2005年08月31日

沖縄移住ブームの検証〜その4

一昨日の話をもう少し詳しく説明します。
石垣島新空港建設問題では、
自然環境を守りたい地元の反発に対抗して
移住者が建設賛成派の主流を占めている


石垣島白保海岸は、北半球随一と言われる青珊瑚の生息地です。

遠浅の海に、びっしりと珊瑚が育ち、
スキューバダイビング等しなくても、
シュノーケリングで水深1m前後のところで
子供でも安心して珊瑚礁の素晴らしさを知ることができるところです。

1976年、沖縄県は空港計画で白保海岸を埋立てる計画を決定したことに
地元が猛反発し、以来反対闘争が繰り広げられてきました。

そして、海が駄目なら山へと、
2000年には建設地はカラ岳東(現・ゴルフ場)に変更、決定されました。

山に建設されれば台風の度に赤土が海へ流出したり、
空港周辺でのホテル建設などの影響で、
やはり珊瑚が死滅する危険は高く、
また山の洞窟で絶滅を危ぶまれているコウモリ3種類が発見され、
自然環境保護の意味合いで大論争になり、
未だに着工にかかることができません。

これと同様な問題は、過去に小笠原の飛行場建設であって、
これはすったもんだの末、白紙になりました。


石垣島の滑走路は他の空港に比べると距離が短く
1,500mしかありません。

沖縄県内では、久米島や宮古島は既に2,000mの滑走路がありますが、
石垣島は八重山の拠点都市にも関わらず、
滑走路が短いという状況にあります。

日本最南端の与那国島でも滑走路が1,500mしかなく、
2,000mに延長する計画がありましたが、
こちらもまた問題が噴出してまだ解決していません。

ジェット機を運航するには2,000mの滑走路が必要だと言われています。

この1,500mの滑走路でジェット機を着陸可能にしている理由が、
飛行機に重量制限が課せられているからです。

石垣空港を出発するジェット機は
燃料や貨物を満載することができないのです。

そのため貨物の積み残しや、東京に向かう時は、
一度宮古島で燃料を補給しなければなりません。

また、八重山の名産パイナップル等を出荷する際にも、
わざわざ那覇経由で本土に送り出しているため、
その分の日数も必要としているのが現状なのです。

石垣空港は,
地方空港の中では
乗降客が第2位、貨物が1位というくらい利用頻度が高いのです。

また、現空港の南側は市街地化が進んでおり、
騒音被害が広がり現空港周辺の地域からは移設要求の声が出ていたり、
過去にはオーバランと言った事故も起きており、
パイロットからも危険だと言う指摘を受けているのも事実です。


新空港建設によるメリットとデメリット
新空港建設問題には、
事業者や行政のビジネス活性化型開発的立場と、
石垣島住民の環境保護的立場という、
2つの考え方が相対峙しています。

新空港を建設する事が出来れば
中型ジェット機(ボーイング767)が運航できるので、
農産物や水産物を直接、しかもコンテナで東京などに輸送でき、
農業、漁業の発展が見込めます。

さらに、観光業も発展し、雇用環境も拡大する可能性が見込めるでしょう。

また、那覇経由で運んでいた石垣産パイナップルが、
新空港から直接本土に送る事が出来るので単にコストの削減だけでなく、
鮮度保持の面からも有効です。

しかし、島の活性化を優先し、空港を建設すれば、
破壊された自然環境は元に戻りません。

建設をしなければ島は旧態依然の過疎のままで発展は見込まれず、
雇用の改善も見込まれず、
若い人は島を出なくてはならない状況になってしまうのです。

新空港建設問題は、是非はともかく、
この小さな島に取っては大きい問題なのです。


この、新空港建設問題で、
利便性を優先することによる島の活性化を望む建設運動推進派は、
工事を受注したい土建業者、この人たちが指示した議員や市の3役が中心で、
ここには名誉欲や実績欲しさ、談合が渦巻いていることもあるのですが、
建設賛成派の9割以上が移住者で占められてしまっていることも
問題なのではないでしょうか。
posted by RIUさん at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄といえば“移住ブーム” | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月30日

沖縄移住ブームの検証〜その3

郷に入らば、郷に従え

まず、とことん
「受け入れられるものは、受け入れる」
ことが肝心でしょう。

「どうしても、受け入れられないものは、
納得できるように沖縄の良さを残しつつも自分たちで変えていく、
もしくは創造していく」
のは、少なくとも3年以上経ってからにしないと。

“郷に入らば、郷に従え”という精神は、沖縄だけのことではなく、
全国どこでも共通することだと思います。

沖縄の人を「シマンチュ(島人)」と言うのに対して、
本土から沖縄に来た人を「ナイチャ―」と言いますが、
昔は「ヤマトンチュー(大和の人)」と呼んでいました。

現在では「ヤマトンチュ(大和の人)」は死語化して、
一部の年配の人しか使わなくなりましたが、
どちらかというと、本土の人を忌み嫌ったり、
バカにしたような差別用語として使われることが多いはずです。

もし、これを言われた人は、嫌われるような心当たりを
胸に手を当てて思い出して下さい。

沖縄の歴史においては、
1609年に薩摩藩の島津に琉球王朝が侵略されて以来、約400年間も、
日本とアメリカの植民地状態になって現在まで至っています。

島津の侵略の後も、
1879年(明治12年)の「琉球処分」、
1945年の沖縄戦、
1972年の日本復帰、
その後も常に米軍基地と隣り合わせの生活を余儀なくされている現状など、
「歴史・経緯」をよく理解するべきでしょう。

沖縄独特の金銭的相互扶助システム(民間金融)である
“模合(モアイ)”にしても、移住者は信用上まず入れてもらえません。

過去に、本土から来た人による「持ち逃げ」事件があちこちにあり、
受け入れ側に『よそ者は信用するな』という
防御ラインが存在しているのです。

「沖縄人は誰でも受け入れる」というのは、実は表面上だけで、
本当はこの防御ラインは程度の差こそあれ、誰でも持っているのです。

移住者は、先人(過去に沖縄に迷惑をかけた本土の人たち)の
責任の一端も負わされている、
いわば「色眼鏡で見られている」ことも理解してほしいのです。

そういうこともあって、少なくとも3年間はじっと辛抱してほしいのです。

その3年の間に、今まで知りえなかった色々なことが見えてくるはずです。

そうなることによって、
その土地が長い歳月を経過して創り上げた文化や伝統、風習が
いかに貴重なものなのかも理解できることと思うのです。

本当に、地元民と理解しあえるのは、それからではないでしょうか。


また、沖縄では小さな集落・部落ごとにまとまっていて、
隣の部落とは一線を引いています。

この「まとまり・結束」というのは、
全国的に見てもけっこう強力だと思います。

例えばNHKの受信料は、沖縄は6割が未払いです。

1972年までは、アメリカの統治下に置かれていましたが、
その間はNHKはタダで観ているので、
「どうして放送受信料を支払わなければならないのか?」
という疑問が多くの人たちにあることと、
NHKの集金兼新規契約に個別にやって来ても、
もしうっかり支払ったり、契約したりすると、後で
「なんで支払ったのか?」
「あんたととこで支払ったために、私のところで迷惑した」
とか近所から言われてしまうんですよ。

だから、近所の手前、かたくなに拒むことになるんです。

NHKの集金アルバイトの求人も毎回出ている、
ということは契約社員の回転が激しいことを意味しています。

NHKの集金も半ばあきらめているようで、
私の所にはオリンピックの開催年にしかやってきません。

例えが悪かったかなexclamation&question

本土からの移住者に対して「よそ者」扱いをするだけではなく、
沖縄の中でも、「よそ者」扱いが存在しています。

なにせローカルな島国ですからね。
“島国根性”が存在することも許して下さい。

私の住んでいる本島南部の中核都市・南風原(はえばる)町から
本島北部に行くと、そこはもう「よそ者」が来た、という感覚です。

やれ、
「名前は何だ?」
「出身地はどこだ?」
と聞かれてしまいます。

昔は、石垣島や宮古島は、流刑の島だったようで、
石垣島は殺人者や暴力犯罪者、
宮古島は政治犯と、
選り分けられていた時代があったようです。

本島内70歳以上の方たちの話では、
「昔は宮古や八重山(=石垣)の人との結婚は一族で反対された」
と言っています。

そういうこともあってか、宮古島出身者の結束は相当なもので、
本島内でいくつもの宮古グループも存在しています。

ローカルだから、良くも悪くも「村社会」なんですよね。

いくつかのポイントさえ理解しておけば、
ここは亜熱帯気候で東南アジアで、
本当にのんびりできて最高なんですけどね。


昨日、書き忘れましたが、「食事」の問題。

北海道や長野県、宮崎県などの農業王国と比べると、
沖縄は悲惨かもしれません。

特徴的なのは「県産豚肉」「近海まぐろ」です。

沖縄の島酒(=泡盛)は、沖縄料理に合うのですが、豚肉料理にも合います。

沖縄料理は、豚肉とは切り離せないくらい密接な関係があって、
沖縄そばの「ソーキ」は豚のアバラを骨ごとブツ切りにしたものですし、
ダシは基本的に豚・カツオ節・昆布で取ることが多いです。

「まぐろ」だって、冷凍物ではなく、近海物を食べられるのは、
本土でも何箇所もないのではexclamation&question

それ以外は、
ゴーヤとかナーベラー(=へちま)などの野菜が
食べ続けられるほど好きなのかどうかexclamation&question

魚だって、決して美味しくない熱帯魚のようなのが
食べられるのかどうなのかexclamation&question

「チャンプルー」という炒め物が肌にあうのかどうなのかexclamation&question

観光で3泊4日でやってきて、
「沖縄料理が美味しかった」
というのは、短期間のせいかもしれませんよ。


住宅環境は、本土と比較すると安いです。

住宅情報誌を盗み読みしても、
1ルームで3万円程度からありますし、
戸建ての賃貸でも7万円くらいからありますからね。

本土の人は、「保証会社」を間に入れないと借りられません。

1ヶ月2〜3千円程度らしいので、問題はないと思いますが。

通常は、県内在住の原則・沖縄人2名の連帯保証人を要求されるのです。

縁故者がなくて移住した人には、そんなことムリでしょう。

本土と違って沖縄は、
退去時は基本的に「敷金」はそのまま全額返ってきます。
よほど、汚したとか勝手に改造したとかしなければの話ですが。
posted by RIUさん at 11:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄といえば“移住ブーム” | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月29日

沖縄移住ブームの検証〜その2

沖縄本島では、本土出身の移住者をよく目にします。

本土から石垣島の移住はさらに多く、
「石垣島の人口の1割〜2割は移住者」
と言われるほどで、
石垣市役所の移住担当者も1日に100〜200件の問合せに
てんてこ舞い状態のようです。


沖縄の市町村の期待
沖縄の市町村は、どこも財政難ですから、
住民登録をする移住者は基本的に大歓迎なのですが、
その年の1月1日現在に在住している市町村に課税されるのが
住民税(県民税+市町村税)ですから、
転入後しばらくの間は、市町村の地域活性化に寄与する以外は、
市町村には恩恵はあまりないんですよね。

市町村としては、できるだけ長期間居続けてほしいわけです。

他に、都会のIT業界やサービス業界などに
従事していた移住者たちが持っている“ノウハウ”を
「島おこし」に活用できる可能性も期待しています。


勝手に描いた幻想のまま移住すると失敗する
青い空と青い海など“楽園”に憧れて、
首都圏などから島に移住してくる多くの人々は、
定年後移住だけでなく、働き盛りの30〜40代の男性や、
本土での就職をあきらめて、島に希望を求めてきた若者など
移住してくる人たちの年齢層は幅広いです。

石垣市を例にとって見ると、
住民票異動の転入手続きをした人が約3千人も増加し、
これに、住民票を異動しないで生活をしている人も含めると、
その数は5千人に達すると言われています。

石垣市の人口は約4万5千人ですから、
単純に計算すると、実に9人に1人は移住者ということになります。

せっかく永住する目的?で沖縄に入りながら、
約9割が本土に帰るのは、下記に問題があったことが考えられます。

「移住=骨を埋める」という心構えで行くことを決意したのかどうかexclamation&question
新しい土地に移り住むということは、
「今まで住んでいた土地を清算すること」です。

清算せずに置いておき、
沖縄は「仮の住まい」として出て来るなら、
“移住”ではなくて、「長期滞在」ですよね。

現地の人も、「本気ではない」と取り合わない可能性が高くなります。

安易な「勝手に抱いた幻想」ではなく、
移住する地域や沖縄について、充分な“下調べ”をしてきたのかどうか
exclamation&question
“ブームに便乗”、“勢い”、“楽園願望”だけで
島に飛び込んでくる若者たちも多く、
「こんなはずじゃなかった」
とホームレス化している人もいるようです。

ウィークリー・マンションや民宿などで、
以前に1ヶ月前後滞在してみて、
長期に住めるかどうかの「テスト」をしたのかどうか
exclamation&question
「修学旅行で行ったことがある」など観光旅行と、
実際に拠点を構えて生活するのとでは、自ずと違うはずです。

“ぶっつけ本番”ではなく、
「下見」や「テスト滞在」は、
移住を成功させる1つの要因ではないでしょうか。

自分の方針や本土のやり方を踏襲しようとしていないかexclamation&question
八重山諸島などは、自然があふれる秘境のような場所が、
移住してくる人達の住居の建築ラッシュで環境的に問題になったり、
その土地が長い歳月を経過して創り上げた文化や伝統、風習を
「良かれと思って」変えようとしてみたり、
利便さを求めた運動を展開、例えば
 『石垣島新空港建設問題では、自然保護の地元の反発に対抗して
   利便性を求める移住者の多くがが建設賛成派となっている』
ような運動をしてみたり、
“内地の風”を送り込もうとしていないかexclamation&question

沖縄に移住するなら沖縄に染まり、
“今の”沖縄を大事にして行く気持ちがないと
やってゆけないと思います。

はっきりした目的を持って、沖縄に来ることを決めたのかどうかexclamation&question
「のんびりしたい」、
「あくせくした生活から脱出して」
等、安易な気持ちで移住するのでは長続きしないでしょう。

毎日海を眺めて暮らすわけにもゆかないでしょうから。

沖縄ではこれを楽しみたい、という“目的”は絶対に必要でしょう。

自動車の運転免許を持っているのかどうかexclamation&question
沖縄のバスは、過疎になるほど本数が少なく、
1日に1便しかない路線もあります。

ちょっとした買い物に行くにも、車がないと不便でどうにもなりません。

仕事はどうするのか考えているのかどうかexclamation&question
沖縄では、高校新卒者の就職率は全国平均で9割なのに対し、
沖縄は最下位の6割しかありません。

要するに、全国一失業率も高い県なのです。

「仕事は沖縄に行ってから探そうか」というのでは、
よほどの実績や資格がないとかなり難しいと言えるでしょう。

営業職は、仕事にもよりますが、
本土の人ではなかなか厳しいはずですよ、
お客さんに相手にされないですから。

また、安易な「起業」は沖縄でもバタバタと失敗しています。

事業計画が石橋を叩いて、
安全率を考慮して作成されているのかどうか、今一度見直して下さい。

農業をやろうとしても、農地はなかなか借りられないですよ。
移住前に、栽培作物の選定をしたり、収穫後の販売方法など計画を作成し、
移住地の農業委員会などに事前に農地借り入れ等の相談をすることが
必要でしょう。
実際には、それでも難しいと私は思います。

万一、夢破れて本土へ帰る場面になったとき、
沖縄の悪口三昧を言わないようにしましょう。

現実とのギャップについてゆけないのは、自分のせいであって、
沖縄のせいではないのですから。
posted by RIUさん at 19:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄といえば“移住ブーム” | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月28日

沖縄移住ブームの検証〜その1

・ 青い海
・ 青い空
・ 白い砂浜
・ 食べ物が豊富(?)
・ 物価が安い
・ 冬でも寒さ知らず
・ 花粉症もない
・ のんびり過ごせる
等、こんなに良いこと尽くめの沖縄で、
のんびり暮らしたいと夢見る人が多いのは当然のことかもしれません。

最近3年間で見ると、
大変な“沖縄移住ブーム”を迎えていることが分かります。
2002年度 年間移住者2万5千人
2003年度 年間移住者2万7千人
2004年度 年間移住者2万7千人

このままのペースで行くと、
10年後には延べ約30万人近い移住者が
沖縄人として生活しているように思えますね。

でも、実際には、出て行く人たちも多いのです。
毎年、移住者の90%を超える人たちが島を去ってゆくのも現実なのです。

テレビ番組では“沖縄”が頻繁に取りあげられ、
「沖縄に行くこと」、「沖縄に移住すること」がブームになり、
沖縄観光雑誌だけでなく、沖縄移住本もたくさん売れているようです。

『沖縄病』という「沖縄に行きたくて行きたくてたまらなくなる」
という病気もあるようです。


統計の中で、「地域類型間移動パターン」というのがあります。

要するに、
「現在、大都市圏に住んでいるが、将来は非大都市圏に住みたい」
とか、その逆、あるいは
「大都市圏に住んでいるが、将来も引き続いて大都市圏に住みたい」
とかいうものをデータ化したものです。

割と膨大なデータで、
「過去5年間」と「今後5年間」では、数値に大差がないので
『今後5年間』に的を絞ります。

・ 大都市圏内で今後も生活する   50.9%
・ 非大都市圏内で今後も生活する  38.6%
・ 大都市圏内で生活しているが、将来は非大都市圏内で生活したい
                           6.1%
・ 非大都市圏内で生活しているが、将来は大都市圏内で生活したい
                           4.5%
というように、大まかに捉えると、
大都市で生活している人が、将来ローカル地域で生活する数値は
低いですね。

これで考えられることは、
ごく限られた一部の熱烈な移住希望者が存在していることです。

もう少し、探るために「移動の理由」で考えて見ましょう。
・ 入学・進学
・ 就職
・ 転職
・ 家業継承
・ 定年退職
・ 住宅事情
・ 生活環境
・ 通勤通学
・ 親と同居など
・ 子と同居など
・ 随伴移動
・ 結婚
・ 子育て環境
・ その他
など、移動するきっかけには様々な事由がありますが、
「沖縄」で考えると、自ずと絞られますよね。

就職・転職、結婚などは、ごく少数でしょうし、
随伴移動だって、国家公務員が中心でしょうから、これも少数です。

最大なのは「定年退職」後の、沖縄移住希望の可能性が高そうでしょう。

ここで、定年退職者の移動パターンを見てみます。
・ 大都市圏内で今後も生活する   11.7%
・ 非大都市圏内で今後も生活する  14.6%
・ 大都市圏内で生活しているが、将来は非大都市圏内で生活したい
                           50.4%
・ 非大都市圏内で生活しているが、将来は大都市圏内で生活したい  
                           13.9%
・ 大都市圏内で生活しているが、将来はまだわからない           
                            6.6%
・ 非大都市圏内で生活しているが、将来はまだわからない          
                            2.8%

ここで、
「定年退職者が定年を契機に、“田舎”に移住したい」
という裏付けが出てきました。

さらに、
・ 転職
・ 定年退職
・ 親と同居
という事由に「非大都市圏での生活を希望」志向が強く、
また50歳以上の男性定年世代の調査では、
定年退職を理由とした「非大都市圏での生活を希望」する人が、
過半数に上ります。

1940年代後半ベビーブーム生まれの
団塊世代の定年退職が本格化する中で、
沖縄への移住希望者もまだまだ増加することが予想されるわけです。

せっかく縁あって沖縄に住むなら、できれば永住してほしいと思います。

多くの移住者が永住希望でやってきながら、
ほとんどが3年以内に去って行くのですが、
どこにどういう問題があって、どういう心構えが必要なのか、
何回かに分けて、いろいろと検証してみることにしましょう。


沖縄の人口分布
昨年2004年の沖縄県の人口は135万人を突破しました。
その内、沖縄本島には90%の人口が集中しています。

沖縄の市町村の人口ランキング・BEST10
1位 那覇市  31万人  (沖縄の中心)
2位 沖縄市  13万人  (米軍駐留で生まれたまち)
3位 浦添市  11万人  (那覇市北隣の商業集積地)
4位 宜野湾市  8万8千人(基地が真ん中にあるまち)
5位 具志川市  6万5千人(闘牛のまち)
6位 名護市   5万7千人(本島北部の中心地)
7位 糸満市   5万7千人(漁師のまち、ひめゆりの塔など戦跡のまち)
8位 豊見城市  5万2千人(那覇市南隣の那覇のベッドタウン)
9位 石垣市   4万5千人(八重山諸島の中心地)
10位平良市   3万5千人(宮古島の中心地)

一方、46の有人島の中で人口が100人に満たない島は
以下の「11」に上ります。

人口100人未満の沖縄の離島(2004年度)
・ 慶良間島(けるまじま、座間味村) 84人
・ 下地島(しもじしま、伊良部町)  67人
・ 水納島(みんなじま、本部町)   49人
・ 大神島(おおがみしま、平良市)  49人
・ 奥武島(おうしま、久米島町)   33人
・ 水納島(みんなしま、多良間村)   7人
・ オーハ島(久米島) 7人
・ 新城島・上地(あらぐすくじま・かみち、竹富町) 5人
・ 新城島・下地(あらぐすくじま・しもち、竹富町) 2人
・ 宮城島(みやぎじま、渡嘉敷村)   2人
・ 加屋間島(かやまじま、武富町)   1人

人の少ない小さな島で暮らしたい人には格好の適地かもしれませんが、
離島ほどガス・電話・電気などが完備されていない可能性・大です。

ガスは、プロパンですから、個人で、そのつど運べば
どうにかなりそうです。

また、離島は、インターネットも出来る環境かどうか、不明です。
携帯電話が通じない地域もありますから。

自給自足の島流し状態、“ロビンソン・クルーソー”を夢見る人には
うってつけでしょう。

また、沖縄は、面積が狭いこともあって、予想外に人口密度が高いです。
(人口密度=1平方km当たりの人口)
2003年度の全国平均が約340人でしたが、
沖縄は約597人と、全国9位となっています。
1位 東京都   5694人
2位 大阪府   4668人
3位 神奈川県  3618人
4位 埼玉県   1861人
5位 愛知県   1396人
6位 千葉県   1173人
7位 福岡県   1018人
8位 兵庫県    667人
9位 沖縄県    597人
10位京都府    574人
11位香川県    544人
12位茨城県    491人
13位静岡県    489人
14位奈良県    388人
15位長崎県    365人
 …
44位島根県    112人
45位秋田県    100人
46位岩手県     92人
47位北海道     72人
posted by RIUさん at 12:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄といえば“移住ブーム” | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月27日

沖縄県の飲酒運転の意識は日本一低い!〜その1

ご存知のように道路交通法が強化され、下記のように厳しくなりました。

酒酔い運転
「3年以下の懲役または50万円以下の罰金」

酒気帯び運転
「1年以下の懲役または30万円以下の罰金」

この罰金額を見ると、酒気帯び運転はしたくないですよね。


沖縄県では、飲酒運転の取締りが緩いことも一因でしょうが、
永年の飲酒運転の習慣からなかなか抜け出すことができず、
むしろ増加傾向にあります。

以下、昨年2004年度における沖縄県の飲酒絡みの数字をご覧下さい。

飲酒運転摘発件数  9360件
(1日約26人が検挙。人口比でみると、全国平均の約6倍exclamation
罰金総額      年間約19億円
飲酒による運転免許取消し処分  1072人
(1日平均で約3人が取消し)
飲酒・喫煙・深夜はいかいなどの不良行為での補導少年・少女  
延べ3万6586人(全国平均の約9倍)

飲酒運転に絡む死亡事故が多い都道府県ランキング(2004年度)
1位  沖縄県  構成比34.4% (2位の1.7倍で断トツ)
2位  青森県  構成比18.4%
3位  徳島県  構成比17.2%
4位  和歌山県 構成比16.8%
5位  宮城県  構成比16.1%
 …
47位 石川県  構成比  1.5% (沖縄は、石川県の約23倍)


引越し前の住宅街では、向かい側の家は現職警察官の家庭でしたが、
時々職場仲間が数人やってきて,
夜中の12時過ぎまで飲食をしていました。

狭い道路に何台も縦列駐車をしているので、私の帰宅が遅くなると、
我が家の車庫に車を入れることができず、
宴会中に路上駐車の一時移動をお願いしに行っていたので、
缶ビールや島酒(=泡盛)の1升瓶が置いてあったり、
「一緒に飲んでけ」と誘われたり、
間違いなくウーロン茶やジュースによる宴会ではないんですよね。

ここの主人は酒が飲めないので、飲酒しているのは現職の仲間なんですよ。

もちろん彼らは飲酒運転で帰るのです。
現職警察官でもこういう実態なんですよ。


沖縄県内は、飲酒の検問はかなり少ないです。

飲酒運転をする人たちは、飲酒の検問の場所やパトカーが出没する地域を
なぜかあらかじめ知っているので、
それらを迂回したルートで帰ってこられるわけです。

現在住んでいる地域でも、7割以上は飲酒運転をしているはずです。

沖縄には、電車がないですから、交通手段は「車」しかないんです。

モノレールは、那覇市の中心的な地域にしかありませんから、
沿線に住んでいる人たちなら都合が良いかもしれません。

バスは、10時台には最終が出ますから、“足”は「車」になるんですね。

沖縄の居酒屋には駐車場もあり、「車での来店歓迎」です。

もちろん、沖縄にも「代行」はあります。
でも、2種免許所持者が義務付けされてから、
料金もUPし、タクシー並みになってきました。

そのため、多くは地元の居酒屋で飲む機会が増えてしまいます。
帰りも近いし、“安全”ですからね。

居酒屋も明け方の5時が閉店の店が多いです。

夜中の道路も、空いているものの、
フラフラしていてる車や信号無視の車も多く、けっこう危険です。


沖縄では、罰則強化や権力で押さえ込む方法ではなく、
飲酒をする会合のリーダー格の人たちの意識改革ができれば、
たちまち減少傾向に転ずることができるでしょう。

これは「言うが易し…」だと思いますが。

私は、道路交通法の罰則強化で、早々と飲酒運転は止めました。
当たり前ですよね。
posted by RIUさん at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄といえば飲酒運転 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月26日

「ヤツ」と「電車男」と「のび太」の共通点!

