わないような状態で、
   ここまで歩いてきました」
   
   角帽は留学していた大学生の帽子か。
   小突き回されながら、暑い中、そして強行軍の中でも
   角帽を被り続けてきたのは、
   「自分は不逞の輩ではない」
   ということを懸命にアピールしていたのではないか。

   日本の大学の制帽が自分を守ってくれると
   信じていたのかもしれない。
   もちろんこの学生も熊谷か、
   他の場所で惨殺されている(角帽も確認されていない)。

   久下村から佐谷田村へ引き継がれる時に
   何人かがトラックに乗せられ、熊谷方面に走り去っている。

   そのトラックは本庄警察署で襲われたものであると考えられるが、
   本庄の死体の中に帝国大学生がいた。

   角帽を被った学生というのは、
   この帝国大学生であったかもしれない。

   この帝大生は、若い妻と一緒に惨殺されていた。

・ 熊谷町入口での集団殺りくの後、
  そこで運良く殺されなかった朝鮮人たちは、
  熊谷町中心部である筑波、本町に引き渡されている。

  周りを固められただけでなく、集団が数珠つなぎに、
  中には針金で縛られたり、後ろ手で縛られたりしている。


熊谷町の虐殺
現在のJR高崎線熊谷駅近くの
ショッピングセンター・ニットーモールあたりで、
当時周りを自警団に囲まれておとなしく歩いてきた朝鮮人に対し、
町の中心部から自警団、民衆が嬌声を上げて
大挙して襲いかかり殺りくした。

そこで20〜30人の朝鮮人が殺されたのが熊谷町虐殺の第一幕である。

その20〜30人の死体は、
荒川土手下の共同墓地に運ばれ埋められたが、
今ではその共同墓地はなくなっているという。

「翌朝(9月5日)自転車で熊谷中学(現・熊谷高校)へ行く途中に、
 沢山の死体を見ました。
 一番多かったのは、秩父線の踏み切りの手前
 (線路の南側、現・マンションが建っているあたり、当時は砂利置き場)
 でした。
 のど笛が切られて血の塊が出ている人、
 肩から袈裟懸けに切られている人、
 頭に穴を開けられている人などがいて、
 そこに犬が数頭たむろしていました」

町中心部への入口あたりの虐殺場所近くには、
荒川河川敷で採取した建築資材用の川砂利を仮置き場とした
砂利置き場があり、そこが一時的な死体置き場となっていた。

砂利は、採掘現場の荒川河川敷から熊谷駅近くの砂利置き場まで
トロッコで運ばれていた。

そのトロッコが土手下の共同墓地の脇を通っていたので、
死体はトロッコで墓地まで運ばれた。

共同墓地に運ばれた死体は、面倒くさく急いで浅く埋めたので、
すぐに腐敗臭がひどくなって周りが耐えられなくなり、
数日後には掘り返されて、改めて火葬されたと言われている。

 「死んだ人達は、荒川の土手の脇にあった共同墓地に埋められました。
  暑い時だから死体が腐って、穴の中がぶつぶつ煮い立ちました。
  その臭いは誠に臭いので、誰もそばを通れなくなりました。
  …焼いたのは、埋めてから一週間経ってからでした」

熊谷町入口では、もちろん朝鮮人たちは、
なすがままにおとなしく殺されたのではない。

反抗こそしなかったが、必死で逃げようとした。

しかし、蕨からほとんど休憩もなく歩かされてきており
疲れ切った身体で、しかも西も東もわからない土地で
逃げ切れるはずもなく、
その場を散り散りになって逃げた者は
例外なく全員が町のあちこちで惨殺された。

殺害された正確な人数は現在でもわかっていない。

それを明らかにしようとの動きは、民間の
「関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼実行委員会」
が行った調査以外には全くない。

行政などは、むしろ
「臭いものには蓋」
の態度を取り続けてきている。

熊谷に至るまでの道中では、逃走しようとしたから殺されたが、
熊谷では逃げようとしたわけでもなく、
大人しく反抗もせずに引き渡された者も虐殺にあっていた。

朝鮮人たちを縛ったことは、
襲撃した自警団を統率していたはずの熊谷町消防組の
組頭・黒田蔵之助も後に法廷で証言している。

 「数珠つなぎにしたのは、そうしなければまたもや逃走し、
  さらに混乱して、朝鮮人が危険にさらされるとの配慮があったから」

だと後に弁明するのだが、
おとなしく引致されてきた者を集団で襲い、
有無を言わさず殺している者たちに
そのような人道的配慮があったとは到底思えない。

何より証言によれば、
針金によって数珠つなぎにされていただけでなく、
背中に何本もの竹槍を刺されていた朝鮮人もいたという。

中心部入口における殺りくに加わった民衆は、その興奮を押さえきれず、
そのまま市街地へ持ち込んだ。

彼らは血が付いた刀、竹槍、棍棒を持って、逃げた朝鮮人を探し、
見つけ出しては殺す、そこには自警のかけらもない。

狂気に支配されたとはいえ、血に飢えた狼が獲物を捜し求め、
狩りを楽しみ、見つけては殺りくを楽しむ、という様相である。

殺りくは逃げた朝鮮人だけでは済まなくなり、
おとなしく数珠繋ぎで連行されている、
拘束されている朝鮮人へも攻撃の刃をむけるようになった。

手を縛られたまま逃げる者、それを追いかける男。

おとなしく縛られたままでいる朝鮮人、
それを引っ立てて刀の試し切りにする男。

薄暮れ、そして暗闇の中で殺りくのし放題であった。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものである。

高崎線の踏切を渡り、真直ぐ進むと筑波である。

この筑波において、また警察署附近
 (現在の熊谷警察署は市街地のはずれに移転、新築されている。
 当時の警察署は本町4丁目、町の中心部にあった)
において、熊谷寺内で、そして逃げまどった先で多くが殺された。

どの場所もこっそり殺害する、というような場所ではなく、
今で言うメインストリートに面した繁華の場所である。

 「中家堂」(熊谷の老舗の製菓販売店、現・本町2丁目)のあたりで
  見ていました。
  朝鮮人を列から引きずり出して殺すのです。
  警察は別にとがめませんでした。
  …その時、私の眼の前で、日本刀を持ってきた人が
  『よせ、よせ』と言うのを振り切って、
  日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。
  …『こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからない』
  と言って斬ったのだそうです」

 「小比木園の所
  (熊谷老舗の茶店、現・本町1丁目、本町は宿場の頃から中心部)
  で、縄で縛られて護送されている朝鮮人に出会いました。
  …忘れられないことは
  …朝鮮人の背中にみんな竹槍が刺さっていたことです」

 「…朝鮮人たちが中仙道から前の道に入ってきました。
  みんな汗を流して、真っ黒な顔で、日本人に結わえられていました。
  日本人は胴を結わえて、1人の朝鮮人をもっている人、
  手と足をそれぞれ結わえて引っ張る人といました」

 「熊谷寺では、生から死まで見ました。
  寺の庭では1人の朝鮮人を日本人がぐるっと取り巻いたグループが
  5つほど出来ました。
  そして殺すたびに
  『わあ、わあー!』
  『万歳、万歳!』
  と歓声が上がるのです」

 「翌朝(9月5日)自転車で熊谷中学(現・熊谷高校)へ行く途中に、
  沢山の死体を見ました。
  一番多かったのは、秩父鉄道の踏切の手前
  (線路の南側、現・マンションが建っており
   当時は砂利置き場になっていた)
  あたりです。
  …人数は20〜30人いたでしょうか、はっきりしません。
  その他多かったのは、皮肉なもので、熊谷警察のあたりです。
  本町3丁目から4丁目にかけてです。
  それから熊谷寺の前にもありました」

 「この大原墓地へは、熊谷署周辺と熊谷寺で殺された死体を
  運んできたのだと思います。
  翌日(9月5日)火葬場で働いていた竹さんが荷車に積んできました。
  当時は、佐渡で巡査だった鈴木さんという人が、
  熊谷寺の留守番をしていました。
  その人が焼くのがうまいので教えてもらい焼きました。
  薪を積み、石油をかけ、コモをかけて焼いたのです。
  穴を掘ったり、焼く仕事は竹さんがやりました。
  …立ち会ったのは竹さんと鈴木さんと私だけです。
  …焼いてしまうまで憲兵が4,5人この周りを
  昼も夜も巡視していました
  …暑い時だから死体は臭くなるし、ひどい殺し方でした。
  袈裟懸けに切ってあったり、傷だらけでした。
  死体はみんな針金で手を縛られたままでした。
  だから人にはみせられないですよ。
  当時、火葬場はあったのですが、
  あまり死体の数が多いので、穴を掘って焼いたのです」

熊谷町で虐殺された朝鮮人の数は、もちろん正確にはわからないが、
60人以上と伝えられている。

町の中心部に入って殺された死体は、
町の新井助役たちによって大原地区に運ばれ野焼き焼却されるが、
焼却に当たった火葬雇いは
「あの時、焼いたのは全部で48個の死体です」
と新聞記者の取材で述べている。

事件後間もなくの取材であり、
また当時の火災雇いは、組合の定雇いであり、
火葬した数で手当てが決まっており、
その数には信憑性があり正確と言ってよい。

その大原で野焼きにされた後に、
最初に共同墓地で埋められた数と、
その他の場所で殺された数を加えたものが
熊谷町で殺された総数ということになる。

すなわち「48+20〜32、33」=68〜81人が
熊谷で虐殺された朝鮮人の推定値である。

殺された人数すらはっきりわかっていないのだから、
名前、年齢、性別、職業、住んでいた住所
(日本、それ以前の朝鮮での出身地)などは何も残されていない。

朝鮮人は移送されてきたとき、
多少なりとも財産や荷物を持っていたと思われるが、
身元の手がかりとなる遺品の行方は全くわからない。

死体と一緒に焼かれたのか、民衆に強奪されたのか…


熊谷以外の県北の推定殺害数は以下の通りである。
・ 神保原−加美村3人
・ 神保原−神保原村39人
・ 本庄100人以上
・ 寄居1人(地元朝鮮人の飴屋)
・ 児玉1人(報道・検挙なし、群衆によって虐殺)
・ 深谷1人
  (群衆が踏切を止め殺害したが、列車事故での死亡にすり替えられている)



