「阿波丸」撃沈事件の概要2千名余りの乗客乗員と,9800トンもの貨物を満載して
シンガポールから日本へ向けて航行中であった
1万2千トン級の大型貨客船「阿波丸」が、
米軍が
沖縄本島に無血上陸を果たした昭和20年4月1日午後11時、
緑十字船 『阿波丸』 が、
台湾海峡で米国潜水艦
クイーン・フィッシュ号の魚雷4本を受け、
不法に撃沈された事件。
阿波丸は,
米国および連合国側の要請によって、
「日本の占領下で捕虜および抑留されている
将兵や市民16万5千人(
アメリカ軍捕虜と市民約1万5千人、
連合国軍捕虜と市民約15万人)のために
赤十字の救援物資を運び届ける」
という特殊な任務を帯びており、
連合国側から、
往復路の航海絶対安全を保証されていた「緑十字船」であり、
国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、
1人の生存者・下田勘太郎氏を除いた
2,129名全員が死亡し、
タイタニック号の1,519名を上回る、当時の世界史上最大の海難事故となった。
安全航行が保障された船を警告もなく攻撃することは
明かな国際法違反であった。
アメリカ政府は責任は認めたものの、
事件の真相が明らかにされることはなかった
事件の背景アメリカ政府が、当時中立であったソビエト政府を通じ、
日本軍占領地帯にある連合軍捕虜・抑留者への救恤品(きゅうじゅっひん=軍事用語)−国民が軍・兵隊に対して送る金品・煙草・医薬品等の見舞品のこと=慰問品を送るよう要請したことに基づいた任務の船であった。
そのため連合国から
病院船扱いの「安導券」( Safty Conduct 安全なる航行の保障)を与えられていた。 1945年2月17日、約2千トンの救援物資を載せて門司を出港。
高雄、
香港、サイゴン、シンガポール、ジャカルタに寄港し、
その積荷である連合国の救援物資を届け、
帰途につくべく最後の帰港であるシンガポールに
1945年3月24日再度入港している。
阿波丸の船室は一等船室が37人分しかないものの、
ジャカルタで多数の在留邦人を乗せた後、
シンガポールでも多数の東南アジア在留邦人が乗り込み、
大多数の乗客は船倉に押し込めら、寿司詰め状態であった。
この船には、
すでにシンガポールからスズ3千トン、 生ゴム3千トン、
その他の
貴金属、希少金属類、
さらに戦略物資を積み込み、総計9800トンの貨物が積載されていた。
また便乗者として官僚や大手民間会社の社員なども乗り込んでいた。
このような戦時禁制品や官僚の輸送は本来の許可内容から外れるが、
これは日本側が航海の安全を引き換えにした隠れみのにしようとした意図があった。
阿波丸の船体は白く塗られ、
夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、
夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。
3月28日予定通りシンガポールを出港し、
最終目的地である福井県敦賀港へ向かった。
すでにこの海域の制海権・制空権ともに日本の手にはなく、
護衛も付けることなくたった1隻で航行していた。
4月1日に台湾の高雄へ正午位置を
「北緯23度20分、東経117度27分」
と報告し、
台湾海峡の入口からこれから台湾海峡に入るとの連絡があったが、
その後音信が途絶え阿波丸の消息が不明となった。
この時、米国側にあっては、
4月1日午後11時、
東シナ海で敵に対する哨戒作戦に従事していた米海軍の
第17機動部隊所属のクイーンフィッシュ号が、
濃霧のたちこめる牛山島沖、
北緯25度26分01秒、東経120度08分01秒の海上で、
敵国の駆逐艦と思えた船舶を1時間追跡ののち、
距離3600Mから4発の魚雷を発射、
船体のほぼ中央に命中。
17ノットで航行中の阿波丸はSOSを発進する間もなく、
2,129名の尊い人命は積荷や船体もろとも一瞬にして海底のもくずと消え去った。
現場に到着したクイーンフィッシュは
海上に漂う生存者の救助を行い、
1人の日本人生存者を救出。
翌4月2日、
体力の回復したその捕虜から聞き出したところによると、
昨夜撃沈した船舶は、日本の商船・阿波丸であることが判明した。
この情報が米海軍太平洋艦隊潜水艦隊司令官から
4月2日に米国政府に報告された。
米国政府内では、
事件の対策をめぐって協議が行われたが、