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電ヤ男3話キャプチャー画像.jpg
電ヤ男キャぷター画像2.jpg
電ヤ男キャぷター画像1.jpg
のび太.gif

ヤツ犬の笑い顔は、時々電車男に似ていると思っていましたが、
よく考えると電車男との類似点もありました。

ヤツ犬の性格
・ 人恋しく、家族を頼る
・ 特別な我がままではない
・ 少しずつ成長している
・ 電車男的ノミの心臓男

電車男
・ ネットの仲間に相談し、頼る
・ 我がままではない
・ 少しずつ成長している

ここまで来たとき、あることに気がつきました。
「電車男」と、「のび太」です。

のび太
・ ドラえもんを頼りきり、依存症の典型
・ 我がまま
・ 冴えない、要領が悪い、ツキに縁がない、
  ドジ、のろま、甘えん坊、泣き虫

3者を比較すると、
ヤツ犬は家族だし、前世で関係があった人だし、
ひいき目に考えざるを得ません。

ディズニーのアニメにもなった有名な『美女と野獣』という物語。

魔法をかけられ野獣に変えられてしまった王子。
バラの花びらが散ってしまう前に、
心から自分を愛してくれる人と出会わなければ魔法は永遠に解けない…
1枚、また1枚と花びらは散っていってしまう…
という内容でしたっけexclamation&question

どうも、最近ヤツ犬を見ていると、
「こいつ、ホントは人間なんじゃないかexclamation&question
「魔法で犬にされてしまっているに違いない」
と思って、ヤツ犬と見つめ合っています。
気持ち悪いねexclamation

電車男は、TV版の主役・伊藤淳志がムチャクチャはまり役ですが、
主人公の彼(山田剛司)はオタクで、
自信のなさ、気の弱さ、世渡りのヘタさ、要領の悪さ、
ツキのなさ等冴えないヤツですが、
同時に人の良さや優しさ、純情さ、思いやりが人一倍ある人間で、
自信のなさから、ネットの住人に、いちいち相談しながら、
彼も勇気ある人間に確実に成長して行くんですね。


ドラえもんの悩みの種?野比のび太を考えてみましょう。

ドラえもんの最初の設定というのは、
野比のび太は、勉強もダメ、スポーツもダメ、
その他ほとんどのものがダメという、自称「世界一不幸な少年」。

その不幸ぶりは大人になってからも消えることはなく、
大人になってから作ってしまった借金のため、
子々孫々にまで迷惑を与えてしまうことになってしまうので、
22世紀からドラえもんがやって来た、
ということになっていたはずです。

ジャイアンやスネオにいじめられたり、
テストで0点をとってママに叱られたりで、
毎日毎日ドラえもんを悩ませています。

何かあるとすぐにドラえもんの道具に頼ってしまうが、
その道具の使い方などは天才的であり、
動植物を愛する優しい心と、
いざという時に困難に立ち向かう強い心を兼ね備えています。

そして映画では、なぜか勇猛果敢で正義感も強いのび太でもあります。

しかし、のび太の成績や性格が良くならないのはドラえもんのせいでもある。

「自分がいなければ、のび太はどうなってしまうのだろう」
のび太は、そんな思いを抱かせるんですね。

子供のクセに母性本能をくすぐるタイプなんですよ。

甘え上手ののび太だからこそ、ドラえもんは真剣になってしまうんです。

ドラえもんは「しょうがないなあ、のび太くん」
などと面倒くさい嫌なフリをしながらも、
実は喜々として、かいがいしくのび太の面倒を見るんですね。

人に頼るのが好きなのび太。
頼られるのが好きなドラえもんは、名コンビなのです。

要するに、のび太はドラえもんを頼るばかりで、
成長がみられないんですよ。

のび太はドラえもんの道具ばかりアテ込んで、
小ズルさばかり目に付き、何か釈然としません。

その反面、ネットの住民に相談するものの、
自身で努力し、克服してゆく電車男とは、
“ひ弱さ”の部分は共通しているものの、
全く異質なタイプだと思います。

電車男は良いヤツで好きだけど、どうものび太は好きになれません。

でも、のび太はまだ10歳らしいから、しょうがないかexclamation&question
posted by RIUさん at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | RIUさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月25日

頑張れ、被害者部員!

昨日の駒大苫小牧高校の記述が長すぎて、疲れてしまいました。

バカバカしい話は昨日で終了の予定でしたが、
心残りのことが、もう1つありました。

被害者部員の置かれている環境についてです。

彼は、現在も学校に通学しているようですが、
とてもつらい立場に置かれています。

針のむしろ状態でしょう。

教職員からは白い目で見られていることは間違いありませんし、
全校生徒から注目され、矢のような視線を浴びているはずです。

クラスメートや野球部員は、
彼から遠ざかり気味になっていることでしょう。

中には、冷やかしや嫌味を言うヤツもいるかもしれません。

今まで親友と言えた人たちも、やや距離を置いている可能性があります。

誰も村八分の仲間にされたくないですからね。

一種のイジメられ役状態にあると思います。

普通の精神力なら、とても耐え切れず、登校拒否になってしまうでしょう。

彼は、この苦しい日々を通して、強い人間になるはずです。

胃がおかしくなるような毎日も、決してムダにはならないでしょう。

だから、頑張ってほしいのです。


彼は昨日病院で診察を受けたようです。

詳しく記事を読みませんでしたが、
「顎関節が外傷に起因して傷んだ」という診断だったようです。

これは、「訴訟の準備」に入っていることを意味しています。

診断書を取り、警察へ被害届を提出し、
それとは別に民事訴訟を起こす準備の一環だと思います。

日本高野連は25日、
 「駒大苫小牧高校に対して、まず被害者に謝罪をするべきだと、
  北海道高野連を通じて、指導した」
ことを発表しており、当然なことですが、
まだ学校側は謝罪もしていなかったんですねexclamation&question

それでは、「刑事事件としての被害届」と
「治療保障と慰謝料を柱とする民事訴訟」を起こされても、
当たり前ですよね。

昨日の学校の記者会見で
「(殴った回数が)3、4発だったら秋の大会に出られるかもしれない」
という教頭の発言内容に日本高野連は強い不快感を示し、
「回数が少なければ、出場できるというのは、
まったく認識ができていない。不見識を反省してほしい」
と北海道高野連を通じて、学校側に伝えたようです。

学校がこだわっている“殴った回数”ではないんですよね。

被害者部員にも、殴られる原因があったと思います。

訳もなく殴られるはずはないでしょうからね。

運動部員なら、何度か殴られるくらいのことは、よくあることでしょう。

殴られる理由に心当たりがあれば、多くの人は問題にはしないでしょう。

今回の場合は、学校側が事実を隠したり、事実を曲げたり、
圧力をかけたり、謝罪をしなかったこと等から、
信頼関係が最悪のものになってしまいました。

学校側が、被害者部員をナメきっていたわけです。

学校側は、対面やプライドより、
いち早く被害者部員に謝罪し、示談を完了させておくべきでした。

こじれた今から、重い腰を上げて、高圧的に、形だけ謝罪しても、
もはや手遅れでしょう。

学校側は、こうしている今でも、
“起死回生の秘策”を練っているに違いありません。

並外れたバカ集団ですね。
バカもここまでくると、“天才”なのかもしれません。

駒沢大学の前身は「曹洞宗大学」ですが、
曹洞宗というのは、今から約750年前の寛元2年(1244)
道元禅師によって福井県永平寺で開創された
日本の禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗・普化宗)の1つで、
座禅を通して真実の自己・仏性に目覚めることを教義としている宗派です。

御本尊は「お釈迦さま」で、
唱名は「南無釈迦牟尼仏(なむ・しゃか・むにぶつ)」。

全国に約1万5千の寺院と、800万の檀信徒を擁する
大宗団なんですね。

この立派な曹洞宗の大学付属高校の教員は、
全員でないことを信じたいですが、
「腐れ坊主」と「生くら坊主」が主導権を握っているんですね。

こいつらが、この次に生まれ変わるのは「コウモリ」しかないでしょう。


レギュラー選手や野球部員は暴力事件については「無罪」です。

偉業を達成したことは称えられるべきでしょう。

でも、暴力の事実は知っていたんですよね。

知っていながら、とぼけていたんですよ。

彼らが今しなければいけないことは、被害者部員を守ることなんです。

被害者部員は、例えレギュラーではなくても、
一緒に汗水垂らして頑張ってきた仲間なはずですから。

日本の頂点に立ったスポーツマンなら、
ここで“範”を示してほしいものです。

それが彼らにできるでしょうかexclamation&question

キリシタンの「踏み絵」のようなものです。

それができないなら、優勝旗を持つ資格はなく、直ちに返還すべきでしょう。
posted by RIUさん at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄の?スポーツ「野球」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月24日

小ズルい駒大苫小牧高と煮え切らない高野連

昨日の駒大苫小牧高校
駒大苫小牧高では17日(水)から夏休みが明け、
2学期の授業がスタートしていましたが、
この日は同校体育館で全校集会後、臨時休校となりました。

全校集会後には篠原校長のほか、香田誉士史監督と、暴力部長も同席し、
全校生徒に対して事情説明があった模様です。

暴力部長からの謝罪もあり、選手たちは涙していたという。

全校集会では、学校側は、いったい何を話したのでしょうかexclamation&question
暴力部長や野球部監督、校長など生徒を指導する側が、
野球部員や生徒に土下座して、
 「日ごろ、ウソをついたり、隠し事をするな、と言ってるのに、
  それを教えている指導者側が小ズルい隠し事をしたせいで、
  学校の名誉を著しく汚してしまっただけでなく、
  高校野球の伝統にも傷をつけてしまった。
  ひいては切腹してお詫び申し上げます」
と言ったのでしょうかexclamation&question

それとも、手前勝手な経過と醜い言い訳、保身に終始したのでしょうかexclamation&question

野球部員や生徒からも、
学校側の不手際に厳しくやり玉に上げるようなことはな
かったのでしょうかexclamation&question

「部員が涙した」というのだって、部員も暴力行為を知っていたのではexclamation&question
目にゴミが入ったんだろexclamation&question
それとも松田聖子みたいなウソ泣きexclamation&question
部員は「暴力行為が全く知らなかった」とは考えられません。

同校では、電話で日本高野連・北海道高野連に事情を説明したが、
さらに詳細な報告を求められたこともあり、
全校集会後、午後2時から同校内で暴力を受けた野球部員に対して
教頭、生徒指導部長による事情聴取が約2時間にわたって行われました。

学校側ではこれまで暴力部長が
「部員を3、4発叩いた」
と説明しましたが、
部員は事情聴取で
「きちんと数えていないが、20回以上殴られたのは間違いない」
と話したと言います。

体罰の程度などについて野球部長と部員側で食い違いがあること、
また事件発覚についても自主的に公表したとする駒大苫小牧に対して、
日本高野連への匿名投書があり、
取材で初めて明るみになったという食い違いもあります。

心配なのは、
学校側による事情聴取で、被害部員の「保護」がなされているのか、
ということです。

普通なら、
加害者側が、被害者を監禁状態にして事情聴取するなんて有り得ません。

駒大苫小牧の教員が日教組や他の労組の組合員であってもなくても、
教職員という1つの「村社会」の中の互助仲間ですから、
中立・公平な立場であるわけはなく、
明らかに暴力教師(=加害者)容認の立場で高座に付いて、
被害者を下座に付かせて有利に話を進めようとしたわけです。

明らかに「教職員と生徒」=「強者と弱者」の構図です。
しかも、被害者は、まだ未成年です。

本来なら、保護者か弁護士を同席させても当たり前だし、
力関係から言っても、
被害者だけを2時間も拘束するなんて傲慢な異常な行為ですよね。

この部員は被害者であって、
今回のいかなる結論でも、この被害者の責任では有り得ないのですが、
学校側の醜い保身によっては、
この部員が学校に居づらくなってしまうのではないでしょうかexclamation&question

居づらくなるのは暴力部長のはずだし、
暴力部長はぐずぐずしないで、いさぎよく辞表を提出し、
被害者への保障と、
被害者が堂々と学校へ、野球部へ復帰できるようにさせることが
責務ではないでしょうかexclamation&question

こういう出来損ないの指導者が、“先生”と言われて舞い上がり、
「オレは偉いんだ」と錯覚して、
立場の弱い生徒に暴力やセクハラに及ぶなんて、
そいつらの先祖は悪代官か越前屋に違いないexclamation

そういうヤツは
「地獄の訓練(管理者養成コース)」
への参加か、
「サマワ」
に派遣させることをお奨めします。

2番目の被害者は、野球部員です。
「甲子園での連覇」を目標に、血が出るような努力を積み重ね、
ついに栄光をつかみ取りました。

主役である選手や部員たちにはみじんの責任もありません。

祝勝お披露目も街を上げて、道を上げてやるべきでしょう。

彼らは道民の誇りのはずです。

彼らのその実績より、今後はむしろ色眼鏡で見られる可能性があります。

3番目の被害者は、一般生徒です。

強制的に、甲子園に母校の応援に旅費個人負担で駆り出され、
短い夏休みの大半を甲子園で過ごし、
一生忘れられない“夏”を過ごしてしまいました。


セコい学校側の動き
昨日23日に被害部員を軟禁状態にして2時間も事情聴取を行った結果、
学校側と被害者の部員側とで、食い違いが出ました。

高野連は、
「正確な報告書を出せ」
ということで、
学校側は、今日24日に、
再度被害者の部員と他の野球部員の事情聴取をして、
違う意見をそのまま対比させ、報告書を作成し、
早ければ25日にも北海道高野連を通じ、
日本高野連に報告書を提出する見込みといいます。

なぜ、もっと早く報告書が提出できないのかexclamation&question
事実は1つのはずなのにexclamation

何年も前の出来事を調べているのではないでしょう。

学校側が発表してしまった内容を、変更するのに体裁が悪いのかexclamation&question

殴った回数が20発以上ではなく、2〜3発なら
「なーんだ、2・3発なら」
という、殴った回数と評価が比例すると甘く見ているのかexclamation&question

学校側の作成した“シナリオ”の通り、
被害者部員を封じ込めようとしているのかexclamation&question

被害者部員は、ガマンにガマンを重ね、学校側の余りの身勝手さに、
ついに浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城内で殺傷尊汰に及んだように、
また江戸北町奉行・遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)が
お白州で桜吹雪を見せつけるように、
堂々と事実を話すように至ってしまったわけです。

学校側が「こういうことにしてくれ」という身勝手なシナリオに、
彼はついにキレてしまったわけです。
当然ですよね。
私なら、学校を爆破させているかもしれません。

被害部員が、ここまでかたくなに、
学校側の身勝手なシナリオと違う本当の“事実”を主張するウラには、
胸ポケットに「退学届け」も持っているような覚悟でいるはずです。

学校側は、体裁やプライド、保身より、
まずこの被害部員の置かれた立場を理解してあげてほしいと切望します。

高野連の処分内容によっては、
その責任をこの被害部員が一身に負うことにもなりかねません。

レギュラー選手を始めとする部員などからの圧力もあるかもしれないし、
学校内で孤立、村八分化する可能性もあるでしょう。

終戦後、満州などからの復員船で、
ソ連兵にレイプされた多くの日本女性が村八分になり、身を恥じて、
身ごもった前途を悲観して、福岡港や舞鶴港で、
上陸前に多くの人が投身自殺しているのですが、
それと似たような哀れな環境下に置かれています。

どうか、被害部員の人権を第一に考えて欲しいと思います。

学校側には、この期に及んでも「清さ」はみじんも感じられませんexclamation

駒沢大学は、
曹洞宗の学林(宗内の僧侶の専門的養成の場)を前身とした大学で、
以前は「曹洞宗大学」という名前でしたね。

「坊さんの学校」と言われる由縁です。

曹洞宗というのは、
こういう大人のエゴを貫き通し、
そのためには弱者を犠牲にするのもやむを得ない
という教えをしているのでしょうかexclamation&question

学校側は
 「暴力事件を隠ぺいしたまま、甲子園での優勝を切望し、
  成就したことで暴力事件を発表する」
という
『“甲子園優勝校”を取消しできるのか』
という高野連に対する無謀な“挑戦”をしている、
と取られてもしょうがないのですよ。

北海道高野連や高野連は、顔に泥を塗られる行為をされながら、
「報告書が届くまで、ただ待っている」
ことしかできないのかexclamation&question

8月31日に、来春の選抜大会につながる北海道秋季大会の抽選会が
予定されていることで、春の選抜出場への道も期待し、
時間稼ぎで報告書の提出を故意に遅らせている可能性も考えられます。


自ら活動を自粛するという行為
今回の問題では、指導者は厳しく責任を問われるのは当然で、
部員は無罪(むしろ被害者)なのですが、
学校側は、連覇の偉業をした「大旗の返還」と
「北海道秋季大会の出場」を清く「辞退」する断行も、
高野連から処分を出される前に行動に移してほしいと思います。


ここで、「確かなこと」だけを整理してみよう
@ 野球部長が部員に暴力を振るったこと

A 学校がこの事実を知りながら高野連に隠していたこと

B 高野連は今まで例外なく、
  やり過ぎの感もある“厳罰主義”を貫いてきたこと

明徳義塾が甲子園出場を辞退したのが8月4日、
開幕が6日、
大会2日目の7日には、宿舎で食事中だった同じ部員を
暴力部長が自室に呼び出し、スリッパで殴りつけています。

大会4日目の9日には校長、教頭らは
「暴力を把握していたが、大会後に処分すればいい」
として、日本高等学校野球連盟などには報告しませんでした。

11日の大会6日目の第2回戦で駒大苫小牧が登場し、
宮崎県の聖心ウルスラ学園高校を5対0で撃破しています。

その後、駒大苫小牧は連戦連勝で、
20日(土曜)に決勝戦が行われ、
一昨日22日(月曜)午後10時過ぎに学校側が記者会見を開いて、
暴力事件が明るみに出ました。


高野連は、「優勝校」だからこそ、困惑しているだけ
日本高野連には、昨日23日午前中だけで約300件の電話が相次ぎ、
電話の約6割が
「頑張ったのは生徒。駒大苫小牧の優勝を取り消さないで」
というもので、残りの4割は
「明徳義塾と同じ処分をすべきだ」
という意見だったといいます。

日本高野連は、北海道高野連を通じて同校に被害者側と話し合いをした上で
報告書をまとめることを要望します。

その提出後、臨時の審議委員会と大会運営委員会を開いて、
優勝の取り扱いなどについて決定するという。

日本高野連の田名部参事は、優勝取り消しの可能性について
 「初めての出来事なので報告書提出を待って判断したいが、
  明徳義塾と同じ考えでいいか即答はできない。
  明徳は生徒ですが、今回は部長。
  それを同列に考えていいのか…」
と苦慮しています。

高野連は、もともと教育者の天下りの掃きだめのようなところで、
自分の任期期間中に面倒な問題が発生せず「大過なく」任期を全うしたい、
という小ズルい小物の集団なので、
今回のように、「優勝校の大旗を返還させる」という
伝統に傷つけるような事態を迎え、
己の巡り会わせの悪さにタメ息をつき、肩を落としている状態なのです。

まさしく、「処分」にビクついているわけです。
情けないですね。


明徳義塾は「部員同士の暴力」、駒大苫小牧は「指導者の暴力で」、
「暴力行為」に変わりはありません。
「報告遅れ」は明徳義塾も駒大苫小牧も同じです。

駒大苫小牧は、
明徳義塾が甲子園出場辞退直後にも関わらず、
「隠ぺい工作で出場し続けた」という悪質さです。


今までの高野連の方針だと、結論は「厳罰」しか有り得ません。

高野連は、
伝統の高校野球、しかも夏の実力日本一決定戦の、
しかも優勝旗に「泥を塗られた」立場です。

「大旗を返還させ、準優勝チームの繰り上げもしない」
という結論しかないでしょう。

今までは一貫して厳罰主義を貫き通してきたものの、
今回は「優勝校の取消しかどうか」という世論に対する影響を、
いまさらながら理解して、ビクついているわけです。

高野連は、実は有名無実の「腰抜け集団」だということが露呈しただけ、
良かったのかもしれません。

ついでにNHKも蹂躙(じゅうりん)した方が良い。

日本は、軍隊の悪い伝統である“縦の関係”、“体罰”を
運動部で引きずっています。

もちろん、野球以外のスポーツ全般で行われていますから、
誰も特別おかしい現象とは思わないでしょう。

であれば、なぜ高校野球だけが「美学化」されてきたのでしょうかexclamation&question

鳥肌ものの「美しい師弟愛」、「直向な心」、「すがすがしさ」、
「一生懸命」、「汗・涙」など「感動」を押し売りにして来たのは、
高野連とNHKではないでしょうかexclamation&question

郵政民営化の改革だけでなく、
お役所体質の高野連と時代錯誤のNHKも含めて
高校野球も改革する時が来ているんですよ。


処分の“落としどころ”
・ 暴力部長の処分は当然
  (むしろ謹慎処分より辞表を出さないことの不思議)
・ 明徳義塾とのバランス
・ 過去の一貫した“厳罰主義”

いい加減な甘ちゃん処分にすると、
今後、暴力事件を隠し通す学校が後を絶たなくなるのは明白で、
ここは勇気を出して「優勝旗返還」と「一定期間対外試合禁止」という
厳しい処分を出さざるを得ないでしょう。

大岡裁きはないexclamation

曹洞宗の宗教学校なら、よけいに清く「一から出直す」ことですよ。

責任が問われるのは直接暴力を振るった大人、
それを知りながら隠していた関係する大人たちですが、
優勝し日本の頂点に立ったからこそ、
“範”を示さないといけないと思います。


同じ穴のムジナ
その昔、赤穂浪士の討ち入りが行われて、
浪士の処分を巡り、幕府内でも助命か処罰かでかなり議論は紛糾しました。

討ち入りから1ヶ月半もかかって、ようやく全員の切腹の命が下りました。

この処分には是非がありましょうが、私は正しい処分だったと思います。

「部員は無罪で、むしろ被害者だ」
という日本人の判官びいき、という世論の声を期待する学校側と、
それを困惑する高野連の構図は、少し似ているような感じがします。


「暴力行為」は即レッドカード
野球部内での暴力行為は日常茶飯事で、
暴力行為が明るみに出ていない学校は、
少なくとも全国に100校以上あるはず。

これらの学校にも、影響があるような処分を下さないと、
甲子園代表請負い監督の引き抜きだけでなく、
新たに「隠ぺい工作」のノウハウを持つ人のビジネスまで
登場させることになってしまいます。

『「暴力行為」は即レッドカード』という当たり前のことを、
野球指導者・野球部員を含めた学校関係者は、いいかげん学習してほしいexclamation×2

幼稚園生でも理解出来るような、そんな簡単なことが、
守られないことのほうが不思議でしょうがないexclamation


高野連への要望
高野連は、
暴力行為などで、参加・出場を辞退したり、処分した学校や、
暴力行為をした全国の指導者や選手を個々に集め、チーム化し、
「暴力甲子園日本一決定戦」でもやらせれば面白いのですけどね。
こういう企画はダメでしょうかexclamation&question

エラーをすれば、守備中のチームメイトから罵倒の嵐、
ダッグアウトに戻れば、監督から鉄拳制裁が待ち受ける。

三振や送りバントミスでも、監督から容赦ない鉄拳制裁があり、
ジャッジを巡って、両チームの乱闘は当然のこと、
審判にも暴力を振り、退場者が続出、
試合後も遺恨でダッグアウト裏でも、また乱闘。

もうバイオレンスの嵐で、救急車も複数台待機し、
1球1打にハラハラ、ドキドキで一瞬も目が離せない、
まさに「暴力野球格闘技甲子園」にふさわしいと思うのですが。

優勝したら、自衛隊に推薦入隊させ、
「サマワ派遣養成部隊」に配属し、
養成後最優先で「サマワ」に派遣するか、
中国・韓国などの抗日デモに対抗する部隊の最前列に
優先的にご招待する、というのはどうでしょうかexclamation&question

皆さん、血の気が多いので、喜ぶと思いますが。

駒大苫小牧の暴力部長を、まず第1号にどうでしょうかexclamation&question


8月5日の「明徳義塾高校の不祥事辞退に思う」
8月23日の「スポーツ解説者を斬る!〜野球編」
も、関連記事を掲載していますので、お時間のある時にご覧下さい。

ばかばかしい問題で、つい長くなってしまいました。
済みません。
posted by RIUさん at 18:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄の?スポーツ「野球」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月23日