死体を片づける人
熊谷は1日にして狂気・虐殺の町からエゴの町に変わっていた。

死体はそのまま町に放置され、暑さですぐに腐敗しはじめ、
ウジもわき激しい腐臭を発散し始めた。

ますます人は近寄らなくなる。

「町を守れ」と絶叫していた連中も、
日ごろ「町のため」と口にしている旦那衆も、
誰も町内に捨てられた死体を片づけようとしない。

近づくのは死肉をあさるカラスと野犬だけ。

死体はさらに無残にちぎられ、カラスや野犬を追う者さえいなかった。

死体を集める者は、わずかに組合常雇いの火葬人夫だけであった。

死体は町の北に位置する大原地区(現・大原霊園)あたりに運ばれた。
現・大原霊園の中に、境内で朝鮮人が虐殺された熊谷寺の墓地もある
(虐殺されたのは大原墓地ではなく、町の中心部にある寺の境内)。

この熊谷寺の墓地の一角に、
震災時に熊谷町で虐殺された朝鮮人犠牲者の供養塔がある。

町の人間が誰も手を貸してくれない中、
火葬人夫を指揮し、死体を片づけた男がいた。

それは当時の熊谷町助役・新井良作であった
(彼は後に熊谷市長になる、1933年、昭和8年4月1日、
 町から市に昇格した時の最初の市長であった)。

この新井が市長として、
後に大原霊園の中に朝鮮人犠牲者の供養塔を建てたのである。



殺されなかった人たち
1999年(平成11年)11月19日、朝日新聞で
91歳になる在日朝鮮人の女性が
朝鮮人虐殺についての証言を報道している。

 「[証言者;文さん]は13歳のときに両親と共に来日。
  東京・大井町の長屋に住み、紡績女工として働いていたという。
  文さんによると、1923年9月1日の震災直後は、
  近くの親類と大家の庭にムシロを敷いて寝ていた。
  翌日には『朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ』などの流言が飛び交い、
  大勢の日本人が日本刀や竹槍、鳶口を持って
  『朝鮮人は皆殺しだ』と文さんたちの所にもやってきた。
  このとき大家が
  『この朝鮮人たちは何も悪い事をしていない。
   昨日もずっと私たちと一緒に居た』
  とかばってくれた 」



熊谷町の例
 「熊谷町の熊谷絹紡会社には、
  朝鮮人・金南斗ほか5名の女工が雇われていた。
  流言粉粉として起こり中仙道一帯物騒がしくなって、
  朝鮮人の身辺危険とみた会社では
  可憐な朝鮮人女工の身に変事があってはならぬと、
  工場主任…に手配させることにした。
  朝鮮人一同に日本服を着せなどして、
  なるべく人目にふれさせないようにしていた。
  ところが9月4日に熊谷町で騒擾(そうじょう)事件が起こり、
  常軌を逸した民衆は日に幾回となく会社にやってきて
  朝鮮人の在所を探索しようとした。
  …万一にも群衆が物置に朝鮮人の居ることを
  嗅ぎ付けるようなことになったら、すぐに他へ移す手筈を決め、
  ただ気を配っていた。」
             (中島 司「震災美談」私家版、1924年)

上記2件の例から、
当時では「勇気ある行動」と言えるが、
例え差別的な関係があったとしても、
「日本人と朝鮮人との間に一定の日常的な人間関係が成立していた」
ということが推察される。



殺された貧しい飴売りー寄居事件チンチン飴売りと先の助けられた製糸女工たちとは
日本人と一定の人間関係があったことは共通しているが、
飴売りの場合は(昔からあった日本人の飴売りもそうだが)
下層貧困層による流れ者的商売であり、
定住者と流れ者商売での違いがあったものと思われる。

熊谷から秩父山塊へ向かう秩父鉄道・秩父線の起点、熊谷駅から
乗車すると約30分程で寄居駅に着く。

寄居の桜沢(秩父線では寄居駅の1つ手前が桜沢駅、事件当時はなかった)
の木賃宿に滞在していたチンチン飴売りの朝鮮人が、
危険を避けるために寄居警察分署に保護されていたが、
9月5日、扇動者に扇動された群衆が警察を襲撃し、
日本刀や竹槍、棍棒で惨殺された。

保護していた警察は止めることができなかった。

被害者は1人。

名前は当時の新聞報道では「金昶」。

墓碑名、予審決定書では「具学永」となっている。

飴売りの朝鮮人青年であった。

穏やかな人の良い朝鮮人であったらしい。

 「警察署にただ保護されているのは申し訳ない」
と中庭の草むしりをかってでたそうである。

滞在期間も長く、飴売りとして日本人とも付き合っており、
名前もわかっている貧しい、人の良い、無抵抗で罪のない外国人を、
ただ「朝鮮人」というだけでなぶり殺しにした事件であった。

朝鮮における詐欺的土地調査以降、
多くの朝鮮人が来日するに至ったが、
それ以前には日本で暮らす朝鮮人は少なかった。

そのまれな朝鮮人の職業は
石炭炭鉱夫、鉄道建設工夫、それに飴売りなどであった。

飴売りは例外なく貧しかった。

下層貧民のよそ者の行商であった。

貧しいから木賃宿に泊まっていたのである。

頭の上に旗や飴を載せ、団扇太鼓みたいなものを打ちながら
売って歩く飴売りは、天秤に飴の入った容器を下げて
「ニンジンアメー」
と発声しながら売っていた、との回想もある。

朝鮮人飴売りは、日本人と同様に、
地方によって商売の仕方が異なり、
扮装、いでたち、売り方に工夫をして、
掛け声をかけたり、簡単な芸をしながらの飴売りであったらしい。

いずれにせよ子供には人気があり、地域や子供との関係は成立していた。

寄居町の正樹院に彼の墓がある。

正面に「感天愁雨信士」、
右側には
 「大正12年9月6日亡 朝鮮慶南居蔚山郡廂面屋山田里居 
  俗名 具学永 行年 28才」
左側には
 「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」
と書いてあるという。

これも戒名が残された例外の事例である。

さらに出身地までわかっている。

それだけ地元住民との日常関係が成立していたという事が推察される。

 「身体中血だらけになった具学永さんが苦しそうにあえぎながら、
  そう、こんなふうに左手で紙を押さえ、
  したたり落ちる自分の血を右手の指先に付けて書いた
  『罰、日本、罪無』という5つの文字は、
  その不揃いな形から黒ずんだ血の色まで
  今なおはっきりと思い浮かべることができます。
  …私はその5つの文字を
  『日本人、罪なき者を罰す』
  という意味と読み取りました。」
       (北沢文雄「大正の朝鮮人虐殺事件」鳩の森書房、1980年)


朝鮮人の飴売りは他の地区でも殺されていた。

(川口の証言)
 「朝鮮人の飴売りは、いつも朝9時頃やってきた。
  『朝鮮のチンチン飴買いましょう』
  と叫ぶと子供達はワッと集まって我先に買った。
  志村の方から毎日のように売りにきた。
  その門の所で売っていた。
  子供たちは嬉しがって付いて歩いたものだった。
  殺された飴売りはまだ21、22歳の若者だった」

(本庄の証言)
 「飴を売っていた朝鮮人も殺されました。
  よく飴を買っていたので覚えていたのでしょうね。
  その朝は、気持ちが悪くご飯がたべられませんでしたので
  よく覚えています」



太平洋戦争が終わってから、まだ60年しか経っていません。
関東大震災からも、まだ92年しか経っていません。

歴史的に見ると、「つい、昨日の出来事」なのです。
事実から目を背けたり、湾曲させたり、風化させてはいけません。
posted by RIUさん at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月04日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その4

埼玉県における朝鮮人虐殺(大里群熊谷町を中心)−1

大里群熊谷町
震災による、埼玉県における建物被害は
全壊4562戸、半壊4348戸である。

埼玉県でも県南部の被害はかなりの被害を受けていたが、
震災地の相模湾から遠い分震動も弱く、
県北部はさらに被害も少なかった。

県北部では、神奈川や東京に住む身内の安否、
朝鮮人流言の問題を別にすれば、
生活を脅かすような心配事は何もなかった。

東京は震災後、深刻な食糧問題、飢餓に襲われ、
東京府民は食糧確保に奔走しなければならなくなったが、
大里村はむしろ食糧を供給する側だった。

・ 熊谷町を含む大里村の震災被害
 住居全壊 11戸
 住居半壊  8戸
 死者    なし
 負傷者   5人
北埼玉では普通の生活が保たれていた。

熊谷町の旧制・熊谷中学(現・埼玉県立熊谷高校)では
平常授業が行なわれていたが、
当時の中学生は放置された朝鮮人の虐殺死体を見ながら登校していた、
と伝えられている。


埼玉県での朝鮮人虐殺の記録
9月2日
・ 東京方面から流入する避難民より朝鮮人来襲の噂が広まる
・ 県・内務部長名の通牒。朝鮮人来襲に備えての自警団結成を促す

9月3日
・ 深谷・踏切で列車が止められ1人死亡
・ 大宮機関庫で1人死亡

9月4日
・ 片柳村(大宮市[現・さいたま市]に編入)で1人死亡
・ 桶川で4人襲撃され、1人死亡
・ 久下村(1941年[昭和16年]熊谷市に編入)にて1人死亡
・ 佐谷田村(1941年[昭和16年]熊谷市に編入)にて1人死亡
・ 熊谷町にて虐殺(翌朝までに死者70〜80人)
・ 神保原にて虐殺(死者42名)
・ 本庄町にて虐殺(本庄警察署内で86人、町内15〜20人)

9月5日
・ 妻沼町にて秋田県出身日本人労働者が朝鮮人に間違われて殺害される
・ 児玉にて1人死亡
・ 寄居にて1人死亡
・ 桶川にて1人死亡(3人襲われ2人は重傷で救助)