結局、その事実を公表するのは、
阿波丸撃沈の
ニュースを受け取ってから8日後の4月10日となった。
事件発覚 日本側ではこの事件をすぐには知ることができなかった。
事故3日後の4月4日午後に 門司港外の六連島沖に予定通り到着しなかったこと、
翌4月5日、最終到着港であるにも姿を見せなかったこと、
しかも無線連絡がないことから阿波丸に重大な事故があったことが推察され、
ここでようやく捜索が開始された。
当初日本側は、
国際法による安全保障の見地から、
アメリカによって撃沈されたことなど考えていなかったので、
4月10日にスイス政府を通じてアメリカ側に対して「阿波丸」消息を照会している。
そのころ既にアメリカ側は、
「阿波丸」を撃沈させた潜水艦クィーンフィッシュ号からの報告を受けていた。
困惑したアメリカ側は、
生存者救出と積荷の証拠になるものを収集することを、
クィーンフィッシュと、付近を航行していた潜水艦シーフォックスに命じている。
4月12日、ワシントン発ロイター電は、
アメリカ海軍省の発表を以下のように報告した。
『 連合国の安導券を有した日本船阿波丸は、
4月1日夜12時ころ潜水艦によって撃沈された。
魚雷の発射は多分アメリカ潜水艦によるものと思われる。 』
日本が阿波丸の最後を知った第一報であった。
日米交渉と結末日本政府は米国に対し、
その不法を抗議すると共に謝罪と損害賠償を請求するべく
中立国のスイスを通じて米国政府に交渉を開始したが、
米国政府は、終戦間近の7月13日になってようやく、
「阿波丸は安全保障の取決めの諸条件に十分従っているようにみえるので、
それが阿波丸だと確認する責務はアメリカ潜水艦の艦長の側にあった。
彼がそれをしなかったという点で、
アメリカ政府は阿波丸撃沈の責任を認める」
としながらも、
賠償問題は戦争中は十分な解決が不可能で、
戦争終結まで延期したいと提案した。
加害者に対する責任の追及や賠償交渉も進まないうち、
同年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、
敗戦による無条件降伏するに立ち至り、国も国民も呆然自失の状態に陥った。
阿波丸の賠償問題は、戦後に持ち越され、
日本側はまだ賠償請求の意思を明確に持ち賠償交渉が続けられたが、
昭和23年には、マッカーサーの方針で
「賠償請求権放棄」
を、片山、芦田、吉田内閣が次々に受け入れてしまい、
ついには昭和24年の第5国会(吉田内閣)に於いて、
「日本の戦後復興に多大の協力を惜しまなかった米国に対し、感謝の念を表す手段」
として、
「阿波丸事件賠償請求権を放棄する案」
が米国忠犬の与党より上堤され、
絶対多数で決議されてしまったのである。
最終的に遺族に対しては
「人命1人につき僅か7万円の見舞金を一方的に支給するのみ」
で、この問題は終了したとされている。
ただ1人の生存者のコックも1969年に他界し、
当時の遺族も高齢になり、
重要な人材と軍需物資を満載した阿波丸の撃沈事件は
米国の故意かそれとも過失か、
真相は依然として謎に包まれたまま闇に葬り去られようとしている。
長年、台湾海峡に沈んだままになっていた阿波丸については、
昭和54年に
中国政府が
水深60メートルと比較的浅い処に沈んでいる阿波丸を発見。
極秘に引揚げ作業に取り組み、
「遺骨、遺品、積荷の一部を回収した」
と発表し世間を驚かせた。
昭和55年12月
「阿波丸のサルベージ作業をほぼ終えた」と発表。
中国側の好意で、
遺骨368柱、
錆びた
時計、万年筆、眼鏡、荷札、靴、尺八、パイプ、陶製の人形など
遺品1683点が日本に返還されている。
一部では、クィーンフィッシュ号艦長の「単純な無電確認ミス」という説もあるが、
どうして安全航行保障が破られ米国潜水艦は魚雷攻撃を行ったのか、
という阿波丸撃沈の謎だけでなく、
この「阿波丸事件」は、
大戦後に日本が請求権を放棄するという賠償問題の処理のプロセスや、
連合国による停船・臨検も受けないという保証から
「巨額の財宝が阿波丸に積まれていた」
という話から生れる沈没船引揚げについてのいろいろな動きなど、
非常に奇妙で複雑な事件。
また戦争末期に、
絶対安全に東南アジアから日本へ帰れる船と信じられたため、
帰航の乗船希望者が殺到し
乗船選考割り当てで乗船できた幸運の人たちが
阿波丸と運命を共にすることとなってしまったのである。