スポーツ解説者を斬る!〜野球編

栗山英樹
誰にでも合わせられる器用さと、良い人っぽく見せる匠の技を持ち、
視聴者よりTV局側に媚びる「よいショ型」の典型で、
とても気分良く話が聞けない。

話を聞いていると、「なるほど」と思う反面、
違うコーナーに移ると、
さっきの「なるほど話」がすっかり頭の中から消えてしまっている。

それってアルツハイマーのせいexclamation&question
それとも内容が薄いせいexclamation&question

以前、報道ステーションで黒板に書きなぐって野球解説していましたが、
異常な字の汚さが目に焼きつき、嫌悪感で目まいになりそうだったよ。

異常なナルシストで、「格好・体裁・プライド」を大事にしてそうな、
二重人格だということも画面を通じて感じていました。

ウッチャンナンチャンの内村光良に次ぐ“女たらし”で、
局アナなどとのスキャンダルも多い。

イチローが大リーグで活躍の裏で、
「福島弓子を仕込んだのは俺」
と吹聴している、というウワサもあります。


パンチ佐藤
キャラをはき違えているのか、天然バカなのか
「とにかく目立ちたがり屋」で、ウザい。

今年の4月だったか、朝の番組で、頭を真っ黄色に染めて、
赤いレインコートみたいないでたちで登場したことがあって、
思わずTV局に電話したくなったよ。

電話するのは止めて、TVの電源を切ったのだけど。

次の週から、頭は黒くなっていたね。

話の内容も、レベルが低い。

オリックスに在籍していた当時の話も多すぎる。
現役当時は、ほとんど無名なんだから覚えてないよ。


江本孟紀
いつもご機嫌ナナメ状態で態度も大きく、酒グセも悪そう。

誤って国会議員になったので、「偉い」と勘違いしてるのかなexclamation&question

自分の評価って、自分がするのではなくて、周りがするものなんだけどね。

居酒屋で、延々と部下に文句を言ったり、クダをまくタイプだよ。

そんなだから、監督・コーチのお呼びもないんだよ。


金村義明
自分がウケていると勘違いしている野球バカの泡沫タレントで、
解説もヘタ。
勉強不足。


デーブ大久保
名前の通りデブだから、まず暑苦しさや厚顔無恥を感じる。

巨人にいた時の話が中心で、しかも偉そうな高圧的な話が多い。

自称プロゴルファーで、、無理やりゴルフに例える話も多い。

プロゴルファーって、TVゲーム上のプロのこと?オタクのことexclamation&question

巨人にいた時の話やゴルフの話より、
大食いプリンス小林尊にで挑戦でもしてみたらexclamation&question

こんなヤツはバナナの葉っぱにくるんで蒸し焼きにするしかないよ。


森山周一郎
5月3日のNHKプロ野球中継「中日×ヤクルト戦」で
「中日が勝つと不吉なことが起こる」
との趣旨の発言で抗議が240件も局に届いたらしい。

彼は熱狂的中日ファンで有名なんですよね。

思い入れ、思い込みの解説は、返って面白いのではexclamation&question

対戦する双方のチームの熱狂的応援ゲストが、
バトルを展開するのも面白いと思いますが。

解説は現状説明だけではなく、
草野球レベルと、具体的にどこがどう凄いのか?
一流プレーヤーが一流たる理由とは?
を分かりやすく話してくれないと。

腰の開きがどうの、リリースポイントがどうの、
プロ顔負けの「解説」をする人も珍しくないけど、
それらはおそらく、プロを引退した解説者が自分の経験に基づいて、
テレビやラジオで昔から言われてた技術論の受売りである場合が
ほとんどなんですよ。

自分の言葉じゃないから、よけい分かりにくい。

ふだんの練習の具体的内容、メニュー、当日の試合までのスケジュール、
ストレッチ法などの紹介があれば、
少年野球選手だって、もっと参考になるのではexclamation&question

子供にも夢を持たせるように、話をしてくれないと。

野球は全くド素人の人を解説にするのも面白いかもしれません。

政治評論家・三宅久之は読売巨人軍オーナー渡辺恒雄に近い人ですが、
過激なトークは面白そうだと思いますよ。

浜田幸一・元国会議員だって、彼なりの野球感があっても良いと思う。

プロ野球経験者の面白くない解説より、
いろいろな人を登場させる試みがあっても良さそうなものですが。


駒大苫小牧高校の暴力事件発覚
全国高校野球選手権大会で57年ぶりの連覇を達成した
駒大苫小牧高校(南北海道代表)の野球部長(27)が、
6月と8月に2度、
部員を殴るなどの暴力をふるっていたことが明らかとなりました。

同校の篠原勝昌校長は22日夜、
会見で野球部長を謹慎処分としたことを発表し、
日本高等学校野球連盟(日本高野連)の処分について
「優勝旗返還の話が出るかもしれないが、どんな結論でも受け止める」
と述べました。

教頭らの事情聴取で、同校教師の野球部長は
「体罰的暴力をふるった。申し訳ない」
と事実を認めました。

明徳義塾高校の不祥事辞退直後であり、
しかも高校野球開幕後の8月9日には
校長、教頭らは暴力を把握していたが、大会後に処分すればいいとして、
日本高等学校野球連盟などには報告していませんでした。

学校側などによると、
部長は6月2日朝の練習後、
練習態度を理由に3年生部員1人を3、4発殴り、
部員はあごが外れたといいいます。

また、甲子園大会開幕後の8月7日にも、
宿舎で食事中だった同じ部員を部屋に呼び出し、
スリッパで1度叩いたといいます。

篠原校長は高野連への報告や公表が遅れた理由については
 「(暴力をふるわれた)部員への影響や、部員の家族の意向を考慮した。
   批判は甘んじて受ける」
と説明していました。

暴力を振るわれた部員側は、
「30〜40発殴られた」
と言っており、殴られた数は1ケタ違っていますが、
例え1発でも、暴力は暴力なんですよね。

「数が少なければたいした事はない」
という問題ではないでしょう。

学校側も、正直に話しているようには見えず、
校長の発言からは、殴られた部員のことより、
あくまで自身と学校の「保身」ばかり見えます。

こういうバカ教育者を、まず教育し直さないとダメですよね。

8月5日の「明徳義塾高校の不祥事辞退に思う」で書いたように、
多くの野球学校は3年間“野球漬け”にしているのが実情なんです。

あなたの地元の野球で有名な学校は、生徒の評判はどうでしょうかexclamation&question
通学している生徒の様子はどうでしょうかexclamation&question
野球部監督や野球部員は、「範」を示しているでしょうかexclamation&question

代表請負い監督は、
「甲子園に出場しないと学校の宣伝にならずクビ」
になるため、部員には一般常識さえも教えず
“野球バカ”を養成しているのです。

極端な場合、
「野球さえ出来れば何をしても良い」
という監督さえいるのです。

『高校野球は教育の一環』とは、
よく高校野球の監督から聞こえてくる言葉ですが、
これって“決まり文句”に過ぎないのです。

勝利至上主義の学校や監督のもとで一般常識すら指導されなければ、
選手による不祥事が後を絶たないのは当然ですし、
指導する監督や部長も、昔の体育会の悪い伝統が抜け切らず、
従わない部員には「暴力」で従わせようとしてしまうのです。

「言うことをきかない、守らない」のは、
指導方法が悪いから?
言い方が悪いから?
というように、普通の頭なら、
「どうしたらわかってもらえるか?」
を考えるのですが、
頭が悪い指導者ほど、真っ先に手を出してくるんですよね。

小泉首相は、『改革が必要だ』と言っていますが、
改革が必要なのは、プロ野球もそうだし、
お役所体質の高野連も含めて高校野球にもメスを入れる必要が
あるのではないでしょうか。
posted by RIUさん at 11:56| Comment(0) | TrackBack(1) | 沖縄の?スポーツ「野球」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月22日

スポーツ解説者を斬る!〜マラソン編

ン・ゴール後.jpg

世界陸上の女子マラソンの結果
先週8月14日にフィンランド・ヘルシンキで
陸上の世界選手権・女子マラソンが行われ、
世界記録保持者のポーラ・ラドクリフ(英国)が
2時間20分57秒の大会新記録で順当に初優勝しました。

2位には、これまた順当に
前回の覇者キャサリン・ヌデレバ(ケニア)が入り、
3位にも実力のあるコンスタンティナ・トメスク(ルーマニア)が
入りました。

日本の原裕美子(京セラ)は2時間24分20秒で6位に、
弘山晴美(資生堂)は8位にそれぞれ入賞しました。

他の日本人選手の成績は、
大島めぐみ(しまむら)が10位、
小崎まり(ノーリツ)が15位、
江田良子(ヤマダ電機)が17位でした。

画像は、ゴール後のものですが、
左から江田、小崎、大島、弘山、原の順です。

スタート時点では、気温16度で小雨がパラつき、
夏のマラソンレースとは思えないような低温でした。

肌寒く、手袋をする選手が目立ちました。

6位に頑張った原裕美子(京セラ)は
肘まで隠れる長い手袋をしていましたね。

速いレース展開を得意とする海外勢には最高の気象条件になり、
夏マラソンの戦術を蓄積してここを目標にしてきた日本には
イヤな条件でした。

アテネ五輪では、暑さのために自滅したラドクリフが、
この気象条件を味方にして、最初から狙い通りの独走態勢を取り、
押し切りました。

ラドクリフの飛び出しに、
マラソン2回目の原裕美子(京セラ)だけが玉砕戦法で付いて行きました。

起伏のあるタフな周回コースで、
2時間20分前後も狙えるペースに原が付いていくのは、
2時間24分19秒が自己最高の原には所詮無理でした。

16km過ぎには早くも後退しましたが、
彼女は7月下旬に右足首を痛めていて、
今大会の欠場すら考えていた時期がありましたから、
その後の予想外の粘りには、大きな拍手を送りたいと思います。

原の挑戦とは対照的に、
他の4人は先頭集団には入らず、やや下がって固まって走りました。

彼女たちの序盤の各5kmのラップタイムは17分前後で走っていました。

このペースなら、ゴールは2時間24分前後になります。

弘山、大島らで第3集団を形成しましたが、
20kmの時点でトップとの差は2分近く離されてしまいました。

2時間24分00秒でフルマラソンを走る選手の
100m平均は20.5秒です。

2分の距離は、おおよそ585mに相当します。

前を詰めて行くには、離されすぎだと言えます。

「無理に前に行っても仕方がないと思った」と小崎。

弘山は「風もあるし、冷静に行った」。

「もっと上から選手が落ちてくると思ったけど、全然こなかった」と大島。

今季の自己最高は小崎だけが2時間23分台で、
他の選手は2時間24分台以下。

これでは、ラドクリフ、ヌデレバとは力の差は歴然で、
最初から金・銀の可能性はなかったわけで、
「原以外の4選手は現実路線を選択し、
 勝負に行かずにレースを終えて不完全燃焼だった」
と見る人も多いと思いますが、
私はむしろ日本の5選手は大健闘と賞賛されるべきだと考えています。

この結果、日本にとって、
97年アテネ大会から続いていたこの種目の連続メダルは
4大会で途切れてしまいましたが、
「メダル」が取れず、もどかしいレースにならざるを得なかった日本選手より、
視聴率を上げたくて、「メダルは確実」とあおるメディアやマスコミと、
レースを解説した増田明美と瀬古利彦に腹立たしさを感じました。
私は、マスメディアや解説者の彼らこそ「B級戦犯」だと言いたい。

日本のマスコミは「5大会連続メダルは確実」とあおり、
今大会を中継したTBSも、
マラソンスタート時間の1時間30分も前から
特別番組を流す熱の入れようでした。

しかし、今大会は日本記録保持者の渋井陽子(三井海上)はおろか、
シドニー五輪で金メダルの高橋尚子も
アテネ五輪で金メダルの野口みずきも出場していませんでした。

五輪で金メダルというBIGタイトルを取った
高橋尚子や野口みずきにすれば、
賞金額も少なく、負ければ自身の商品価値をみすみす下げる可能性もある
世界陸上に出場するわけがないのです。

渋井陽子は代表選考レースで調整ミスで惨敗したことで、
2年後の大阪で開催される世界陸上に照準を合わせました。

17位の江田良子(ヤマダ電機)は、
前走が引退レースだったのが、代表に選考されたことで、
今大会を引退レースにしてきた選手です。

弘山晴美(資生堂)は、
1996年のアトランタ五輪〜2000年のシドニー五輪がピークで、
今年37歳では、8着入賞は最高に良くやったと言えるでしょう。
引退も近いかもしれません。

15位の小崎まりは、駅伝ではピカイチですが、
いつも誰かの影に隠れてしまうような、一流ではないですよね。

今回もケガを押しての出場でベストではありませんでしたし、
ピークも過ぎています。

大島めぐみ(しまむら)は、日本陸上競技界では珍しい美人選手で、
Webサイトまであって、昨年結婚してマラソン選手である夫と
2人3脚で頑張っているのですが、
今までの国際大会では、1万mと駅伝で、
マラソンでの国際大会は今回が初めてなんですよね。

終わってみれば、今大会は、
これを機に有終の美を飾って勇退しようとする
ベテラン選手の引退レースのような感じでした。

実力bPと目される野口みずきは、
来月のベルリン・マラソンへの出場を表明し、最後の調整に入っています。
 (所属先のグローバリーは、商品先物取引で解約拒否による訴訟などの
  トラブルに責任を感じ、商品先物取引部門からの撤退を決め、
  同時に陸上部の廃部も決定し、9月26日のベルリン・マラソンで
  支援を打ち切る旨、発表しています。
  どうも、野口はついていないですね。)

「金メダリストの価値で、出場料は5000万円近い」
と言われています。

高橋尚子も、4月に小出義雄監督と決別し、
5月にはスカイネットアジア航空の契約が終了し、
6月から新たに、健康食品関連会社「ファイテン」と
総額6億円という日本マラソン史上最高額で
4年間のスポンサー契約を結んだばかりです。

結果的に
「五輪、世界陸上で無冠のラドクリフだけが、必死になって走った」
のは、“必然”だったわけですね。

日本のトップ選手たちが出場しない日本勢が、
世界に太刀打ちできない結果に終わったのも、“順当”だったのです。

千葉ちゃん(千葉真子)が、
1996年アトランタ五輪1万mで5位、
1997年世界陸上選手権(アテネ)1万mで銅メダル、
世界陸上2003年パリ大会マラソン銅メダル
と大活躍をしたのは、記憶に新しいところですが、
陸上トラック長距離では、最近は日本と世界との差が歴然としてきました。

大ベテランが多かった今回の代表メンバーは、若手不在の裏返しです。

日本人選手は実力通りのレースをしました。

TBSやマスコミは過剰に期待し、メダル獲得をあおり、
解説者は、調子の良いゴタクを並べるいつものパターンでした。


「B級戦犯」を斬る!
織田裕二(メインキャスター)
にわか仕込みの専門知識で、自身が理解できていない状態では、
“面白さ”が伝えられなくて当然。

末続慎吾の「省エネ走法」だとか、「なんば走法」だとか、
陸上競技で「フォーム矯正」がどれだけ大変なことか分かって言ってんのexclamation&question

棒高跳びにしても、
各選手は長短・硬軟のポールを数本用意して来ていて、
高さや雨風などで、どれを選択するか、というのも1つの面白さなんですが、
そういうこと知ってんのexclamation&question
5〜6mから落下すること自体危険が伴うけど、
雨でグリップが滑ったり、
ポールの先端がボックスに引っ掛からず、上昇中に後ろ向きに落下し、
背中を強打した選手もいたし、
数年前の日本選手権では、有名選手がバーを越えた後、
ポールが肛門に突き刺さった事故もあったり、
「記録」や「メダル」のことだけではなく、
“危険”なことも知らないとダメだよexclamation

各競技種目でも言いたいことはあるけど、長くなるからカットします。

ヤツのニタニタ顔を映す時間があるなら、
選手のウォーミングアップを映してほしいexclamation

こいつの能書きは、BGM風の音声だけにして、競技だけを映してほしいexclamation

そうすれば、音量を消すだけで、競技が楽しめるから。

やたら、日本人選手をあおるのも、いいかげんにしてほしいexclamation

次回から、どうにかしてくれexclamation


増田明美(解説)
きれいexclamation

ただし、彼女はいつだって、美しい話、きれいごとしか言わない。

調子の良いことは言っても、決して悪口は言わないのです。

そのへんが、私と違うとこだね。

彼女は「村社会」を大事にしすぎる。

それが、つまらなさを増幅させているんだけど、わかってないよね。

彼女は、日本国内ではトップランナーだったけど、
外国人選手と競うようになってから、壁に当たり出した。

ロサンゼルス五輪の直前は、
川鉄千葉の大壮行会の後、極度のプレッシャーと自信喪失から、
失踪・自殺未遂を起こしている。

五輪では、1人孤立してしまうし、
調整不足と自信喪失で必然の途中棄権に終わっています。

人間は、生きている中でいろんなことがあるから、
そんなことは大した失敗じゃないよexclamation

その後、現役の未練が絶ちがたく、
トップランナーとしてのプライドもあって、
ピークを完全に過ぎている中、
次のバルセロナ五輪を目指すものの、ついに引退を表明しました。

その時だって、
5000mを17分30〜40秒のインターバルトレーニングを
していたんだよね。

そのペースでは、単純にフルマラソンに換算すると、
2時間27分41秒〜2時間29分05秒になるから、
2時間30分を想定した練習になるわけですね。

1992年当時は、
バルセロナの女子マラソン選考レースである大阪国際女子マラソンで
初マラソンの小鴨由水が日本最高記録、初マラソン世界最高記録の
2時間26分26秒で優勝し、
バルセロナ五輪代表に内定しているんですよ。

2位の松野明美、4位の山本佳子も日本最高記録でゴールしましたが、
惜しくも代表選考から漏れてしまいます。

そういう時期での2時間30分を想定した練習、
しかもコーチなし、では
オリンピック代表選考にノミネートすることはとてもムリな状況でした。

最後には、彼女もそれを悟ったのか、
無様な引退レースをせず、ひっそりと現役を退きました。

彼女は、優しさと人の傷みが理解できて、
ガラス細工のような繊細さも併せ持っています。

だから、よけいに人の悪口になることは言えないんですよね。

そこが彼女の弱点だと思います。

“解説”は、解説者の人間が良い人かどうかより、
「的確さ」を話せるかどうかが要求されるものだと私は思っています。

彼女は嫌いではないのですが、あえて
「あと2歩、辛口で正直に思っていることを話してほしい」
と要望します。

もし、私みたいなのが解説者になったとすると、
中継時間中にクレームの嵐になり、途中降板になるのが明らかですからね。

彼女には期待しています。

ソウル五輪で29位に惨敗した元・旭化成の宮原美佐子も
解説をすることがあるけど、宮原の解説は全く面白くないし、
なによりナルシストだから嫌いだ。

ついでにテレビ局のマラソン担当プロデューサーに言っときたいけど、
最大の駆け引きのスパートをかける「そろそろくるぞ」という段階で、
平気でCMを入れてしまい、
CMが終わると、集団がバラバラになっていることが多々ある。

「正気なのexclamation&question」と言いたい。

私は正気じゃないから、
そういうことがあると音量をゼロにして、
新聞や本を見ながらテレビ中継を時々見るか、
あるいは勇気を持って電源を切ってしまうんだよね。

そんなことするのは日本で私だけだろうけど。

代表選手の、
そのレースに賭ける想い、
後援者や会社の壮行会での過度な期待からくるプレッシャー、
そのレースのための練習や調整、作戦や、ウォーミングアップ風景、
位置取り、リラックスできているかどうか、展開予想、
ペースの上げ下げ、揺さぶり、駆け引き、
30km前後の勝負どころの攻防、余力の有無など、
面白みや醍醐味を自身の経験を交えて、
陸連のご機嫌を取らないで話してほしいと思います。

間抜けなプロデューサーがマラソンを理解できていないことも、
もちろん問題ですが、彼女はプロなんだから、
そのあたりも教えないといけないと思いますよ。

きれいごとしか話さないのでは、音声を消して見るしかないよexclamation


瀬古利彦(解説)
口の中でゴニャゴニャモゴモゴ話すので、聞き取りづらい。

しかも早口。

しかも、内容は薄い。

SBのカレーでも食べながら話しているのでしょうかexclamation&question

前は、暗くて修行僧のようだったけど、何か吹っ切れたのでしょうかexclamation&question

合法ドラックでもやっているのかなexclamation&question

そっちの方が気になり心配だ。

日本がボイコットしたモスクワ五輪の辺りが彼のピークで、
次のロサンゼルス五輪では調整失敗と暑さに負けて、
14位と惨敗した経験がある。

それが唯一の惨敗だと思う。

それ以外は小さい頃から常にトップアスリートで、
数少ない中長距離界のエリートの1人。

陸連強化委員長の沢木啓祐(順天堂大学教授)以来のエリート。
エリートであるため、地道に努力を積み重ねる選手の“弱者”の気持ちが
よくわかってないところがある。

みんな天才じゃないんだよexclamation

彼は、増田明美と比べると、自由に発言してきたのですが、
陸連で役職が上がってくるにつれて、トーンダウンしてきました。

彼も嫌いではないけど、今の彼では「解説」には不向きなのではexclamation&question


スポーツの各種目によっては、得意・不得意はありますが、スポーツ解説者やキャスターについて、私見で感じたままを自由に書かせてもらいたいと思いますexclamation

2005年08月21日

学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その3

対馬丸の引き揚げ問題
対馬丸が遭難して53年を経過した1997年(平成9年)12月4日、
科学技術庁の海洋探査機「ドルフィン3K」が、
鹿児島県悪石島北西沖約10キロの海底870mの深海に眠る
対馬丸の船名の撮影に成功しました。

船首部に描かれた「丸馬對」の文字を示す写真は、
沖縄県民に衝撃を与えました。

遺族らは、船体引き揚げや遺骨収集を政府に陳情します。

翌年の1998年(平成10年)12月24日、
対馬丸船体引き揚げ可能性調査検討専門家会議は総理府で記者会見し、
「船体の傷みが激しいのと水深が深すぎることから技術的に不可能」
とする最終調査結果を発表しました。

時の総理大臣は「平成おじさん」の小渕恵三。

平成10年6月の参議院選挙で自民党が大敗し、
橋本内閣は総辞職に追い込まれました。

小渕恵三が梶山静六、小泉純一郎を破り自民党総裁に就任し、
当時野党の公明党、自由党に接近し、
何とか自民党が政権を維持して小渕恵三内閣が発足した、
という混沌とした時期でした。

小渕首相は九州・沖縄サミット開催を実現し、
沖縄県名護市の万国津梁館近くに銅像が建立されていますが、
小渕恵三内閣は、
「内閣総理大臣はあくまで全体の方針を策定するだけで、
 各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せる」
というのが小渕恵三の基本姿勢であり、チームワーク型の内閣が特徴でした。

現在の小泉純一郎内閣の是非はともかく、
小泉内閣が強いリーダーシップを執り
国務大臣はその補佐に徹するようなワンマン大統領型内閣と、
小渕内閣とでは組織運営の違いが鮮明にあり、
対馬丸の引揚に関しては、小渕恵三は関心がなかったのだと思います。

「関心がなかった」というより、政権維持で精一杯だったのでしょう。

平成10年11月に、小渕恵三は公明党の地域振興券導入を受け入れ、
自由党党首 小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意しています。

その時期の「対馬丸引き揚げ」の話は、
タイミング的に後回しにされたと言っても過言ではないでしょう。

タイタニック号は、深さ約4000mに沈んでいても、
一部の船体は引き揚げられました。

要は、政府に「引き揚げる気があるかないか」の問題でしょう。

“御用学者”は、いつの時代でも強者の言いなりですから。

そういう経緯で、犠牲者の慰霊のための代替案として浮かんできたのが
「記念館建設」でした。


対馬丸記念館のオープン
「対馬丸記念館」は、この惨事で九死に一生を得た生存者と
遺族を中心とする財団法人対馬丸記念会が、
疎開船「対馬丸」の沈没後60年目にあたる、
昨年の2004年(平成16年)8月22日、
悲劇を後世に伝え、国境を越えて平和へのメッセージを
発信し続ける場にしようと、
対馬丸が出航した那覇港を望む那覇市若狭1丁目にある旭ヶ丘公園内の
遭難学童慰霊「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」が開館されました。

当時甲板員として乗船していた中島高男氏の協力で
船室が再現されているほか、同会が収集した遺影や名札、ランドセル、
証言を基にしたパネル、船の模型など約200点が展示されています。

遺品の多くは海底に沈んだり、遺族の空襲被災で、
遺品の極端な少なさが戦争の悲惨さを物語っています。


対馬丸記念館建設までの問題
対馬丸戦没者祈念館建設に関する平成14年度の沖縄県議会において、
対馬丸記念館建設にかかる費用は、
調査設計費     3千万円(国費負担)
記念館建設費    2億円 (国費負担)総面積500u
展示資料収集費等  1億円 (国費負担)
土地        那覇市提供 旭ヶ丘公園内:小桜の塔周辺)
管理運営費1千万円は県行政や県議会が拒否すること
となり、
・ 管理運営費など健全な収支計画の確立
・ 祈念館の管理運営は財団法人の責任で対処し、財政的支援は行わない
と結論付けられ、
『対馬丸記念館の管理運営費に関しては、
 沖縄県の財政状況を考えると拠出することはできず、
 将来の管理運営費の責任を考えると、
 対馬丸記念館建設そのものにも賛成しかねる』
という、
「建物は政府が全額負担で建てるから良しとして、
 建設後の維持管理運営費は県予算や県議会からは1円も出せないけど、
 どうするの?それでもやるの?」
という、とても沖縄県人の発想とは思えない考え方をする
マヌケな御用議員たちの意見が大勢を占めてしまいました。

沖縄県には、2枚の切り札があります。

1枚は「沖縄戦」、もう1枚は「米軍基地」です。

その2枚のカードで、1972年の復帰以来、
33年間で7兆7千億円もの巨額を政府からせしめていながら、
いまだに沖縄は貧乏なままです。

言い換えれば、33歳の働き盛りの人が、
3割しか稼ぎ出すことができず、7割を生活保護(政府)に頼っているのが、
今の沖縄なのです。
(このあたりの話は、また後日行います)
県庁や県議員に坂本竜馬みたいな人が1人でもいれば良いのですが…