震災直後から、横浜や東京の流言が激流となって流れ込み、
さらに鉄道に乗って逃げてくる異様な姿の避難民が運ぶ流言には
不思議な真実味が感じられ、県民が不安にかられる中、
震災翌日、埼玉県では流言が真実であるかのように断じる、
県・内務部長名の通牒が下記のように県下各群町村に通達された。


庶発第八号
大正12年九月二日           埼玉県内務部長
郡町村宛
不逞鮮人に関する件
東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人多数が川口方面より、
或いは本県に入り来るやも知れず、又その間過激思想を有する徒之に和し、
以って彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び
漸次其の毒手を揮(ふる)はんとする虞(おそれ)有之候。
就いては之際(このさい)警察力微力であるから町村当局者は、
在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、
一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう
至急相当手配成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也。



埼玉県は流言の真実性を確かめるための独自の調査も十分することもなく、
近隣の群馬県や栃木県、諸機関などと十分な調整もせずに
事実無根のウワサを“真実”とする情報を流し、
情報を持たない住民を扇動してしまったのだ。

実際に荒川を渡ってくる者は言われるような「不逞鮮人」ではなく、
震災の気の毒な被災者である。

日本人の被災者もいれば朝鮮人、中国人の被災者もいるだろう。

住民の証言では、武器を持たず着の身着のまま、
飲まず食わずの朝鮮人を直接見た住民の印象は「不逞鮮人」というより
「被災者」「避難民」というものであった。

後の聞き取り調査では、避難してきた朝鮮人を目前に見て、
また町送りになって送られてきた人たちを見て、
流言で言われているような「朝鮮人の暴動、犯行への具体的恐れ」を
持ったという証言は皆無であったという。

埼玉県北部の民衆の流言のとらえ方は、
東京・神奈川の殺気立った危機感とは明らかに違い
冷静に判断ができており、
そのため埼玉の人たちは暴動の具体的恐怖感をそれほど強くは
持っていなかったと言えよう。

だからこそ、無差別の集団殺りくは熊谷町に入るまではなかったのである。

県の通牒は、情報の収集・管理と情報の操作、発信において、
熊谷や県北の虐殺の原因となってしまう決定的誤りを犯してしまった。


東京における朝鮮人虐殺についての記述
「 多くの警察官は朝鮮人の不審者を逮捕・拘留し、
 『不逞鮮人来襲』への警戒を拡声器で呼びかけ、
 当初は自警団の『朝鮮人狩り』も野放しにしていた。
 軍部の一部は直接、朝鮮人殺傷に手を下しさえした。
 こうした軍・警察の“お墨付き”がなければ、
 デマと暴虐行為はあれほどにはエスカレートしなかったはずなのである。」
          (野村 進「コリアン世界の旅」講談社、1996年)


民衆による警察署内の朝鮮人虐殺を生んだ本庄町の警察署長の述懐
「 最大原因は東京方面からの避難民が放った流言で
  町民一般が殺気立っていたのと、
  一つは町村一斉に団体行動を取ったという事によって見ても
  郡からの移牒文があづかって力あったものと思われる。」
               (東京日日新聞、1923年10月24日)


香阪内務部長の無責任な抗弁
「 あの通牒は僕と友部君(警察部長)と相談の上出したものだが、
  あれがさほど自警団に刺激を与えたものとは思っていない…
  あの当時の状態としてあれだけの事に気付いたのは
  むしろ良い事をしたとさえ思っている…。 」
               (東京日日新聞、1923年10月24日)

この発言が正確であれば、
通牒が現場に下りた時、庶民との接点にあった現場警察官は、
庶民に対し不安をあおった上で自警団をつくらせ、
場合によっては自由に何をしても良い、と言っていたことになる。


東京市と荏原、豊多摩、北豊島、南足立、南葛飾の五群への行政戒厳
「 万一、この災害に乗じ、非行をあえてし、
  治安秩序を乱すが如き者ある時は、これを制し、
  もしこれに応ぜざるときは、警告を与えたる後、
  兵器を用うることを得 」
              (9月2日発令)

戒厳司令官官下の軍の兵器使用を認めた訓令だが、
埼玉県の通牒は暗黙のうちに戒厳軍の行動を
民間の自警団に認めた効果を持った、と言えよう。


北足立郡が町村へ出した移牒
「 今回の震災に際し、東京においては不逞鮮人各所に彷徨し
盛んに放火をなし、またこの間過激思想を有する徒これに和し、
以って彼らの目的を達せんとする趣聞き及び、
漸次(ぜんじ)その毒手を地方に振るわんとするやの
恐れ有之候に付いては、この際町村当局者は
在郷軍人分会、消防手、青年団等と一致共同してその警戒に任じ、
一朝有事の場合には速やかに適当の方策を
講ずるよう至急相当御手配相成度。 」
              (浦和市編「浦和市史通史編 V」1990年)


不幸な偶然の「秩父宮帰京」
当時の時代の優先順位は天皇・皇室にあった。

「 9月3日 午前10時45分秩父宮殿下御還り浦和駅へ向かい給う。
  県より堀内知事、友部警察部長、
  郡より渋谷群書記、浦和町在郷軍人分会長・平野少佐、
  浦和警察署松岡署長が奉迎せり 」
     (埼玉県北足立郡編「埼玉県北足立郡大正震災誌」1925年)

9月3日は、1分1秒の猶予もなく自警団や朝鮮人への対応を
しなければならなかった時に、
治安に責任のある警察部長が、その指揮の現場を離れ、
皇室の奉迎に出てしまったので、
特に朝鮮人保護に空白、手抜かりなど判断が遅れたと言えよう。


流言を運んだ高崎線
荒川鉄橋が地震で2mも沈下して使えなかったが、
軍の鉄道部隊が不眠不休の工事を行い、
上り線は4日午前、下り線は5日早朝に開通した。

東京からの被災者・避難民は、荒川の鉄橋が開通する前にも、
何とか使えた戸田橋などを使って荒川を渡り、
川口から、そして浦和、大宮から国鉄に乗り、
上越方面、東北方面へと下った。

この国鉄がなかったなら、首都圏の混乱はもっと続いていたと思われる。

同時に、この国鉄が流言という混乱の元を一気に地方に拡散してしまった。

列車は大混雑を極め,スシ詰めの客車内だけでなく、
屋根、機関車を含め乗れるところにはどこにでも乗った。

車両の下に帯で身体をくくりつけて駅員に制止される者さえいた。

客車内は身動きが取れず、排泄物も垂れ流し状態だった。

そんな状態なので走行途中に何人もが振り落とされたり、
信号の鉄柱にぶつかったり、
トンネル通過の度にはみだした身体をトンネル内の壁にぶつけて
命を落としている。

線路やトンネル内には列車通過の度に死体が転がっていたという。

そんな混雑した列車に乗った被災者・避難民は極限状態にあるから、
流言は勢い大げさになり、
その極限状態の心理が流言を聞いた人々にも伝染し、
それを話す避難民の言葉に不思議な説得力を持たせていた。

「 関東大震災起こる。
  幸いにして熊谷地方の被害はさほどでもなかったので
  学校は授業はそのまま続けた。
  しかし避難者を乗せた列車が熊谷を通過するので、
  駅には湯茶、おにぎりの接待所が設けられ、
  通過する避難者にそれを供していた。
  生徒の中には学校で授業を受けるより、
  その仕事の方が意義がありとして毎日駅へ通っては、
  汽車の窓口へ湯茶、おにぎりを配って回る者もあった。
  この奉仕した諸団体で一番熱心であったのは
  竹町の芸妓連であったという。」
                (埼玉県立熊谷高校、80周年記念誌)

高崎線・熊谷駅前の秋山食堂(後に閉店)は、
日本で最初に駅弁を売り出した店として知られているが
(竹皮に包まれたおにぎりと沢庵)、
駅に設けられた救護所で避難民に数万個のおにぎりを提供した。

救護所でおにぎりを受け取りながら、
暴行の犠牲者のような格好をした避難民が
「朝鮮人にやられた」と話すので、誰でも信じてしまう。

列車に乗ってくる被災避難民が狂気に取り憑かれたようにおおげさに、
そしてさも自分の眼の前で朝鮮人の殺りくが行なわれたように話す。

これを何度も話しているうちに、
避難民にとっても朝鮮人の暴虐は実際に経験した“記憶”と
なってしまっていた。

「 今、上野の山で日本の陸軍と朝鮮人で内乱が起きちゃってね、
  それで日本の国は潰れちゃうので戒厳令がしかれた」
と…着の身着のままの姿でまことしやかに言うのです。
                (被災避難民から聞いた、という証言)

被災避難民から朝鮮人暴虐の話を聞いた者は、
地域や学校、家庭に帰り、興奮しながらさらにおおげさに話す。

そのようにして流言が速やかに拡大再生産されていった。


「町送り」という名の“厄介払い”の始まり
埼玉県警察部は、
東京から非難してきた朝鮮人、県内で拘束した朝鮮人を
県外に移送しようとする。

移送する目的は、
「朝鮮人を自警団の暴虐から守るため」
と言われているが、本当のところは
「朝鮮人を隣りの町、隣りの県へ厄介払いしたかっただけ」
ではなかったのか。

自警団から守るための移送なら、
自警団に警護させて移送すること自体が理解できないし、
さらに徒歩による移送は朝鮮人を危険な自警団、民衆の前へ
無防備に長時間に渡ってさらすことになる。