頼みの県庁や県議会が、こんな程度ですから、
記念館建設に関しては、さすがに遺族会でも賛否が分かれたようです。

反対意見の多くは、建設後に課せられる自主運営の難しさを危ぐしていました。

しかし
「同じ悲劇を繰り返さないための学習の場に」
との願いが一致して、建設へ動き出します。

記念館は、その運営を入館料や友の会会費、寄付金で
切り盛りしなくてはなりません。

沖縄で下らない観光地に行くなら、ぜひ対馬丸記念館を拝観して下さい。


疎開を指揮する立場の県知事が、自ら疎開してしまった@
昭和19年12月31日の段階で、
沖縄県の人口は約59万人であり、
その内の約49万人は沖縄本島に残留していました。
県民の疎開は、
・ 輸送力の低下
・ 米軍の攻撃
・ 県民の郷土への執着
・ 見知らぬ土地への疎開に対する不安
など様々な要因から思うように進捗せず、
昭和19年7月から昭和20年3月上旬まで
九州以北の本土および台湾に疎開した県民は約8万人にとどまります。

そこで昭和19年12月、
軍司令部は激戦が予想される沖縄本島南部の非戦闘員を
比較的安全と予想される沖縄本島北部に
以下の通り疎開させることを沖縄県当局者に強く要望します。

・ 60歳以上の老人および国民学校以下の小児を
  昭和20年3月末までに北部に疎開させる。
  軍は北行する空車両および機帆船をもって疎開を援助する。
・ その他の非戦闘員は戦闘開始必至と判断する時期に
  軍の指示により一挙に北部に疎開する。
ところが、ここで沖縄県行政に信じ難い大失態が生じてしまうのです。


昭和19年10月10日の空襲
米軍は、
・ レイテ島上陸を成功させるための側面攻撃としての空襲
  レイテ島への侵攻を日本軍によって阻止されないようにするため、
  沖縄の飛行基地と港湾を襲い、
  飛行機や艦船などを撃破することを狙いとしていました。
  レイテ沖海戦(10月24日・25日)では、
  日本海軍は敗北、事実上潰滅することになります。
・ 沖縄上陸作戦の地図を作るための空中写真撮影も目的としての空襲
  沖縄本島全域に艦載機による爆撃を行い、主な都市を焦土と化しました。

沖縄本島
第1次攻撃 午前6時40分〜午前8時20分、
      延約240機、飛行場に来襲
第2次攻撃 午前9時20分〜午前10時15分、
      延約220機、船舶および飛行場に来襲
第3次攻撃 午前11時45分〜午後12時30分、
      延約140機那覇、渡久地、名護、運天港、与那原、泡瀬などの
      港湾施設に空襲
第4次攻撃 午後12時40分〜午後1時40分、
      延約130機、那覇市集中攻撃
第5次攻撃 午後2時45分〜午後3時45分、
      延約170機:那覇市集中攻撃
大東島
午後1時55分〜午後3時50分、18機、漁船、飛行場
奄美大島
午前7時45分〜午後4時7分、延約50〜60機、古仁屋、名瀬を爆撃
徳之島
午後2時50分〜午後3時、延約50機、飛行場
宮古島
午前7時30分〜午後1時35分、延約32機、海軍飛行場および船舶

被害状況
日本軍
戦死218名(第32軍136名、海軍82名)
戦傷243名(第32軍227名海軍16名)
民間
死亡:330名(うち那覇255名)
負傷:455名(うち那覇358名)
全焼、全壊:11451戸(内那覇1万1010戸)

特に那覇市は全市の9割の家屋が全焼全壊しました。
空襲による食糧の損害も多大で、
主食・副食・調味料等沖縄県民1か月分に値する量の損害を受けました。

飛行機や艦船も多く撃破され、
また兵器・弾薬・車両などの軍需品の多くは
港湾揚陸直後で分散し得なかったため、多大な損害を被りました。

これが沖縄の「10・10空襲」と呼ばれるものです。


疎開を指揮する立場の県知事が、自ら疎開してしまったA
沖縄県知事の泉守紀は10月10日の大空襲に恐怖し、
県庁を放棄して本島北部に退避してしまい、
県行政に支障を与えてしまいます。

12月23日には、なんと泉は東京に逃亡してしまいます。

さらに人脈を通じ、裏工作で、
処罰されることなく香川県知事に転出してしまうのです。
「世渡りがうまい」というより、ここまでくると呆れたものです。

ヘタな小説に出てくるようなお粗末さですね。

政府は政府で、県知事が逃亡したなら、
その穴埋めとして、臨時に第32軍司令官牛島満中将にでも
行政権限を委譲すれば良かったのですが、それもせず放置していました。

泉の敵前逃亡から昭和20年1月31日に新任の県知事として
島田叡が沖縄に着任するまでの約1ヶ月間、
沖縄県行政はほとんど停止状態に陥ってしまっていたのです。

この結果、県知事逃亡以降3月中旬までの3ヶ月間に
沖縄本島北部に疎開できた県民は約3万人にとどまり、
南部に残留することになった多くの県民が、
昭和20年4月1日嘉手納湾に上陸してきた米軍と
日本軍との地上戦闘に巻き込まれ、
洞窟陣地内に非戦闘員を抱え込んだ第32軍の作戦行動は
著しく阻害されてしまうことに至ります。

戦火の下で食糧の確保、避難者の受け入れ、壕生活の改善、治安維持、
防諜など行政の任務遂行に最善を尽くした新任・島田叡県知事は、
6月18日摩文仁の北西3キロの轟の壕の中で殉死?し、
牛島司令官と長勇参謀長は、6月22日摩文仁の軍司令部坑道口外で
頭を拳銃で射抜いて自決し、
沖縄戦は、軍民合わせて約20万人の日本国民を犠牲として終結しました。

日本軍のレイテ作戦が失敗し
アメリカ軍の沖縄上陸が予想される逼迫した戦況の中に生じた
「沖縄県知事の敵前逃亡」
が、軍隊と行政の双方の任務遂行を阻害し、
沖縄戦の悲劇を増幅させたことは重大事件です。

これは、ワシントンの日本大使館が
転勤する寺崎英成書記官の送別パーティを優先して
真珠湾攻撃前の宣戦布告実施に失敗したことと並び、
永久に糾弾されるべき「日本官僚の国家犯罪」と言えましょう。


嶋田叡(あきら)・沖縄県知事
対馬丸が米潜水艦に撃沈された事件によって、
県知事の泉は疎開政策に消極的になり、
逆に一般市民を戦闘に参加させる方針をとります。

島田叡は東京帝大へ進んで旧内務省に入省、警察官を経て
大阪府内務部長だった1945年(昭和20年)1月、
沖縄県知事の辞令を受けました。

「命は惜しいが、私が断れば他の誰かが行くことになる」
と、1月30日単身で赴任しました。

県庁は爆撃で破壊され、民家数ヵ所に間借りしていた。

島田知事は着任早々から村々を回って住民を励まし、
あるいは県民の食糧確保のために台湾に出かけたり、
疎開を薦めて10万人以上を本島北部や本土へ送すのが精一杯でした。

県行政は政府と軍との板ばさみにあり、一般市民の保護策はなかなか進まず、
それどころか老人や学生まで狩り出した挺身隊が
次々と結成される有様でした。

首里城の地下にあった日本軍司令部が本島南部への移動を決めた際は、
「戦線を広げて県民の犠牲を増やすだけだ」
と猛反対したと言われています。

米軍の物量作戦に追われて、日本軍は南部へと移動しました。

仮県庁舎もガマ(壕)を転々とし、防空壕で職務を続け、
3ヶ月間にわたる沖縄戦の終結までに十数回も場所を移すことになりました。

米軍上陸後は「飛ぶ(職場離脱する)鳥は追わず」の方針を貫き、
6月には部下に解散を命じ生き抜くように指示しました。

「最後の仮県庁舎」とした摩文仁のガマ(壕)を出たのは
6月18日と言われています。

摩文仁付近で消息を絶ち、最後の姿を見た者はいません。

太平洋戦争で国土唯一の地上戦になった沖縄戦の犠牲者は
20数万人に上ります。

その6割超が沖縄県民で、しかも約10万人は一般住民でした。

沖縄県内には学徒出陣者や各府県出身者らの慰霊塔が計120基もあります。

死を覚悟して県知事となり、
疎開と食糧確保に尽力、
沖縄戦下の国民の犠牲を最小限にくいとめようとした努力は
今でも高く評価され、
昭和51年に島民により平和祈念公園の慰霊塔群の中に
「島守の塔」が建立されました。


学童疎開船「湖南丸」も被害に
対馬丸が撃沈される8ヵ月前、
1943年(昭和18年)12月21日、
アメリカ潜水艦の雷撃を受けて沈没した
「湖南丸」にも沢山の少年少女達が乗っていました。

九州で海軍少年飛行兵を受験する少年や、
軍需工場に動員された沖縄の少女たち数百名を海に放りだして、
湖南丸はタイタニック号のように直立姿勢で深海に吸い込まれて行きました。

冷たい海水が身体を貫く12月の深夜の海面には
泣き叫ぶ子供たちが多数漂い、
護衛艦柏丸が現場に残って救助活動を開始します。

3時間におよぶ必死の捜索で400人余りの子供たちが救出されました。

漆黒の海から拾いあげられた子供たちが寒さと恐怖に震えながら
やっと収容された時、今度は柏丸に魚雷が容赦なく牙を向けてきたのです。

柏丸に満載していた潜水艦攻撃用の爆雷に引火して大爆発を起こし、
粉々の破片とばらばらに砕け散った少年少女の肉片が
まるで豪雨のように海面に降り注ぎ、全ては終わりました。
湖南丸乗客583名のうち、生存者はわずか5名と言われています。


県の調査によれば、
沖縄関係の戦時遭難船舶だけで三32隻と言われています。

遭難者の数は3千とも5千とも、
その事実は生きた者、残された者それぞれの心に、
取り除かれることのない重しを残しています。


戦争でお亡くなりになられた数多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げます。
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2005年08月20日

学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その2

対馬丸2.jpg

対馬丸の撃沈
那覇港から鹿児島に向かって出航した学童疎開船「対馬丸」は、
同じく学童疎開船の暁空(ぎょうくう)丸・和浦(かずうら)丸と
3隻で船団を組み、
砲艦「宇治」、駆逐艦「蓮(はす)」の2隻の護衛船が帯同して、
8月22日夜、船はいよいよ最も危険な海域に入ります。

「老巧船だからスピードが出ない。
 ジグザグコースを走って、潜水艦攻撃を避けるべきだ」
「しかし、それでは到着が遅れる」
輸送指揮官が船長を制して、船はほぼ直線に進みました。

「今夜さえ無事なら、明日は鹿児島に着く。眠らないで警戒しよう。」
教師たちは万一を考えて、なるべく子供たちを、甲板で眠らせました。

しかし、子供たちの半分も甲板に上げると、
もう横になる場所もない、すし詰め状態でした。

昨夜騒ぎすぎた子供たちは、その疲れか、
早くからぐっすりと眠り込んでいました。


米潜水艦「ボーフィン」号は、
8月18日 鳥島南西海上を哨戒、
8月19日 粟国島付近を哨戒、
8月20日 伊江島付近を哨戒、
8月21日 久米島付近を哨戒、
8月22日 鳥島南海上を哨戒、
   同日 午後8時21分 悪石島を攻撃場所と決め、
      午後9時15分 アグニ丸(対馬丸のこと?)を目標に定めます。


対馬丸が8月21日に学童を疎開させる数日前は、
対馬丸が輸送船団の1隻として、中国から那覇に向かっていることを
米軍はキャッチしており、
この時も米潜水艦「ボーフィン」号が
那覇の北西にある粟国島付近を哨戒していました。

目標が対馬丸だったのか、他の輸送船だったのかは分かりませんが、
この時は運良く輸送船団は米潜水艦に遭遇しませんでした。

米軍は、
「対馬丸らが那覇港を出発して鹿児島に向かう情報」
をキャッチしていた可能性は極めて高そうです。

・午後8時21分に悪石島を攻撃場所と決め、
・午後9時15分 アグニ丸(対馬丸のこと?)を目標に定め、
という待ち伏せするような行動は、
対馬丸らの航路を事前に知りえないと、とても出来ないはずです。

そして、今回も「ボーフィン」号であることも。

当時の日本軍の暗号無線は米軍にほとんど解読されていましたから、
那覇で民間人の大量乗船が行われたことも知り得たはずです。

米軍の無線傍受記録による「アグニ丸」というのは、
那覇港を出発した船団にはないので、
対馬丸や他の船の名前を間違えたのか、
米側のコード名なのかは分かりません。


8月22日午後10時10分、
鹿児島の南西約260km、
奄美大島と屋久島のほぼ中間の南西諸島悪石島北西12km
(北緯29度33分、東経29度30分)付近を航海中、
米潜水艦「ボーフィン」号は対馬丸を目標に定め、
約1kmの至近距離まで接近し、
潜望鏡で充分監視した上で魚雷を3発発射します。

同日午後10時11分、
中央機関部に第1弾被弾、続いて船体後部に第2弾、第3弾も被弾。

3発の魚雷を受けた対馬丸は、
天に届くような火災を発生して11分後に沈没してしまいます。

突然の魚雷の被弾で船倉内は大混乱に陥りました。

目を覚まさない子供たちを教師は投げとばして起しました。

人の頭を踏みながら縄はしごに殺到する子供たち。

甲板では、船員や高学年の子供が、
舷側を越えられない子供たちを片っぱしから海に投げ落としました。

親子で、子供たち同士で、手を取り合って海に飛び込みました。

しかし、沈没までの時間が余りにも短く、
大半の子供たちは船と共に沈んでしまいました。


護衛艦「蓮」は、直ちに米潜水艦「ボーフィン」号に
爆雷攻撃を加えましたが時すでに遅く効果はありませんでした。

残された4隻は、
対馬丸が火柱を吹き上げて暗黒の波間に消えるのを、見届ける暇もなく、
潜水艦の2次攻撃を避けるため散開して、
それぞれ目的地の鹿児島に向けて全速前進する以外の選択肢はありませんでした。

対馬丸には、那覇市をはじめ県内各地の国民学校の学童826名、
引率教師や一般疎開者835名(うち乗組員24名)の
合計1,661名が乗船していましたが、
一瞬にして1484名が犠牲となり、生存者は僅かに177名でした。

犠牲となった学童は767名に上り、
そのうち運良く生き残った7歳から14,5歳までの学童は59名だけでした。

一般疎開者などの生存者も118名しかいませんでした。
歴史上極めて悲惨な事件でした。

ほとんどの乗船者は船倉に取り残されたまま船もろとも沈没しましたし、
海に飛び込んだ人も、多くが台風の接近に伴う高波にのまれたり、
サメに襲われたり、溺れたりして沈んで行きました。

浮遊物やイカダにつかまって漂流した人々は、
運が良い人は翌日付近を通った漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、
奄美大島まで流されるなどして生き延びたのです。

遭難6日目に島に流れついた子供や8日目に助かった人もいました。


疎開児童他を乗せた輸送船3隻のうち、
“無事到着”の報せがないのは「対馬丸」だけでした。

沖縄の家族や国民学校など、関係者の間に
不安と共に恐ろしい噂がささやかれるようになりました。

約1ヵ月後、対馬丸で生存した5人の子供たちが
ひっそりと沖縄に戻されてきました。

この事件については戦時中は軍側の機密として公表されることはなく、
かん口令が布かれていました。

県民の多くは、この惨劇を知りながら、
戦後も長いあいだ口にしませんでしたが、
関係者以外の人々がこの事件を知るようになったのは、
昭和37〜8年になってからです。


戦後、潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた
米海軍下士官アーサー・カーター元二等兵曹は、
『学童がいるとは知らなかった』
と話していますが、
・ 日本軍の暗号無線を傍受、解読して「対馬丸」の航路上で、
  待ち構えていたこと
・ 「対馬丸」に1kmまで接近して、潜望鏡で確認後攻撃していること
等から、学童かどうかはともかく、
少なくとも非戦闘員を中心とした非武装船であることは
理解できていたはずです。

しかし、当時米軍は、商船も攻撃対象としていました。

対馬丸は商船と見られていたのです。

・ 商船のように見せ掛けて実は軍艦かもしれないし、
・ (商船が)燃料など軍事物資を積んでいるかもしれない
こともあり、米軍は
「種類を問わず撃沈させる」
という、ハーグ条約
(海戦法規では交戦国の非武装商船に対しては、
 乗員の安全を確保した上でのみ、拿捕や沈没処分が認められている)
を無視した方針であったのです。

潜水艦「ボーフィン号」は、
現在、戦艦アリゾナ、戦艦ミズーリとともに
真珠湾の観光用の記念館になっています。

そこでは戦果として、
「商船40隻と帝国海軍船籍4隻を沈没させた」
となっていて、学童疎開船撃沈とは紹介されていません。

“真珠湾の仇”という意味での象徴となっているのだと思います。


対馬丸事件は、輸送船富山丸の沈没からわずか2カ月後の出来事でした。

沖縄からの疎開輸送は、
昭和19年7月から翌20年3月まで
延べ187隻に及び、約8万人が安全に疎開できたのですが、
犠牲になったのは対馬丸1隻だけでした。

多くの遺骨は、今なお冷たい深海の底に沈む、
魚雷で穴のあいた船体の中に眠ったままです。
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2005年08月19日

学童疎開船「対馬丸」の撃沈〜その1

対馬丸.jpg

8月22日は、学童疎開船「対馬丸」が撃沈されて、61年目にあたります。

学童疎開の背景

昭和19年7月7日、日本軍はサイパン陥落により、
本土決戦の時間稼ぎのため、米軍を沖縄で食い止める作戦を急ぎます。

その一環として、沖縄県民を本土に8万人、台湾に2万人を移し、
その分新たに日本兵10万人を沖縄に配備・強化し、
米軍を迎え撃つ計画を立てました。

同日深夜、
当時の県知事・泉守紀あてに大本営から緊急指令の電報が届きます。

「沖縄から老幼婦女子を計10万人本土と台湾に引き揚げさせよ」
という趣旨のものでした。

7月19日には、学童疎開に関する通達が出されました。
疎開の対象は、
「国民学校初等科第3学年から第6学年までの男子希望者」
を原則として、さらに
「初等科第1、第2学年の者でも、
心身の発達十分で付き添いが要らないと認められた者は許可する」
となっており、
「児童40名に対し1名の割合で教員を付すること」
とされていました。

そんな中、那覇国民学校では重苦しい緊張感につつまれて、
連日職員会議が開かれていました。

「学童疎開は国家に対して我々の出来る最も身近な御奉公だ。
軍の要請で働ける者意外は全部県外へ出て行かねばならない」
「疎開船が潜水艦にやられた場合、責任は誰が取るのか」
「疎開は国策です」

不安は感じるものの、学校は兵隊の宿舎となり、
「児童たちさえ連日飛行場づくりの作業をするような沖縄よりも、
本土へ行ったほうが満足な教育が出来る」
と考える教師もいて、疎開する児童集めが急ピッチで進められました。

疎開とは
「災害や敵襲に備えて、住民、施設などをリスク分散させる」
ことです。

対馬丸および一連の学童疎開には
「足手まといになる学童を安全な地域に移す」
という目的の他に、
「たとえ沖縄全県民が玉砕することになっても、優秀な子どもを後世に残す」
という、いちるの望みを託したのと、
「日本軍兵士の食料を確保するための口べらし」
という戦時下における現実的な目的なども同時にありました。

「生まれ育った土地から離れたくない」
と、頑として疎開を受け入れなかった住民もいましたし、
当時の沖縄県知事の泉守紀が、
恐怖感から後に県行政を放棄して本土へ逃亡してしまい、
疎開が遅れたこともあり、
結果、非戦闘員である多くの住民が戦争に巻き込まれ、
悲惨な末路を辿っていくことになります。

昭和18年5月以来、沖縄近海では米水艦によって
民間船舶が次々と沈められていました。

すでに嘉義丸・湖南丸・台中丸・富山丸などは
那覇―鹿児島間の海域で米潜水艦の攻撃を受けて沈没していましたが、
当時は公然の秘密とされていました。

学童疎開においても、攻撃を受ける可能性は充分予想されましたが、
それでも危険を冒して出航せざるを得なかったのは、
刻々と迫る戦況の悪化から
「米軍の沖縄上陸は時間の問題」
という、もはや一刻の猶予もなく、
お年寄りや子供、女性を疎開させるまで
追い詰められた事情にあったからでした。

「対馬丸」(6724トン)は、
1916年(大正5年)にニューヨーク航路の第1号船となった貨物船で、
第2次世界大戦中は日本陸軍に輸送船として徴用されていました。

1944(昭和19)年8月21日夕方、
那覇港には貨物船3隻(和浦丸・暁空丸・対馬丸)が
疎開する学童たちを待っていました。

港には約5千人以上の疎開者とその家族が、
最後になるかもしれない「別れ」のために集まって来ました。

「乗るのは軍艦じゃないんですね」
厚い雲に覆われた夕空とともに、親たちの胸に不安がよぎります。

絶壁のように高い対馬丸の船腹を登り、
甲板に降り立った子どもたちの中には、
親と離れた淋しさにベソをかく子もいましたが、
多くの子は初めての大きな船に興奮して楽しんでいました。

国民学校の学童826名は、
教師・付添人を含めた一般疎開者835名(うち乗組員24名)と共に
総勢1661名が対馬丸に乗船し、
暁空(ぎょうくう)丸、和浦(かずうら)丸と、
駆逐艦「蓮(はす)」と砲艦「宇治(うじ)」の2隻を
護衛艦として帯同し、
共に8月21日午後6時35分に那覇港を出航して行きました。

疎開船3隻の中で、対馬丸は最も大きい船でした。
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2005年08月18日

ペットフードを与えるあなたは林眞須美容疑者と同じ〜その2

ペットフードの定理1

食品・畜産廃棄物+危険な発ガン性・合成添加物=ペットフ−ド


平成13年からBSE・狂牛病の発生防止のために、
飼料及び飼料添加物の成分規格等に関する省令の一部が改正され、
「動物性たん白質」を含む畜産飼料の製造と家畜へ与えることが禁止され、
平成14年8月2日から施行されました。

罰則もあって、
違反すると3年以下の懲役または30万円以下の罰金に処されます。

禁止された「動物性たん白質」とは牛だけでなく、
豚、馬、鶏などに由来するものも含まれます。

その「動物性たん白質」は肉骨粉、肉粉、臓器粉、骨粉、血粉、血液製品、
加水分解たん白、蹄粉、角粉、皮粉、羽毛粉、獣脂かす等です。

ところが、ペットフ−ドについては
牛を除いた、豚、馬および家禽だけに由来する
「動物性たん白質」については、堂々と製造販売使用が認められています


つまり、ドッグフ−ドに表示してある肉とは、
この肉骨粉、肉粉、臓器粉、骨粉、血粉、血液製品、加水分解たん白、
蹄粉、角粉、皮粉、羽毛粉、獣脂かす等です。

言い換えると、畜産廃棄物ですよね。

これらは廃棄するか、肥料としての用途しかないものなんです。

肥料として利用する場合でも、たん白質の腐敗臭で、
耐えられないような悪臭を放つので、有機的効果は充分あるものの、
敬遠されているのが現状なんです。

この「動物性たん白質」を原料としたペットフ−ドを家畜に食べさせると、
前記のように、3年以下の懲役または30万円以下の罰金に処せられます。
おかしな話だと思いませんかexclamation&question

牛・馬・豚・鶏などの家畜の肉や卵などは「人間が食べる」、という理由で、
その飼料には法的規制をするくせに、
伴侶動物・コンパニオンアニマルと呼ばれる“家族的”ペットは、
「人間が食べない」という理由で、
例えペットが狂牛病になっても、国民生活には支障がないので、
ペットのエサは「肥料並みで充分」という考え方です。

ペットフードの表示についても、法的基準は何もありません。

メーカーは都合の悪い表示はしなくてもすむので、
使用している添加物の記載は当然しません。

輸入フードでは、
原産国で作られたパッケージには添加物が表示されていても、
日本の販売店が都合の良いことしか書かれていない「ラベル」に
張り替えてしまうんですね。

家畜用飼料にも添加禁止の、時には農薬としてさえ使用禁止となっている
化学合成薬品が無制限に使われているのです。

それらは、毒ガスなどの化学兵器や、
遺伝子損傷や発ガンのための実験に使われているような
「超強力」な毒薬がタップリと入っているのです。

ペットを「最強兵器」にでもするつもりなのでしょうかexclamation&question

あいまいな主原料とビタミン・ミネラルだけが表示されていて、
読めば読むほどペットが健康で長生きするような
イメージが浮かんでくる能書きが書かれていますよね。

「総合栄養食」、
「ペットの健康のために最適なフード」
というデマカセ広告を平気で出してくるメーカーには、
もう騙されてはいけません。

ホームセンターの日替わり特売では、
DOG FOODは10kg袋を980円で売られています。

ということは、1kgあたり約100円ですね。

人間用のブラジル産鶏肉(ムネ)が、スーパーでは1kgあたり約350円、
農業の肥料は、一般的に1kgあたり50円以下、
鶏糞は1kgあたり約60円です。

鶏糞は宣伝しませんが、DOG FOODは宣伝しますよね。

当然、宣伝広告費がかかり、見栄えを重視するために、
包装にも気を遣っています。

となると、原材料費が限りなくタダに近くないと、採算が合いません。

ということは、
DOG FOODの原材料には高価なものが
使われるかどうかを考えてみて下さい。

そういえば、昔、
「マクドナルドはネコの肉」というウワサ(歌?)や、
「マクドナルドの肉は、埼玉県川口市の子会社の工場で、
  牛の骨をすりつぶして肉のようにしたもの」
とか、いろいろありましたね。

真偽の程はわかりませんが、
「火のないところに煙はたたない」というので…exclamation&questionがく〜(落胆した顔)
posted by RIUさん at 15:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 危険なペットフード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月17日

終戦後の戦い・ソ連侵攻〜その3

北千島の白虎隊
樺太と共にソ連軍との“戦後の戦い”を強いられた千島の戦闘は、
8月18日午前1時半に始まりました。

千島列島でソ連軍の侵攻を受けたのは
最北端の占守(しむしゅ)島だけでしたが、
攻撃は占守島と約10kmしか離れていない
カムチャッカ半島の最先端にあるロパトカ岬からの
長距離砲による砲撃で始まりました。

当時、北千島(占守島、幌筵〔ほろむしろ〕島)には
第91師団を中心に約2万3千名の兵力が北方守備についていました。

このうち占守島には、8千人の兵が陣地を築いていました。

日本軍はすでに終戦の報を得ていて、
一部の部隊では武器の廃棄作業も始まっていて、
武装解除を進めているところでした。

そこに、
「ソ連軍、竹田浜に上陸」
の報が入り、日本軍は急きょ「自衛戦闘」態勢に入りました。

戦車連隊も出動した日本軍の水際防御戦闘は凄まじく、
敢然と不法侵入した約9千人のソ連軍を圧倒します。

しかし、師団司令部は第5方面司令部の命令で、
8月18日午後4時をもって攻撃を中止し、防御体勢に入ります。

そして軍使を派遣して戦闘中止を画策します。

第5方面司令部も大本営に急報し、
大本営はマッカーサー司令部に戦闘中止を訴えます。

「8月18日千島列島占守島に対し一部の兵力上陸し、
 我方は自衛の為己むを得ず戦闘中なり。
 彼我共に停戦しある今日、甚だ不都合と認むるに付、
 至急停戦する様指導あり度」
しかし、ソ連はマッカーサー司令部からの連絡には応じようとせず、
戦闘続行の構えを崩しませんでした。

この間にも、日本軍は何度も軍使を派遣し、
8月21日になって、ようやく停戦合意に至りました。

日本軍の死者370名に対し、ソ連軍の死者は3千人以上と言われるほど、
日本軍はソ連軍を追い詰めていました。

北千島の日本軍は8月23・24日の両日に武装解除し、
国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島など
南千島の各守備隊も9月4日までに武装解除して、
武器をソ連軍に引き渡しました。

ソ連軍は、南樺太でも“降伏”無視の攻撃を
その後もソ連軍は軍事行動を止めませんでした。

無抵抗の日本軍をしり目に、千島列島を次々に南下して、
ついに8月28日には択捉(えとろふ)島、
9月1日には色丹(しこたん)島、
9月5日には水晶(すいしょう)島〔歯舞(はぼまい)諸島の1つ〕を
占領して、北海道を目前にして、ようやく動きを止めます。

当時、ソ連は、アメリカに対し、
「根室〜留萌を結ぶラインをソ連占領地区にする」
ことを要求していたのです。

占守島で不法に侵入したソ連軍に敢然と立ち向かった日本軍将兵だけでなく、
その南の幌筵島の将兵も含め、
約2万3千人を主体として、カムチャッカ半島に強制連行し、
強制労働につかせます。

満州の関東軍をシベリアに強制連行したことと同様の仕打ちでした。

占守島で頑強に抵抗した第91師団の将兵は
シベリアのマガダン(現マガダン州州都)に連行し、
最も過酷な鉱山採掘労働に従事させました。

その後、残留の一般邦人の大半は帰国できましたが、
朝鮮人は帰国が許されず、現地に残されました。

厚生労働省の推計では、
「シベリアには約60万人が抑留され、約6万人もの命が失われた」
となっていますが、
ソ連における日本人捕虜の抑留状況に関する正確な資料は
過去に発見されておらず、実態はわからないままなのです。

日ソ不可侵中立条約を一方的に破棄し、侵攻し、多くの日本人の命を奪い、
日本兵を捕虜としてシベリアに強制連行・労働をさせておきながら、
補償や謝罪は一度もなく、
未だに北方 領土を不法占拠しているのが「ロシア」なのです。
posted by RIUさん at 10:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月16日

終戦後の戦い・ソ連侵攻〜その2

修羅場の真岡町
樺太の第2の戦場となる真岡町は、
樺太南部の間宮海峡側西海岸に面した街で、
人口2万1千名余の要所でした。

真岡町では、急きょ8月17日から老人や婦女子を中心に
北海道への疎開が始まり、8月19日までに漁船を含めた各種船舶で
約6千名が出港しています。

しかし、まだ1万5千人余の一般邦人が残っていました。

この真岡町の沖合いに,
ソ連の北太平洋艦隊が姿を見せたのは8月20日早朝でした。

真岡一帯は、この朝濃霧に包まれていました。

その霧の中から突然艦砲射撃の砲弾が街の中に降り始め、
午前6時前、狙撃旅団と混成部隊が、
真岡中央湾の三方向から上陸して来ました。

このとき真岡には歩兵第25連隊第1大隊を中心に、
わずかな部隊が残っているだけでした。

すでに連隊主力は8月18日に軍旗を奉焼し、
古年次兵の召集解除をした直後でしたから
、ソ連軍に対抗するすべはありませんでした。

ソ連軍の上陸地点の港の岸壁は、
北海道に疎開しようと集まった人々で埋まっていて、
係留された船の中には北方の珍内町から引き揚げてきた約1500名の
婦女子を乗せているものもありました。

港の人たちは大混乱になって逃げ惑い、
機銃掃射を避けて防空壕に隠れた人々には容赦なく
手榴弾が投げ込まれました。

国民服姿の人は有無を言わせず自動小銃を乱射され、
建物には火が放たれました。

歩兵第25連隊の山沢大佐は第1大隊長の仲川少佐に対して、
速やかに軍使を派遣して事を穏便に取り運ぶよう指令します。

ところが,村田徳兵衛中尉以下17名の軍使一行は
自動小銃の一斉乱射を受け、大部分が射殺され、
3名だけが逃げ帰ってきました。

混乱の中、札幌から師団命令が届きます。

「俘虜となるも停戦せよ」
という指令でした。

山沢大佐は、ロシア語の達者な村山主計中尉を
再び停戦交渉のために軍使として送り出します。

しかし、村山中尉も乗って行った自動車の中で射殺されてしまいます。

軍使の射殺事件はこの真岡だけではなく、他でも起こっていました。

恵須取町に隣接した塔路町では,
8月15日にソ連軍の上陸を受けましたが、
停戦交渉におもむいた安部庄松町長と山口三之助警防団団長が
銃殺されています。

さらに8月25日には、
大泊に上陸したソ連軍によって、
海軍武官府の軍使、増水主計大尉も射殺されています。

真岡の町は凄惨を極めていました。

銃を乱射し、火を放ちながら迫ってくるソ連兵を見た住民の中には、
自決した人たちも多数いました。

真岡郵便局では8名の女性電話交換手たちが
「通信機関は最後まで死守せよ」
という軍命令を守り、附近が火の海になるまで頑張っていました。

しかし、銃砲声がますます激しくなり、
ついにソ連兵の接近を確認して、
用意していた青酸カリを口にして命を絶ちました。

こうして「戦後」に突如として始まった真岡の戦闘は、
8月22日にようやく終息します。

何人もの軍使を殺されながらも、
ようやくソ連軍との間に「停戦協定が成立したから」です。

この真岡地区だけで戦死した将兵は105名、負傷は87名に上り、
一般住民の死者は、判明しただけでも509名に上りました。

引揚船への容赦ない魚雷攻撃
ソ連軍との停戦協定が成立した8月22日午前4時30分、
樺太からの引き揚げ者を満載した通信省海底電線敷設船「小笠原丸」は、
北海道の留萌市に近い増毛町別苅沖を航行中、
ソ連潜水艦の魚雷攻撃を受け、一瞬のうちに沈没してしまいます。

岸にたどりついた生存者は推定乗員720名のうち、
女性が11人、男性が51人の合計62人だけでした。

「小笠原丸」が撃沈された朝、
留萌近海ではさらに2隻の引揚船が潜水艦に攻撃されています。

1隻は、留萌の北20kmの小平町鬼鹿の沖を航行中の
海軍所属の「第2新興丸」で、同船は魚雷が命中したものの沈没は免れて、
どうにか留萌港にたどり着くことができましたが、
約400人の死者、行方不明者を出す大惨事でした。

生存者の話では、
突然の魚雷攻撃でパニック状態になった甲板の住民めがけて、
上空からソ連の戦闘機が機銃掃射の反復攻撃を加えてきたからだと言います。

もう1隻は、引揚船として使っていた特設砲艦「泰東丸」で、
これは瞬時に沈没しています。

「生存者なし」というだけで、被害者数の記録はありません。

日本がポツダム宣言を受諾し、
戦闘行為の停止を世界に宣言した8月15日から8日間も経っての、
それも非戦闘員の惨劇は、決して風化させてはいけないと思います。
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2005年08月15日

終戦後の戦い・ソ連侵攻〜その1

60年前の昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾し、
日本は無条件降伏をしました。

終戦で、戦争が全て終わったわけではなく、
沖縄では、8月下旬までゲリラ戦が展開されましたし、
南方でも多くの日本兵がゲリラ戦や切り込みを行ったり、
終戦を知らずに隠匿生活を送ったりしていました。

グアム島では、横井庄一軍曹が日本の無条件降伏を知らず
1972年(昭和47年)1月24日に発見されるまで
28年間ジャングル生活を送っていましたし、
フィリピンのルバング島では、
小野田寛郎少尉が戦後30年を経て帰還しています。

小野田少尉の当初のメンバーは
小野田と、島田庄一伍長、小塚金七上等兵、赤津勇一一等兵の4名でした。

このうち1949年赤津一等兵が投降し、
1954年、地元の軍隊と武力衝突し、島田伍長が戦死。
1972年地元民と衝突、小塚上等兵が戦死し、
小野田少尉1人の帰還となりました。

横井庄一軍曹や小野田少尉の話では、
他にもまだ日本兵が隠匿していたようで、
早い段階で捜索していれば、小野田少尉のグループも含めて、
生きて帰還された兵士もいたことと思うと残念に思います。


終戦当時、北方の南樺太、千島でも、
まだ日ソ両軍が激戦を繰り広げていました。

終戦8ヶ月前の昭和19年12月31日現在、
樺太には41万7976名、戸数7万6321戸の一般邦人が
居住していました。

さらに、強制連行されて炭鉱やパルプ工場などで
働かされていた朝鮮人労働者が、約3万人を超え、
その他、軍の土木工事などを請け負っていた土建会社の現場作業員、
民間会社の工場などで働いていた本土からの季節労働者などが約3万人、
そして第88師団を中心とする日本軍が2万388名、
その総数は約50万名に達していました。

樺太防衛の第5方面軍(札幌)第88師団(師団長・峯木十一郎中将)が、
それまでの混成旅団を基幹として編成されたのは、
昭和20年2月28日でした。

主な部隊は、
・ 歩兵第25連隊
・ 歩兵第125連隊
・ 歩兵第306連隊
・ 山砲第88連隊
・ 工兵第88連隊
などでした。

ソ連は昭和20年5月8日にナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏をすると、
ヨーロッパ戦線の部隊、約55万人を
シベリア方面に移動させ始めていました。

既存の兵力と合わせると、約130万人になります。

兵力増強の動きは、樺太方面でもみられ、
ソ連領と日本領の境界である北緯50度の国境線を守備する監視哨からは、
ソ連領内の緊迫した動きが師団本部に伝えられていました。

師団では「ソ連の侵攻は近い」と判断し、
再三にわたって札幌の第5方面軍司令部に
樺太防衛の具体的な作戦指導の決定を求めていましたが、
対米作戦第一にとらわれていた軍司令部からは
何の具体的指示もありませんでした。

樺太の悲劇は、この軍司令部の戦況判断の甘さに起因していました。

現地の第88師団が「対米」から「対ソ」への作戦転換命令を
軍司令部から受けたのは8月3日でした。

樺太の現地部隊がソ連の対日宣戦布告を知ったのは、
8月9日の午前5時、アメリカのラジオ放送を傍受したことでした。

第88師団長の峯木中将は、
直ちに北緯50度の国境線を守備している歩兵第125連隊に
防衛態勢の強化を命じます。

そして「樺太の第2次世界大戦」は、この日の午前7時30分過ぎ、
国境線のほぼ中央にある武威加警察官派出所に対する
ソ連軍の激しい砲撃によって始まりました。

続いて、日の丸高地と言われた軍の国境監視哨、半田警察署が攻撃され、
戦火は一挙に拡大してゆきます。

国境に近い気屯に連隊本部を置いていた歩兵第125連隊は、
侵攻してくるソ連軍に対し、
後退しながらも8月15日前後までは必死の抵抗を試み、
一進一退を繰り返していました。

樺太の第88師団には、
北海道の第5方面軍から8月15日正午の玉音放送に続いて
「終戦」の軍命令が届きます。

ところが、翌日の8月16日午後には
「自衛戦闘を行い、南樺太を死守せよ」
という軍命令が再び届きます。

ソ連軍との戦闘は続行されることになりました。

第88師団は召集解除した地元樺太出身の兵士に再召集をかけるなど、
各地で混乱が続出します。

義勇戦闘隊という名で召集された民間人からは
「軍は戦争が終わったというのに、まだやるのか」
といった非難も出ていましたが、
北部の国境地帯では現に戦闘が続行されています。

師団司令部はやむなく部隊を再配置し、自衛態勢の整備に躍起となりました。


ソ連の詭弁
連合国の一員でありながら、戦闘を止めなかった理由は、
 「天皇の降伏についての発表は一般的な無条件降伏宣言にすぎず、
  軍隊に対する戦闘停止命令はまだ出ていないし、
  日本軍は依然として抗戦している。
  ソ連は日本軍が戦闘行為を停止した段階で日本軍降伏を認める。
  よって、極東のソ連軍は攻撃を続行した」
とソ連の公式戦史に書かれています。

8月12日にスターリンは
 「日本の武装兵力の全面降伏を受理し、調整し、実行するため、
  連合軍最高司令官としてダグラス・マッカーサーを任命する」
というトルーマン米大統領の提案に同意する返答を行っています。

ソ連は戦闘を停戦するどころか、
ソ連軍統帥部が、樺太の真岡町と千島列島侵攻作戦を決定したのは
8月15日であり、間宮海峡側の恵須取(ウグレゴルスク)村攻撃の
艦船が樺太の対岸、沿海地方のソフガワニ港を
出撃したのは8月15日の深夜でした。

ソ連の目的は、南樺太と千島列島の軍事占領を既成事実化し、
戦後の領土拡張を目指したものでした。
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2005年08月14日

ペットフードを与えるあなたは林眞須美容疑者と同じ〜その1

人間用の缶詰は、2004年度でみると、
国産メーカーの缶・びん詰め合計で399万4千トン、
(10年前比74.9%で減少傾向)
そのうち、水産・果実・野菜・ジャム・食肉などの
一般缶詰(丸缶)は30万トン(7.5%)、
たけのこ・トマト・ジャムなどの大缶は4万3千トン(1.1%)、
のり・ジャムなどのびん詰めは7万8千トン(2.0%)、
飲料缶(丸缶)が357万2千トン(89.4%)と、
今や飲料缶が缶詰の代表なんですね。

国産メーカーのレトルト食品は30万トンで
10年前比155.1%と増加傾向にあります。

ペットフードは1万4千トンで、
10年前比53.4%と減少傾向にあります。

輸入品では、
人間用一般缶が81万3千トン(昨年比110.5%)、
1,293億円(昨年比113.4%)、
ペットフードは19万トン(昨年比98.0%)、
358億円(昨年比98.2%)となっています。

ペットフードの缶詰を数量ベースでみると、
国産1万4千トン、輸入19万トンで
合計20万4千トン(2004年度)になります。

ペットフード缶の国産出荷価格は不明でしたので、
乱暴ですが輸入の2倍で換算すると、約53億円になり、
輸入金額と合わせると411億円になります。

ペットフード市場は2,400億円と言われていますから、
ペットフードに占める缶詰の比率は、約17%と推定されます。
だいたい、こんなものかもしれませんね。

人間用の缶詰とペットフードの缶詰を数量ベースで比較してみると、
約23〜24倍の開きがあります。

犬猫の人口?は、野生も含めて約2千万匹と言われていますから、
人間の約6分の1に過ぎない?のですが、
人間用の缶詰とペットフード用の缶詰数量比較から考えると、
ドライタイプやウェットタイプのペットフードに比較して、
「ペット缶は、高い」
とやや敬遠傾向にあるものと考えられます。

ペットフード缶の国産1万4千トンに対して、輸入が19万トンだと、
実に国産の13〜14倍が輸入品ということになりますが、
売られている缶詰の表示を見ると、そんなことが書いてありませんねexclamation&question
ラベルでは、ほとんどが国産みたいでしょう。


人間の缶詰に、発ガン性と遺伝子毒素が最も強いとされる食品添加剤の
BHA(ブチルヒドロキシアニソール)
が、微量でも混ざっていたら、
とんでもないことになります。

かつて、全面的使用禁止になった程のシロモノなんです。
化粧品のDHCじゃないですよ。

現在では、アメリカ製のパーム油を使った食用油やマーガリンなどの
食品だけに認められている危険な添加剤で、
厚生労働省では、全加工食品に抜き打ち検査を実施しているほどなのです。

BHAは、もともとガソリンの酸化防止剤ですから、
食品には使えないのは当然ですよね。

でも、この危険な添加剤がペットフードにはたっぷり入っているんですよ。


食品は
・ 人間用
・ 家畜飼料
・ ペットフード
に分けられます。

人間用食品には厚生労働省による『食品衛生法』があり、
また家畜用飼料は農水省の監視下による「飼料安全法」があります。

犬猫は法律上でも行政上でも、「家畜」ではないので、
ペットフ−ドは何にも保護されていない“無法状態”なんです。

むしろペットフ−ドは食品より肥料と同じ扱いなのかもしれません。

なぜかというと、人間は犬猫を食べないからなんです。

沖縄では、糸満市あたりで一部の人が赤犬を食べたりするようですが。もうやだ〜(悲しい顔)
朝鮮半島や中国でも犬を食べる習慣があるようで、野犬が少ないですよね。
でも、日本人は、ふつう犬猫を食べないでしょう。

バカ官僚や木っ端役人は、
BSE牛肉を食べて頭がイカレてしまっているようで、
頑として、「ペットフードの法的基準」という
至極当たり前の法的整備には手をつけたがりません。

きっと、犬猫を飼ったことがないのでしょうね。
もしかしたら、見たことがないのかも。がく〜(落胆した顔)
それとも、大手食品企業や、その子会社のペットフードメーカーに
天下りでもしているんでしょうかexclamation&question
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2005年08月13日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記4

菊水、金剛、多々良と続いた回天隊の「停泊地攻撃」は、
敵の防潜網、対潜攻撃の強化に阻まれて継続困難になりました。

そのために、司令部が考え出した作戦が,
「洋上の艦船を狙う航行艦襲撃」
でした。

南太平洋のソロモン海戦以来、
輸送任務に追われることが多かった潜水艦を、
本来の役目に立ち返させようとする作戦でした。

洋上回天戦の第1弾として,最新鋭の伊47と伊36の2隻が選ばれ、
天武隊が編成され、沖縄とマリアナ諸島の中間海域を作戦海域と定めます。

折田善次少佐は4回目の艦長出撃でした。

天武隊の回天搭乗員は、
隊長の柿崎実中尉、前田肇中尉、古川七郎上等兵曹、山口重雄一等兵曹、
新海菊雄二等飛行兵曹、横田寛二等飛行兵曹の6人でした。

このメンバーは、前回3月に出撃しながらグラマンや駆逐艦の攻撃で
被災し帰還するに至った多々良隊の時と、
そっくりそのまま同じメンバー構成でした。

柿崎隊長たちは、
「またお世話になりに来ました。宜しくお願いします。」
と微笑みながら、桜を1枝ずつ手にして伊47に乗り込んで来ました。

「今度こそ本懐を遂げるのだ」
という決意のほどが眉間に見えました。

柿崎隊長は、
「特別の配慮は一切ご無用。魚雷発射と同じ気持ちで、
 回天発進を命じて下さい。」
と、折田艦長に挨拶しました。

昭和20年4月20日、伊47は山口県光市光基地から出撃します。

前回3月の多々良隊では、出鼻をくじかれたこともあり、
豊後水道を出る前に、魚雷はもちろん、回天も
いつでも発進できるように準備しました。

5月1日夜、レーダー室から待望の報告。
「輸送船団らしき敵艦隊発見。」

曇天で暗く、回天戦はムリ、と折田艦長は判断。
「魚雷戦用意」を発令します。

白鉢巻の柿崎隊長が艦橋に来て、
「回天を使って下さい」
と懇願します。

「無理は絶対いかん」
と折田艦長ははねつけます。

船影4千mまで接近し、潜望鏡で目標を定め、射程に入れました。

「発射魚雷4、魚雷深度3m、発射準備」
一呼吸置いて、
「発射」
と命じました。

3分経過。
潜望鏡の視野に、火柱が1本。

近くに2本目が炸裂。
視野の右側にも3本目の火柱が上がります。

2隻に3本が命中。
うち1隻は沈没確実と判断されました。

この戦闘の興奮が覚めやらぬ翌日の5月2日午前9時過ぎ、
聴音室は音源を補足。

柿崎隊は、柿崎の
「さあ、行くぞ」
の声と同時に、各自の回天へ一斉に駆け出します。

まず、1号艇の柿崎中尉と3号艇の山口一等兵曹に、佐丸幹男機関中尉が、
「柿崎、しっかり頼むぞ」
と肩を叩きます。

「任せて下さい」
と柿崎は一言だけ、笑って右手を上げ、
回天の下部ハッチを開き、中に消えました。

ほどなく2つの艇が発進。

やがて、相前後して2つの大爆発音が起こりました。

続いて2号艇の古川上等兵曹。

海軍に入隊以来、魚雷一筋に生きてきた古川は、
快調な熱走音を出して敵艦に突進。

聴音室が2つの音をとらえます。

1つは敵の船、もう1つは古川艇です。

2つの音は弱まり、いったん消え、また大きくなりました。

ジグザグ操行で逃げる駆逐艦を、全力で追いかける古川艇の奮戦ぶりが、
聴音室で手に取るように分かりました。

「よし、行け」と思う間もなく、大轟音が伝わってきました。


伊47は5月4日、沖縄とグアム島を結ぶ敵補給線上に進出します。

5月6日早朝、レーダーが目標を探知します。
敵巡洋艦でした。

5号艇、前田中尉が発進しました。

爆発音が轟き、前田艇の命中で轟沈を確認。

残り2基の回天は、電話の感度不良などで発進できずに終わりました。

折田艦長は大戦果を収めた後、潜水学校教官に転出します。

伊47は、2代目艦長鈴木正吉少佐の指揮下で、
7月19日沖縄南東海域に進撃しましたが、
連日の荒天に妨げられて会敵できず、8月11日に帰還します。

8月15日に終戦を迎え、
精鋭伊47は米軍に引き渡されて海没処分に付され、
激闘の生涯を閉じました。

伊47をはじめ、回天戦は、かなりの戦果を挙げたことが
推測できるのですが、アメリカの公式発表は
・ 給油艦ミシシネワ
  昭和19年11月20日、西カロリン諸島ウルシー環礁で、
  伊47の仁科関夫海軍少佐の回天攻撃により撃沈されています
・ 駆逐艦アンダーヒル
  昭和20年7月24日、フィリピン・ルソン島沖で伊53の
  回天攻撃で撃沈
の2隻撃沈だけ、とされています。

魚雷と回天攻撃の区別が不明瞭なのか、
回天被害を容認したくなかったのかはわかりませんが、
ゼロ戦による特攻作戦や、回天による人間魚雷作戦等の自爆攻撃は、
米軍に強烈な脅威と恐怖心を与えたようで、
終戦直後、米軍との連絡のためフィリピン・マニラに赴いた日本軍使に対し、
マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は、開口一番
「回天を搭載し作戦中の潜水艦は何隻か。直ちに作戦を停止させよ」
と命じたそうです。


人間魚雷回天の創始者の1人であり、
また菊水隊として回天1号機で出撃した仁科関夫中尉は、敗戦を予期して、
「自分たちがいしずえとなって、日本は立派になるのです。
 自分たちの死は決して無駄ではありません。」
と、折田艦長に所信を明かしていたそうです。

また、仁科中尉のご遺族は、
他の回天隊員の遺族から
「お前の息子があんな物を作ったから、うちの息子が死んだ」
とののしられ、かなり辛い思いで戦後を過ごされたそうです。


日本海軍の潜水艦は、当初「第○潜水艇」と呼ばれ、
1916年(大正5年)から、
水上排気量600トン以上を一等潜水艇、未満を二等潜水艇としていました。

1919年(大正8年)にこの区分が変更になり、
1千トン以上が一等、1千トン未満500トン以上が二等、
500トン未満が三等になりました。
さらに、呼称も「艇」から「艦」に改められました。

1924年(大正13年)から、
一等の艦名には「伊号」、二等は「呂号」、三等は「波号」を
艦名の頭称に用いるように改定されました。

伊号潜水艦は、このときからの呼称です。


回天特別攻撃が最初に編成された、昭和19年11月の「菊水隊」に選ばれた
伊号36・37・47は以下のような生涯を過ごしました。

伊号第36潜水艦
・ 昭和17年9月10日竣工
・ 同年12月31日、ソロモン諸島のショートランド島に到着
・ 昭和18年7月2日、ケ号作戦で、
  アリューシャン列島にキスカ島東方、及び北方の配備へ。
  その後再び南方へ。
・ 昭和20年1月12日、西カロリン諸島ウルシー環礁ソロン島で
  回天4基を発進
・ 同年6月、米海軍LSTを撃破
・ 昭和21年4月1日、五島列島沖で米海軍により爆破処分

伊号第37潜水艦
・ 昭和18年3月10日、呉潜戦に編入
・ 同年6月4日、マレーシアのペナン島に到着
・ 同年6月16日、英軍タンカー「サン・アーネスト」を撃沈
・ 同年6月19日、米船「ヘンリー・ノックス」を撃沈
・ 同年10月23日、ギリシャ船「ファネロメニ」を撃沈
・ 同年11月27日、ノルウェータンカー「スコオシア」を撃沈
・ 昭和19年2月22日、英軍タンカー「ブリティッシュ・チバリ」を撃沈
・ 同年2月25日、英船「アスコット」を撃沈
・ 同年11月19日頃、敵駆逐艦の爆雷を被災後、消息不明