移送するとしても県外のどこへ移送しようとしていたのか、
最終目的地もはっきりしていないのである。

長野県とも新潟県とも言われているが、決定的な資料も発見されていない。

震災後の聞き取り調査では
「前橋の刑務所へ送ると聞いていた」
との証言もあるが情報の出所はわからない。

埼玉県警は
「最終目的地はともかく、当面は群馬県の高崎の連隊への保護移送を考えた」
と推理するのが普通である。

そこで自警団による町送りは群馬への道である中山道を
北へ辿ることになったのではないか。

埼玉県や埼玉県警が、政府、軍、群馬県や高崎連隊と
緊密な連絡を取り合った上で、当面の群馬への移送をしていた、
との資料も残っていない。

震災後の証言や聞き取り調査からの判断でも、
当時護送する警官や自警団にもよく理解できていなかったようである。

移送される朝鮮人には警察の護衛がついていたが、
その護衛警官たちが朝鮮人の移送先、受け入れ、移送後の処遇などについて
正確に説明した形跡は全くない。

自警団に狩り出された人、暴行した民衆たちの証言にも
それを伺わせるものもないのである。

そのように県・県警のはっきりしない方針自体が、
警察官、自警団員、群や町村当局、県民を
より混乱させる一因となったことは否めない。


川口・蕨からの出発
川口は東京との県境であり、揺れも大きく、
県南の被害は川口町、粕壁町(現・春日部市)、幸手町などでは
死者を含むかなりの被害があった。

川口は吉永小百合の映画「キューポラのある街」で知られるように
鋳物の町で、キューポラは鋳物工場の炉のことをいう。

鋳物工場には普段は鉄を溶かすための高温の炉が燃えているが、
たまたま震災当日(9月1日)は、
慣例的に川口の鋳物工場の一斉休業日で炉の火は落とされていた。

中小規模の鋳物工場の多くが倒壊(全壊293棟、半壊23棟)したが
火災は発生しなかった。

もし高温の炉の火が普段のように燃え盛っていたら、
火災が首都の悲劇を再現し被害を拡大していたことは間違いない。

川口は明治末期にはすでに150軒の鋳物工場が稼動し、
その劣悪な灼熱の中で働く労働者を必要としており、
そのほとんどが沖縄出身者や北海道アイヌ部落出身者、
朝鮮人労働者で占められていた。

故国の詐取的な土地調査によって、住み慣れた国を離れた朝鮮人は、
埼玉県においても多くの中小の工場労働者として職を得ていた。

後の第二次大戦期、軍需産業である鋳物工場を支えたのは
朝鮮人労働者であった。

映画「キューポラのある街」は、
そのような朝鮮人が戦後、北朝鮮へ帰る『北朝鮮帰国事業』が
ストーリーが柱になっている。


「 9月1日の話ですが…
  夜10時頃になって在郷軍人が騒いでいるというので
  警察から迎えがきた。
  …警察の門を入ったら巡査部長が『君は朝鮮人か』というので
  『そうだ』と答えると、『すぐに2階へ上がれ』とのことだった。」
という証言から、川口警察署は、管内の朝鮮人に対して
震災当日にいち早く保護収容に動いていたことがわかる。

9月3日、午後2時に川口警察署は消防組、在郷軍人の力を借り、
保護収容していた朝鮮人約160名を蕨町へ移送、終結させた。

川口でいろいろなかたちで保護拘束された朝鮮人は、
江戸時代の5街道の1つである「中仙道」の
埼玉県最初の宿であった蕨で合流させられた。

蕨に集められた朝鮮人たちは、北に向かって駅伝、町送りにさせられる。
(「駅」とは街道の宿場を意味するが、
   この場合の「駅伝」は町、村送りのこと)

武器を持った自警団が周囲を固めて、
次々に伝達、送致し県外に送り出そうとしたのである。

送る人間(自警団員)は、
担当(自分の居住する地域)する町、村、字を出るまで
送るだけだから、送るほうは早く嫌な、面倒な、危険な役割から
開放されたく、
「早く家へ帰っていっぺいやるべェ」
と、勢い朝鮮人を休ませずに急がせた。

護衛の警官も付いてはいたが、
装備と人数において自警団に圧倒的に劣っていた。

中仙道の宿は、埼玉県内最初の蕨を出ると
浦和、大宮、上尾、鴻巣、熊谷、深谷、本庄と続いた。

9月の初めであり残暑厳しい中の行進でもあり、
また行く先への不安もあり朝鮮人たちは精神的、肉体的に
極限状態まで追い詰められ、途中で何人かが逃亡を図った。

「情報がない」という点では自警団も朝鮮人と同じであり、
自警団からすると
「何か悪い事をしたから逃げるのだろう」
「逃げた先でどんな悪事を働くかわからない」
「逃がした責任を問われると困る」
ということになり、「絶対に逃がすまい」ということになる。

もはや冷静な論理の通じない場になっていた。

逃げる朝鮮人と追う地理に詳しい地元の自警団、
疲れきって地理にうとい朝鮮人が武装自警団にかなうはずもなく、
逃亡した者はことごとく捕えられ虐殺されることになる。

拘束された朝鮮人の全てが駅伝で中山道を北上して虐殺された訳ではなく、
一般避難民と一緒に蕨あたりから自動車で大宮まで送られ、
或いは徒歩で大宮まで避難してきて、
それから東北線に乗車し宇都宮に収容されたグループも
あったと言われているが、資料がなく詳細は不明である。


大宮
町送りされた朝鮮人は、9月3日の夜には大宮町
(後の大宮市、現・浦和市と合併して「さいたま市」)を
約180人と約190人の集団が別々に通過している。

浦和寄りの片柳村(後に大宮市に編入)で
朝鮮人が1人逃亡したが逃げ切れず、全身を竹槍、日本刀で傷つけられ、
医師の手当てを受けたが死亡している。

染谷という地区の常泉寺には「空朝露如幻禅定門位」という
戒名の墓が建てられた。
(朝露の如きはかない人生、朝は「朝鮮」の朝、とも解釈できる)

当時、自警団や民衆は戒厳令下なので朝鮮人を捕えれば
「金鵄勲章」が貰えると思い込んでいた。

「金鵄勲章」は、階級に関係なく軍功抜群の「陸海軍兵士」に
贈られるものであって、また終身年金も付いていた。

一般兵士憧れの勲章であった。

自警団員は、軍人ではない一般人組織なのに、
その勲章を貰えると確信していた。

つまり「今は戦時体制なのだ」と錯覚していた。

戦時と思っているので殺している側に罪の意識がないのである。

後の法廷での陳述では、むしろ
「恩給を貰えるもの」
と勘違いしていた者もかなりいた。


桶川
現在のJR高崎線では大宮を出ると宮原、上尾、北上尾、桶川と続く。

その桶川では9月3日午後3時ごろ、
町送りの一団から逃亡した朝鮮人が3,4人現れて住民に襲撃され、
検死もされず火葬されている。

1人は桶川駅に近い現在の朝日1丁目あたりで殺害されたらしい。

「 朝鮮服の人3人が中仙道で捕まり、「鳶口」で頭を割られ、
  旧避病院へ収容され、「アイゴー、アイゴー」と叫んでいた。
  その中で一番重傷の人が逃げ出し消防の鐘がジャンジャン鳴り、
  近くの畑まで逃れて発見され、
  高崎線西側の中川製袋の畠の中で惨殺されたが、
  検死前に火葬場で火葬にしてしまった。」
                       (震災後の聞き取り調査)

高崎線ではさらに桶川、北本、鴻巣と駅が続く。

9月4日朝には鴻巣を約130人が通過との証言があるが、
移送に当たった自警団の人も、人数についてはまちまちに答えており、
町送り、村送りと言いながら、
「当初から人数は把握していなかった」
というのが本当のところで、かなりいい加減なものだった。


吹上
9月4日午前中に鴻巣の隣の小谷村(現・吹上町)を、
最初人数を特定できない多数の集団が、次に約130人が通過している。

同日午前11時に、移送された集団は吹上町の国鉄・吹上町へ到着する。

鴻巣以降の現在のJRの駅は、
北鴻巣、吹上、行田、熊谷、篭原、深谷、岡部、本庄、神保原と続く。

蕨を出発して吹上駅到着までは約20時間かかっている。

蕨から吹上駅までの行程は約40kmなので、
単純に1時間で2q歩いたことになる。

成人の歩速は1時間4kmが普通なので、
途中の引継ぎ、距離、逃亡騒ぎ、子供や赤子を背負った女性を含む
人数の多さ等の条件を考慮すると、道中睡眠時間はもちろん、
休憩らしい休憩もなしに40kmの距離を
20時間歩き通しという相当の強行軍であった。

吹上駅で警察は列車に乗せようとするが、
屋根までスシ詰めの大混雑の列車であり、
また、朝鮮人が暴動を起こし、強盗、強姦を働いているという
流言を運んでいる被災者が乗客であり、
そんな列車に朝鮮人を乗せることは不可能だった。

「 行き違う下りの列車には、汚れ果て、あるいは興奮しきった
  避難者たちが満載されていた。
  停車場でこちらの列車とそちらの列車とでの性急な問答ときたら、
  実に悲愴を極めたものだった。
   『おや!その列車には朝鮮人がいるじゃねえか?
    引き摺り下ろしてぶっ殺してしまえ!
    叩っ殺せ!
    奴等のために東京は焼かれたんだ』
   『叩っ殺せ!叩っ殺せ!』
  これらの言葉を聞きながら、
  私の心はだんだん憂うつのどん底に落ちて行くのだった。」
      (現代史の会編「ドキュメント関東大震災」草風館、1993年)

完全に秘密裏に鉄道輸送ができれば、
効率的でより安全な移送ができたはずだが、
吹上で警察がやろうとしたことは単なる思い付きで計画性がなく、
混乱を大きくしただけであった。

結局、吹上駅では列車に乗れず、
朝鮮人は自警団に周りを囲まれて、
再び歩いて熊谷方面に駅伝、町送りされることになった。


久下村・佐谷田村
吹上駅からしばらく歩くと久下村(現在は熊谷市に編入)に入る。

久下村に引き継がれてすぐに、逃亡した朝鮮人の1人が鳶口で襲われている。

朝鮮人の治療や病院への移送、逃亡を企てた朝鮮人の人数などの
証言はなく、闇から闇へ葬られている。

逃亡騒ぎの後、村内の大曲で一時休憩、
そこで約半数の朝鮮人は小型トラックに乗せられ
熊谷方面に向かったとの証言がある。

乗れずに残った者は再び歩かされることになった。

民衆の自警団は「袖がらみ」
(捕り物映画で見かける長い棒の先に短い鉄の枝が
 無数に出ている捕り物道具。
 この頃の農村には十手などの捕り物道具が残されていた)
さえ持っていた。