伊号第47潜水艦
・ その名から「死ナズ」と言われていたように、
  回天を搭載した伊号の精鋭艦36・53・58と並び、
  終戦まで生き永らえました。
・ 昭和19年7月10日、第11潜水戦隊に編入
・ 同年11月19日、西カロリン諸島ウルシー環礁を偵察
・ 昭和20年3月28日、第5玄作戦多々良隊として
  内海西部発、沖縄に向かう
・ 同年5月1日、沖大東島沖合いで米軍船団を雷撃、
  艦種不詳2隻の撃沈を報告
・ 同年5月7日、米軍空母または巡洋艦1隻の撃沈を報告
・ 昭和21年4月1日、五島列島沖で米海軍により爆破処分

昭和21年4月1日に、長崎の五島列島沖で、
米海軍により爆破処分された伊号潜水艦は、
36・37・53・58・156・157・158・159・162、
366・367・402の合計12隻に上りました。
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2005年08月12日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記3

菊水隊に続き、西太平洋の敵停泊地を奇襲するために、
伊号6隻で回天特攻金剛隊が編成されました。

その一員として、伊47潜は昭和19年12月25日、
山口県徳山市大津島を出港、
赤道を越えてニューギニア北岸中央のフンボルト湾内ホーランジア停泊地の
襲撃に向かいました。

昭和20年1月11日、フンボルト湾の北50海里(約100km)に到着。

湾内には50隻近い敵艦船がいる、との情報が入りました。

1月12日午前1時、回天搭乗員4名乗艇。

同日午前4時15分、折田艦長は「1号艇、用意、発進」と下令します。

金剛隊隊長・川久保輝夫中尉の1号艇の発進を確認。

続いて、2号艇の村松実上等兵曹、3号艇の佐藤勝美二等兵曹、
4号艇の原敦郎中尉。

電話線が切れる最後の瞬間、口々に「大日本帝国万歳」と絶叫して
ゆくのを折田艦長は聞きました。

同日午前5時11分、ホーランジア方向の水平線に
大きな赤みがかった橙色の閃光が噴出。

1発命中を確認。

間もなく電信室が「われ潜水艦の攻撃を受けつつあり」を意味する
敵のSOS連送の緊急電波を傍受。

停泊地が大混乱に陥った状況をつかみ、全基突入に成功と認め、
伊47潜は急速潜航して帰路につきました。

昭和20年3月、沖縄戦開始。

回天特攻多々良隊を編成。

伊号の47・56・58・44が、回天を総計20基搭載しました。

歴戦の勇伊47潜は、先陣を承って、
3月29日、山口県光市の光基地を出撃します。

同日、午後4時過ぎ、
日向灘沖で北上するグラマン戦闘機の編隊と遭遇し、急速潜航。

翌3月30日午前2時過ぎ、
種子島の東方25海里(約50km)で艦影2を発見。

急潜するも、敵レーダーにキャッチされ、包囲されます。

回避行動4時間、抜け出せない状況の中で、敵の機雷攻撃が始まりました。

巧みにかわしながら、回避行動12時間、
21発目でようやく、離脱に成功します。

種子島付近で浮上し、点検してみると、重油漏れの箇所があり、
対処方法を検討中にグラマン戦闘機が飛来。

急速潜航中の深度20mで、真上に大爆発音が2発。

爆弾の破片が艦橋を直撃、1番潜望鏡が漏水で使用不能になるも、
何とか逃げ延びられました。

回天も3基が損傷しており、沖縄周辺の敵の警戒網が厳重であることから、
折田艦長は作戦遂行をあきらめ、帰途につくことを選択しました。
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2005年08月11日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記2

11月16日に、西カロリン諸島ウルシー泊地の
飛行偵察の報告が入電します。
「ウルシー環礁内に敵戦艦、空母、輸送船など約200隻が集結中」
とのことで、艦内に歓声と引き締まった空気が流れます。

11月19日未明、潜望鏡を覗いた折田艦長が
「敵艦隊発見、7000(m)、航海長見ろ」
と重本航海長に観測を命じます。

リーフ(環礁)越しに、直線距離で7000mの近距離に敵艦隊がいます。

懐中深く潜入したために、監視の哨戒艇はいません。

ウルシー停泊地には、10ほども小さな島があり、
その間にリーフが横たわっています。

折田艦長は慎重に島を回り、リーフを避け、
敵艦に最も近い発射地点を選びました。

敵艦隊の最も手前の艦との距離は、1万mと推定しました。

11月20日、午前00時30分、
浮上した伊47潜で、搭乗員に回天乗艇命令が下されました。

ハッチのふたが開かれ、
まず3号艇の佐藤章少尉と4号艇の渡辺幸三少尉が、それぞれの艇に入り、
操縦装置や計器に異常がないことを確認して、
整備員にハッチを閉めるよう求めました。

整備員はすくみ、金縛りにあったように動けませんでした。

搭乗員は再度、閉めるように強く求めます。

整備員は、嗚咽をこらえながらハッチのボルトを閉めました。

次に、福田斉中尉が、挙手の敬礼をして、全乗員に
「お世話になりました。行きます。」
と、いつもの元気な声で別れの挨拶をして2号艇へ。

最後に仁科関夫中尉が、感謝の意を述べ、乗員と握手をかわし、
1号艇の人となりました。

いよいよ発進です。
5分おきに見送ったその情景を、
折田艦長は、戦後の手記で下記のように表しています。
いずれも、折田艦長が電話で
「会心の突撃を祈る。最後に何か言うことはないか?」
と聞いた、彼らの返事です。


「仁科関夫中尉は『お世話になりました。後続艇を宜しく願います。
後を頼みます。−出発します!』」
と平常と変わらない淡々たる口調で、午前4時15分、発進しました。
佐藤章少尉は、
「無事にここまで連れてきて戴いて有難うございました。
昼間見たあのでっかい戦艦に必ず命中します。
艦長以下乗員一同の武運長久を祈ります。−出発します。」
渡辺幸三少尉は、
「お世話になりました。落ち着いて行きますからご心配なく。伊47潜万歳」
と、見事な発進ぶりで駆走してゆきました。
福田斉中尉は、
「ご心配かけました。操舵機の作動良好です。−出発します。」
午前4時30分、「用意」「発進」を令すると、
バンドが外れ、回天が起動し、電話線が切れる瞬間に、
最後の雄叫びが私の耳を打った。
と、手記に書かれています。

停泊地の真ん中に真っ赤な火の塊が盛り上がり、
吹き上がって大きな火柱となりました。

命中、午前5時7分。

続いて5時11分、同じ方向に火柱。

命中2発目を折田艦長は確認しました。


一方、伊36潜の回天は、
4基中3基が架台から離れないなどの事故があり、
今西太一少尉(慶大−予備学生)の3号艇だけが、
11月20日午前4時54分に発進しています。

パラオ島コッソル水道に単独で向かった伊37潜は、
同水道西口で敵護衛駆逐艦に発見され、
爆雷攻撃を受け被災、回天を搭載したまま、悲壮な最後をとげています。

西カロリン諸島ウルシー環礁の戦果は、
米軍の報告によると、
下記2隻は、それぞれ1基の回天によって沈められた、となっています。
・ 給油艦ミシシネワ沈没
  回天発進の時刻と、地点の関係から、
伊36潜の今西艇が撃沈した可能性が強い、と言われています。
・ 戦艦ペンシルヴァニア沈没

米海軍は、回天5基のうち2基が、それぞれ海と空から撃沈され、
別の1基は砂州に衝突して爆発した、と報告しています。
それぞれ、どの艇のものかは不明ですが、悲壮な最後をとげました。
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2005年08月10日

伊号潜水艦に搭載した人間魚雷「回天」について〜追記1

回天.jpg

人間魚雷計画
太平洋戦争の末期、
「生産力の巨大なアメリカとまともに戦って勝てるわけがない。」
「こちらが1人で1千人の敵を倒せば勝てる。」
そのためには、
「体当たりして1艦を沈め得る強力な爆薬を抱えた魚雷が必要」
という必死必殺の考え方で、計画が練られて行きます。

“天を回らし、戦局を逆転させる”
という願いを込めて、「回天」と命名されました。

試作基を造るうちに、
当初予定されていた「脱出装置」の設計が難しく、
取り付けないことに決められました。


回天の構造
気泡の航跡を残さない93式酸素魚雷を改装した1人乗りの兵器で、
初期の1型は、
・ 全長14.75m
・ 直径1m
・ 全重量8.3トン
・ 最高出力30ノット(時速55km)
・ 上げ下げ自由な約1mの特眼鏡(潜望鏡)
・ 頭部に1.55トンの強力TNT火薬を装着
  (普通の魚雷の3倍強の破壊力があり、
   この1発でどんな巨艦も撃沈させることができました)
を備え、
・ 潜航
・ 浮上
・ 変針
・ 変速
が自在にでき、また自動的に一定の深度、速力で直進できました。

搭乗員は懐中電灯と砂時計を頼りに、
1人で全ての機器を操作することになりますので、
相当な訓練を受けた優秀な頭脳の精鋭部隊でなければなりませんでした。

・ エンジンに点火しないで「冷走」して燃料切れになったり、
・ 気筒爆発、深度計の不備による海底衝突
などの事故があったりで、殉職者も続出したようです。

戦争の敗色が濃い時期で、
人手不足による整備員の技術ミスも目立ちました。

スクリューを逆回転できない構造のため、後進が出来ないので、
万一攻撃目標からズレが生じた場合、少し遠回りして迂回し、
追跡するという不便さもありました。

いろいろな問題点を抱えながらも、
搭乗員たちは必死必殺の訓練にまい進しました。


最初の回天出撃
1944年(昭和19年)10月下旬、
米軍最強の海兵隊は、パラオ諸島、正確には、西カロリン諸島に集結し、
これに奇襲をかけようとする
日本海軍の第6艦隊(潜水艦隊)の作戦計画に基づき、
最初の回天特別攻撃隊が編成され、
第1次作戦を「玄作戦」、
出撃隊を「菊水隊」と命名されました。

「菊水隊」は、伊36号、伊37号、伊47号の3隻の潜水艦で構成され、
回天搭乗員は、1隻に4人ずつ、合計12人が配置されました。

第1次出撃隊は、兵学校、機関学校、予備学生出身の士官ばかりで
構成されましたが、これは「士官先頭」という海軍の伝統によるものでした。

伊号第47潜水艦の回天搭乗員は下記の4名、いずれも20歳前後の精鋭でした。

仁科関夫中尉
小・中学校、海軍兵学校を首席で卒業し、柔・剣道も4段の腕前でした。
回天特攻作戦を具体化した中心的な1人です。

福田斉中尉
機関学校出身で、機関学校の名誉を担って、特攻の第1陣に志願しています。

佐藤章少尉
九州大学法学部を卒業後、予備学生を志願するも、
戦局の悪化から、国難を救うために回天特攻に志願しています。
彼はすでに結婚していて、妻に宛てた手紙の中で、次のように書き送っています。
「他に嫁ぐもよし。ただ汝は私の永久の妻なり。
この世において、たとえ他人の妻たるの名を仮せられようとも、
余の妻たるに変わりはない。極楽にて待っている。」

渡辺幸三少尉
慶応義塾大学経済学部を卒業し、予備学生から、回天特攻に志願しています。
医師だった父が早く亡くなり、苦労して育ちました。
姉に宛てた遺書の中で、
「叔父が出してくれた奨学金は、
自分の遺産の中から利子を加えて返してほしい」
と頼んでいます。
苦労人の彼は、人生に借りを残してはならない、と考えていたのでしょう。

回天は4基ずつ、3隻の伊号潜水艦の甲板に木製バンドで固縛され、
昭和19年11月8日、山口県徳山市の大津島から
伊36潜と伊47潜は、西カロリン諸島ウルシー島の泊地へ、
伊37潜は単独で西カロリン諸島パラオ島のコッソル水道へ
出撃して行きました。

航行中の伊47潜では、回天搭乗員4名の起居動作は、
乗り込む以前と全く変わった様子がなく、
返って乗組員の邪魔にならないようにして、
米軍の艦船の模型を出し、向きを様々に変えて測的の訓練をしたり、
海図を広げては、どこをどう進むか、熱心に研究していたようです。

攻撃日が迫っても、淡々として、落ち着いていて、
食後は軍医長や手すきの乗員を相手に、囲碁や将棋に興じていました。

折田善次・艦長ら乗員の方が緊張して、
折田艦長は
「どんなことがあっても、4人を無駄死にさせてはならない」
と思い詰めて、食が細りました。

出撃2日目と3日目は荒天で高波が後甲板の回天にぶつかるので、
回天が壊れぬように、針路の選定、速力の調整に神経を削りました。

夜間は搭乗員を回天の中に入れ、
操縦装置や電話の点検、テストを入念に行っていました。
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2005年08月09日

インディアナポリスを撃沈した伊58号について〜追記

8月6日の
今日は広島に原爆が投下された日です」の、
原爆を輸送したインディアナポリスを、その後撃沈した伊58号について、
追記したいと思います。

米軍側の動向
太平洋戦争が終わったとき、米調査団がすぐに来日しました。

彼らは大型巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈した潜水艦の
番号を知りたがり、艦長に攻撃の状況を聞きたがりました。

「なぜ、多くの軍艦の中からインディアナポリスを待ち伏せしたのか?」を。

インディアナポリスが原爆の心臓部である
「ウラニウム235」を運んだからなんですね。

「普通の貨物船では危険」と、
米海軍は、巡洋艦以上の軍艦を使う必要性を考えていたところに、
たまたまインディアナポリスが復帰した事情がありました。

同艦は、1945年(昭和20年)4月30日、
日本陸軍の誠39特攻隊の隼戦闘機に体当たりされ、損傷し、
2ヶ月かけて修理を終えて、復帰してきたのです。

1945年7月16日(アメリカ時間)、
インディアナポリスは、「ウラニウム235」と「起爆装置」を積み込み、
カリフォルニア州のサンフランシスコから出航し、
全速力で西に向かい、途中ハワイの軍港パールハーバーに燃料などの
補給の為に一時寄港して、B-29爆撃機による
日本爆撃の基地があったマリアナ群島テニアン島までの
10,200kmを平均速力29ノット(時速54キロ)の高速で
走り続け、所要日数10日で7月26日に無事にテニアン島に到着し、
輸送の任務を終えました。

そのウラニウム235型原子爆弾は「リトルボーイ」と命名され、
8月6日、エノラ・ゲイに搭載され、広島に投下されました。

米軍上層部は、
「日本側は、極秘に進められていた原爆部品の輸送を
事前にキャッチしていたのか?」
「重大な機密が漏れていたのか?」
「だとしたら、どうやって漏れたのか?」
と疑念を持ったのです。

実際には、敵の後方補給線を狙った伊58号が、
たまたまその海域でインディアナポリスに遭遇しただけなのですが。


「伊58号」の動向
日本海軍の新鋭潜水艦「伊58号」は、
日本の敗戦が近い1945年(昭和20年)7月18日、
山口県の平生(ひらお、瀬戸内海に面した軍港)から出撃しました。

平生には、人間魚雷「回天」の訓練所も設けられていました。

偶然にも、「伊58号」の出撃した7月18日は、
米海軍のインディアナポリスがサンフランシスコを
出港したのと同じ日なんですね。

どういう因果なのか、奇しくも2週間後に、
この2隻はフィリピンのレイテ島沖で遭遇することになります。

「伊58号」は、艦内の95式53センチ酸素魚雷のほか、
甲板上に人間魚雷「回天」6本も甲板に搭載していました。

暑い艦内では、乗組員はふんどし1つの丸裸状態
だったと伝えられています。

日本の敗北15日前の昭和20年7月30日未明、
見張員は距離1万mで左真横に操行する
アイダホ型戦艦(インディアナポリス)を発見します。

護衛艦はいませんでした。

人間魚雷「回天」の搭乗員は、「伊58号」の艦長に、
「早く行かして下さい!」
と依頼してきました。

しかし、艦長・橋本以行少佐は、これを退けました。

「敵は全く油断していて、ジグザグ操行さえしていない。
 この状況なら、貴重な人命を失う回天を使わなくても、
 普通の戦法で、充分に命中が期待できる」
と判断したからでした。

あるいは、月の明かりが弱く、
回天の貧弱な97式特眼鏡(長さ2.9m)では、
命中の可能性が低い、という精度上の考えがあったのかもしれません。

「伊58号」は7月30日午後11時26分、
右舷1,500mで2秒おきに6本の魚雷を発射します。

場所は、フィリピンのレイテ島の東方沖です。

艦首と前部2番砲塔の下方右舷に1発ずつ、計2本が命中、爆発しました。

魚雷の深度は浅くセットされていましたが、
その被害は甚大だったようで、
インディアナポリスは右舷に傾きながら艦首を沈め、
命中より15分後、海中にその姿を没しました。

インディアナポリスは、15.7ノット(時速27km)の速力で、
訓練のためレイテ島に向かっていました。

同艦が、もろくも沈没したのは、南海の暑さのため、
油断して2番デッキの防水扉が開放されていたことも不運でした。

乗艦していた1196名のうち、
艦と運命をを共にしたのは約300名、
海中に落ちた者が約900名でした。

「伊58号」は、
「アイダホ型敵戦艦に魚雷6本を射ち、確実に撃沈せり」
と、広島県呉市の第6艦隊司令部に打電しました。

「伊58号」は、その2週間後、沖縄防衛線で回天を使い、
ドック型上陸艦LSDオークビルと、
その護衛駆逐艦トーマス・F・ニッケルの2隻にも被害を与えています。

「伊58号」は、終戦前日の8月14日、広島県の軍港・呉に帰港しています。

「伊58号」による大型巡洋艦インディアナポリス撃沈は、
第2次世界大戦で潜水艦が沈没させた最後の大型軍艦となりました。

米海軍の哨戒機や通信班の怠慢から、
海上を漂流している生存者の捜索は、
沈没から3日も経ってから、やっと始まりました。

死者の数があまりにも多いため、終戦後の昭和20年12月、
米海軍はインディアナポリスの艦長マクベイ大佐を「軍法会議」にかけました。

「伊58号」の艦長・橋本少佐も証言台に立たされましたが、
「重巡洋艦は、潜水艦よけのジグザグ・コースをとっていなかった」
と証言しています。

軍法会議では、マクベイ大佐は職務怠慢により
「海軍士官の序列を100番下げる」
という判決になりました。

審判中、橋本少佐には何度も
「インディアナポリスはジグザグをしていた」
という偽証をさせようと働きかけられていたようです。


「伊58号」
巡洋潜水艦の回天母艦
水線長(全長)106.9m、最大幅9.3m、燃料満載842.8トン、
14cm主砲×1門(158弾)、25mm機銃×2門(2,100弾)、
53cm発射管×6(艦首)、魚雷19本搭載、
潜偵複座椅(海上航空機)×1、防御安全潜行深度100m
艦長・橋本以行少佐。
昭和19年9月7日、
    第11潜水戦隊(地方部隊所属の防備用潜水艦の部隊)に編入。
昭和20年4月10日、
    沖縄西方面に進出したが、
    「敵警戒厳重にして泊地進入困難なる」旨、打電報告。
同年7月28日、
    米駆逐艦ローリーを撃沈。
同年7月30日、
    大型巡洋艦インディアナポリスを撃沈。
昭和21年4月1日、
    五島列島沖合いで、米海軍により爆破処分。

Z型C2(低速型)の627号艦型で、
7隻の製造計画のうち、実際に製造されたのは、
伊54号・伊56号・伊58号の3隻でした。
伊54号・伊56号は下記のように、共に消息不明になっています。

伊54号
昭和19年3月31日、
    第11潜水戦隊に編入。
同年10月15日、
    フィリピン東方海面に配備を変更され、米機動部隊と遭遇・交戦。
10月23日、
    消息不明。

伊56号
昭和19年6月8日、
    第11潜水戦隊に編入。
同年10月24日、
    米LST1隻を撃破。
昭和20年3月31日、
    玄作戦多々良隊として沖縄に向かうも、その後消息不明。

伊号潜水艦
日本海軍の1等潜水艦(「伊号」)115隻の末路は、
・ 沈没・撃沈     30隻
・ 消息不明      55隻
・ 終戦後米軍に接収  25隻
・ 老朽のため廃艦・除籍 5隻
日本海軍の潜水艦は上記1等潜水艦(「伊号」)115隻を含めて、太平洋戦争開戦時は190隻ありましたが、敗戦時に残存していたのは59隻で、実に131隻に及ぶ多数の潜水艦を喪失しました。

潜水艦乗員の士官の生存率も、
・ 51期 6名 35%
・ 59期 4名 27%
・ 64期 4名 17%
と甚大な被害を被りました。


日本海軍は、潜水艦に航空機を搭載し、
それを実用化した世界唯一の海軍でした。

潜水艦という“Under Water Sea Power”に、
飛行機という“Air Power”を組み合わせて
「潜水空母」というシステム的戦力を誕生させた日本海軍の発想と、
それを実現した技術力は高く評価され、
この着想がアメリカ海軍の
戦略ミサイル原子力潜水艦に受け継がれて行きました。
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2005年08月08日

明日は長崎に原爆が投下された日です。

テニアン北飛行場から出撃
1945年8月8日夜、
ファットマンを爆弾倉に搭載したB‐29爆撃機「ボックス・カー」は、
8月9日、午前2時49分に第1目標は小倉、第2目標を長崎として、
13名の乗組員を乗せ、テニアン基地A滑走路を発進しました。

偵察機は「小倉上空の低空の雲量は3割の晴れ」と報告してきましたが、
10時44分にボックス・カーが小倉上空にさしかかると、
一面雲に覆われており、3度旋回を試みましたが、
目標地点の兵器廠と小倉市中心部は目測できず、
さらに高射砲や戦闘機の迎撃が激しくなり、
第1目標を断念し、第2目標の長崎へ向いました。

気象条件を気にした理由は、
・ 原爆は3万フィート以上の高空から、
  しかも目測によって投下されるので、
  従って視界が良くなくてはならないこと。
・ 3万フィート以上の高度が必要な理由は、
  日本の対空砲火も届かないし、
  日本の戦闘機もここまでは上ってこられないため。
・ もう一つの理由は、
  原爆は普通の爆弾のように地上に落ちてから爆発するのではなくて、
  爆発効果を大きくするために2千フィートの上空で爆発するように
  時限装置がセットされているためです。
  原爆は搭載機から離れると、放物線を画いて前方に落ちて行きますが、
  もし飛行機が投下後もそのまま直進していると、
  飛行機は原爆の爆発位置の真上にさしかかる勘定になるので、
  投下後はいち早く危険区域から脱出しなければなりません。
  そのためには投下後「155度の急角度で旋回する必要がある」と
  科学者は計算しました。
  ところが高々度の上空の急旋回は、
  空気が希薄であるために失速をおこして、
  機はキリ揉み状態になり墜落する可能性があるので、
  急降下しつつ155度の急旋回をしなければなりませんでした。
  しかも目測による投下ですから、
  視界をさえぎる雲の存在は禁物だったわけです。


小倉について
・ 前日に八幡空襲があった
  中国四川省の成都基地から飛び立ったB‐29が
  日本への初空襲を行ったのが1944年6月16日でした。
  爆撃されたのは八幡製鉄所(旧八幡市)を中心とした地域で、
  ここは小倉造兵廠(旧小倉市)より西側に、
  7kmしか離れていない場所でした。

  この日付と場所が大きな意味を持つことになります。

  この初空襲は、アメリカ陸軍航空軍にとって
  非常に意義深いものだったようで、
  1945年6月、米空軍はその1周年を記念して
  同地への「記念爆撃」を企画します。

  その6月16日、マリアナのテニアン基地では、
  B‐29爆撃部隊への爆弾(焼夷弾)搭載も済み、
  八幡製鉄所を目標とする空襲の準備はすでに完了していました。

  しかし離陸寸前、天候の理由で目標が大阪尼崎へと変更されたのです。

  非常に大規模な、記念爆撃にふさわしい規模を計画していたようで、
  この日、大阪尼崎は壊滅的被害を被りました。

  米空軍は「八幡への記念爆撃」を諦めずに、
  その後もしつこく機会を窺います。

  そしてやっとその好機が訪れたのが1945年8月8日だったのです。

  この2日前には、広島に1発目の新型爆弾が投下されています。

  そして2発目の第1目標候補である小倉市に対しては、
  通常爆撃を厳禁する命令が以前より出されていました。

  しかし、たった7kmしか離れていない、
  ほとんど同じ地域とも言える八幡市に対しては
  爆撃禁止命令は出されていなかったのです。

  新型爆弾の爆撃部隊は、その目的を厳重に秘匿された秘密部隊でした。

  テニアン基地においても、他の通常爆撃部隊との情報交換などの交流は
  一切なく、通常爆撃部隊には、8月9日に小倉に新型爆弾が
  投下される予定であることなど全く知らされていませんでした。

  もしも情報交換などがなされていたら、
  おそらく8日の八幡爆撃は中止されていたでしょう。

  であれば、八幡からは小倉上空に立ち昇るキノコ雲が
  見えたものと思われます。

  しかしながら八幡は予定通り空撃され、
  それによって生じた火災の煙は翌日まで消えませんでした。

  翌9日、小倉上空に飛来したボックスカー号機長は
  このように記録しています。
  「10時44分、目標は地上の濃いもやと煙に隠されていた」

・ 爆撃部隊が遅れた
  8月9日午前10時15分、ボックスカー号は
  屋久島上空9,000mで随伴機を待って
  旋回を繰り返していました。
  (この特徴ある島は、はぐれた随伴機との会合地点になっていたようです)

  随伴する2機のうち、1機とは5分後に出会いましたが、
  もう1機がなかなか現れませんでした。

  爆撃部隊は、「爆弾搭載機」と「写真撮影機」、
  そして「気象観測機」の3機で構成されていました。

  観測機は、攻撃予定の1時間前に目標の上空で気象情報を得て、
  搭載機に連絡する任務を持っています。

  新型爆弾投下にあたっては、完全目視による投下が厳命されていたため、
  天候の確認をしてから目標を定め、進撃することになっていました。

  その観測機は既に目標に向けて先行し、
  ボックスカー号は撮影機をじっと待ち続けます。

  無線によって得られた気象状況は
  「小倉、低い雲3割、中高度、高度の雲は無し」
  「長崎、好天だが雲量増加中」
  目標選定をする機長に、
  前日の八幡空襲の影響が伝えられていたかどうかは不明です。

  ボックスカー号機長は目標を予定通り「小倉」に定めました。

  そしてなかなか現れない撮影機との会合を諦め、
  小倉に向けて進撃を開始します。

  ここで予定時間をかなりオーバーしてしまいました。
  遅延時間は約45分もかかりました。

  この遅れがなかったら、八幡空襲の煙ともやは、
  どのように小倉上空を覆っていたのでしょうかexclamation&question

・ 投下条件を厳守した爆撃手
  巨額のマンハッタン計画による貴重な新兵器の投下を
  万が一にも失敗しないために、
  投下に際しては厳しい条件が付けられていました。

  放物線を描いて落下していく爆弾の軌道を予測し、
  全て計算ずくの状況が設定されていたわけです。

  必中させるために、機長は機を同じ高度、同じ速度を保ちつつ、
  目標に対して一直線に侵入します。

  そして爆撃手は、この直線飛行の間に投下目標(照準点)を
  目視確認して投弾するように計画されていました。

  つまり、ボックスカー号は敵国の軍都上空で、
  高度9,400m、時速320kmで約70kmの距離を
  直線飛行しなくてはならないのです。

  10時40分、ボックスカー号は大分県姫島上空から
  爆撃航程に入りました。

  約4分後に小倉上空に侵入。

  しかし爆撃手が照準点の目視確認に失敗します。
  「地上の濃いもやと煙」によって、
  この時、造兵廠内の投下目標は覆い隠されていたのです。

  投弾の機会を逸したボックスカー号は、
  そのまま、虚しく目標直上に達しました。

  すると、真上から見れば、目標が確認出来たのです。

  機長は
 「侵入角度を変えて、よく観測すれば、爆撃航程中でも目標を捉らえられる」
  と判断し、小倉上空を離脱し、
  ふたたび危険な直線飛行による爆撃航程をやり直します。

  第1回目の侵入角度から120度角度変更、再侵入しますが、また失敗。

  また角度を変えて再侵入するも、またまた失敗。

  計3回失敗してしまいました。

  この間の約45分間、爆撃手の指は
  投下ボタンに何度も掛けられたことでしょう。

  後日、小倉への投下失敗について、
  「十分な爆撃航程が取れなかったこと」
  「照準点の目視が出来なかったこと」
  が理由として報告されています。

  つまり1回目の失敗は爆撃手の目視失敗によるもので、
  2、3回目の失敗は機長が爆撃航程を短縮してしまったことと
  爆撃手の目視失敗によるものだったと想像できます。

  しかし、目標方向への侵入自体は目視により可能だった事から、
  後の長崎と比べればかなり好都合な投下条件だったことは明らかです。

  もしも爆撃手が、照準点辺りに適当に見当をつけて
  投下ボタンを押していたら…。


午前11時前に長崎市上空に到達しましたが、
長崎上空にも雲が覆っていました。

すでに燃料がギリギリしかなく、
レーダーによる爆撃態勢に何度かチャレンジし、
最後のチャンスに、たまたま雲の切れ間が見え、
午前11時1分、2つ目の原子爆弾が投下されました。


長崎について
新型爆弾は、12時02分に長崎上空で遂に爆発します。

この長崎は、幸運な小倉とは逆に実に不運な状況にありました。

・ 米軍の大都市爆撃目標から外された

  長崎の造船産業は、当初の戦略爆撃では当然目標とされていました。

  実際、1944年8月11日には、
  中国四川省の成都基地からB‐29が飛来して爆撃しています。

  しかしその後、1945年3月からの
  「大都市を目標とした焼夷弾空襲」
  が始まると、兵器産業関係への空襲は後回しとなっていったのです。

  地形的に山が迫っていてレーダー観測が効かない長崎は、
  なおさら空襲を受けなくなっていました。

・ 兵器工場爆撃期間中に無傷だった
  兵器産業地への空襲は、
  1945年6月20日以降に集中して行われ始めました。

  長崎は造船所などがあり、当然狙われるはずの都市でした。
  しかし爆撃されません。
  それは幸運な出来事のはずでした、7月までは。

  1945年7月下旬、新型爆弾の目標候補から外された
  京都の代替都市が選定されました。

  その不運な都市が、
  その時点まで「幸運にも」無傷でいた長崎だったのです。

・ 反対は押し切られた

  長崎は、山と海が複雑に入り組んだ、平地の少ない地形です。

  この地形では、新型爆弾の破壊力の限界がわかりません。

  どこを目標地点としても、破壊予想半径内に建造物が何もない
  地域がかなり含まれてしまうからです。

  多分に実験的要素を含んでいた新兵器の投下目標として不適切であり、
  いわば選ばれるべきでない都市でした。

  「広島」、「京都」、「小倉」は、
  全く理想的な投下目標都市の形をしていました。

  つまり、
     1 破壊予想半径の3kmが市街地にスッポリ入る
     2 適当に建造物が多く人口が多い
     3 テニアン基地から近い
  という条件を完全に満たしていたからです。

  3都市以外に「新潟」も候補地として挙げられた時期もありましたが、
  新潟はテニアン基地から遠く、“効果”として貧弱なため、
  7月までには除外されていました。

  突然に長崎が候補地に入れられた後も、
  その不規則な地形を考えて、常に第2、第3候補とされていました。

  「なぜ京都でなく長崎なのだ」
  と、米軍部内でも長崎を目標とすることを
  不満とする考えが多かったそうです。

  爆撃部隊の責任者である少将が、
  ポツダム会議に出席中のトルーマン大統領に
  「京都を爆撃させて欲しい」
  と直訴したほどでした。

・ 小倉では投下されなかった
  小倉では、投下に際しての厳命
  「完全目視下において照準、投下する」
  を守り、3回チャレンジし、結果投下を断念しました。

  沖縄に緊急着陸して給油する前に、
  長崎の上空を1回通過するだけの燃料は残っていました。

  機長はテニアンに戻るのか、
  第2目標の長崎に向かうのか
  の選択に迫られ、そして長崎への飛行を決断します。

・ 厳命を無視して投下された
  ボックスカー号が長崎上空に到着したころには、
  すでにかなり雲量が増加してしまっていました。

  目標(市街地)へと接近するにも、
  目視がほぼ不可能で、
  終始レーダーを使用しなければならないほどでした。

  目標上空に達しても、
  数秒間しか目標を確認出来なかったと報告されています。

  もちろん、厳命に従えば投下を断念するべき状況でした。

  しかし、このまま帰ると、原爆を積んだまま着陸することになります。

  日本の戦闘機に遭遇したり、故障、着陸失敗など、
  どのような不具合が生じるのかわかりません。

  さりとて海上にて投棄するなど論外です。

  下手をすれば、これが最後の1発なのですから。

  11時50分に長崎上空に到達…投下をためらいつつ飛行中、
  小倉では厳命を厳守した爆撃手は、
  わずか20秒間だけ雲間から現れた工場地帯を目標と認め、
  ついに11時58分に爆弾を投下します。

  マニュアルにない状況での慌ただしい投下…約1分後、
  目標地点から大きく3kmほど北に外れて
  上空約500mでプルトニウム原爆が爆発します。

  3方に山が迫る、非常に狭い地域でした。

  本来の目標は、
  長崎市北部に位置する松山町171番地(現松山町5番地)
  テニスコートの上空でした。


「ファットマン」の威力
この爆弾は、プルトニウム爆弾で、
直径1.52m、長さ3.25m、重さ4.5トンの広島型に比べ、
スマートな大型爆弾でした。

広島原爆を上回る、高性能火薬TNT2万2トン分の
エネルギーを瞬時に放出しました。

熱線、衝撃波と爆風、放射線の影響は、
広島原爆よりも広い範囲に及びました。

長崎の場合は、市の中心部より北に外れて爆発し、
山が接近していたために、極めて複雑な被爆の状況が
つくり出されましたと言われています。

原爆の「火球」から放出された熱線が、
最も人体に強い影響を与えたのは
爆発後0・2秒〜0・5秒の間でした。

原爆の熱線による射熱傷を「第1次原爆熱傷」と言い、
これに対し原爆の熱線が家屋に火災を起こし、
あるいは衣服を燃やして受ける熱傷を「第2次原爆熱傷」と呼んでいます。

表面が炭のようになる5度の熱傷は、
長崎では爆心地から半径1450mの距離に及びました。

爆心地ではその10倍以上の
1平方cm当たり222カロリーの熱線を受けました。

太陽光線によって0・3秒間に1平方cm当たり受ける熱量は
0・007カロリーですから、その数万倍の熱線を浴びたことになります。

この熱線量では、皮膚のすべての層が焼き尽くされるばかりか、
内臓の組織および臓器までもかなりの熱傷害を受けるようになります。

爆心地付近では、小さな子供の場合黒こげになり、
内蔵も水分が蒸発して、小さな黒い炭の塊のようになったと言われています。

当時の長崎市の人口は約24万人と推定されており、
市域の36%が破壊されました。

死者は7万3884人、重軽傷者7万4909人を数えています。

三輪明宏も長崎で被爆しています。
当時10歳だったそうです。


日本軍の空爆対策
B‐29による空爆が盛んになって、
ようやく戦争も終りに近づいた頃、
初めて日本軍のB‐29射撃用の15cm砲がやっと完成しました。

東京・井の頭公園近くの久我山に1門据えられました。

この火砲及び照準器の成績は非常によくて、
たちまちB‐29十数機を撃墜したため、
遂にB‐29の爆撃編隊は、久我山附近を通過することも、
爆撃することも止めてしまったので、
久我山地方に住んでいた人達は不思議に思っていたそうです。

その後、日本軍が手に入れた本邦爆撃用のアメリカの航空地図には、
久我山附近を危険地域として特にマークが付けられ、
爆撃はもちろん止め、その附近にも近寄らせなかったと言われています。

もしこの高射砲の量産が進められていたら、
東京を始め日本の都市は、
焼け野原にはならずに済んでいたのかもしれません。

広島、長崎に原子爆弾は落とされなかったのかもしれません。

もっとも、ポツダム宣言を受諾せず、
本気で「本土決戦」を選択したのかもしれませんが…。

当時、小倉にはこの15cm高射砲が据えられていながら、
ファットマンを搭載した「ボックス・カー」が飛来したときには、
指揮者は留守であり、
攻撃を判断する権限が代理指揮者に与えられていなかったと伝えられています。

曇天下でも1万mの高度を飛行するB‐29を射撃可能で、
実績もあった装備がありながら、実行可能な手段が行われず、
2発目の原爆投下をみすみす許してしまったわけです。



ボックス・カーは長崎にファットマンを投下後、
直ちに急降下しつつ左へ急旋回し、
北東へ向け全力で離脱して爆発の衝撃波を避けた後、
旋回しつつ観測を続け、沖縄に向け南下して行きました。

会合点(屋久島)での遅れと小倉を経由したことで
帰路の燃料が不足したため、
ボックスカーは午後2時00分、沖縄の読谷飛行場に緊急着陸し、
給油などで3時間滞在して午後11時6分テニアンに帰着しました。

全任務時間は、沖縄での地上滞在3時間を含めて
19時間17分だったそうです。

翌8月10日、米空軍機から1日遅れの「警告ビラ」が、
原爆で廃墟となった長崎上空から撒かれたそうです。

日本の外務省の不手際で
「宣戦布告」がパールハーバーへの奇襲攻撃後になったことを
意識してのことでしょうかexclamation&question

ボックス・カーの機長は、戦後
 「2発の原爆が、少なくともその後実行する予定であった
  九州上陸作戦で死傷したであろう約40万人のアメリカ将兵の命を救った」
と主張し続けました…。
posted by RIUさん at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月07日

沖縄の不発弾処理

不発弾処理.jpg

戦闘に使われる爆弾や艦砲弾は、必ず不発の弾が出ます。

航空機からの投下または戦艦や陸上から発射されたり、
手榴弾など全ての弾のうち、爆発しない率を「不発弾の出現率」と呼び、
その出現率は5%
だそうです。

60年前の沖縄戦に限らず、最近のイラク戦争でさえ、
この出現率で不発弾が発生していると言われています。

沖縄戦で日米両軍が県内全域に投下した爆弾や砲弾、敷設した地雷は
約20万トンにも及ぶと推定され、不発弾の出現率5%で推察すると、
不発弾は1万トンに達すると考えられています。

1972年の本土復帰から2004年度までの32年間では、
県内で1507.2トン(2万7120件)の不発弾が
陸上・海上自衛隊を中心に最終処理されており、
アメリカ統治下に米軍や民間による不発弾処理を併せると、
概ね7千トンが処理されたと言われています。

残る3千トンのうち、
どのように探しても見つからないであろうとされる
「永久不明弾」500トンを引いた2,500トンが、
まだまだ県内いたる所で今でも人を殺そうと
どこかに潜んで埋まって待っていることになります。

年度別の不発弾処理は40トンから80トンの間を行き来しており、
撤去にはまだ40〜50年もかかる計算になり、
戦後60年経った今でも、
「沖縄戦はまだ終わっていない」
ことになります。


不発弾の事故
県内で不発弾による事故を挙げればきりがありません。

南部では、戦争直後はクワで農地を耕作中に不発弾にカツンとあたり、
暴発するという事故が多数あったようです。
沖縄に「義手・義足」が多いのと関連があるようです。

沈没した弾薬輸送船のスクラップを回収しようとした
船の乗組員32人が死亡した事故、
いわゆる「ダイナマイト漁」に使うため
不発弾から火薬を取り出そうとして爆発し、
多くの漁業者が死亡したこともありました。

復帰2年後の1974年には、
那覇市小禄の聖マタイ幼稚園前の下水道工事現場で不発弾が突然爆発し
幼児を含む死者4人、負傷者34人、家屋全壊14棟という
大きな被害が出ています。

1972年復帰後の県内の不発弾による事故は、
合わせて65件発生しており、7人が死亡、47人が負傷しています。

復帰後33年間に、全国で処理された不発弾のうち、
沖縄が占める割合は件数ベースで30・1%、
重量ベースでは40・7%に達します。

処理された不発弾の数が、沖縄戦の壮絶さを物語っています。

終戦から1972年に復帰までの不発弾等の処理は、
米軍及び民間により行われたのですが、
アメリカからしたら沖縄は植民地的扱いなので、
記録なんか取っていないんですね。
そのためその間の数字的なことは全く不明なのです。
いいかげんなものですね。もうやだ〜(悲しい顔)


不発弾の種類
沖縄で発見される主な不発弾は以下の6種類です。
・ 爆弾
・ 砲弾
・ ロケット弾
・ 手榴弾
・ 迫撃砲弾
・ 地雷


磁気探査による不発弾の調査
沖縄には磁気探査協会や沖縄県磁気探査事業協同組合という
団体があるくらい、磁気探査専門の会社が多数あります。

宝探しのように、磁力で地面を探索して、
不発弾を発見する方法を取っています。

1m間隔で機械を持ち歩き、
反応のあった箇所をスコップで掘っていくわけです。
もちろん重機は使えません。

深さ1メートルごとに探査を行わなければならないため、
費用や時間など負担も大きく、
1件あたり、最低でも100万円以上かかるようです。

畑の表面は土なので問題なく掘れるわけですが、
60センチぐらい掘ると珊瑚の層が出てくるので、
それをまた、キンガナという道具(鉄の棒)で砕きながら
掘り進んで行くのです。

いつ不発弾が出てくるかわからないので、
簡易磁気探査装置で探しながら掘っていくのですが、
不発弾が真っ直ぐ向いているのか、横向きなのか、
どんな状態で埋まっているのかは機械でもわかりませんから、
危険な作業になります。

米軍の爆弾の信管は、前と後ろ両方に付いているようです。

不発弾が発見されると、不発弾処理では日本で一番経験豊富な
沖縄の自衛隊が処理することになります。

死と隣り合わせの仕事である不発弾処理隊のメンバーは、
「郷土(故郷)を守りたい」
という沖縄魂の持ち主たちで、志願してここに配属されているようです。

磁気探査の会社は、ふだんは米軍基地内での仕事が中心だそうで、
何か建物を建てるとか、穴を掘るというときには必ず探査するそうです。

日本軍の基地跡に米軍基地があることが多いので自然と不発弾も多いようですね。


不発弾を発見したら
不発弾を発見したら、触ったり動かしたりせずに、
すぐ最寄の警察署または交番に届けることになっています。
当たり前ですよね。

海中の場合は、最寄の海上保安所または海上保安部に
届け出ることになっています。

海の場合は海上自衛隊が、陸の場合は陸上自衛隊が処理を行います。

昨年は、沖縄県庁の職員が、何をトチ狂ったのか、
不発弾を県庁に持ち込んでしまったことがありました。もうやだ〜(悲しい顔)

ハンマーで信管を叩いて自爆テロでもする気だったのでしょうかexclamation&question
幸い、コレクションとして置物にしていただけだったようですが…もうやだ〜(悲しい顔)

農家が、拾った不発弾を軽トラに乗せて、
違う場所に捨てたこともありましたね。もうやだ〜(悲しい顔)


不発弾探査機器の能力
不発弾の埋没状況により異なりますが、
現在、探査会社で使用されている不発弾探査機器の最高の性能のものは、
1トン爆弾で地下4メートル程度、
50kg爆弾で地下2.6m程度、
砲弾で地下1.5m程度の深さまでのものを探知する能力があるようですが、
実際には1mごとに行われています。


不発弾処理にともなう避難半径
不発弾の大きさや種類によって避難の範囲も変わってきます。

爆弾の種類と避難距離の関係は次の通りです。
・ 5インチ砲弾      (避難半径230m程度)
・ 50kg、120kg爆弾(避難半径400〜600m程度)
・ 250kg爆弾     (避難半径700m程度)
・ 500kg爆弾     (避難半径800m程度)
・ 1トン爆弾       (避難半径1km程度)
・ 地雷          (避難半径300m程度)


不発弾処理の出動回数
年間約300回、ほぼ毎日あるような日常的な出来事になっています。
過去には年間600回近いこともあったようです。
自衛隊は緊急出動要員が常時待機してくれています。


不発弾の海中爆破処理
不発弾処理は、発見された場所周辺の環境や不発弾の種類・状態など、
さまざまな状況によって処理方法が異なります。

理想的なのは、現場に十分な深さの穴を掘り、
その場で安全に爆破することですが、
那覇市内など住宅が多い地域では行えません。

そこで不発弾の起爆装置である「信管」を取り外すという
最も危険な作業が必要となるのですが、
これはどうしても人の手によらなければできないのです。

信管の状態を調べて爆弾が動かせるものかどうかを調べる
”信管識別“という、命がけの危険な作業になります。

「信管を外せる」と判断した場合は、
信管にレンチを装着し、手動で回して外す作業に取り掛かるわけです。

信管が外された不発弾は、数をまとめて海中爆破処理を行います。

先日は、那覇港沖400メートル地点の海底で
自衛隊の水中処理隊など約70人が、
不発弾の上にプラスチック火薬を設置し、
導火線を引き海中爆破作業を行いました。


処理費用
不発弾探査費・処理費は、
その半額は市町村が負担することになっているため、
自治体にとって大きな財政負担となっています。

沖縄県は2年後に財政破綻が懸念されていますし、
県内どこの市町村でも財政は火の車状態です。

国が興した戦争で、沖縄が犠牲になったのに、
なぜ沖縄県側が半分負担しなければならないのでしょうかexclamation&question

不発弾処理対策は戦後処理問題として
国の責任で行われるべきだと思いますし、
何より、攻撃をして不発弾をばら撒いた
アメリカに責任があるのではないでしょうかexclamation&question

単純な責任転嫁や被害者意識ではなく、
沖縄は今は日本の統治下に置かれていますが、
終戦から1972年までの27年間は、
アメリカの統治下に置かれていたからです。

今だって、アメリカの植民地の中で、その管理を日本がして、
沖縄は自治だけを任されているようなものなんですよ。
posted by RIUさん at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月06日

今日は広島に原爆が投下された日です。

爆撃圏内.jpg

米軍は、戦争を早く終わらせるために原爆を投下したのではありません。

ソ連の参戦が間近(8月15日)になり、
早く原爆を投下しないと日本が降伏し戦争が終わってしまうので、
投下時期を早めてしまったのです。

戦争終結後の、
戦勝国としての「利権」を有利に進めるために原爆を投下した

のです。


開発されたばかりの「秘密兵器」であるウラン235型原爆(リトルボーイ)は、
テニアン島到着から10日後の8月6日に
人口密集地である広島上空で投下されました。

14万人の非戦闘員を無差別に虐殺した原爆投下は、
アメリカにとってはあくまでも実験にすぎず、
8月9日の長崎では,
さらに強力なプルトニウム型の原爆を使用し、
2種類の原爆の性能、つまり人体に及ぼす被害状況を比較しました。

日本人は間違いなく原爆実験のモルモットにされたのです。


テニアン島
米軍は、当時の長距離爆撃機B25の2倍以上の航続距離を持つ
超長距離爆撃機の開発を進め、1944年初頭に
B‐29の生産が軌道に乗りました。

基地化を進めることで、日本本土を随時空襲できることになるわけです。

また、同年初頭に日本軍は孤立した中国を屈服させようと
大陸打通[だつう]作戦を開始し、
これに対して米軍は中国奥地の成都にB29の基地をつくりました。

同年6月6日には、連合軍がフランスのノルマンディーに上陸を敢行します。

6月15日に米軍がサイパン島に上陸し、
その同日の深夜には成都基地のB29が八幡製鉄所を爆撃します。
これがB29による最初の日本本土空襲で、“世界戦略”の一環です。

同年年7月9日にサイパン島が玉砕陥落し、
サイパン島から南南西に8kmしか離れていないテニアン島には
7月24日未明に米軍が侵攻開始し、8月1日にはテニアン島が陥落しました。

テニアン島には北飛行場があり、
米軍は日本本土空襲の航空基地確保に成功したわけです。

同年11月になるとサイパン、グアム、テニアンに基地が造られ、
東京も爆撃圏内に入りました。

広島に投下した原爆を搭載したB-29爆撃機の
エノラ・ゲイ号(Enola Gay、機長の母親の名前をそのまま命名した)は、
このテニアン北飛行場から出撃することになりました。


投下目標地の選定
米軍は1945年春に、投下目標地の条件を次のように決めています。
・ 投下によって、日本国民の戦意を打ち砕けるような場所
・ 重要な司令部、軍隊の駐屯地、軍需品の生産中心地など
・ 空襲を受けておらず、原爆の威力がはっきりと現われる場所

最初に候補に上がったのは17地域で、
その後ナチス・ドイツが無条件降伏し、
原爆は
「なるべく速やかに」
「他の建物に囲まれた軍事目標に対し」
「兵器の性能に関する事前通告なしに」
使う決定が確認されました。

これらの条件に基づき、最終的に
広島、小倉(現在の福岡県北九州市)、長崎の3都市に選定されました。

8月9日の目標は当初は小倉でしたが、
上空が煙や雲に覆われていたことで、長崎に変更されました。


当時の広島
明治の初めに鎮西鎮台(九州の陸軍駐屯地)分営が置かれて「軍都」となり、
太平洋戦争末期には西日本の最重要軍事拠点となりました。
軍需産業も盛んで、朝鮮から徴用された工員、慰安婦ら
多数の外国人も住んでいました。
被爆当時の広島市の人口は、推定35万人と言われています。


原爆の輸送
米国は原爆を製造開発する為のマンハッタン計画に基づき、
科学技術の総力を挙げて原爆の製造に取組みました。

その原爆をカリフルニア州の軍港から
快速の大型巡洋艦「インディアナポリス」に積み込んで、
B-29爆撃機による日本爆撃の基地があったマリアナ諸島の
テニアン島に輸送することになりました。

1945年7月16日にアメリカの西海岸を出港した巡洋艦は
全速力で西に向かい、途中ハワイの軍港パールハーバーに
燃料などの補給の為に一時寄港し、
テニアン島目指して再び航海を続けました。

アメリカの西海岸からテニアン島までの10,200kmを
平均速力29ノット(時速54キロ)の高速で走り続け、
所要日数10日で7月26日にテニアン島に到着し、
原爆と起爆装置などの輸送の任務を終えました。

原爆の最終組立はテニアンで行われています。


インディアナポリスの弔い
巡洋艦インデアナポリスは、グアム島を経由して
次の任務であるフィリピンのレイテ湾に向かう途中、
1945年7月30日未明に、
日本海軍の「伊−58号」潜水艦に雷撃されて沈没しました。

この巡洋艦には1,196名が乗組んでいましたが、
12分後に沈没した艦からは900名が海上に脱出しました。

当時は洋上に不時着水したパイロットや、
沈没した艦船から脱出した人達にとって、
サメの襲撃から身を守ることは切実な問題でした。

その為に米軍ではパイロット用に1人乗りのゴム・ボートが開発され、
サメの忌避剤である「シャーク・チェイサー」も
救命胴衣に装備されていました。

これに対し日本海軍の唯一のサメ対策といえば、
六尺フンドシ(2メートル)を海中に流すことでした。

「サメは自分の身長よりも長いものは襲わない」
と言われた漁師たちの迷信を信じていたからですね。

では体長3メートル以上のサメが来たら、どうするのでしょうかexclamation&question

脱出の際にボートに乗れなかった多くの人達は
浮具を着けて集団になり漂流しましたが、
やがて恐ろしいサメの攻撃に見舞われました。

グアム島とフィリピンの中間地点には熱帯性の大型のサメが多く生息し、
最初は集団の外側にいた人間から一人、また一人とサメに襲われてゆき、
朝から晩まで、夜中も次々にサメに襲われては、
断末魔の悲鳴を上げながら喰われて死亡しました。