その他には、
・つるはし、
・日本刀、
・槍
などで武装しており、
それらの武器で朝鮮人たちは小突き回されていたらしく、
頭や背中などから血を流している者もいたという。

残暑厳しい時期で、疲労と恐怖からくる絶望的極限状態の中で、
ここでも1人の朝鮮人が逃げ、よどんだ元荒川に(発作的に)飛び込んだ。

名前こそ元荒川だが、荒川のような大きな川ではなく、
すぐに引き寄せられた。

このような時のための「袖がらみ」であった。

捕まった朝鮮人の頭には、残酷にも「つるはし」が打ち込まれた。

「 朝鮮人は元荒川に飛び込みました。
  …水の中でずいぶん苦しんで我慢していたようですが、
  土手に引き寄せられたと思うと、
  また水の中にしゃがんでしまいました。
  そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、
  それを脳天にブッ刺し、引き寄せたのです。
  血と脳しょうが噴き出した。
  脳天から四筋も六筋も血が流れ、
  口の中へ入って行くのがまのあたりに見えました。」
                     (震災後の聞き取り調査)

その後に3、4人が逃げ、またその後にも数人が逃げた。

逃げた者は全て「鳶口」や「つるはし」で殺されたと言われている。

他にも殺されている。

「鳶口」、「つるはし」を打ち込まれた正確な人数はわかっていないが、
殺された証言からの推測では約6〜8人にもなる。

殺された者は日射病で死んだことにされ、
地域の医王寺に埋葬されたという。

さらに久下で逃げた朝鮮人の1人は、
荒川の荊原(ばらはら)の堰(せき)あたりで
捕まって暴行を受けたらしい。

久下村ではそのように途中の逃亡で何人かが殺され、
次の佐谷田村(現・熊谷市に編入)に引き継がれる。

佐谷田村の自警団に引き継がれる時に
また何人かがフォードT型の小型トラック2台に乗せられたらしい。

これも熊谷方面へ走り去ったが、
本庄、神保原あたりで民衆にこれらのトラックが襲撃されることになる。

この佐谷田村でも1人が逃げようとして殺され、
近くの大雷神社の墓地に埋葬された。
posted by RIUさん at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その3

関東大震災における朝鮮人虐殺では、埼玉での殺りく
(主に中仙道を川口・大宮・上尾・桶川・熊谷と捕縛して歩かせ、
主に熊谷で民衆に惨殺される)
が有名なのですが、これは明日に回します。


自警団・民衆による虐殺

自警団の結成
・ 自分たちの住んでいる町や村を自分たちで守るのは、
封建時代からのわが国の伝統であり、
各地で自警団は自然発生的に結成されていた。

・ 関東大震災の時の自警団は、必ずしも朝鮮人を意識して
朝鮮人から地域や日本人の生命・財産を守ろうとして
結成されたのではない。

「火事場泥棒」は昔から世の常であり、
その火事場泥棒からの自衛、新たな火災や余震の警戒などから
素朴な必要性から、昔からの例にならって
自然発生的に自警団は結成されたのである。

・ テレビの捕り物帖ドラマに「自身番」が出てくるが、
これはお上の治安維持機関である町奉行所のものではなく、
町役人(役人といってもお上の役人ではなく、
町人の中から選ばれたもの)の管理する町住民の自衛組織であった。

・ 自身番は制度化され常設となったが、何か異変が起こった時、
臨時に自警団や自衛隊が結成されることもあった。

例:幕末近くの1866年(慶応2年)の「世直し一揆」、
1884年(明治17年)の「秩父事件」等で各地で、
刀、槍、猟銃、竹槍などで武装した自警団・自衛隊が結成されている。

・ 東京牛込で方面委員をしていて救護事業に従事していた人の話
「 …牛込、西谷、小石川あたりの人々には
『今夜あたりドサクサに紛れて盗賊が横行するかもしれない』
『放火がありはしないだろうか』
との疑ひが浮かんだ。
地震の恐ろしさに、どこの家でも家族はことごとく
戸外に避難していたので盗賊や放火は想像するに難くなかった。
そこで期せずして心ある人々は町の出入り口に出張して
警護の任にあたった。
町会や青年団の成立している町では、
それらの幹部が夜警を奨めたのであったが、
そういう機関のない所では、全く誰の布令もなかったので、
自発的に起こったのであった。」
                  (「太陽」博文館、1923年10月号)


自警団の変質
・ 東京牛込で方面委員をしていて救護事業に従事していた人の話(続き)
  「9月1日(震災当日)の夜は、単に夜警に留まっていたが、
   2日の夜になると、不逞朝鮮人の行動に関するいろいろの
   流言が勢力を得てきた。」

・ 別の人の話
  「警察力のない当夜の市内も非難の大混雑にも関わらず、
   各自が自制して秩序は少しも乱れてはいなかった。
   他人を助ける余力はなくも他人の迷惑になるようなことは
   少しもしなかった。
   しかるに私の離京後すなわち翌2日から3日にかけて
   戒厳令を布かねばならぬほどの形勢に悪化したのは、
   一には飢餓が迫ってきたのと、二には流言蛮語の結果であった。」
     (『女性』加藤直士「関東震災から得た経験と感想」プラトン社、
                         1923年10月号)
・ 以上2つの証言から、社会を不安が覆っているなか、
  流言と飢餓がセットになって人々を、自警団を変質させたが、
  単純な自然発生ではなく警察などの官憲が深く関わっていた。

・ 新聞記事の例
 「心ある者は胸に手を当てて考えよ。
  災害の当時彼ら我らに告げて“某方面より襲来あり。
  男子は武装せよ。
  女子は避難せよ。
  朝鮮人と見れば倒しても差し支えない。
  社会主義者と判らば殴ってもよい。
  彼らは凶器をたずさえて至る所に殺人強盗陵辱放火投毒など
  あらゆる悪事を働いている”とふれ回ったのは何者であったか。
  …直接我らに伝えた者は正しく詰襟の○○官人であった。」
                  (報知新聞、1923年10月23日)


「15円50銭」の識別法
・ 朝鮮人は平音文頭の濁音が発音しにくく
  「チュウゴエンコチュッセン」
  と発音するので、15円50銭が発音できず、
  朝鮮人と見なされたらその場で直ちに検束され、
  暴虐の限りの暴行を受け、その場で殺害された者も少なくなかった。
・ 「15円50銭」だけでなく
  「教育勅語の暗誦」
  「歴代天皇の名前」
  「ザジズゼゾ」
  「ガギグゲゴ」
  「君が代」
  「いろはカルタ」
  を言わされたこともあった。

・ 「座布団」を「サフトン」、
  「学校」を「カッコウ」
   と発音したら朝鮮人とされた。


街角の検問
・ 銀行マンの震災日記から
  「 私が恰度公園の出口の広場へ出たときであった。
   群集は棒切れなどを振りかざして喧嘩でもあるかのような塩梅である。
   獲物を持たぬ人は道端の棒切れを拾ってきて振り回している。
   近づいてみると、1人の肥えた浴衣を着た男を大勢の人が
   『殺せ』と言って殴っているのであった。
   群集の口から『朝鮮人だ』という声が聞こえた。
   『巡査に渡さずに殴り殺してしまえ』
  という激昂した声も聞こえた」

  「 上野に近づいて来ると、だんだんと人通りも多くなった。
   その中を水溜りを飛び々に歩いていると、
   黒門町辺と思うところで突然検問された。
   40がらみの肥った男たちが3人、
   道路の真ん中に突っ立って『貴様はどこへ行く』と言った」

  「 美術学校の前を通って、谷中の通りに出る所には、
   青年団とか在郷軍人とか言った人たちが私たちのために警戒して居た。
   それは両人で縄を張って、1人1人検問して通すのであった」

  「 墓地通りの中ほどに警備員たちが5,6人皆提灯を手に々持って
   物々しく堅めている。近づいてみると抜刀しているのであった」
             (染川藍泉「震災日記」日本評論社、1981年)


民間の武器
・ 「豊臣秀吉の刀狩以後、農民から刀は取上げられた」
   というのは正確ではない教科書的説明である。

・ 実際には関東では刀狩はさほど徹底されず、
  江戸期でも民間や農村に刀などの武器はかなりあったし、
  剣術も盛んに行なわれていた。

・ 幕末・新撰組の近藤勇や土方歳三を生んだ多摩の天然理心流、
  『大菩薩峠』の机龍之介が使った秩父山塊の甲源一刀流、
  馬庭念流など、いずれも農村の百姓剣術であった。
  庶民の中から刀が消えるのは、太平洋戦争の武器・金物の供出である。

・ 震災当時は警察官の拳銃携行が認められていない時代であった。

  当時の警察は人数だけでなく、武器においても
  しばしば自警団に劣っていた。

  拳銃の携行が定められたのは震災翌月であり、
  この震災時において警官が武器に於いて自警団に劣っていたのを
  痛感したしたことが拳銃の標準配備を急がせたことは明白である。

・ 自警団は武装集団であった。

  鳶口のような武器は、本来は凶器ではなく破壊消防の道具である。

  しかし日本刀や猟銃に至っては殺傷を目的とした凶器であり、
  殺人・傷害以外に使い道のない道具である。

  自警団が所持していた武器の種類からして、
  武装自警団は明らかに朝鮮人を襲うことを念頭に置いたものだった。

・ 震災の年の9月1日から30日までに警視庁が押収した武器は、
  金棒692、日本刀390、焼刀身197、仕込み杖91、
  七首71、猟銃19、拳銃18など。
  もちろん押収した武器はほんの一部にすぎない。

・ 神奈川県小田原では真鶴から先の熱海線(現・東海道線)の
  工事をしていたが、その工事用ダイナマイトを
  持ち出した自警団もあった。

  武器から言ってもこれはもはや「自警」ではなく、
  「自らが暴動集団」と言わざるを得ない。

・ 9月2日世田谷方面で警察署員が朝鮮人2名を保護護送中、
  40人くらいの自警団に襲われた。
  自警団は警察の言うことに聞く耳持たず、
  朝鮮人1人が猟銃で射殺されている。


自警を超えた殺し方
・ 朝鮮人の回想
  「 私は1923年8月20日、日本観光の目的で
   15名の同僚と共に下関に上陸しました。
   …私たち15人のほとんどが日本語を知りません。
   …武装した自警団は朝鮮人を見つけると、
   その場で日本刀を振り下ろし、
   又は鳶口で突き刺して虐殺しました。」
     (朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』
                   槙昌範「無数の傷跡」1963年)

・ 検束して、「危険な奴だから」と警察に引き渡すのではなく、
  自警団だけで判断・処理し、有無をも言わせない殺りくが多かった。

  また、殺人凶器で殺すのと違い、鳶口などによる殺人では
  簡単には殺せず見た目の残虐性があり、
  それが民衆の狂気にさらに拍車をかけ、狂気が狂気を増幅させていた。

・ 朝鮮人の回想
  「 自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して
   狼の群れの如くに東西南北より集まり来たり、
   1人の我が同胞に対し数十人の倭奴(日本人)が取り巻きつつ
   剣にて刺し、銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、
   死せしものの首を縛り引きずりつつ、なおも刺し、蹴りつつし、
   死体までも陵辱を加えたり、
   婦人等を見れば両股より左右の足を引っ張り生殖器を剣にて刺し、
   一身を四分五裂にしつつ、女子はいかにして殺すこと妙味ありと
   笑いつつ談話せり…身体を電信柱に縛りつけ、
   まず眼球をえぐり、鼻をそぎ落とし、
   その哀痛の光景を充分眺めた上,
   腹を刺してじわじわ殺したるものあり…。」
       (姜徳相・他編「現代史資料・6」みすず書房、1963年)

  「 まだ若いらしい女が腹を裂かれ、
   六、七ヶ月になろうかと思われる胎児が
   はらわたの中に転がっていた。
   その女の陰部にはぐさりと竹槍が刺してあった。」
       (姜徳相・他編「現代史資料・6」
           田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、1963年)


屈折した心
・ 自警団員の中には、もはや自警を超えて、
  虐殺、無抵抗な朝鮮人いじめを楽しむ者さえ出てきた。

  残虐な殺し方は、社会的に抑圧されていた者が、
  その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである。

・ 朝鮮人労働者はその低賃金での使いやすさから、
  日本人の底辺労働者の労働を奪う現実もあった。

  日本人の底辺労働者も朝鮮人も追い詰めているのは
  共通の“資本家”であるが、
  日本人の底辺労働者は本当の敵を見極めることが出来ず、
  ひたすら朝鮮人を怨んでいた。

・ 大震災の混乱の時は、
  その屈折した心のうっぷんを晴らす絶好のチャンスだった。

  自警の名目、日本人を守る、地域を守る、という大義で、
  大っぴらに白昼堂々朝鮮人を痛めつける機会ができたのだった。

・ 作者不明の川柳
   「 今夜もと 夜警は無事を 口惜しがり 
            (「現代」大日本雄弁会講談社、1923年11月号)

・ 攻撃対象者を探し回る
  「 避難者の右往左往する大通りを、
   ねずみ色の小倉服を着た17,8歳の少年朝鮮人が、
   在郷軍人の微章をつけた男に引っ張られて行く。
     『私、怪しい者ではありません、
      おやじと一緒に神田の家を焼け出された商人です』
   と少年は真槍な、恐怖に満ちた顔をして、上手な日本語で弁明した。
   在郷軍人はただ少年の袖を握っているばかりだが、
   後からぞろぞろついて行く群衆が気勢を上げてなじり飛ばし、
   一旦すれ違って行過ぎた男も、それが朝鮮人だと聞くと、
   わざわざ引き返して血だらけの少年を殴りつける…」
       (「文章倶楽部」細田民樹「運命の醜さ」
                     新潮社、1923年10月号)

  危険な朝鮮人ではない、ということを充分承知の上での暴虐であり、
  自分たちのストレスの発散を求めた、
  完全な弱いものいじめになっており、
  無抵抗者への殺りくが目的となっていた。
  そして暴行し、虐殺していたのである。

・ やがて自警はどうでもよくなり、
  「対象は無抵抗で弱く、安全に攻撃できる、
   確実に自分より弱いものであれば良い」
  ということになり、
  そうなると攻撃対象は見つけにくい限定された少数の朝鮮人でなくても、
  心の屈折をぶつけられる者であれば、もはや日本人の弱者まで広がった。

  そして
  「私の隣りの部落の夜警は、附近の原っぱに寝ていた白痴を
   日本刀で滅多切りに切り刻み、朝鮮人だと言って警官に渡した」
         (「文章倶楽部」細田民樹「運命の醜さ」
                      新潮社、1923年10月号)        という事件まで起きるようになった。


官憲による虐殺
・ 官憲による朝鮮人虐殺は、事件を闇の中に葬り去ろうとして
  資料も少なく今だに明確な責任の所在、追及もなされていないが、
  亀戸近くの軍による虐殺の事例を記載する。

  「 25,6歳の青年が憲兵と自警団に追い詰められて捕えられた。
   その青年は無残にも頭を打ち抜かれて殺された」
     (『労働運動史研究・37号』湊七良「その日の江東地区」
                     労働運動研究所、1992年)
  「 旧四ツ木橋の下流土手下で、軍が機関銃で殺した。
    一梃か二梃の機関銃であっという間に殺した。みんな見ていたんだ」

  「一個小隊くらい、つまり20〜30人くらい居たね。
   2列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ」
     (関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編
       『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会、1992年)


亀戸事件
・ 川合義虎、吉村浩治、平沢計七など
  南葛労働会、純労働者組合員9名、砂町本島の自警団員など数名を、
  戒厳令出動中の騎兵第13連隊が秘密裏に虐殺したもので、
  労働組合の活動家を軍が殺したのは最初にして最後の事件。

  事件後、「殺害は軍の行動として正当なもの」とされ、
  責任は不問にされている。

・ 川合義虎は日本共産青年同盟(現・民主青年同盟)の初代委員長。

・ 吉村浩治の長兄は
  後に国策パルプ専務からヤクルト会長になる南 喜一。

・ 平沢計七は友愛会生え抜きの労働者で、
  元出版部長(彼が出版部員をしていた頃の出版部長は野坂参三)。

  平沢計七の34歳を除けば皆十代、二十代の若者達であった。

・ 渋沢栄一(民族浄化運動の闘士)『天譴(てんけん)論』
  「大戦景気以来国民は贅沢に流れ、危険思想が横行しているので、
   関東大震災は日本国民に対する天の戒めである」
  というもの。

  天譴(てんけん)による危険思想(戦闘的な労働運動家)の
  抹殺意図が渋沢たち資本家の中にあり、
  それが亀戸で闇の中で実行され、闇から闇に葬られた。

  渋沢はまた、ハンセン病患者を徹底的に隔離・排除した
  民族浄化思想の牽引車だった。

  『天譴(てんけん)論』は、オウム真理教の論理と似ている。

  「 サリン製造の証拠をどんなに突き詰められても、
   私はオウム真理教を責める気になりません。
   今まで日本は平和でした。
   余りに平和すぎて、日本人は平和というものを当り前に
   感じ始めていました。
   いつの間にか、平和なんていうものを感じなくなったのです。
   今回の事件(サリン散布大量殺人事件)は
   そんな日本人への警告だと思っています。 」
            (オウム在家信者発行「真実を訴える会」10号)

  という身勝手な思想と全く同じであり、
  虐殺積極肯定論として強く批判しなければならない。


大杉事件
・ 震災の混乱に乗じて、
  官憲がアナーキスト・大杉 栄、妻・伊藤野枝、
  大杉の甥でまだ幼かった橘 栄一の3名を憲兵が虐殺した事件。

・ 軍法会議で甘粕正彦憲兵大尉は懲役10年、森曹長は懲役3年、
  平井伍長と鴨志田・誉田上等兵は無罪となった。

・ 甘粕正彦は千葉刑務所に3年間服役した後、
  仮釈放されフランスへ渡る。

  渡仏後1930年(昭和5年)に満州へ。

  満州国建国後は要職に就くが、
  退官して満州映画会社の理事長になり、満州財政界で権勢を振るった。

  1945年(昭和20年)8月20日、
  日本の敗戦を見届けて服毒自殺。

・ 1931年(昭和6年)11月10日、
  満州国執政になるラストエンペラー・愛新覚羅溥儀が
  天津から逃れて栄口に上陸する。溥儀は大漢民族皇帝末裔として
  大観衆に大歓声で迎えられるものと思っていたが
  、出迎えたのは少数の日本人だけだった。

  この日本人を率いていたのが
  満州国を裏から操った甘粕正彦であった。

  甘粕正彦は、その経歴からして
  軍や政治家の後ろ盾があったことは明白である。


殺害された朝鮮人の数
・ 殺害された朝鮮人の正確な数は現在に至るまでわかっていない。

・ 内務省警保局の調査報告では、
  朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人となっている。

  この数字の少なさは虐殺された者の実数の調査が主目的ではなく、
  刑事手続きに乗せる事を前提にした調査であるから、と思われる。

・ より実態に近いと考えられる独立新聞による調査(金承学が中心)は
  下記の通りである。
  東京都  1347人
  神奈川県 4106人
  埼玉県   588人
  千葉県   324人
  栃木県     8人
  茨城県     5人
  群馬県    37人
 合計    6415人
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2005年09月02日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その2

日本の朝鮮政策

・ 神功皇后の三韓侵略(=当時の教育は「朝鮮征伐」)
3世紀の頃、神功皇后は神の啓示を受けて新羅征伐に向かったものの、
新羅の王は“日本”は神国だから対抗できないとして
日本に服従したとされている。
そして当時韓半島にあった、新羅、高句麗、百済を従えた、と
『日本書紀』に書かれているが、3世紀というのは弥生時代にあたり、
豪族たちが諸国に別れ争っていた時代で、大和政権のできる前なので、
ウソっぽい話である。