海面一帯には沈没した艦からの燃料油が層を作り多量に浮かんでいましたが、
それにも血が混じるようになりました。

生存者の話によると、現場周辺には百匹以上のサメが集まり、
漂流している彼等の足の下を常に泳ぎ回り、
不運な漂流者を目掛けて絶え間なく襲ってきましたが、
その度に悲鳴を上げながら足や胴体を喰いちぎられて死んで行きました。

3日目にはサメに喰われる恐怖、飢と渇き、絶望から多くの者が幻覚を生じ、
水の代わりに多量の油が混じる海水を飲んでは嘔吐し、力尽きて沈みました。

4日後に漂流中の一団が捜索機により発見され、
沈没から5日目になって艦長以下315名が、ようやく救助されました。

海上に脱出した者の65%、585名が飢えと渇き、
それに大部分がサメに襲われて死亡したものと推定されました。

救助に来た駆逐艦の乗組員によれば現場海域には多数のサメが集まり、
救命胴衣を着けたまま、下半身をサメに喰われた遺体が
数多く浮いていたとのことでした。

広島に投下された原爆には
「インデアナポリスの乗組員に捧げる」
という文字が書かれました。

艦長は終戦後
「艦及び乗組員を危険にさらした罪」
で軍事裁判にかけられることになりました。


B‐29
B‐29の正式名称は、
「ボーイングB‐29スーパー・フォートレス」(超空要塞機)です。

超長距離通常爆撃機として設計され、緊急に製造された最新型爆撃機でした。

高度1万m以上での飛行が可能で、
航続距離は当時では異例の5600km(4トン爆弾搭載)もありました。

全長30.2m、全幅43m、高さ9mという
当時世界最大の大型爆撃機でした。

エノラ・ゲイはその内の一機で、
広島への原子爆弾投下のため特別な改良が加えられました。


出撃
攻撃前日、機長は一人のペンキ工に命じて、
機首に「ENOLA GAY」と大書させています。

この任務には7機のシルバープレートB‐29が使用されています。

そのうち3機は目標上空の天候偵察のために
エノラ・ゲイの1時間前に離陸しました。

また1機は爆弾と同時に投下する爆風測定器を、
もう1機は爆発を撮影するカメラを搭載していました。

エノラ ゲイが原爆を搭載し、
さらにもう1機が緊急時のバックアップとして
硫黄島に前もって駐機していました。

1945年8月6日午前2時45分(日本時間午前1時45分)、6機が
中部太平洋のテニアン島北飛行場を飛び立ちました(機長以下乗員12名)。

日本時間午前5時、硫黄島上空。

機首を四国に向け、高度9200フィート(2800m)の高度まで
上昇してそのまま進入(時速205マイル)。

攻撃直前さらに急上昇、午前8時15分17秒、
高度約3万フィート(9140m)の広島上空で原子爆弾投下、
43秒後に地上1890フィート(576m)の上空で爆発しました。

すなわち、実験を除く人類史上初の原子爆弾爆発の時刻は
1945年8月15日午前8時16分(日本時間)となります。

一般的には、原爆の影響を受けて止まった多くの時計の針が
「8時15分」を指しているとして、
爆発した時刻を「8時15分」と感覚的にとらえている人も多いはずです。
原爆記念日の黙祷開始時刻も8時15分に行っています。

広島市HPを見てみると、原子爆弾「投下」時刻が「8時15分」であり、
原爆が炸裂したのは、その43秒後であるとはっきり記載していてあります。

広島市HPより抜粋
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。
原子爆弾は、投下から43秒後、
地上580メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、
小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。
火球の中心温度は摂氏100万度を超え、
1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、
爆心地周辺の地表面の温度は3千〜4千度にも達しました。

中国新聞より抜粋
広島原爆・爆心地は、従来説よりも16.2m西、
○○病院南西側(従来説は南東側)とのこと。
原因は、爆心地推定に使ってきた米陸軍作成の地図に”ズレ”があり、
現在の地図上に正確に転記されていなかったためという。
放射線影響研究所(放影研、広島市南区)調査結果発表による。
爆心地の座標は、被曝線量推定方式「DS86」を
検証するための基準点となるものである。
なお、原爆の爆発高度について、別の報告によると
爆心地上空600m(従来説580m)が妥当という。
爆心地の位置を数値地図で読み取ると、おおよそ次のようになる。
原爆ドームの南東方向120〜30m
北緯34度23分28秒
東経132度27分26秒


エノラ・ゲイは広島に原爆を投下後Uターンし、
午後2時58分(日本時間午後1時58分)テニアン島北飛行場に帰還。

往復飛行時間12時間13分。
航続距離2960マイル(4764km)。

直ちに、機長ティべッツ大佐は殊勲十字章が授与された。


エノラ・ゲイ展示(スミソニアン博物館)
スミソニアン航空宇宙博物館新館(米国ワシントン郊外)が、
2003年12月にオープンし、
広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ(B‐29爆撃機)の
一般公開が始まりました。

エノラ・ゲイは、「技術の進歩の証し」として
数多くの航空機といっしょに展示されており、
原爆投下に関する説明では、
「1945年8月6日、戦闘としては初の原爆を投下した」
とあるのみで、被害の実態(死傷者数や歴史的な経緯)等については
一切触れられていません。


原爆死没者数(1945年末までの死亡者数)
広島原爆死没者数の公的な推定値は、
「14万人±1万人」とされていますが、
その人数はあくまでも推定値であり確定したものではありません。


多くの犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
posted by RIUさん at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄戦を含む大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月05日

明徳義塾高の不祥事辞退に思う

マスメディアが大きく報道しているように、
明徳義塾高が部員の不祥事で出場を辞退、
代わって高知高が出場することが決まりました。

明徳義塾高校野球部の問題
・ 1、2年生部員が寮内で喫煙した
・ 上級生部員が1年生部員に正座の強要や、
K‐1を真似て腕や胸をたたくなどの暴力行為をしていた
ことを名監督と誉れ高い馬淵史郎監督が、日本高野連に、
一連の不祥事を届け出ずに、内部処理をしようとした
[認識の甘さ]に非難が集中しています。

馬淵監督は1992年の甲子園大会で,
星陵高校の松井秀喜に5連続四球を指示して、セコく勝った
「勝ち負けだけにこだわる」
「フェアプレーではない」
監督であることを思い起こしてほしい。

当時も
「批判は覚悟の上、勝つことが大事」
というフェアプレー精神を逸脱する行為をしていますから、
「またか」という感じです。

2002年に全国制覇をしてから、彼は舞い上がり、
「名監督でいたい」
という“保身”が今回
「発覚したら腹をくくるが、できれば内密に内部処理を」
という行動に走ったのだと思います。

だから「子供(選手)たちのため」ではなく、
あくまで『自分の保身のため』なんですよ。

彼の根本的な間違いは、「勝つため」の技術的テクニックだけを
指導しているところにあります。

中学生・高校生というと、人間として成長する過程において、
多感な時期で、心身のバランスも考えなければいけないはずです。

武術でよく言われる
【「心」・「技」・「体」】
は、実はスポーツ全てに共通することですが、ほとんどの指導者は
「技=テクニック」
「体=強靭な体力養成」
に偏った指導をしています。

明徳義塾高に限らず、名門校は合宿所に選手を住まわせ、
野球漬けにさせています。

選手たちは、“スター”になれさえすれば良く、
人格形成なんかどうでも良いわけです。

そこを教育するのが、教師であり、監督ではないでしょうかexclamation

東北高校から北海道日本ハムファイターズに入団したダルビッシュも、
今春の沖縄キャンプで、那覇市のパチンコ店で喫煙していることが
問題になって、一時期謹慎していましたよね。

ダルビッシュは、野球の実力はズバ抜けていても、
世間の常識は全く理解できていない、単なるバカなんですよ。

同行していたチームメイトも、
自身が野球バカなので、注意をする気もなかったわけです。

西武ライオンズの松坂大輔だって、
5年前に当時から交際中の柴田倫世の自宅マンションへ向かう際、
8月にスピード違反で免停となっていたのに、球団名義の車を運転して、
マンション前に路上駐車して駐車違反をしていたにもかかわらず、
身代わりとして西武球団の黒岩彰広報課長
(元スピードスケート選手・五輪銅メダリスト)を出頭させたとして
松坂を道路交通法違反(無免許運転、駐車違反)、
黒岩を犯人隠避の疑いでそれぞれ東京地検に書類送検、
略式起訴により松坂は罰金19万5千円の略式命令を受けていますよね。

当時の小野賢二球団社長及び黒岩はその責任を取って辞表を提出、
松坂自身も2000年シーズン中の野球活動を自粛しました。

松坂も野球ではスーパースターだけど、中身は単なるバカなんですよ。

高校生というと、身体は大人以上に立派な身体をしているわけですから、
まず選手自身の“自覚”というのは不可欠ですが、
これを指導しない指導者もおかしいでしょうexclamation&question

一番大事な
「心=精神、フェアプレー精神、“範”の精神」
の指導ができない指導者は、自身が、すでに「欠陥人間」なんですよ。

「欠陥人間」が「欠陥人間」を養成しているのが、現状なんです。

“縦の関係”で上級生が下級生をシゴく、
という構図は、運動部では昔からあることですが、
これは「軍隊」から脈々と受け継いできている悪い日本の伝統なんですね。

合宿所で何が行われているか?という疑念もわかず、対策も講じず、
ただ「技=テクニック」と「体=強靭な体力養成」に偏よる指導を
延々と続け、『勝てば官軍』式の“ゲーム巧者”に専念し、
毎年のようにペナルティを受ける学校が登場することに、
私は苦々しく感じています。

また、高校野球の、特に名門学校ほど、その采配には疑問を感じます。

1球ごとに選手が振り返り、監督の指示を受けるんですね。
キャッチャーも絶えず、ベンチの監督の指示を受けます。

要するに、選手を“アイテム”にした両監督の戦いが
“高校野球”なんですよ。

だから、選手の質が高められて、監督の指示通り働き、
結果を出す選手ほど、“良い選手”なんですが、
そこには選手自身の自主性があまり感じられないわけです。

将棋のようにも感じますよね。
こうなったら、いっそのこと、監督同士で
「ジャンケンポン」
で勝敗を決めたらexclamation&question

日米の高校野球親善試合を見ると、ほとんど日本が勝つのですが、
日本は「組織野球」であり「勝つ野球」なんですね。

当然、高校野球独特のセコい「スクイズ」なんかも多様します。
アメリカは、大振りが目立ちますよね。

日本は、小学校・中学校・高校・大学・社会人・プロと、
コロコロと監督が変わりますが、
アメリカは、なるべく同じ指導者が長い期間指導する方向にあります。

大きな目標に向かって、ゆったりとスケジュールを創ってゆくんですね。

選手も伸び伸びとプレーできるように余裕が感じられます。

日本のように、3年単位でコロコロ監督が変わると、
選手も大変だし、監督も短期間で成果を出さざるを得ず、
結果「セコく勝つための野球」を指導することになるのではないでしょうか。


日本高野連とNHKの問題
・ 以前は部員内に1人でも不祥事を起こしたら、
  連帯責任で学校自体を処分していた。
・ 昨年から、不祥事の「質」によっては、
  不祥事を起こした部員を登録メンバーから外すことで、
  出場が容認される可能性が高くなった。
日本高野連の連中は、よほど“偉い”人が多いみたいですね。
後ろから支えないと、倒れてしまうくらい、胸を張って威張っているんでしょう。

国体には高校野球はあるのに、インターハイの種目には野球はないです。
高校野球の日程は、同時期に「高校総合体育大会(インターハイ)」があり、
その日程と重なるからですね。

全国高校野球選手権大会は、
朝日新聞社と日本高校野球連盟が共催して
NHKが大々的にテレビで放映しています。

高校野球の決勝戦が終わると、
「あぁ、もうすぐ夏休みも終わりなんだな。今年もムダに過ごしてしまったな」
と、哀愁が漂う学校生活を私も送っていました。

NHKは、高校野球に「美学」を押し付けすぎて、目に余るものがあります。

「美しい師弟愛」、「直向な心」、「すがすがしさ」、「一生懸命」、
「汗・涙」など「感動」を押し売りにしてくるので、鳥肌ものです。

今どき、純真無垢の高校生なんているんだろうかexclamation&question

高校球児だって、前述のように、
野球漬けによる「欠陥人間」的養成を受けているから、
ほとんどの野球部員は、教室の後ろに席を陣取り、勉強はできない、
高いエリで長い学ランを着用し、タバコを吸い、上履きの踵を折り、
バカ丸出しで学校内をヨタッて歩き回っているんですよ。
一歩間違って、カラクリ紋々を入れたり、ナイフを持っていれば、
頭は丸刈りだし、いっぱしの「校内ヤクザ」ですよね。

彼らの多くは、授業中は「時間」を潰しているだけなんです。

体力だけが自慢で、お脳にまで栄養が回っていないんですよね。
お脳は、小学生レベルで止まってしまっているんですよ。

日本高野連の連中は、そういうことが全くわかっていないですよね。
日本高野連は、単なる“懲罰委員会”なんですよ。
「必要悪」、「有名無実」ですよね。

インターハイは、高校チャンピオン決定戦なわけですから、
NHKが野球だけを長時間放映し、インターハイは放映しない、
高校野球だけを「感動の美学」にしているのは、
昔からはなはだ疑問だと思っています。

そういう考え方だから、受信料の不払いも100万件を突破してしまうんですね。もうやだ〜(悲しい顔)
posted by RIUさん at 11:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄の?スポーツ「野球」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月04日

ヤツの威嚇!

ヤツ犬は、その外見から「闘犬」に見られることが多い。
そのため、すれ違うほとんどの人は恐々と除けて通る。
ホントは“ノミの心臓犬”なのに…。もうやだ〜(悲しい顔)

最近、散歩中に他の犬に出会うと、猛然と“突進”しようとする。

ヤツ犬の狙いは“脅かし”だけだ。
1mくらいまで勢いよく接近したところで、
両前脚で「ドン」と大きく叩くように威嚇してオシマイというパターン。ふらふら
相手の犬も、その勢いに押され、戸惑ってしまう。

やっとのことで、通り過ぎると、
ヤツ犬は決まって「ニンマリ」と薄気味悪く笑う。
『どうだ、やったぞ』
という意味に違いない。もうやだ〜(悲しい顔)

ヤツ犬の、こういうバカさ加減を冷ややかに見るたびに、
筒井康隆の【おれの血は他人の血】という小説を思い出す。

内容は、
普段は内気で気弱なサラリーマンが、ひとたび怒ると意識をなくし、
相手をとことん叩きのめす暴力的な男に変貌する。
あまりの強さにやくざの用心棒になって、
「町ぐるみのやくざ抗争」に巻き込まれて…
という痛快な小説なのですが、面白かったのは最初の半分まで。

あとはムチャクチャなSFで、
平凡な会社員の「変身願望」充足ものが感じられるだけで、
読み終えた後は虚脱感が漂い、ため息が…。

主人公が意識を失って、凶暴な別人になっているときに、
なぜか「えすくれめんと」叫ぶのも、
それがなぜか?今になっても理解不能。

この小説を、散歩中、なぜか思い出してしまう。
主人公が、あまりにも気弱だったことが、
ヤツ犬と重複して見えてしまうんですね。


人でも犬でも、小さい頃に、家族以外の人間や動物に接していないと、
物心がついてからうまく付き合えず、
殻に閉じこもったり、人間(動物)嫌いになったりするらしい。


ヤツ犬が家に来たのは、生後1ヶ月目で、
それ以降半年目までは「アンネの日記」状態で成長していたので、
1歳8ヶ月になった現在でも、
小学生の子供に触られるのも嫌がって、スタコラ逃げ出そうとする。

そのくせ、自宅では、近所のオバさんや宅配便、郵便配達などの
人などには、食い殺すような勢いで吠えまくるんですね。

昨日は、U字溝のドブに落ちてしまった。もうやだ〜(悲しい顔)
正面からやって来るデカ犬に警戒して、
一応ヤツ犬なりの“臨戦態勢”に入ったところで、
近くで立ち話をしている人に気を取られ、
さらに後ろから車が接近したことで、
ひるんだときに後ろ脚がU字溝に落ち、
ゴロンと1回転してしまったわけです。もうやだ〜(悲しい顔)

ヤツ犬も驚いたのですが、対峙していたデカ犬も、予期せぬ行動で驚いていたね。


沖縄本島には、台風台風9号が接近中で、強風+雨になっていますが、
台風嵐の中でもヤツ犬の散歩は決行exclamation
さすがに出くわす犬もいないだろう。
posted by RIUさん at 16:56| Comment(0) | TrackBack(1) | RIUさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月03日

ペット用「ジャーキー」の怪!

合成食品漆加物などの蓄積が繰り返されると、
人間だけではなく、犬だって発ガン・高血圧・心臓病・糖尿病・
各内臓器官の疾患・アレルギー・尿道結石・悪性遺伝等の病魔に
侵されやすくなります。

ペットの間食用の「ジャーキー」を考えてみましょう。
牛肉や鶏肉、その混合を主原料に作られた棒状のペット用食品です。
「ご褒美」用にあげると、犬はとても喜びますよね。

ほとんどのペットフードメーカーは、
発色剤…  「亜硝酸ナトリウム」
防腐剤…  「エトキシン」
合成保存料…「ソルビン酸」
着色剤…  「赤色102号」
を使用しています。

どこのメーカーも、食品添加物に対しては、
  「人間が食べる食品の基準を下回る量を添加しており、
         人間が食べても問題ないレベルで使っている」
と言いはりますが、これは全くのデタラメexclamation×2

人用ジャーキーとペット用ジャーキーを、同時に開封すると、
カビがどのくらいで生えると思いますかexclamation&question

人用ジャーキーは2〜3日、
ペット用は半年経っても、そのままで、変色もありません。がく〜(落胆した顔)

いったい、何年くらい保存できるように添加物を入れてくれたのでしょうか。もうやだ〜(悲しい顔)

亜硝酸ナトリウム
・ 肉の色素と化学反応を起こして鮮やかな赤色に発色し、
  肉が黒ずむのを防ぐ。
・ 毒性が強く、ラットに対する最小致死量は、
  体重1キログラム当たり0.077グラム。
  人間の致死量は、0.18〜2.5グラムと言われている。
  猛毒の青酸カリの致死量は0.15グラム。
・ 魚卵、魚肉、食肉に多く含まれるアミンという物質と
  胃の中で化学反応を起こし、
  ニトロソアミン類という発癌物質に変化する。
  ニトロソアミン類のN−ニトロソジメチルアミンの場合、
  1〜5ppm含む飲料水や飼料をラットに長期間食べさせると、
  肝臓や腎臓にガンが発生するという実験結果が出ている。
  亜硝酸塩(亜硝酸ナトリウムは亜硝酸塩の一つ)とアミンを
  同時に動物に投与した実験では、胃でニトロソアミンができて、
  その動物にガンが発生した。
  犬の胃ガンなどは、ペットフードに添加された亜硝酸ナトリウム
  によって誘発されていると考えられる。

エトキシン
・ 日本では飼料添加物としての使用が認められていて、
  酸化防止剤として使用されているが、
  食品添加物としては使用が許可されておらず、
  さらに農薬としても使用が禁止されている。
  アメリカでは使用が認められているため、
  アメリカから輸入されたフード類は危険が伴う。
・ ダイオキシンなどと並び環境ホルモン作用を持つもので、
  発ガン性の他、生殖不能を引き起こすと言われている。
・ 近年ペットのガンが増えているのも、エトキシンが主原因とも言われている。

ソルビン酸
・ あらゆる食品の「合成保存料」、「防腐剤」として使われている。
・ 主にワイン、ハムや練り製品、漬物などに使用。
  発色剤の「亜硫酸Na」と反応して発ガン性物質を形成すると言われている。
・ 賛否両論あり危険度は実際のところ不明。

赤色102号
・ 赤色102号を2%を含む飼料を、
  ラットに90日間食べさせたところ、
  赤血球数が減り、さらにヘモグロビン値、GOT、GPTの低下が
  認められたという実験結果が出ている。
・ 赤色102号を3%含む餌をラットに1年以上与えた実験では、
  次第に食欲がなくなって体重が減り、
  心臓や肝臓が体重に比べて重くなったという実験結果もある。
・ 人間にジンマシンを起こすことが知られている。


ペットの糖尿病、腎臓や肝臓の疾患、子宮蓄膿症などは、
ペットフードが急速に普及したこの20年の間に激増しています。

臓器内に残った添加物内有害物の長年の蓄積によって
疾患が引き起こされている可能性は高いのではないでしょうかexclamation&question

犬猫の食いつきを良くするため、
フードの中には、砂糖や塩で味付けもされています。
糖尿病の原因も案外このあたりにあるのかもしれませんよ。

子宮蓄膿症も環境ホルモンの影響があると考えられます。

ペットフードの原材料は、人間用と違って、
全て表示しなくても良いことになっていますので、
メーカーは悪意を持って、これを利用しているわけですよ。

食品添加物を使用していない場合には、
「保存料、発色剤、酸化防止剤は使用していません」
「人工着色料、人工調味料は一切使用していません」
などの表示をしていますよね。

これって、都合のよいことは表示し、都合の悪いことは表示しない、
という自分勝手な考え方でしょう。

いくら、安全・安心を前面に出しても、
一番気になるのは
「人が食べてはいけない」
ということなんですよexclamation

食品添加物が無添加だとしたら、
ジャーキーはどうして人間が食べられないのでしょうかexclamation&question

製造工場の衛生管理上の問題exclamation&question
素材自体の問題exclamation&question
公表できないものを使っているからexclamation&question

とにかくヤツ犬は、前世で関係のあった人だそうだから、
長生きしてもらうためには、「ジャーキー」を与えることはできませんexclamation
posted by RIUさん at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 危険なペットフード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月02日

犬の死因の第1位は「ガン」

散歩中に、ハトが死んでいるのをよく見かけます。
原因は、このあたりが「農薬・除草剤散布の危険エリア」で、
一面が茶色に枯れた農地の中で、
ハトがエサを求めてついばんでいますから、きっとこれが原因でしょうexclamation

農薬を散布する目的は、
病害虫対策、収穫量を増やしたい、形を整えたい、
色をしっかり出したい、土壌のバランス調整などです。

除草剤の使用目的は、雑草を簡単に排除したいからですよね。

それらの散布作業は、
この暑いさなかにマスク、ゴム手袋など肌を露出せず、
完全防護で身を固めています。

万一、皮膚にかかったら、皮膚から吸収してしまうからですね。
農薬や除草剤が身体に入ったら大変ですから。がく〜(落胆した顔)

農産物の収量と見かけの良さを最重要視して、「安全」は後回しなんですね。


ペットフードが短命化したり、
動物病院にかかりつけになる大きな原因は、
“ペットフードの添加物”だと私は考えています。

ペットフードの「開封後の日持ちの良さ」はどう考ええも異常でしょうexclamation&question

犬がコンパニオンアニマルとか伴侶動物とか、もてはやされる反面、
その食べ物が、厚生労働省の管轄化にはなく、農水省の畜産飼料でもなく、
何の規制も検定もない無法状態に置かれているのが現状です。もうやだ〜(悲しい顔)

それを良いことに危険な合成添加物が、
頼んでもいないのに
「これでもかっ、これでどうだっ、持ってけ泥棒っ」
というくらい、てんこ盛りに入れてくれてるんですね。もうやだ〜(悲しい顔)

これが、レストランの盛り付けなら、嬉しいところですが…

危険な合成添加物というのは、
酸化防止剤、防腐剤、防虫剤、防カビ剤、着色料、人工香料等で、
その外に犬・猫には負担が大きすぎる過剰な
塩分・糖分も含まれていますし、何よりも、「肉」の質が悪すぎますよ。

スーパーで売っているような「ヒレ」、「ロース」、
「ササミ肉」であるはずがなく、
病気や死んだ牛・豚・鶏の肉であることは当然として、
人間が絶対に食べない部分の
「副産物」(内臓、脳、血、骨、トサカ、羽など)が中心ですから、
もう廃物利用です。

「ビーフ味」と書いてあっても、
実際に牛肉がはいっているのかどうかも疑わしいですよ。

“自然食”をうたっている高級ペットフードでも、製品によっては
「死んではいないものの、死にかけた牛を使っているだけ」
というのもありますし、
日本ではこうした危険な原料をアメリカやオーストラリアなどから
輸入して加工し、製品化していることが多いために、
国産品・高級ペットフードと言っても安心はできません。

仮に百歩譲って、原材料が問題無かったとしても、
長期間保存のための「酸化防止剤」や「保存料」自体が問題だと思っています。

動物病院の激増やその繁盛ぶりと
ペット飼育数、ペットフード生産量の相対関係は、
正比例するのではないでしょうかexclamation&question

ヤツ犬の食事は、ドッグフードを完全禁止にしてから、
毛艶がみるみる良くなり、フンタの量も減りました。

消化吸収が良くなったのだと思います。ひらめき

「木酢液」を散布するようになってから、
「ダニ」が風呂場のタイルの上に常駐していることが多いのですが、
風呂場に、ダニが落ちているのをよく見かけるようになりました。ひらめき

ヤツ犬は嫌がりますが、これも効果は充分にありそうです。わーい(嬉しい顔)
posted by RIUさん at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | RIUさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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