・ 豊臣秀吉の朝鮮侵略(=「朝鮮征伐」)
平和色濃い朝鮮に対し、
「中国(明)を攻めたいから朝鮮はその道案内をせよ」
という要求を突きつけて、
断られると一方的に乱入し、破壊の限りを尽くした。

「恨500年(ハン・オーペクニョン)」
秀吉の朝鮮侵略から現在に至るまでの
日本人が朝鮮人に恨まれている歴史のことをいう。

 京都市東山区の秀吉を祀った豊国神社の向かいの「耳塚」
 秀吉の朝鮮侵略で無差別に切り取ってきた10万人を超える朝鮮人の
 耳や鼻を切り落とし、塩漬けされ樽に詰めて埋めたとされる“塚”


伊藤博文は日本の初代首相であり、明治憲法の制定に尽力し、
日本を近代国家に導いた功労者として、
日本近代史には最重要人物の1人だが、
明治42年、中国黒龍江省のハルビン駅頭で
朝鮮人テロリスト安重根(アン・ジュングン)によって暗殺されてしまう。

日本側から見れば伊藤博文は悲劇の宰相、
安重根は殺害犯人、テロリストということになるが、
韓国ではこの安重根は国民的英雄である。

安重根の裁判は全て日本側で行なわれ、
わずか5ヶ月の審理で死刑に処せられている。

その安重根は裁判において伊藤を暗殺の対象に選んだ理由として
15項目を挙げている。

その第1番目の理由は、1895年10月の
「高宗の正后閔妃(みんひ)暗殺」
の首謀者というものだった。

閔妃暗殺事件当時、伊藤は日本の首相だった。

そのほか韓国に不利な条約を強要したり、韓国の人民の権利を奪った。

韓国の学校で使っていた教科書を焼却させた、などの理由が挙げられていた。

一部に誤解もあるが、韓国側から見れば
伊藤博文は暗殺されて当然の人物であった。

安重根に暗殺された「伊藤博文」は、
千円札の紙幣の肖像に用いられていた(現在は野口英世)が、
朝鮮侵略のシンボルが近代国家の象徴である紙幣の肖像と
なっているところに、日本と朝鮮の二国関係がよく示されている。

 ※ 日本による朝鮮の植民地化を苦々しく見ていた歌人・石川啄木の歌
   「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」

 ※ 韓国併合(1910年)によって、
   朝鮮は、初めて異民族支配を受けることとなり、
   以来、太平洋戦争終戦までの36年間、
   日本の植民地支配下に置かれる暗黒時代を迎えた。


朝鮮植民地化による土地の詐取

1910年(明治43年)より1918年(大正7年)にかけて、日本政府は
「朝鮮に於いては近代的な土地所有権制度が確立されていない」
という大義名分で大規模な土地調査を行なった。

調査は土地の利用者に所有権を届けさせるものであった。

届出がなかったり、所有権があいまいな土地は、
指導や仲裁をして実際の耕作者の権利関係をはっきりさせたのであれば、
それなりに土地制度の近代化に役立ったかもしれないが、
「真の目的は土地没収」にあった。

日本政府は届出のなかった広大な土地を所有権者がいないものとして
朝鮮人耕作者から強制的に土地を取上げてしまった。

識字率の低かった朝鮮にあっては、
ほとんどの朝鮮人耕作者には所有権の意味、届出や、
まして届出しなかったことによる罰則の意味が全く理解されておらず、
そのために届出されなかった土地が多かった。

届出がなかった土地は所有権者がいない土地とされ、
詐欺的に耕作者などから取上げられ、日本関係の土地とされた。

それまでの朝鮮における土地利用の慣行を全く無視するものであった。

土地を奪われた朝鮮人は働く手段を奪われたため、
やむなく住み慣れた土地を離れ、生活のための職を求め、
北部の者は主に満州へ流れ、南部の者は多くは日本に入って来た。

土地調査で多くの朝鮮人たちが土地を奪われ、日本にやってくる数が激増する。

1919年(大正8年)、   2324人
1920年(大正9年)、    212人
1921年(大正10年)、  9394人
1922年(大正11年)、2万4136人
1923年(大正12年)、4万6489人
 …
1930年(昭和5年)、41万755人

震災時(1923年、大正12年)の正確な数字は不明も
少なくとも8万人以上が住んでいたと推察される。

そのうち東京には学生3千人、労働者6千人が居住していたと思われる。

土地を奪われた者は、土地調査の意味がよくわからない、
文字の書けない下層農民がほとんどであった。

したがって日本に流入してきた朝鮮人の大半は、
流入の経緯からして下層の識字できない者が多く、
そのような流入階層も差別を一層激しいものとする一因となっている。

そのような経緯で来日した朝鮮人たちは、
知らないうちに土地を奪われ、住み慣れた土地から離され、
異国である日本に来て、そこで激しい民族差別、
同時に貧困による差別を受けたのであり、
「日本を恨まないはずがない。程度の差はあれ、
    日本に対して何らかの恨みを持っている」
と、多くの日本人、特に支配層の日本人が考えていた。


朝鮮人への徹底した差別
日本へ流入せざるを得なかった理由が日本の侵略的朝鮮統治にあり、
さらに流入してきた朝鮮人は、日本に来てからも不条理なさまざまな差別、
不利益取扱いを受け、それは被差別部落に対する扱いよりも
ひどいものだった。

朝鮮人労働者の賃金は、
最下層の日本人労働者
(被差別部落や沖縄出身者、北海道アイヌ部族出身者など)
の賃金の5〜7割であった。

それが朝鮮人1人1人の反日感情となっているか否かは別として、
差別し不利益な取扱いをしていた日本人は恨まれるようなことを
し続けてきたことをよく知っており、
そのために朝鮮人の反撃を恐れる心理を持つようになっていた。

朝鮮人は日本人の強い差別のため日本社会に受け入れられず、
また経済的生活習慣的、文化的理由から
日本人社会に同居・同化できなかったため、
朝鮮人は同胞が集団を作り、
居住環境の悪いところに集住せざるを得なかった。

当時、差別されていた人の居住地として、
スラム、沖縄出身者居住地域(川崎付近)、
被差別部落、朝鮮人居住地域があったが、
朝鮮人居住地域は居住地域の中では最も劣悪なものだった。


震災少し前の、朝鮮人居住区に関する行政調査報告
 「(朝鮮人の)密住地域の家屋は概ね長年月を経たる木造平屋の長屋で
  腐朽頽廃(たいはい)を極めているが、
  あたかもこの種の長屋住まいは、なお上等の部類に属し
  港区および東成区などに散在するバラック、掘立て小屋、
  アンペラ小屋(アンペラ=かやつり草科の多年生草木)、
  鶏舎(鶏小屋を人間用に改装したもの)などにおける
  朝鮮人労働者の群居生活は、
  その環境の醜悪と相まって
  人間生活の最低標準を思わしむるに十分である」
        (大阪市編「本市における朝鮮人住宅問題」1930年)

朝鮮人が生活の必要上集団生活を余儀なくされている中で、
日本人から見ると理解の出来ない不気味な集団に見えていた。

朝鮮人は外見からは日本人と見分けがつかない類似性があるにも関わらず、
生活習慣、文化は大きく異なっており、
その違いが“不気味さ”を一層増幅させていた。
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2005年09月01日

関東大震災における朝鮮人虐殺〜その1

今から92年前の1913年(大正12年)9月1日AM11:58、
関東大震災が発生した。

マグニチュードは7.9と、
1995年(平成7年)の阪神淡路大地震のM7.2より、
はるかに大きいものだった。

震災後のパニック状態の中で、幾多の悲劇が起きたが、
その中に流言・噂に惑わされた一般民衆による朝鮮人虐殺がある。

ここでは、「朝鮮」、「朝鮮人」という用語を、
差別・軽蔑の意味ではなく、
当時の言い方として使用させて頂くことを、ご了解下さい。


震災の状況
皇室被害(倒壊する建物の下敷きによる圧死)
・神奈川県小田原市・閑院宮別邸では、閑院宮寛子女王が圧死
・神奈川県藤沢市・吉村別邸では
東久邇宮(ひがしくにのみや)師正王が圧死
・神奈川県鎌倉市・由比ガ浜別邸では山階宮妃が圧死

神奈川県・平塚市・海軍火薬庫が大爆発し、200人の死傷者が出た。

横浜地方裁判所
レンガ造りの庁舎が完全に崩壊し
裁判長以下、職員、原告、被告、弁護士、検察官など
100余人が全て圧死。
 
横浜中華街
当時「南京町」と呼ばれていたが、5千人の中国人のうち2千人が死亡。

横浜山下公園
当時山下公園はまだなかった。
関東大震災で倒壊したビルや家屋の瓦礫を海に捨てるために
計画され造られた公園で、開園は1930年(昭和5年)になる。

ジーパン、コーラ
関東大震災の支援物資としてアメリカから入り、その後大ブレークした。

東京警視庁
全焼し、管下の警察署も18署が焼失、倒壊した。

焼失倒壊した中央官庁
逓信省、農商務省、内務省、文部省、大蔵省など

首都機能、財政、金融機能は一時完全にSTOP
中央郵便局、株式取引所、多くの銀行も焼失倒壊
三越、白木屋、松屋、松坂屋、高島屋等のデパートが焼失倒壊
国技館、歌舞伎座、帝劇、映画館等も焼失倒壊
ラジオ放送のない時代情報の伝達に最も威力を発揮する電信・電話は
地震と火災で壊滅しており正確な情報が流れなかった。

火災の火元調査(81箇所)
研究所、学校等の薬品33件、ガス6件、油鍋5件…
「木造家屋での昼食準備中の出火」は予想外に少なく、
火災の原因はほとんどが薬品によるものだった。

東京・浅草(当時東京一の盛り場)
当時、東京初の高層建築「凌雲(りょううん)閣」という
12階建ての建物があり、10階までは総レンガ造り、
11・12階は木造8角形建築、頂上には展望室があったが、
震災で8階で折れ(後に工兵隊が爆破)、
「福助足袋」の看板に引っかかった1名を除き全員が即死している。

夜は「12階下の女」「白首」と呼ばれる私娼4千人が、
この建物付近に集まっていた。

震災後、玉の井へ移動した。
文人・永井荷風たちに愛された玉の井の迷路は、
震災で移って来た女たちが無秩序、無計画に
娼家を建てたことによって造られたものである。

遊界・吉原「吉原弁天池の惨」
籠の鳥とされていた遊女の逃げ場は吉原公園、弁天池しかなかった。

男女1000名が200坪(最深部4m)の池に
集中的に飛び込んだため、人の上に人が重なって大勢の溺死者が出た。

吉原公園の死者
   男52名、女435名、性別不詳3名
吉原廓(かく)の死者
   遊女176人が倒壊による圧死、焼死

墨田区 横綱2丁目「横綱町公園」
陸軍被服廠(しょう)跡地2万430坪の空地
(東京市逓信省に払い下げになっており、
運動公園と小学校建設予定地となっていた空地)を最適の避難場所として
約4万人の一般市民が警察の誘導もあり押し寄せた。

早く到着した者から順番で思い思いの場所に家財道具(=可燃物)を
積上げて居住空間を造って行った。

当日は低気圧の影響で発生した風速10〜15mの強風が吹き、
毎時800m以上の速さで町を舐め尽して(東京市内58の大火系)、
燃える物全てを焼き尽くした9月3日未明まで消えなかった。

突風、竜巻、火柱が突如襲い、瞬時にして一斉に燃え上がり、
ここでの死者は3万8015人(=約4万人)

避難者の約5%、2千人は焼け死んだ人の下敷きになって助かっている。

上にあって焼かれた死体から出た油でギトギトになっていた
とも伝えられている。

東京市役所の被害調査(1926年)
東京府  人口405万人、死者・行方不明者7万497人
東京市  人口226万人、死者・行方不明者6万8660人
神奈川県 人口138万人、死者・行方不明者3万1859人
横浜市  人口44万人、 死者・行方不明者2万3335人
千葉県  人口135万人、死者・行方不明者1420人
埼玉県  人口135万人、死者・行方不明者316人
 ※ 被害は、神奈川・東京に集中していることがわかる。
 ※ 死者のうち、85%が焼死

火災発生状況
東京市 全戸数48万3千戸、全焼3万924戸、
    死者・行方不明者6万8660人、重軽傷者2万6268人
横浜市 全戸数9万8900戸、全焼6万2608戸、
    死者・行方不明者2万3335人、重軽傷者1万208人
 ※ 阪神淡路大震災での死者は6432人

新聞の流言・風説報道
・ 河北新報(9月3日付)
  「知事よりは大阪、兵庫に向かひ、食糧の供給方を懇請せり。」
・ 福島民友新聞(9月4日付)
  「歩兵と不逞朝鮮人戦闘を交ゆ。京浜間に於いて衝突す。
     火災に乗じ不逞朝鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣…」
・ 河北新報(9月4日付)
  「爆弾と毒薬を所持する不逞朝鮮人の大集団
   2日夜闇に紛れて市内に侵入、
   警備隊(=自警団)を組織して掃討中…」
・ 北海タイムズ(9月5日付)
  「不逞朝鮮人強暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ。
   彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」
 ※ 流言や誤報ということだけではなく、
   治安に当たる官憲にとって都合の悪い報道は規制を受け、
   これに従わない下記新聞社は発禁にされた。
  「 都新聞、報知新聞、東京日日新聞、常総新聞、労働組合新聞、
                    中央新聞、時事新報など 」



朝鮮人狩り

千田是也(せんだこれや;芸名、本名:伊藤圀光・早稲田大学)という 
新劇の演出と演技をした人が
震災当時千駄ヶ谷で自警団から朝鮮人に間違われ、検問にあった。

朝鮮人かどうかを見極めるため、
「本籍、アイウエオ、教育勅語、歴代天皇の名前…」
を言うよう強要されている。

彼の友人が後に「千駄ヶ谷のコリヤ事件」を文字って芸名を付けた。

ラジオ放送
ラジオ放送は1925年(大正14年)から
NHKが開始するが、震災当時はまだラジオ放送はなかった。

経験したことのない大震災、大火災で不安・恐怖、情報の混乱があり
「知りたいことを知る手段、方法がない」
ことで、不安・恐怖に支配された噂、流言が自然発生した。


噂、流言
噂、流言の種類
・ 大地震再来説
・ 大津波襲来説
・ 富士山大噴火説
・ 受刑者釈放・暴動説
   (町、村ごとに「武装自警団」が結成された)
・ 社会主義者暴動説
   (社会主義者も自警団に加わっていた)
・ 朝鮮人暴動説
 ※ 日本の朝鮮対策から
   「何かあった時は朝鮮人に襲われるのではないか」
   という朝鮮人に後ろめたい恐怖心が日本人の心の中に
   心理的土壌としてあった。

@ 9月1日、大地震のあった日の夕刻に、すでに横浜市本牧町あたりで
  「朝鮮人放火す」との流言が生まれ、
  夜のうちに「朝鮮人強盗す、強姦す」という内容になり、
  さらに「殺人をおかし、井戸その他の飲料水に劇薬を投じている」
  という流言にまで発展した。

A 流言が流言へと連鎖し、内容が具体的になり、誇張され、
  ものすごいスピードで広がって行ったが、
  発生源は横浜だけでなく、いくつもの場所で、あるいは関連し、
  あるいは何の脈絡もなく朝鮮人暴動・犯行の流言が発生し、
   「現実に起きたもの、起きつつあるもの、
     そしてさらに起きる具体的危険のあるものと民衆に信じられた。


・ 現代史の会編「関東大震災」吉野作造著、「朝鮮人虐殺事件」草風館より

「朝鮮人は二百十日から二百二十日までの間に、
 帝都を中心として暴動を行なう計画をしていたが、
 たまたま大地震が起こったので、その秩序の混乱に乗じて、
 かねての計画を実行したのである。
 すなわち彼らは、東京、横浜、横須賀、鎌倉等震災地に於いて、
 略奪、虐殺、放火、強姦、毒物投入等あらゆる凶行を行なって、
 六連発銃、白刃をもって隊伍堂々各地を荒らしたのである。
 震災当時の火災がかくの如く大きくなったのも彼らの仕業で、
 隊を組みて震災地を襲ひ、首領が真っ先になって家屋に印を付けると、
 その手下の者が後から、あるいは爆弾を投じ、あるいは石油にて放火し、
 又は井戸に毒物を投入して回ったのである。
 …かくの如き暴動・凶行は朝鮮人のみのくわだてにあらずして、
 社会主義者や露国過激派とも関係がある。」


・流言の具体的例
@ 朝鮮人約二百名、神奈川寺尾方面の部落に於いて、
  殺傷、略奪、放火等を続け、次に東京方面に襲来しつつあり。

A 朝鮮人三千人すでに多摩川を渡りて洗足および中延附近に来襲し、
  今や住民と闘争中なり。

B 横浜方面に於ける襲来せる朝鮮人は、
  六郷河畔に於いて軍隊に阻止せられたため、
  一転して矢口方面に向かえリ。

C 原町田を襲える朝鮮人二百名は、さらに相原、片倉の両村を侵し、
  農家を掠め、婦女を殺害せり。

D 朝鮮人目黒火薬庫を襲えリ。

E 戸塚方面より多数の民衆に追われたる朝鮮人某は、
  大塚電車終点附近の井戸に毒物を投入せり。

F 上野精養軒前の井戸水の変色せるは、毒物のためなり。
  上野公園下の井戸水にも異常あり…。

G 朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込み、地震を起し…。

これらの流言は、場所、人数、行為を具体的に特定している。


井戸水は実際にに濁ったらしいが、
地震の際に地下水、井戸水が濁ったり異常が出るのは自然な現象でしょう。

「井戸に毒薬」
は関東大震災の時の流言だけでなく、
中世の
「ユダヤ人が井戸にペストを撒き散らしてキリスト教徒を殺害する」
という流言もある。

これはアーリア人の意識下へ組み込まれ、後のヒットラーへつながる。

最近では「オウムが水源地へ細菌を撒く」という噂があった。


・社会主義者暴動の流言
H 震災前、社会主義者の中浜哲、古田大次郎たちは
  大正末期の社会不安に乗じてテロによる革命を目指し
  「ギロチン社」を結成していた。
  彼らは英国皇太子襲撃なども計画したが何もできず、
  最終目的を摂政宮(後の昭和天皇、このころ大正天皇が病気のため
  皇太子が摂政に就任していた)襲撃においていた。
  その目的のため震災前後に大阪で盛んに
  「リャク(=略奪)」を行なっていた。
  強盗による資金調達である。

I 官憲および民族派民間イデオロギーたちが
  彼らのそういった動きから社会主義者の暴動を警戒していた。
  そんな不穏な空気があった時の震災であった。

J 震災前年の1912年(大正11年)7月、
  信濃川下流に朝鮮人の死体が多数流れ着いた。
  上流の電力会社の工事現場では、1200人の労働者のうち
  600人が朝鮮人であり、どこでも朝鮮人たちは
  現場の中で最も過酷な、危険な労働を強いられており、
  監獄部屋と言われるタコ部屋に押し込められ、
  監督者、同輩日本人労働者からのリンチも受けていた。
  流れ着いたのは、そのリンチによる死体であると思われた。
  その事件を契機に、同年9月7日
  東京神田で日本人500人、朝鮮人500人を集めた
  「信濃川虐殺問題大演説会」
  が開かれ、それまで関係が密とは言えなかった
  日本の階級問題(労働問題)と、民族問題(朝鮮人問題)が
  結びつつあった。

K 「日本の朝鮮政策による朝鮮人たちの抱いている『恨』が
  日本人の労働運動、社会主義運動と結びついたら
  大変なエネルギーとなる」
  ことを官憲は極度に警戒していた。

そういう背景があり、一般民衆が朝鮮人を虐殺することに至るのです。
posted by RIUさん at 14:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 「沖縄」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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